それまでの死闘が嘘のように、戦場は急激に冷めていった。
白蓮が霞の腹を貫いたのだ。霞は音もなく馬から地面へと崩れ落ちた。その表情は寧ろ晴れやかなものであったと言って良い。白蓮に敗北したことが、彼女にとって意外なことでも信じられないものでもない、当然の結果だと納得しているのだろう。
その場の誰もが動きを止めた。
白蓮は静かに立ち上がり、地面に倒れて動かなくなった霞を無言で見つめていた。
白蓮の肩から脇腹にかけて、霞の最後の斬撃により具足ごと肌を切り裂かれていた。あのとき、咄嗟の判断で馬を棹立ちにさせた。ほとんど無意識といって良かっただろう。だが、それにより、白蓮は一命を取り留めたのだ。そうしていなければ、白蓮は間違いなく討ち取られていただろう。
勝てた。
その事実を未だに自分の中に受け止められない。しかし、事実として白蓮は生き残り、霞は今、地面に横たわっている。頭の中は真っ白で何の感慨もなかった。勝利した喜びも生き残れた安堵感もなく、ただ、白蓮は剣を下ろし、霞に向かって頭を垂れた。瞳から熱い雫が零れるのを堪えきれなかった。
それからの霞の騎馬隊の動きは迅速なものであった。
霞の生死を確認することなく、整然と撤退して行ったのだ。その軍勢には霞の旗が、紺碧の張旗が高々と掲げられていた。最初からそのように命令されていたのだろう。霞の敗北は、すなわち、自軍の敗北である。稟が、凪が、真桜が、沙和が、誰が残っていようと、霞がいなければ、霞の騎馬隊ではなくなるのだ。
清々しい。
白蓮はそう思った。
軍としての存在が、霞の生き様をそのまま表しているようだった。
追撃の命令を下すことはなかった。大将を失い、潰走するような無様な醜態を晒すことなく、果敢に戦い、そして堂々と帰還する。そのような部隊を攻める気など白蓮にはなかった。それに、そうしたくても、白蓮も兵たちも既に限界だった。白蓮こそ、その場に崩れ落ちることはなかったが、麾下の者には気を失っている者もいた。気力が尽きたのか、そのまま果て逝く者すらいたのだ。これまで兵士たちに限界を超えさせることはなかった。その限界を超えたのだ。それは当り前のことだった。
皆、特に兵として特別な才能など有していない。自分と同じ平凡な人間ばかりだ。他の軍、いや同じ益州の部隊といえど、そこであったら活躍する日など一生来なかっただろう。本来であれば、死域に入ることなど出来る筈もなかった。限界を超えてはいけない者たちだった。彼らを部下に出来て良かった。素直にそう思った。
「白蓮っ!」
翠が来た。傷を負っているものの、命には別条がないことを見て取り、ほっと安堵しているようだ。
「張遼の残りの部隊も撤退し始めた。恋の方も深くまで追撃はしていないみたいだ」
翠は話しながら、足元に横たわる霞の方に視線が動いていた。
翠から見ても激戦だった。およそ普段の白蓮からは想像出来ないような勇猛な突撃であった。恋の赤騎兵が突然の参戦という混乱の中、瞬時に判断を下し、霞の部隊に向かっていった。覚悟を決める時間などなかっただろう。いや、覚悟など決める必要すらなかったのかもしれない。果たして、自分も白蓮と同じ真似が出来たであろうか。
翠は白蓮の戦いに割って入ることが出来なかった。
あのとき、白蓮が霞の部隊と正面からぶつかり合った瞬間を目の当たりにして、白蓮の中に秘められた激情に触れた。将としての生き様、戦いに向かう姿勢、どの兵士よりも前線に立ち、常に死線と隣り合わせで戦うその出で立ち。あの瞬間だけ、翠は白蓮に恐怖心すら抱いた。ある意味では、霞に対するものよりもそれは強烈だったと言えるだろう。
とはいえ、さすがの翠も身体が竦んで動かなくなってしまったわけではない。あのときの白蓮は正に身命を賭して戦いに挑んだのだ。自分の持てる限りの力を結集したぶつかり合いだったのだ。それを邪魔するなどということは出来なかった。戦の結果よりも、一人の武人の生き様を優先したのだ。
「……翠?」
