『帝記・北郷:弐~大乱の始まり、西域への道~』
雲一つ無い空を雁の群れが飛んでいく。
それを地上から一人の少女が蒼く澄んだ瞳で見ていた。
雁とは面白い生き物だ。群れの先頭を行く一羽が疲れたならば、すぐに後ろの一羽がその役割を引き継ぎ疲れた仲間を後ろに下がらせるという。
それを繰り返しながら、千里の道を越え空の旅を続ける。
その果てに、安住の地があると信じて。
「………一刀」
少女の桃色の唇が動いた。
「早いものね、あなたが消えてからもう一年以上経つのよ」
一陣の風が、少女の螺旋状に巻かれた絹糸のような金髪を揺らす。
「本当に早かった…まるで時代があの戦乱を忘れようとしているかのように」
蒼い瞳が、微かに揺れた。
「兵士の中には、あなたの顔を知らない者も出てきたわ」
その瞳が雁の群れを映している。
「あなたもそうやって忘れられていくのかしらね?」
少女の目に映っているのはそれだけ。
「でも、安心なさい」
いや、本当に少女は雁をその目に映しているのだろうか?
「あなたのことわ、私が覚えておいてあげるわ」
もっと、別の何かを。
「あれだけ人の心を弄んだんですもの、忘れてやるものですか」
あの雁たちのように己が道の先を信じて仲間と共に歩んだ日々を。
「だから一刀…ゆっくりと天の世界で休んできなさいな」
あるいはいかなる時も自分を傍らで支え続けた最愛の人を。
「そして、いつか…いつかあなたが帰って来た時には」
だがその問いに答えることなく、少女は空を見つめていた目を静かに閉じる。
「それまでに、あなたが驚くくらい良い国を創っておいてあげる……だから」
人形のような少女の美貌が、微かに笑みの形に歪む。
「だから一刀…絶対に私のところに戻って来きなさい」
そう言って再び少女は目を開けた。
蒼天、その下には木々の緑、そして風の色。
雁はすでに見えなかった。
少女はまだ、青年が遥かな北国にいることを知らない。
「は~良い天気だなぁ」
城壁の上に立ち、一刀は大空を見上げしみじみとそう呟いた。
ここは并州の要所・壺関。冀州との境界付近にある強固な軍事要塞だ。
乱の始まりに際し、乱の情報が洛陽に届いた時、主戦場となるのはこの壺関の近くだと踏んだ軍師団によって一刀とその他主な武将たちはここに移動した来ていた。
もう一つの并州の要所・箕関には并州刺史の梁習が入り防備を固めているが、それはあくまで牽制と守備程度の軍勢であり、実質北郷軍の主力はここに集結していると言っても過言ではなかった。
もう一軍、龍志率いる精鋭部隊はもう幽州と冀州の境を越え進撃を開始したという報告が来ている。
これから謀反の知らせが洛陽に届き華琳が動き出すまでに壺関近く、つまり冀州の半分近くを奪取するべく龍志は進撃を重ねていることだろう。
そしてここ壺関でも、冀州から騎馬の一群が接近してきているという報告をうけて先程、華雄と美琉が出撃したばかりである。
「…………」
彼女たちが駆けて行った方向を見る。
目の前には先程から見えている大空に、広大な黄土、深い緑をたたえた森林、河川の藍。
この向こうに黄河の下流があり、その果ては海へ続く。
南の山々を越えて黄河を渡れば三国鼎立記念祭の始まったであろう洛陽があり、北東の方角では龍志が快進撃を続けていく。
「天下を揺るがす乱を起こしたはずなのに、自分がその中心にいない事が情けない……とでも言いたいのですか~?」
「うおっ!?」
突然の背後からの声に、一刀は不覚にも飛び上がって驚いてしまった。
振り向くと、いつも通り飴を加えた風が眠そうな目でこちらを見ていた。
