次の日。幸村が目覚めて最初に視認したのは、佐助だった。
「佐助……?」
あぐらをかいている佐助に、ゆっくりと焦点を合わせる。ぼんやりとした輪郭がはっきりとなった頃、佐助はゆっくりと立ち上がった。
「起きたかい、旦那。今朝は珍しくお寝坊さんじゃないの」
そう言って庭が見える軒先の障子を、ゆっくりと開ける。佐助の言う通り、日はとうに上っていた。
「お腹減ってるだろ。すぐに用意するから、旦那は身支度整えな」
着替えは枕元に置いてあるから、と付け加え、佐助は二つ隣の、囲炉裏のある板間へと向かった。着替えは言われる通り、枕元にあった。しかし幸村が何より気になったのは、己の状態だ。
襦袢を身にまとい、敷布にきちんと寝かされていたのだが、自分がいつ寝たのか記憶がない。
「はて」
掛け布をはぎ、上半身だけ起きあがる。しかしいつもより体が重い。起きあがれないことはないが、何かしただろうかと首を傾げる。
一体いつ自分は寝たのかと振り返る時、まずは昨日何があっったかを思い出す。
「確か昨日は、庭先の花が見事だなと佐助と話していた時に、誰か」
ドウダンツツジを愛でていた時だ。来るはずのない来訪者の正体と同時に、夕暮れから始まった情事が脳内を支配した。
「あ」
かあっと頬どころか、首まで赤くなる。反射で掛け布をぎゅっと握った。
「徳川殿」
呼ぶ名に返す物はない。何せ己は、家康に何一つ示していないまま。
それに昨夜の出来事は交換条件の末に起きた物。
心を見せぬ天秤の、反対側としての夜。
故に、これでもう二度と家康とは会わないだろうと、一つ目を閉じて自分に言い聞かせる。
帰ると言ったのだ。元より日の本を統べる存在となった男がいつまでも居て良い場所ではない。ましてや、過去の男に執着など。
好きだ、などと世迷い言に違いない。
己の中で区切りを打てば、後はいつもの朝だ。幸村は一度息をはき、見慣れてしまった屋敷の庭を眺める。空は今日も青く、日中は日向ぼっこをするには良い気温になるだろう。
そして夕餉を食べ損ねたのを思い出したかのように、腹が鳴る。佐助の言うとおり腹が減った。
「朝餉を食いに行かねば」
幸村はゆっくりと起き上がり、用意されている単衣に着替えた。
井戸の水で顔を洗ってから佐助のいる土間へと向かえば、今し方準備が出来たように、囲炉裏の鍋からは味噌汁の匂いが漂っていた。
「おはよう旦那。用意出来たから座りな」
「佐助、おはよう。お前はもう食べたのか」
「俺様も今日は朝寝坊したから、一緒に食べるよ」
佐助は囲炉裏の前に座った幸村に、麦と漬け物を添え、一汁一菜の朝餉を差し出す。そして幸村よりは量の少ない同じ朝餉を、佐助は自分用にして出した。
幸村は朝寝坊したという佐助の嘘を信じ、「そうか、佐助にしては珍しいな」と返した。
本当は、ほぼ寝ていない。幸村が起きるのを待つように、一刻ほど前に横になっただけ。
昨日の家康と幸村の、事情を知らぬ佐助ではない。太陽が昇る前に屋敷を出た家康と入れ替わる形で、幸村の寝床を整えたのも佐助だ。家康の同行をも探っているこの忍びは、主従の関係がなくなった今に至っても、主のために動いている。
だから佐助は幸村の知らない、ある事実を押し隠して、昨日と同じ朝を演出する。
「夜はもらった筍でも出そうと思うんだけど」
「おお、あれは立派だったな。是非頼む」
「了解。じゃあ、今日は頑張ってお仕事しないとね」
二人の主な生活は、ここで覚えた畑での収穫と、後に真田紐と呼ばれる紐を売っての収入で支えられている。
僅かばかりとはいえ上田から来る送金も、最初こそ貰っていたが、今は受け取っていない。
それ故、親身に接してくれる九度山の村民らはありがたく、物々交換も生活の面で大きな存在だ。幸村の耕す畑が2年目でありながら、それなりに形を成しているのも、そんな周囲の助言と協力が大きい。
源次郎と名乗る幸村の正体を知る者は、ほとんどいない。恐らくは九度山や高野山に座している住職たちぐらい。
幽閉の身ではなく流れ者として、最初は怪訝な態度を取られたが、村に溶け込むのは早かった。佐助の忍ぶ腕もさることながら、物怖じしない幸村の性格も幸いしている。