「どうした?」
「私は……まだ生きているのか?」
「……ああ」
「そうか……。そう……だよな」
今頃になって生を実感したのだろうか。白蓮がふらつきそうになったのを、翠は横から肩を支えてあげた。肩から脇にかけての斬撃は、白蓮の命にまでは達していないが、そこから何とも言えない迫力めいたものを感じた。その斬撃こそ、霞の命であるかのように。
翠は蒲公英と向日葵に部隊を纏め上げるように指示を出した。
負傷者の手当てもしなければならないし、こちらの残存数も確認し、本隊へと通達しなければならないだろう。こちらの戦線は終わったが、まだ決戦自体は続いている。寧ろ、これからが本当の勝負どころだろう。やらなければならないことが山積みになっているが、翠はここから動きたくなかった。
そこへ二人と入れ替わりに、追撃を兵士に任せた恋もふらりと現れた。
音々音は恋の背中の上で意識を失っていた。赤騎兵を実戦投入したのは今回が初めてであり、しかも、絶対に負けられない場面だったのだ。彼女の精神的、肉体的疲労は限界だったのだろう。今は愛する恋の背中の上で安らかな寝息を立てている。
「おお、恋」
翠が弾けたように振り返った。
声の持ち主は地面に横たわっている霞だったからだ。
「…………霞。平気?」
「はっ、平気なわけあらへんやん? 見て分からんの?」
「…………血、たくさん出てる」
「あぁー、ごっつ流れとるなぁ。こりゃ、あかんわ」
腹を貫かれ、大量に血液を流している霞が、まるで何でもないように話すことにも驚きだが、その霞と平然と会話を交わす恋にも驚きだった。あまりの出来事に翠はついて行くことが出来なかった。
「純白の、そこにおるんやろ?」
「純白のって……私のことか?」
「そうに決まっとるやん。純白の旗、ごっつ綺麗やったで。戦いはえげつなかったけどな」
霞は白蓮の方に目を向けないまま乾いた笑いを放ちながら、言葉を続けた。目がかすれて見えていないのかもしれない。意識をこれ程に明確に保てていること自体、翠にとっては信じられないことだったのだ。
「まぁええねん、もうそないなことは。さぁ、早う首を落としや。うちの首級を掲げて勝鬨をあげや。楽しい戦やったわ。恋とも話せたし、もう何も思い残すことあらへん」
「いや……」
「は?」
「断る。私はお前の首を落とさない。捕虜として本陣へと連れて行くし、その前にお前に死なれたら困るから、手当ても施さねばならないだろう。翠、すぐに衛生兵を――」
「な、何言うてんねんっ!……ぐっ!」
「大きな声を出すな。傷に障るだろう。翠、行ってくれるな?」
「……あ、あたしは」
「翠、頼む」
白蓮の瞳には強い力が込められていた。それを拒むことなど、翠には出来なかった。近くの兵士に伝令を頼み、すぐに衛生兵が来た。霞の身体は大量の血液を失っているものの、すぐに止血を施したので、何とかなりそうだった。霞が治療される姿を、翠は複雑な眼差しで見つめていた。
「何でや?」
「大将を生かすことが不思議なことか?」
「うちは負けた。負ければ死ぬだけや。強いことがうちの誇りだった。その誇りを失ったんやで? もううちに生きる理由なんてあらへん。捕虜いうたって、今更そないなもん、必要ないんちゃうの?」
「お前が死んだら恋が悲しむ。恋が悲しめばねねが悲しむ。二人が悲しめば北郷が悲しむ。北郷が悲しめば蜀の誰もが悲しむ。だからお前を生かす。それだけだ。……それにな」
白蓮はふと翠の方を見遣った。
「生きる理由などこれから考えれば良い。私でよければ一緒に悩もう。ここにいる翠だってきっと同じ気持ちさ」
「……けったいなやっちゃで、ほんま。うちを生かしたことを後悔すんで?」
兵に指示して霞を丁重に本隊に運ばせた。
「白蓮、あたしは――」
「復讐したかったのだろう。母親の、馬騰殿の命を奪ったのは張遼と言っても良いだろうしな。お前自身はその気持ちを自分の中に秘し続けてきた。蒲公英や向日葵の方は、多少は外に出していたようだが、内に抑え込んでいた分、お前の方がその感情は強い。戦中、張遼と対峙する度にお前から溢れ出る殺意は、私だけはしっかり気付いていたぞ」