「気にすることはないのですよ~否が応でもこれから激戦の中に入っていくのです。今よりも命の危機は三十割増しなのですよ~」
「三倍じゃねぇかそれ……」
何とも言えない顔をした一刀に、風はくすくすと笑った。
風が一刀の元に降ってから、偽装投降ではないかという意見もかなりあった。まあ、魏の三大軍師の一角が突然こちらの陣営に入ったのだからそれもやむを得ないだろう。
結局、一刀と龍志が皆を説得し、一刀付きの軍師として一刀の監視下に置くという形で一応の解決を見た(様子を見るという考えだった美琉や藤璃などは一刀に何かあったらということでむしろこの案に反対していたが)。
このことに風は、「おやおや、年頃の娘を支配下において観察しようとは、お兄さんは相変わらずですね~」などと笑っていた。
まあそうは言っても、北郷軍の軍師の内、蒼亀は并州で物資の手配などをしており、躑躅は幽州で同様のことを行い、紅燕は龍志の軍についているため現在北郷軍主力の軍師は風ということになるのだが(もう一人軍師兼武将の人物がいるらしいが、遼東の公孫康の所に行っているため一刀は会ったことがない)。
話を戻そう。
「まあ、それは解ってるんだけどなぁ……」
ポリポリと一刀は頬を掻く。
これから自分が乱を起こした張本人であることを自覚する機会は山ほどあるだろう。
それは解っている、解っているのだが……。
「戦を望むわけじゃないけどさ…やっぱ、戦場の空気を感じないと自分のしていることが嘘臭くてな……」
正直なら、さっきも華雄達と共に出撃したかった。
「…『維新』の名を提案したのも、そのためですか?」
「ああ、ばれてたか。はは、本当に風には敵わないな」
この反乱を『維新』と呼ぶ。一刀がそう言ったのは一週間前、先発隊に遅れること五日、幽州を発つ直前だ。
ただ叛くのではなく、その果てにあるより良い新たな世界を信じ目指す。そのことの象徴であると言った一刀の言葉に、皆が『維新』を名乗ることに嬉々として同意した。
しかし同時に、これは龍志の立てた乱に一刀が乗っただけでなく、龍志と同じく自分も乱の首謀者であるということを明確にする為のものでもあった。
そのことに気づいた者は、一刀を見直したり敬意を新たにしたりしているのだが……一刀本人はその事に気づいていなかったりする。
「当り前なのです。お兄さんと風はねんごろの仲なのですから」
くすくすと風は笑い。
「で、どうするのですか?準備はもう出来ていますが」
「へ?」
突然の問いに目を丸くした一刀に風はまた小さく…今度は悪戯っぽく笑い。
「華雄さん達の後を追いたいのでしょう?」
一刀はしばらくきょとんとしていたが、今度は頭をガリガリと掻き心の中で呟いた。
(本当に敵わないな)
と。
黄土の大地を行く騎兵の一団。
数は五百ほどであろうか、皆一様に磨き上げられた濃紺の軍装に身を包み、引き締まった顔立ちからは歴戦の戦士の風格を感じさせる。
そんな中、一人だけ鞍の上に胡坐をかきながら器用に手綱を操る羽織袴の少女がいた。
魏の誇る神速の驍将・張遼こと霞である。
霞は不満顔を隠そうともせず、肩に乗せた偃月刀の柄でポンポンと肩を叩く。
「は~せっかくの祭やゆーんに、なんでこんなけったいな仕事せなあかんねん」
そのぼやきに、周りにいる兵士が厳つい顔に苦笑いを浮かべる。
洛陽を出て数日、彼らの将が幾度この愚痴をこぼしたかもう誰にも解らない。
むしろ、ここまで長い間愚痴が続くのも大したものだとずれた感心を抱いている者さえいる。