蟄居も覚悟した幸村からすれば、貧しいながらも心穏やかに過ごせている今を感謝していた。
話に出た筍は交換ではなく、春の収穫としてもらった物だ。貰ってばかりでは申し訳ないと、畑でとれた物を今度は渡そうと決めていた。
「俺は昼の間畑に行くが、佐助はどうするのだ」
幸村は九度山から出られない。真田紐を売って歩くのは佐助の役目だ。しかし佐助は「うーん」と考える素振りをして首を横にふった。
「今日は旦那と一緒に畑に行くよ。売るにしても、もう少し数が出来たからだろうし」
「そうか、ならば昼は一緒に日向ぼっこをしよう」
「いや旦那、今し方働くっていったよね」
呆れながらも苦笑する佐助と楽しい朝餉を終え、二人で畑に向かう支度をする。
そうして今日も、今までと変わらない一日だと思っていた。多少の体の重さなどは、すぐに回復する。いずれ昨夜の件も、過ぎ去る記憶となる。
それが違っていたのを幸村が知るのは、畑から帰る道すがら。
幸村と佐助は畑で採れた大根を片手に、筍を貰った家に向かった。今年の夏は茄子が採れるだろうかと佐助と二人で話していた時、ある民家で一際にぎやかな声が聞こえてきた。
それが向かっていた家だと分かるや、一体誰がいるのかと覗く。
縁側に居たのは、その家に住んでいる老夫婦と、二人と楽しそうに話している家康だった。
「と、徳川殿ぉ?!」
思わず幸村は、声を上げて叫んだ。
「とくがわ?」
耳が遠くなった老夫婦でも聞こえる声に、思わず幸村当人が、自分の口を慌ててふさぐ。
「あ、い、いや、あの」
ここに徳川家康が居てはまずい。それは、真田幸村がここに居る意味とは、対局に位置する理由でだが。
家康といえば、人懐っこい笑みを絶やさずに「そちらの聞き間違いだ」と言ってのけた。
そして縁側から幸村の元へと近寄ると、手に持っている野菜に目を向けた。
「それは、こちらへ渡すのか」
「さようでござる。これは筍を頂いたお礼にて」
反射で答えれば、くるりと家康は老夫婦へ顔を向けた。
「だそうだ。入れても良いか」
まるで親戚のように家人たちに馴染んでいる様に、幸村は複雑な心境で眺める。そうとは知らない老夫婦は、二人とも笑顔で頷いた。
「もちろん。源次郎さんと佐助さんには、こちらもお世話になっとおよ」
家康が招き入れるというおかしな構図ながらも、中に入れば、幸村と佐助と入れ替わる形で家康が出た。
「世話になった」
老夫婦に向かって手を振る。
「元康さん帰るんかえ」
奥さんが家康を元康と呼ぶ。家康も頷いた。
「ああ、これ以上遅くなると宿坊に迷惑がかかるからな。また来る」
家康は幸村に対して一瞥するだけで、あっさりと背中を向けた。一寸見送った幸村だったが、我に返るや追いかけようと足がはやる。
「待って下されっ。佐助、ここはすまぬが頼んだぞ。申し訳ございませぬが、それがしはこれにて失礼いたすっ」
佐助に大根を渡し、老夫婦にはきっちりと頭を下げるや、走って出て行った。
慌ただしい元・主に代わり、佐助がゆったりと話す。
「うちの旦那がすいませんねえ」
「いやいや、源次郎さんは元気があってよろしゅうわい。ここへ来た頃に比べればうんとちゃうわあ」
二人も慣れた様子で楽しげに笑い、縁側に座るのを佐助に勧めた。
幸村はといえば、家康にはすぐに追いついた。元々さほどの距離でもあったのと、追いかけてきてくるのを期待した家康が、歩調を緩めて歩いていたのだ。
「徳川殿」
追いついても後ろを歩く幸村に、肩越しに笑いながら前を歩く。
昨夜の名残など微塵も見せぬ様に寂しさを感じつつも、体調は問題なさそうなので安堵した。
「元康だ」
ついてきてくれる足音を聞きながら、話を続ける。
「ここでは元康と名乗っている。真田も源次郎と言っているらしいな。住職から聞いた」
「住職?」
背中に聞き返せば、家康は真っ直ぐに、目の前の山を指した。
「そこの山を登った所の寺に世話になっている」
つられて見上げた先には、確かに大きな寺がそびえ建っている。この辺りを束ねる寺院で、幸村が九度山にやってきた際も、最初に挨拶に出向いた。
確かにあそこの住職なら幸村の事情を知っていて当然で、かつ家康が訪れても不思議ではないとと納得した。問題は
「世話になっている」と言ったことだ。
