九.
蒼穹は六年前を織斑一夏に幻視させる。
あの日、篠ノ之箒が突然と引っ越していって茫然としていた時も空だけは綺麗だった。
変わるものがあれば変わらぬものもある。
あの頃の彼と彼女の関係は竹刀一本で説明できた。
もうそれほど単純ではないのだろうけど、手に得物を持つあたりは今もそう進歩ない。
アリーナにて白式を鎧う一夏の身体は軽かった。
これもPICの賜物なのか、四日前から彼は筋肉痛とは無縁になっていた。鈍痛という訳ではなく、痛み自体が消えているのだ。
そんな要因もあって、一夏はほぼ最高の状態で放課後を迎えることができていた。
装着前の軽いストレッチでわずかながら身体も温まっている。
心なしか雪片弐型の握り具合も良い。軽く文目を描くように雪片を振う腕も軽かった。
「上機嫌だね」
「ああ、なんだか調子が良いんだ」
そんな一夏に、最近は見慣れてしまった柔らかい笑みを浮かべながら箒が話しかけた。
その駆る機体は昨日と同じく量産機を若干黒色にカスタマイズしただけの打鉄。
ただ達人は得物を選ばないともいう。それは昨日の試合からも明らかだ。第二世代だから労せず勝てるというのは、慢心以外の何物でもないというのを箒は既に証明していた。
結果は打鉄の敗北だったが、箒自身はけして敗北者ではない。
「そうか。一夏は昔から勝負所には強かったからね」
「そう言えるのは未だにお前だけなんだぜ、箒」
小さな勝ち負けに固執する様な人間ではないというのは知っていた。故にこうも気楽にしかし、狎れあうことなく試合前の余暇を互いに過ごすことができるのだ。
まるでかつての道場を思わせる雰囲気に一夏の表情も自然と綻んだものになる。
もはや遠き過去。セピアの色に染まった、確かに幸福だった在りし日の話。
この瞬間に共有できるのは世界でたった二人だけの物語。
その面影は無機質なブザーによって掻き消された。
途端の静寂。最早二者に言葉は要らず、これより語るは曇りなく煌めく一対の刃のみ。
姿は異なれども構えは同じく。
空に浮かんだ異形の鎧武者達は一泊の間をおいて鍔迫り合った。一打ち二打ち。まるで確かめるように刀身を重ねた後、いったん白式は距離を取る。操縦者は笑みを崩さない。
けれど、それは懐古ではなく歓喜から来る獰猛へと変貌していた。
白式が打鉄に肉迫する。
迫る雪片を打鉄は軽くいなす。直後の流れるように柔靭な黒刃の剣戟を対照的に白刃はやや強引に弾いた。それでも割れることも折れることも欠けることもない両太刀。
やはり、強度は既存の業物などと比べる必要もないらしいと一夏は結論する。
試合中に破損する心配のない人造の御剣。ならば選択は更に広がりを持つ。
剣先を揺らし此方の起こりを読ませないように細く息を吐きながら、白式はゆっくりと打鉄を中心に円を描くように移動した。
本来足運びに必要となる配慮が空では必要とされない。足場のない剣道。その存在感が一夏の中で段々と現実味を帯びてきた。想定からわずか一日で昇華するその才能。
自らの特異には気が向かず、少年はただ一点を、眼前の少女だけを見据えていた。
甲高い風切音。剣光を閃かせたのは打鉄、輝線が虚空を奔り白式の胴を薙ぐ。しかし、同時に、それを意に介さない雪片の一振りもその胸元に傷を衝けた。
我らが身は既に鋼の機甲。
数打で地に伏す道理が無い以上、時を置かぬ反撃ですぐに天秤の傾きは元へと戻る。
互角。未だ両人とも様子見の域を出ないが、繰る白式は打鉄の動きに追随できていた。
そこに絶望的な戦力差は存在していない。一夏は箒と確かに勝負できている。それが、どれだけ異常なことなのか、経験の浅い少年は気づいていない。
再び切り結んだ刃から火花が爆ぜた。力強い白式の仕業を、同様に打鉄は凌ぎ、そして逸らす。そこからが彼女の武技だった。途端に手元で反された黒刃を、振り抜く羽目になった雪片の下方へと滑り込ませ、一気に押し上げる。
一夏の知らない、機体の推進力を以て初めて為せる剣技。雪片が弾き飛ばされそうになるのを、白式は咄嗟に上空へ昇ることで保持した。