壺関に兵が集結しているようだから并州出身の霞に偵察が華琳から命じられ、そんなもの冀州の役人に任せれば良いだろう反論するも、良からぬ噂もあるから念のためとしつこく頼みこまれたあげくの嫌々ながらの出陣であった。
「おのれらも済まんなぁ…」
「いえいえ、張遼将軍の行かれる所ならどこへでもお供しますよ」
霞の右を走る少年が答える。
神速を謳われる張遼隊の中でもさらに精鋭を謳われる旗本八百騎。それを纏めているのが張遼の副将であるこの侯成である。
「しかし、幽州に行かれた程昱様は御病気になられたとかでお帰りにならず、今また并州で不穏な動きとは…いったいどういうことでしょうか?龍志様も梁習様も華琳様の信頼厚き方だというのに」
「さあなぁ…まあ、平和になるっちゅう事は居場所を無くす奴等も少なくない。そんな奴等を無視できひんかったんかもしれへんなぁ」
かつて洛陽の酒家で偶然一刀と飲んでいる龍志と出会い、三人で語り合ったのが昨日のように思い出される。その後も龍志は洛陽に来た際は必ず霞の所に顔を見せていた。
「一刀……」
一刀の愚痴を聞いてもらったのも一度や二度ではない、その度に龍志は嫌な顔一つせずしっかりと霞の言葉を聞き、たまにはやんわりと気を使ってくれていた。
特によく言われたのが、一刀との約束のことであった。
『北郷殿は約束を破るような方ではない、西域への道、諦めるのは早いんじゃないですか?』
「……うちもそう信じたいわ」
「は?将軍、何かおっしゃられましたか?」
「ううん。何でもない…何でもないんよ」
口とは裏腹の態度に、侯成を始め霞の周りの兵士は痛ましげな顔になる。
彼らの将がこのような顔をするのは、たいていが消えてしまった天の御遣いのことを思い出している時だ。
一刀と彼らもそれなりに関わりがあった仲だ、一見すると凡庸だがその実確かな実力(本人が一番気付いていないが)を備えた彼に、張遼隊も少なからぬ敬意を抱いている。
何より、霞をオとしたというだけで彼らにとっては青天の霹靂というか「流石、魏の種馬」といったところだったのだが。
「……将軍!!」
「ん?なんや?」
「前方に騎影。数はおよそ…二千!!」
「なんやて!?旗印は?」
「ここからでは…ちょっと……」
「侯成」
「はい、えっと……漆黒の華旗?それと…暗緑の張旗」
侯成の答えに、霞は美しい柳眉をひそめる。
しばらく考えるようなしぐさをした後、彼女は侯成にこう命じた。
「ちょいとしばらく部隊の指揮頼むわ」
「張遼将軍?」
「うちはあの部隊の奴等にちょ~っと挨拶してくるわ」
「え?ちょ、張遼将軍?」
戸惑う侯成を尻目に、霞は兵の合間を巧みな馬術でくぐり単騎突出する。
「霞様~~!!?」
情けない声をあげながらも侯成は肩をおとすとぶつぶつと何やら言いながら、部隊に停止を命じた。
単騎進み出た霞に、前方の二部隊も進軍を止め二人の将が前に出る。
「おお、やっぱ華雄に美琉やないかい。久しぶりやなぁ~」
「ああ、一度洛陽近くで偶然会って以来だから、一年ぶりと言ったところか」
「…お久しぶりです」
鷹揚に答える華雄とは対照的に、美琉は短く答え頭を下げただけだった。
「なんや、二人とも相変わらずやなぁ……で、こんなところで何してるん?」
「はい、話せば長くなるのですが……」
「貴様を我らの主のところに案内しにきた」
華雄の発言に美琉は一瞬横目で華雄を見た後、無言で眼鏡のつるに触れた。
「主?変やなぁ。華雄は知らんけど、美琉の主いうんは華琳のはずやろう?」
偃月刀を握りなおしながら霞は不敵に笑う。