「世話と言いましたか」
「昨日からだ」
あっさりと答える家康の背中を、思わず睨みあげる。
「帰ったのではなかったのでござるか」
不穏な声も気にせず、家康は自分の歩調で前を歩く。
「帰ったぞ。ワシの宿坊に」
幸村は約束が違うと言い掛け、口を閉ざした。家康は「帰る」と言っただけ。江戸だと解釈して当たり前だが、聞き手側の思いこみと言われたらそれまで。何より逆手に取られたと憤慨しても、それを非難する立場にはないのだ。
ただ悔しかった。昨日からというもの、何を考えているのか。
朱色に染まる夕暮れの空は、昨日ならば情事の始まりだった。この既視感は艶めいた物ではなく、苛立ちだ。前にも後ろにも行けない、八方ふさがりな心が重なる。
幸村は歩いていた足を止め、静かに家康を凝視する。
「貴殿は、己の立場を自覚しておられるのか」
家臣ならば耳の痛いことをと苦笑するだけだが、こと幸村となれば勝手が違う。
幸村の前に立つ家康は、常に徳川の殿であり、東軍の大将だった。必ず皮を一枚かぶっていたから、昨日の家康は、幸村の知らない者だった。
皮を剥いだままの男が、ゆっくりと幸村へと体を向ける。いい加減知るべきだと、剥いだ皮が訴える。
幸村の元へやってきた男の性根を。
「自覚しているから、あの時のワシは、真田がここへ行くのを受け入れるしかなかった」
笑みを消し、苦々しく告げる。表に出る怒りは、己に対してだ。
民の平和を願い、万人のために刀を捨てて拳を握った結果、好いた者には何も出来なかった。
たとえ相手が望んでいなかったとしても、もっと違う方法はあった筈だ。だのに戦を終わらせたあの時の家康には、幽閉への書の花印を、押す選択しか用意されていなかった。
それを家康より自覚していたから、政宗は真っ先に幸村の処遇に同意し、幸村も従った。納得していないのは家康だけだ。
だからこそ家康は待ったのだ。
家康の心知らずの幸村は、警戒心を露わに「なんですと」と聞き返す。
二人の空気を切ったのは、闇を隠したままの忍びだった。
「ちょっと良いかい、お二人さん」
老夫婦とのやりとりを終えた佐助が、パンパンと両手を大袈裟に叩き、話を中断させる。
「あんたら両方目立つんだよ。話すならどっか家の中に入ってからにしたら」
幸村にあてがわれた屋敷に戻るのを促したが、家主は否を示した。
「それは不要だ。徳川殿にはお帰り頂く」
江戸へと示しているが、家康が戻るのは、山にそびえる寺院と決めている。
「ワシはしばらくあの寺に居る。用があればいつでも来てくれ。ワシの決意は変わらない。真田の気持ちが何であれ、お前を江戸に連れて行くと決めたのだからな」
真田の屋敷には安易に行かないことだけは暗に伝え、家康は一人、歩いて行った。
幸村は無言で見送った。しばらくは立ち止まっていたが、佐助へ向くや、愚痴をこぼす。
「全く、何を考えておられるのだ」
そして幸村もまた自分の家へと帰るのを、佐助は背後から、やれやれとため息をついてから付いて歩く。
何を考えてるかなんて分かっているんじゃないの、と言いたいのを胸中に留めて。
家康が寺に詰めているのを佐助は知っていた。あえて黙っていたのだが、家康の強かさに相手の本気を悟るや、どうするべきかと空を見上げる。
佐助はいつだって、幸村の望むようにしたいだけだ。
戦で主と共に死ぬだろうと覚悟していた忍びは、一転生き延びて以来、その思いが一層強くなった。
佐助にとって、幸村が生きている以上の喜びなどなく、後は彼の喜びのために、と。
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4決まったから今のうちの幸村幽閉ネタ。新刊のサンプルです。冒頭部分。佐幸で普段いるからか佐助が便利なのか、真田主従(健全)に見えますがちゃんと家幸です。A5/40p/短いR18「満天星-ドウダンツツジ-2(後編・完結)」7/28 恐惶謹言 涼月(大阪)(C)TEAbreak!!! J42 ・ 8/11 夏コミ2日目(C)TEAbreak!!! 中途TFスペ 西さ26b ・ 8/12 夏コミ3日目 委託先 (C)YinZhen-インゼン- 戦国BSR 佐幸スペ 西 て21b