翠は俯いた。
白蓮が霞を殺さないと言ったとき、自分がどのような感情を抱いていたのか、それに気付かない程に翠も鈍くない。出来ることであれば、自分の手で霞の首を落としたかったのだ。戦のときも、霞の相手が出来るのは自分だけであると言い聞かせていたが、結局のところ、本音はそういうことだったのだろう。
「恨みを抱くな、とは言わない。だが、恨みは何も生みはしない。いや、恨みは別の恨みを生むだろう。お前が母親を殺された恨みを張遼に抱いたように、次は、誰かが張遼を殺された恨みをお前に抱くだろう。だから、恨みに振り回されるな。私は、お前にそんな辛い人生を送って欲しくないんだよ」
白蓮の言葉は重かった。
ずっと不思議に思っていたことがあったのだ。
どうして白蓮に勝てないのだろうか、というものであった。翠も、そして敵であった霞も、将としての力量は、殊に騎馬隊を率いさせたら、誰よりも優れているだろう。実際に翠も西涼にいた頃は、母親の翡翠以外に負けたことはないし、霞も曹操軍で圧倒的な強さを誇ってきた筈だ。そして、二人に共通しているのは、誰よりも強くありたいと思い続けているということだった。
白蓮は二人に比べると、根っからの武人という訳ではない。政も為すし、考え方も為政者のそれに近いだろう。視点は常に国というものに基づいている。強さに対する思いも、弱いわけではないが、二人に比べるとそこまで執念を燃やしているという訳ではないのだ。
その白蓮が霞との死闘を制した。
――張遼は白蓮に負けたことに納得していた。
敗北した後の霞はどこか吹っ切れたところが見られた。強さに固執し、そのためならどんなことでも厭わないあの霞が、白蓮に敗北したことに対して、何の驚きも示していなかった。自分が白蓮に敗北したことが、さも当然であると言わんばかりであった。
翠もその理由を何となくではあるが、理解出来たような気がした。
自分や霞が求めていた強さと、白蓮の持つ強さとは全く違うものなのだ。
そもそも強さとは一体何なのだろうか。
腕っぷしが強いことであろうか?
誰よりも上手く部隊を統制出来ることであろうか?
翠は白蓮を見ていて、どれも違うと思った。個人の武では、白蓮は強いどころか、益州内の将軍たちと比較しても、下から数えた方が早いだろう。統率能力に関しても、自分が白蓮よりも劣っているかと言われると、正直な話能力自体は、それほど差はないと思っている。
白蓮が持つ強さ、それは人間としての強さではないだろうか。
白蓮はどんな苦難な状況であっても、決して取り乱すことはない。一度、勝機と見定めたなら、決してそれを見逃すことはない。霞との激闘においても、白蓮は己に勝利するという誓いを立てた上で突撃を行った。自分の命を懸けて勝利をもぎ取ろうとした。
大将という立場でありながら、自分の命というものを簡単に捨てた。一見すると、それは蛮勇のようにも見える。しかし、そうではないのだ。あの瞬間、白蓮が命を捨てる覚悟を見せたことで、兵士たちが己の限界を超えることが出来た。
白蓮の強さはその人間としての大きさではないだろうか。
いや、そのような漠然とした表現でしか白蓮の強さを言い表せない自分に、もどかしさすら感じた。白蓮は自分の予想以上に大きな存在であった。そして、翠は白蓮と同じように自分にとって大きな壁であり続けた一人の女性を想起した。母親の翡翠である。翠は何故か白蓮と母親を重ねて見たのだ。
将として理不尽なまでの強さを誇り、異民族からその旗印を見るだけで恐怖されるという翡翠。似ても似つかぬ二人であるが、一つだけ共通点があった。それは、どちらも強さを求めていなかった、という点だ。誰よりも強く、大陸最強の騎馬隊を有する翡翠であったが、不思議な程強さに固執するところがなかったのだ。