「来れば解る。おまえはついて来ればいい」
「随分偉そうなこと言うやないか……残念やけど嫌や、まずどういうことか詳しゅう説明してもらわな……」
「…噂は本当だったということですよ」
美琉の言葉に、霞は一瞬だけ身を強張らせるが、努めて平静に言葉をつないだ。
「へえ…やっぱ謀反の話は本当やったんか……見損なったで美琉。理由は解らんけど、かつて華琳に忠誠を誓う言う言葉は嘘やったんやな」
「嘘ではありませんよ、少なくともあなたよりはね」
「謀反起こしといてどの口がそんなこと言うんや!!それにうちは華琳を裏切ったりせえへんで!!」
「……そういう形の忠誠もあるということですよ。それと後者に関しては言いすぎました。私もあなたも同じ…というのが適切でしょう」
「…どういうことや?」
美琉はやや自嘲気味に微笑み。
「惚れた弱み…というやつですよ」
予想外の答えに霞はキョトンとした顔をしたが、やがて腹を抱えて笑い始めた。
「あははははは!!なるほどなぁ。確かにそれはあるわ。うちも心から惚れた男んトコなら言ってまうかもしれんなぁ!でもなぁ…うぷぷ、美琉が龍志にねぇ……」
「…そんなに笑うこと……なのでしょうね。私が恋などと」
ふっと顔に陰をおとす美琉。
その時、隣で今まで黙っていた華雄が声を上げて。
「そんなことはない!龍志様は素晴らしいお方だ!美琉が惚れても全くおかしくなど無い!!」
「………」
「………」
「それに美琉は容姿も良く智的で……どうした二人ともそんな顔をして」
目を丸くしてこちらを見る二人に、華雄は怪訝な顔をする。
「いや…華雄も丸うなったなぁ」
「は?」
「……ふふ、華雄殿、ありがとうございます」
「お、おう…」
よく解らないが褒められたのでひとまず喜んでおくことにした。
「さて、話を戻しましょう…霞、私達と一緒にきていただけますか?」
「嫌や。確かに一刀がおるんやったら考えてもええけど、龍志じゃ話にならん。あ、別に嫌うとるわけやないで、ただ華琳を裏切る程の存在やないゆうことや」
「仕方ないですね…説得の手段は色々あるのですが、私も笑われて少々頭に来ているので…やってしまいましょう華雄さん」
「おう」
美琉に応じると、華雄は右手の鳳嘴刀の切っ先を霞に向けた。
「やれやれしゃあないなぁ。旧友とやり合うんはええ気持せえへ……」
「いくぞ張遼……」
ぞくっ
霞の背を悪寒が走りぬけた。
切っ先を霞に向けたまま、華雄は馬をゆっくりと進めていく。
霞も顔から笑みを消し、偃月刀を構えなおした。
じりじりと二人は距離を詰めていく。
その間、美琉は動くことなく二人を見ていた。
「っし!」
最初に動いたのは霞だった。
身をひねりながら神速の横薙を華雄の頸めがけて叩き込む。
華雄は冷静に身をかがめることで対処した。そしてすかさず鳳嘴刀の突きを放つ。
ガイィィ
霞は偃月刀の柄でそれを受け止めるや、そのまま霞の脳天へと偃月刀を振り下ろした。
今度は華雄がそれを柄で受け止めや、鳳嘴刀を旋回させながら霞の偃月刀を受け流しつつ横薙の一撃を放つ。
「ちい!」
かろうじて身を大きくのけぞらせることによって霞はその一撃を避けた。
「はああああああああああああああ!!!」
だが次の瞬間、そろしい速さで華雄の返しの一撃が襲いかかる。
それを今度は偃月刀で防ぐ霞だったが、華雄の攻撃はそれで終わらず次々と嵐のような連撃を放った
。
「どうした張遼、防るだけでは私には勝てんぞ」
「解っとる!華雄こそ馬鹿の一つ覚えみたいにやたらと刀振り回しても疲れるだけやで!!」