「……っ!」
その一連の動作に、一夏が己の思い違いに気づいたとき、既に箒は飛翔を始めていた。
態勢を崩した白式に打鉄の蹴りの一撃が叩き込まれる。
防壁では相殺しきれない衝撃が一夏の身体に響いた。思わず傾ぎそうになるのを意地で堪えて、白式は下方へと後退する。打鉄の追撃はない。
打鉄はその場に油断なく留まったまま、上空より白式を睥睨している。
なんて失敗だ。痛みを逃がそうと、呼吸の回数を増やしながら一夏は内心臍を噛んだ。
ここは空中、地上とは根本を違える別世界。
ならば推測できたはずなのに、一夏は見落とした。この戦場に「境界」の概念はない。基本空に浮かぶということは、攻撃は上からも下からも来るということだ。
如何せん、自らの剣術が相手に通用するという事実が油断に繋がった。教訓はあまりに手痛い。水平を保っていたはずの秤は瞬きの内に相手側に傾いてしまった。
しかし、敗北を容易に受け入れるにはまだ尚早。
呼吸を整え、白式は改めて雪片を構えた。その未だ勝負を捨てぬ姿勢に当然と、打鉄は黒太刀を抜き払う。三度、武者は空を舞う。
裂帛を携え、白式は立て続けに雪片を振った。その気概に呼応するがごとく、打鉄の刃が宙にて噛み合う。
最早、慢心など捨て去ったと言わんばかりに轟く刃。連撃に連撃を重ねる白式の姿勢はかつて、王座に君臨した彼の剣のブリュンヒルデを観る者に夢想させる。
その優雅さからは未だ程遠いが、身に鎧う気迫は本物だった。
一夏は油断するが二度は繰り返さないのだ。
下方の一閃はもう白式を傷つけられない。先程は徹った武技が此度は抑え込まれたのを目視して打鉄は人知れず凄む。試合のさなかにまで成長する少年の異常な伸び代。
一見不利なこの状況から、眼前の機体は繰り手を更に進化させようとでもいうのか。
「――――ふっ」
双鋼が激突する中、白式は確かに捉えた。
甲高い接触音の向こう側に、己が主の才を理解しながらも悠然と微笑む魔性の姿を。
かちゃり、と打鉄の持つ黒刃が鳴る。柄を強く握り直した音、柔が剛へと変わる音。
雪片の一突きを首を傾げる動作だけでかわし、続く横振りの刀の一閃で遂に暴剣の嵐は止んだ。互いに言葉はなく、視線だけが交錯したまま、旋回行動へ移る。
見れば双方の息は荒く、その額には大粒の汗が伝っていた。
このままでは試合が間延びする。それは一夏と箒の望む決着ではない。
故の了解。暗黙のままに両者の心象は重なっていた。
油断なく相手の隙を探りながら呼吸を抑制していく。いくらPICの重力軽減といえども限界はある。速成の代償が来ていた。偽物が悲鳴を上げている。
自らの身体が重くなり始めている事実を思い違いすることなく一夏は読み取っていた。
自分に長期戦を勝ち抜くだけの実力はまだ備わっていないということだ。
せめてあと一週間。時間に余裕があれば大衆の面前でこんな無様を晒すのは、もう少し先になったかもしれないが、最早自分に余裕はない。
使うか、秘技の御剣を――。
しかし、ここに至って一夏はその秘策を蹴った。白式の零落白夜は確かに凄まじい。
当たればわずかな消費で打鉄を地に落とすことも不可能ではない。けれど、ならば何故いままで使わなかったのか。
答えは至極単純だ。そんなもの当たる訳がないからだ。自身以上の剣術を誇る箒が知らないからといって唐突と輝き出した雪片と切り合うか、否。有り得ない。
そんな初歩的なミスを犯すような人物ではないのだ。外見も言動も変わってもその技は変わってはいなかった。つまり箒の剣は六年前からの延長線に存在しているということ。
ならば、おそらく彼女は自分のこの思考まで読み切っている。この現在の自身の心理を箒が未だ経験していないことの方が一夏には信じられない。
自分が理由はあれ、竹刀を置き、止まっていた合間も箒は竹刀を振り続けていた。
その活躍が新聞で紹介されるほどに、己を鍛え続けた彼女に自分は零落白夜を小手先の技として使ってまで勝利を拾おうと、惨めに足掻くのか。
そんな所業は断じて認められない。