白蓮が霞との死闘を制することが出来た理由。
その唯一の理由は、白蓮が武人として強くなかったことである。強くあろうとしなかったことである。自分は、いや、自分たちは強さに拘り過ぎた。常に強者であろうとした。強くあらんがしたために、もっと大きなものを見逃していたのだ。それは人間の心の強さであり、覚悟の強さである。
そして、何よりも強さを恐れたのだ。自分より強い存在が許せなかったのだ。
白蓮はおそらく自分が強いと思ったことがない。強くあろうとしたこともない。そんな白蓮にとって、周囲の人間は皆、同じ存在であった。すなわち強者である。相手が誰であろうと、白蓮には全力を尽くすしかない。そうしなければ勝てないからだ。だから白蓮は命を懸ける。死を恐れない。強さを恐れない。それこそが白蓮の強さなのだ。
霞は最後の最後でそれに気付いた。
あのとき、彼女は白蓮を恐れたのだ。自分の持っていない強さを持つ白蓮に、自分以上の強さを持つ白蓮に。霞は強い。それは誰にも否定出来ない事実である。しかし、白蓮は彼女を恐れなかった。霞の強さに恐れなかった。それが勝負の明暗を分けたのだ。
「白蓮?」
「何だ?」
「どうして、お前は張遼に勝つことが出来たんだ?」
訊かずにはいられなかった。
理由などない。そんなことは分かっていた。これから白蓮が何を言うのかも分かっていた。しかし、翠は白蓮にこれを訊かずにはいられなかったのだ。
「んー、どうしてだろうな? 時の運、という奴じゃないかな? 私みたいな凡人があんな化物に勝てた理由など、考えても無駄だろう。戦っているときは無我夢中で、よく憶えていないしな」
「……やっぱり、白蓮は凄いや。あたしじゃ、まだまだ勝てないわけだよ」
「む、何を訳の分からんことを……。私がお前に抜かされる日も近いだろうさ。お前と私じゃ、才能を比べるのも馬鹿らしい。まぁいい。私もそろそろ行くぞ。この傷じゃ、このまま部隊の指揮をするのも難しいだろうし、一度、報告がてらに北郷の許へと行く。この場は任せるぞ」
そう言って、白蓮もその場を後にした。
戦場を風が舞う。多くの兵士の血を吸い続けた大地から、砂が舞い上がり、空へと消えていった。空が青かった。眩しいくらいに青かった。勝ったのか、負けたのか。翠には分からなかった。ただ、自分は強さを知った。多くの強さを知った。また自分も強くなれるだろう。母親に、翡翠に笑われない程の強さをきっと手に入れてみせる。そう、自分を見下ろす蒼穹に誓った。
「恋」
「…………ん?」
「あたしと――」
戦ってくれ、そう言おうとして、止めた。
恋の強さとは何なのか、知りたいと思ったのだ。恋の強さは、白蓮のものとは違う。自分や霞とも違うのだろう。翡翠のように強すぎるところがある。故に自分以上の強さがあると思わない。故に強さの恐怖を知らない。故に敗北することがない。だから、翠はこう訊くことにした。
「お前に怖いものはあるのか?」
「…………ん、月とご主人様に怒られるのは怖い」
「ははっ……お前らしいな」
思わず翠は吹き出してしまった。
自分が強さを知ったと思ったことが馬鹿らしくなった。所詮、勝負は時の運なのだ。次に白蓮と霞が戦えば、白蓮は負けるかもしれない。強さなど、あるいは勝負に関係のないものかもしれない。そんなものに悩んでいた自分が急に滑稽に思えたのだ。
益州軍遊撃隊黒騎兵部隊長、馬孟起、翠はこれからの時代を引っ張る若き将である。彼女が先達である白蓮からこの戦を通じて学んだことは、彼女が錦馬超として異民族から恐れられる日まで大きく貢献するだろう。そして、成長した彼女は、いずれ白蓮を抜き、大陸屈指の騎馬隊を率いて大地を駆けるに違いない。
翡翠の、漆黒の馬旗を掲げて部隊を縦横無尽に駆けらせる姿を見る日は、きっとすぐそこまで来ているのだ。
曹操軍、本陣。