「さて…では私と貴様どちらが先に力尽きるか試してみようか」
「く…」
霞の挑発にも乗ることなく、華雄は一定の速度で斬撃を放ち続ける。
かつての戦斧のような威力こそないが、華雄の一撃は速度も練度もかつてとは比べ物にならない程練達したものであった。
加えて、おそらく鳳嘴刀の重量は華雄の筋力を考え最高の技が出せる重さになっていると霞は読む。
「まだまだぁ!!」
「く……」
華雄の猛撃はとどまることを知らない。
「………ここで入るのは無粋というものでしょう」
眼鏡のふちに指先を当てながら横目で二人を見た美琉が呟く。
「つまり…あなたの相手は僕ってことですね」
美琉が視線を前に戻すと、侯成が眉尖刀を構えてこちらを見ていた。
霞にはああ言われたものの、心配になり後を追って来たのだ。
「始めに言っておきます。あなたでは私には勝てませんよ」
淡々と事実を告げる美琉。
しかし、侯成は不敵に笑い。
「解ってますよ……でもですね」
眉尖刀を大きく振りかぶる。
「それで下がるような腰抜けじゃあ、張遼隊の副官は務まらないんですよ!!」
風を切る音と共に振り下ろされた刃を、美琉は鉄の長弓で受け止めた。
「…その意気や良し」
言いながら美琉は弓に矢をつがえる。
その眼は獲物をとらえた猛禽の様に鋭かった。
「華雄!一つ聞いてええか!?」
徐々に慣れてきたのか、連撃の狭間に返撃を加えながら霞が叫んだ。
「何だ!?」
「何で…何で龍志に仕えたんや!?」
ギイィィン!!
「知れたこと…龍志様こそ私の居場所だからだ!!」
ガイィィン!!
「どういうことや?」
「張遼…貴様も武人なら解るだろう!乱世が平定されて、我ら武将の時代は終わったも同然だ!」
「!!」
「お前のように誰かに仕え…知もあればまだ良い。私のように主君すら守れず、学も無い、そんな猪武者の生きる場所がどこにあった!?」
霞は答えない。
乱世の平定。それによってもたらされる平和な世における生き甲斐の喪失。それはかつて城壁の上で一刀に語ったものと同じ話……。
華雄の思いは、乱世だからこそ生きることができた武将たち皆が抱くもの。
だが。
「また乱世を与えてくれるから、龍志についたんかぁ!!」
「見くびるな!!」
「!!」
今までとは比べ物にならない一撃に、霞の腕に痺れが走る。
挑発にも乗らなかった華雄の心が、今まで霞が見たこともない程燃えていた。
「私とて世の平穏を願う気持ちは同じ!私がこの手に刃を持つはただひたすらに龍志様のため!!」
再び痛撃。
長く華雄の攻撃を受けていたせいもあって、霞の手から偃月刀が零れ落ちかける。
「主を失い、友を失い、仲間を失い、そして生きる道を失い…かつての誇りも失った、そんな私に手を差し伸べてくださったのが…生きていても良いのだと、私は必要なのだと言ってくださったのが龍志様なのだ!すでに真名は捨てた!身も心も龍志様に捧げた!!私の武も忠義も全ては龍志様の為に!!そして龍志様が主と認めたあの方の為に!!」
「あの…方?」
霞の呟きは華雄に届いてはいない。
「戦えと言われれば神々とも戦おう!死ねと言われればどのような死に方も受け入れよう!張遼よ、貴様捧げられるのか!身も心も…命すらも!!」
「………」
華雄の言葉が頭に響く。
自分は華琳のためにそこまでできるだろうか?
否だ。自分は華琳に忠誠を誓っているが、自分の全てを捧げているわけではない。
もしも自分にとってそれほどの存在がいるとすれば、それはおそらく……。
「一刀……」
「霞様!!」
侯成の叫びに我に返る。
ガギャア!!