織斑一夏にとって零落白夜は、けして安売りしていい物ではないのだ。
この瞬間、勝利への決め手となる必殺の一撃でなければ意味が無い。姉の好意を無碍にするような真似は一夏にはできない。これを使うのはまだ先だ。
一向に輝く様子のない雪片に箒は目を細めた。その心意気やよし、呟きは空へ鎔ける。
静かに、片手で持っていた黒刃の柄に、もう片方の指が重ねられてゆく。
重心は下方へと、目前に構えた業物は腹の前で止まり、剣尖は正面の一夏を示す。
箒の正眼の構えに一夏は確信した。
幕引きだ。
次の攻防で試合は終わる。自然と指が剣訣を結び、白式は雪片を黒刃と同様に構えた。
その一瞬を、ただでは終わらせぬと、一夏が眼を見開く。
太刀を振りかぶり、打鉄が駆けた。瞬時加速。青雫の弾丸には劣るその速さは、しかし人間の認識を超えるには十分。接触までは感覚的には変わらない。その刹那に。
雪片を握る白式の両腕は跳ね上がった。意識された最速の一撃が打鉄を穿つ。
それを弾けるように打鉄はかわした。人の身では有り得ない横跳び、機甲が可能とした絡繰術。上段に掲げられた黒刃が振り下ろされる。しかし、それは読めた。
突如、無重力機動に切り替わった白式が有り得ない乱回転を起こす。その奇行に思わず唖然とした打鉄の黒刃を、まったく故意的に白式は蹴り衝けた。
その勢いのまま落下し、直後、一気に加速をつけて雪片を構えた白式が脇目も振らずに打鉄へ突貫する。まさか、自らが下へ行くことで先と同じ状況を作り出したというのか。
相変わらずの即応、凄まじき一夏のその異才に箒は身震いする。
けれど、遭えて言おう。その機動は織り込み済みだ、と。
乱回転までは予測できなくとも、下方攻撃は篠ノ之箒には予定できる。
「――なんで、」
斬、と刃音を鳴らすはずだった現状に、遂に一夏は驚きの吐息を漏らした。咄嗟の判断だった。しかし、打鉄の機動を崩すには至ったのだ。最後に掴んだ反撃の一手。
自らの身体を軋ませてでも掴んだ、下方からのその一撃を、突然と正面に向かい合った打鉄は、身体を斜めに反らしながら前進してかわしたのだ。
その挙動は昨日の青雫とまったく同じ――。そこまでを目の当たりにして、箒の機動は一夏への意趣返しだと気づく。
自分は自動から手動へ切り替えたが、彼女は手動から自動へ切り替えたのだ。昨日の試合で学んだのは自分だけではない。箒もまた同じように学習を重ねていたのだと悟る。
mkⅢに変わり横殴りに振られる黒刃を当然、一夏の白式は対処することができる。
しかし、その衝撃を受け流した後にできたこの無防備な胴を防ぐ手段が自分には無い。
何故、打鉄は青雫の一戦で胴回りを自動操縦を駆使してまで護っていたのか。
それはその部分こそが、ISにおける急所であり、もっともシールドエネルギーが削られる部分だからだ。
一夏はその本質を見誤った。自分はその機動を攻撃の手段としか想定していなかった。護らずに攻めきれるなどと、そんな――。
「……甘かったってことか?」
「まさか。キミはよくやったよ、一夏」
五日目にしてはね。音にはならない言葉と共に、打鉄は黒刃の連撃を白式に撃ち放つ。
その刃圏に捉われれば最後。衝撃と自身の加速で制御を整えることもままならぬまま、白式は、刻々と敗北へと押し込まれてゆく。
足掻きと振う雪片がいくらその身を傷つけようと、打鉄は最早止まらない。
白式がブリュンヒルデの夢想ならば、打鉄はブリュンヒルデの亡霊だ。
数多の敵を屠ってきた剣姫の後継が、そう幾度も新参にやられては堪らない。
まるで自らのように胴に傷を衝けて果てた白式に苦笑しながらも、打鉄は黒刃を振った。
騒音が鳴り響くアリーナ。
差し出された彼女の手を然りと握る。
また一つ試合が終わった。
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ISで篠ノ之箒メインの話をやってみたいなと思い立って書いた次第です。
ちなみにpixivとハーメルンでも同名作品を投稿しています。