霞を欠いた騎馬隊は、真桜と沙和に指揮は任せてそこに逗留した。大将である霞を失ったという事実は、兵士たちに動揺を与えたようであるが、脱走者などは決して出すことはなかった。兵力もまだ半分以上残っていた。守るだけならば、二人だけでも充分であり、益州軍の遊撃隊にこれ以上攻め続けるだけの体力が残っていないことも見抜いていた。
凪と稟の二人は、霞の敗北の報告をしに、本陣に訪れていた。
本陣に着くと、まずは他の戦線の情報が入ってきた。
本隊の前衛を務めていた曹仁、曹洪の両将軍が重傷により戦線離脱。敵の前衛にも損害を与え、何とか膠着状態に持ち込んでいる。しかし、孫策軍との戦線でも春蘭が重傷を負い、曹操軍はかなり後退している。情報によると、孫策軍の準備が整い次第、攻め込まれるということだ。
――ここに来て私たちの敗北ですか……。
稟は己の不甲斐なさに憤りを感じた。自分たちの戦いを加えて、二つの敗北。曹仁、曹洪、春蘭、そして、霞。曹操軍が誇る猛将を次々と戦線から離脱させなければならない状況になってしまっている。優勢だった兵力差も徐々にではあるが、縮められている。自分たちが劣勢になっているわけでもないのに、精神的に追い詰められているのは自分たちの方だ。
自分がいながら、と稟は拳を握り締めた。自分は霞の戦いに惚れ抜いていた。霞の騎馬隊を戦場で存分に駆けらせる、それだけで彼女の脳裏は戦略で埋め尽くされた。それを実行するために、彼女は霞の軍師となって彼女の部隊に加わったのだ。だが、全ての策を防がれ、最後には裏を突かれて、自分の部隊を取り纏めることすら出来なかった。
「郭嘉、楽進、帰陣致しました」
二人は華琳がいる営舎に入った。軍議を始めるところだったらしく、そこには曹操軍の主だった面子が揃っていた。一番奥に華琳が座っており、二人が入ってくるのを見つめているが、その表情からは何も読み取れなかった。
中に入ると、いきなり凪が華琳のところまで行き、そこへ跪いた。
「申し訳ありません……っ! 私が副官としてもっとしっかりしていれば……っ! 霞様を敵に捕らわれることなど……っ! 私が……私が……っ!」
凪は涙を流し、何度も自分を責める言葉を呟きながら、頭を地面に擦りつけた。自分の情けなさをもっとも恥じているのが凪であった。副官として長い間霞と戦場を共にしながら、ついには何の力にもなれず、霞を敵の捕虜としてしまった。凪の涙ながらに吐き出す言葉には、敵軍から軍使が来て、凪の身柄を預かると聞かされた時、彼女がどのような気持ちでいるのかが痛いほどに伝わった。
「……凪、止しなさい」
「し、しかし――」
「霞の敗北に、貴女の責任は必要ないわ。霞の敗北は霞だけのものだもの。それよりも話しなさい。霞がどのように戦い、そして、どのように敗北したのか」
「はっ……」
凪は静かに語り出した。霞の戦いの全てを。彼女が戦場で何を想い、楽しみ、そして、敗北していったのか。華琳には霞が戦っている様子が手に取るように分かった。脳裏には彼女がいつものように瞳を細めて凄惨に笑みを浮かべながら、戦場を蹂躙する姿が克明に浮かんでいた。
「霞は満足出来る戦いをしたのね」
凪の答えは返って来なかったが、おそらくそうなのだろう。
華琳は稟の顔を見た。悔しさで顔が歪んでいた。冷静さを誰よりも持つ彼女であるが、実は激情家の一面も持つ。生真面目な凪と稟、彼女らを副官と軍師に持っていたからこそ、霞は自分の戦いが出来たのだろう。戦うことだけを考えることが出来たのだろう。そして、自分の全力を尽くして敗れた。
霞はさぞ楽しい戦が出来たことだろう。彼女は敗れてしまった。それは紛れもない事実であり、その衝撃は多くの将兵に響くことになる。だが、華琳はその霞に羨望にも近い感情を覚えた。それは武人としての華琳の正直な気持ちだった。
「……だけど、この借りは大きいわね」
そこで華琳は集まっている面々の顔を眺めた。
「私たちは猛将たちの多くを失ってしまったわ。その意味は皆も分かっているわね?」