華雄の一撃をさばきそこね、霞は不覚にも落馬する。
さらにその時、偃月刀が霞の手から離れ地に転がった。
「しもうた!!」
慌てる霞の瞳に、振り上げられた鳳嘴刀が映る。
「!?いけない華雄殿!殺してはいけません!」
美琉が叫ぶが、興奮した華雄には届かない。
鳳嘴刀が非情にも振り下ろされた。
「霞様あああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「くうっ!間に合うか…」
侯成が叫び、美琉が華雄の鳳嘴刀を狙い弓を引く。
霞は、何故か酷く落ち着いた表情で振り下ろされる刃をそれを見ていた。
刃が近付いてくる。
不思議と恐怖は無かった。
ただ。
(ごめんな一刀。西域に行く約束…守れそうにないわ。でも、死んで天の国に行けるんやったらまだ見込はあるんかなぁ)
そして霞は目を閉じた……。
ガキィ!!
……刃は霞にとどかなかった。
「え?」
目をあける霞の前で、一人の青年が華雄の一撃を刀の鞘で見事に防いでいた。
「お、お館様」
呆然とする華雄の顔が男の肩越しに見える。
(お館様?つーことはこいつがさっき華雄が言うとった『あの方』か?)
青年は華雄が鳳嘴刀を引くと、ふうと息を吐き。
「華雄。仕事熱心なのは良いけど、あんまり興奮しないようにね」
「は、はは!申し訳ありません!本来ならこの場で自害して罪を償うべきですが、私の身命は龍志様にお預けしております!その他のことならどのような難業でもこの華雄、必ずや……」
「あ~良いから良いから」
大慌てで馬を降りて頭を下げる華雄とそれをなだめる青年。
だが霞はその光景よりも青年の声に心を奪われていた。
「へ?…んな、その声…まさか」
霞の声に青年が振り向く。
そして青年は、最近よく見せる嬉しいような困ったような何とも言えない表情で霞へこう言った。
「久しぶり霞。すまんが羅馬…西域行きの約束、まだ遅くなりそうだ」
「!!」
『西域への約束』
それだけで、霞が目の前の男が正真正銘の北郷一刀と確信するのは充分だった。
そして神速の驍将は行動も早い。
「一刀~~~~~~~~~!!!」
「ぐはっ!?」
強烈なボディブロウが一刀を襲う。
「ちょ、霞…ごめんさっき華雄の一撃防いだせいで、俺まだ腕が……」
その言葉に再び華雄が青ざめて美琉になだめられていたが、まあ今は置いておこう。
「そんなん関係あらへん…何や…勝手に出て行きおって…」
気づくと、霞の肩が小さく震えている。
一刀は何も言わず、まだ痺れる手を霞の背に回した。
「子供にはまだ早いです」
「へうわ!?僕は子供じゃないですよ!!」
後ろで美琉が侯成の両目を手で塞いでいたが今は気にしない。
「どれだけ…うちが寂しい思いした思うとるんや」
「うん……」
「どれだけ…酒飲んで愚痴った思うとるんや」
「あ、それは龍志さんに聞いたな」
「どれだけ…裏切られた思うたと思うとるんや」
「うん……ごめんな」
ポンポンと一刀は霞の背を叩く。
その温かさに、霞はこらえきれずに一刀の胸で嗚咽を漏らした。
「ひく…しかも…う…なんや、お館様やて…戻ってきたおもたら……反乱軍の大将やて?」
「…ごめんな本当に」
今は一刀にはそれだけしか言えなかった。
「うっ…ひっく…謝ったって…ぐす…許さへん……西域に行けん代わりに、これからはずっと一刀のそばにいたる……」
「…良いの?」
そう言いながらも、一刀は何故か霞ならそう言うのではないかと思っていた。
それはひょっとしたら霞への甘えなのかもしれないが……。
一刀は思う、これは信頼であると。
「うちが…うちがええ言うたらええんや……華雄とやりおうて…解ったんや。うちの居場所は…ここやて。華琳の下やのうて、一刀の隣なんやって……だから」
霞は泣きはらし赤くなった顔を上げた。そして、涙を浮かべたまま…。
「おかえり…一刀」
とびきりの笑顔でそう言った。