華琳が確かめるように言った言葉を、秋蘭、凪、流琉、季衣などの将たちは、華琳の瞳を真っ直ぐに見つめながら受け止めた。自分たちは、緒戦は敗れたものの、まだ健在である。曹操軍の真価はまだ発揮していない。まだ完全に敗北したわけではないのだ。さぁ命令を。大切な仲間を傷つけた報復の命を。そう悠然と語っている。
軍師たちも、桂花、稟、風を中心に華琳の命令を待っていた。勝敗は兵家の常である。それを、彼女たち程よく理解した者もいないだろう。特に稟と風は、敗戦の責任を自覚している。一度敗れたからといって、彼女たちは尻込みする筈はない。その頭脳には、今正に必勝の策が練られているのだ。
「秋蘭、凪、流琉、季衣、自分たちが何を為すべきか、貴女たちなら分かっている筈ね?」
「勿論です、華琳様。我が精兵たちは未だ多く健在。我らが負ける道理など少しもありません。姉者の仇、孫呉も、そして劉備も纏めて呑み込んでみせましょう」
凪、流琉、季衣も力強く頷いた。その瞳には熱い闘志が燃え盛っていた。
「桂花、稟、風、貴女達はどうかしら?」
「はい、益州、江東、両軍を退ける策は既に準備出来ております。後は華琳様が下知を為されば、即座にその策をもってこの決戦に終幕を下ろし、華琳様の覇道を実現させてみせます」
風と稟も不敵に微笑んだ。その瞳には冷酷な光が妖しく煌めいていた。
そう、と華琳は満足気に頷いた。
華琳は自分たちの苦境に嬉しさにも等しい感情を抱いていた。自分の覇道はこのような難敵を打ち破ってこそ達成されるべきなのだ。これまでも数々の群雄を下し、呑み込み、駆逐し、その亡骸の上に安寧を築いてきた。乱世の奸雄、自分はこの乱れた世を正すために存在しているのだ。
華琳が徐に立ち上がると、諸将も待っていましたとばかりに腰を上げた。
華琳は皆を従えたまま営舎の外へと出た。華琳の姿を発見すると、兵たちは直立して、姿勢を正す。将たちの心持に何の心配もない。彼らは華琳と共に幾度も死線を潜り抜けてきたのだから。だが、兵たちは違う。ちょっとの敗北ですら、彼の胸には恐怖が渦巻き、それが戦場で噴出するのだ。
華琳は出会う兵一人一人に視線を傾けた。
彼女は魏に君臨する圧倒的カリスマ性を持つ王である。立っているだけで他を圧倒する程の覇気を身体に漲らせる彼女ではあるが、彼女は幕営の中の誰よりも人間という脆弱な生き物について精通している。民の上に立つ彼女は、人間という脆い存在が、今何を求めているのかをよく理解しているのだ。
華琳の姿を見て、兵士が自然と集まってきた。夜の灯りに群がる虫のように、彼らは華琳という光に吸い寄せられているのだ。兵士の心は荒んでいた。それは恐らく華琳以外の者の予想を遥かに超えていた。曹仁、曹洪、春蘭、そして、霞。彼らの存在は前線で戦う兵士たちの心の支柱になっていたのだ。
しかし、彼らは敗れた。
戦線においては、引き分けに持ち込んだところもあった。相手にも手傷を負わせることが出来た。だが、それでも彼らは敗れたのだ。負ける筈がない存在が負けた。その衝撃は彼らの心の支柱を砕くには充分過ぎる程だったのだ。
華琳の心には何の曇りもない。そこには勝利という文字が揺るぎなく刻まれており、今も尚、自分が敗れることなどあり得ないと、その姿は雄弁に語っている。その背後には、曹操軍が誇る、名将、謀臣が従っており、華琳を支えている。
そう、自分たちは何も恐れる必要がないのだ。
華琳に瞳を向けられた瞬間に、直接そう言われている気がする。
気付いたときには華琳の目の前には全ての兵士が集っていた。華琳の目にははっきりと映っていた。これまでどこか虚ろな表情をしていた兵士たちの顔に精悍さが戻っていることが。それで良い。それでこそ、この覇王曹孟徳が率いるべき兵士の表情である。自信を持て。誇りを持て。名もなき兵士たちよ。お前たちがこの戦を彩るのだ。
言葉などいらなかった。
ただ、華琳は満足そうに瞳を細めて、その手に持つ絶を掲げた。そして、それを真横に振り抜いた。目の前にいる、天の御遣い北郷一刀の、漢中王劉玄徳の、小覇王孫伯符の首級を、その手で刎ね飛ばすように。確かに兵士たちの目にはその光景が映っていた。