「うん。ただいま、霞」
一刀も強く霞を抱きしめることでそれに答える。
「う…うわ~~~ん!!一刀~~~~~~!!!」
それを引き金に、霞はとどめていた者が流れ出すかのように大声で泣き始めた。
「会いたかった…会いたかったで~~~~~~!!!!」
そんな二人を見ながら、侯成はほっとしたような顔で目元をぬぐい、美琉と華雄も優しく微笑みながら二人を見る。
西域への道は遠い。
だがしかし。
今までよりもずっと近い。
洛陽の一室。
街が祭に浮かれる中、この部屋だけはまるで別空間のような静けさに満ちていた。
「…本当なのか?」
その静けさを、怒りを漂わせた声が震わす。
「ええ、間違いないでしょう」
それに答えたのは丁寧な、だがどこか人を不快にさせる男の声だ。
「くそ…龍志め!とことん俺達の邪魔をしやがる!!」
「まあ私達、選定者が彼にしたことを鑑みればやむをえないことと思いますが……」
「そんなことは知ったことか!!くそ…北郷を消し去れどもこの外史は消えず、ならば戻ったところを仕留めようと嫌々ながら魏に仕官してみれば……」
「その北郷は龍志…そしておそらく彼女の手の中。どうやら作戦を変えないといけないようですね」
「作戦なぞいらん!居場所が解った以上、こちらから出向いて殺してやる!!」
その凄絶な殺気にひるむことなく、もう一人の男はかぶりを振り。
「それはやめたほうが無難でしょう。あなたが何人もの英雄や、龍志、蒼亀という化け物を倒せるのならば話は違いますが」
「ぐぅ…!!」
その言葉に、殺気を放った男は黙り込む。
「まあ、時間はあります。ゆっくりとゆっくりと…絶望の泥沼に叩き込んで葬り去るのも一興でしょう」
ニヤリと男が笑う。
小さな洛陽の一室で、この外史をめぐる陰謀が再び動き始めた。
~続く~
後書き
前書きであったように、二度もデータが消えました。正直、連載を止めようかと思うほどの絶望でした。少なくともその余波で若干前回の予告が嘘予告になりました。すみません。
それでも書こうと思えたのは、くさい台詞ですがやはりコメントや支援をしてくださる皆様のおかげです。この場を借りて謝々。
さて、実は順調にいっていればバレンタインの短編でも上げようかと思っていたのですが……もう少し話が進まないとネタばれ+状況の把握ができないという事態になりかねないので、結構してからアップすることになるかと思います。すみません。
それから、作中の戦術戦略についてはあまり深く突っ込まないでください。一応、三国時代の地図を見たり兵法書や歴史書を読んでみたりはしているんですが、一刀君と違って知識の生かせない作者ですので。
また、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、前作今作次作は魏の武将で一刀の味方になってもおかしくない(無論、ただの反乱なら味方になるはずもありませんが)武将たちを味方にしようという回です。風、霞ときたら次は……もうお分かりでしょう?
では、皆様も投稿の際にはバックアップにはお気をつけて、また次の作品でお会いしましょう。
追記
後少しだけ予告があります。
思い出すは楽しかったあの日々。
笑いあい、助け合い、共に戦った最愛の上司。
今その上司に彼女達は刃を向けられるのか?
そして彼女達の前に立ちはだかる、巨大な壁。
帝記・北郷 ~愛しき人への挽歌〈その軍師・最強〉~
「あくまでただの軍師ですから」(笑)
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あれです。この作品を執筆中に不慮の事故で二回ほどデータが消えました。
未だかつてない絶望と共に、消えた七時間を無為にするまいと執筆。
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