鬨の声。
まるで益州軍と江東軍に届かせるように、兵士たちは空に向かって一斉に声を上げたのだ。
決戦。
緒戦は終わり、そして、これからが始まりである。
あとがき
第百七話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
さて、やっとのことで麗羽様編、江東編、遊撃隊編、全ての戦いを終えることが出来ました。長かった。ただ長かった。緒戦だけでおよそ二十話にも渡りました。しかし、皆様の温かい応援のおかげで何とかここまで書くことが出来ました。本当にありがとうございます。厚く御礼申し上げます。
というか、緒戦だけで一年も書き続けている件について(笑) いや、笑えませんね。更新頻度が本当に遅くなってしまい、そこについては本当に申し訳なく思っております。そして、作者は来週から再びシュラバーに突入するので、次の更新がまたしても遅くなってしまうと思います。
今年は作者にとっていろいろと頑張らなければならない年になっており、労働時間は長いわ、休日はないわ、あっても、自宅で仕事漬けだわ、おっぱい触りたいわ、で執筆時間が確保出来るかどうか微妙なところです。そういうわけなので、もうしばらくの間だけ拙作にお付き合い下さりますようお願いいたします。
さてさて、本編について。
今回は遊撃隊の閉幕から、最終決戦の幕開けまでをお送りしました。
白蓮が霞に勝利することが出来た理由は、作者なりに愚考してみましたが、考えれば考える程、泥沼に嵌りそうだったので、このような形で文字にしてみました。白蓮さんは強くありません。だから、常に全力であり、相手の強さを意識することがありません。そこが霞や翠との違いであり、白蓮の勝因となっているわけです。
その中で、拙作では次世代の将として描かれている翠は、強さとは、という疑問にぶつかり、一つに真理を見出しました。ヒロインの一人でもある彼女は、きっとこれから先、華々しい活躍をしてくれるに違いありません。番外編とか書きたいですね。いや、無理ですけどね(笑)
そして、敗戦続きの華琳様陣営ですが、華琳様はこの苦境を楽しんですらいる模様です。多くの将が戦線離脱せざるを得ない状況に追い込まれている彼女たちですが、曹魏の武の本領はまだまだこれから、といったところでしょうね。本当の戦いは今、始まったばかりなのですから。
さてさてさて、次回は前回予告した通り、次回作候補の一つである「真・恋姫無双~かつて御使いと呼ばれし男~」を書きたいと思います。ぱっぱと本編を進めやがれ、という方には申し訳ないですが、ある程度のガス抜きをしないと、モチベーションを保てないので、ご理解して頂きたいと思います。
一話を御覧の方は分かると思いますが、こちらの作品はシリアス度豊富でお送りします。しかも、主人公は一刀くんであって一刀くんではないほぼオリキャラ。作者の中二病を存分に発揮する機会です。一話にはほとんどコメントがなかったので、感想等などお待ちしておりますので、御覧の方は是非ともよろしくお願いいたします。
では、今回もこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第百七話の投稿です。
白蓮は見事霞との激闘に勝利することが出来た。とりわけ秀でた能力のない平凡な人間と自覚する彼女が、霞に勝つことが出来た理由とは。強さとは何なのか。今、長年翠が悩み続けた問いに一つの答えが現れる。そして、多くの将を失った華琳は何を思うのか。戦いが終わり、そして、始まるのだ。
やっと緒戦が終了です。これまでの話だけで既に二十万字とかいってますね。長かったです。これまで拙作を見守って下さった多くの読者様に感謝を込めて。それではどうぞ。
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