No.531953

〔AR〕その22

蝙蝠外套さん

twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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2013-01-14 23:39:49 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:937   閲覧ユーザー数:937

 まず結論から言うと、第百二十七季の人里の秋祭りは、大盛況のうちに幕を閉じた。それこそ、酔いつぶれた人妖が翌日の朝日で目を覚ますまで。

 野鳥観察会のカウントによると、来場者数は例年を上回る人手が記録された。それが、バイオネットによる里外への宣伝効果であるかどうかは、今後の統計解析次第だが、少なくとも、多くの催し物が成功を収めたことは疑いようもなかった。

 そんな、かつてない盛り上がりを見せた祭りが終わった後に訪れる寂しさは、格別だった。秋の神々が、祭りの後かたづけと共に姿を消したかと思えば、幻想郷の空には寒気の一団が押し寄せ、空気を冬のそれに取り替え始めた。幻想郷の住人は、等しく冬の到来を知った。

 そんな寂しさを助長するようなニュースが、寒気と共に幻想郷を飛び交った。

 幻想郷全体を結ぶ通信インフラ、バイオネットが神無月の末日で一旦サービスを休止するという発表が、花果子念報を通じて報じられたのだ。特にバイオネットの利用者にとっては寝耳に水のタイミングである。

 休止の理由は、バイオネットのシステムに発生した不具合の解消と、新バージョン意向のための準備という二点。不具合についての詳細は明らかにはされなかったが、花果子念報が伝えるところによれば、バイオネット端末、ないしバイオネットの通信網となる地脈に、幽霊が寄りつくやすくなるケースがあるのだという。

 幽霊が集まれば気温が著しく下がるため、これから冬に突入する幻想郷にとっては確かに無視できない問題だ。唐突な発表に人々は首を傾げつつも、休止の発表を受け入れ、日常に戻った。

 しかし、一方で、日常に非可逆の変化が訪れた者達もいた。それを語るために、時を遡ることにしよう。

 

 

 人里の秋祭り。時刻はまだ正午に達していない。

 人里の三広場の一つ、梅の広場は、神道、仏教、道教の三勢力による信仰獲得合戦の坩堝と化していた。

 と、書けばゆゆしい事態のように聞こえるが、実際のところは、守矢神社、命蓮寺、豪族仙人三人組による、取るに足らない客寄せ競争の場であった。

「さぁ皆さん! 今年のもりやそばも歯ごたえ十分風味最高で絶品ですよ! 是非一杯如何です!」

「乳製品はお釈迦様が悟りを開いたきっかけ! ネズミの大将も太鼓判のオリエンタルな命蓮寺チーズをご賞味あれ!」

「酒は百薬の長! 桃は魔除けの証! 西王母の仙桃をリスペクト、水に溶かすとお酒になる聖徳桃で貴方もきっと仙人に近づけます!」

 ごらんの有様である。

 主要メンバーの数で行けば、守矢神社三柱、命蓮寺九名、豪族が三人と、命蓮寺が圧倒的である。命蓮寺は檀家の手伝いもいるため、人海戦術による最大の処理能力を誇る。

 だが、守矢神社も山の妖怪や人里の氏子がおり、豪族の元には弟子希望者が集まっているため、人手では負けていない。

 もとよりこの梅の広場は、秋祭りの運営委員会が好意半分、混雑対策半分で三勢力のためだけに貸し出したのだが、おかげで人口密度でいえば祭りの中でも最大級である。

「人間って、こんなに集まるんだね」

 命蓮寺スペースの一角で商品の整理を行っているこいしは、絶え間なく続く客足を感心するように横目で眺めていた。

「こいしは今年初めてだもんね。いやまぁ、私も去年一昨年とここまで盛り上がった記憶はないけど」

 隣で同じく荷物整理をしていた封獣ぬえが相づちを打つ。二人は命蓮寺の面々が地底に封じられていた頃からの顔見知りであり、互いに人となりを知っているため、ぬえは在家信者のこいしの面倒を見るという体でよくつるんでいた。

「しかし白蓮も思ったより必死だねぇ。さっきから響子共々すごい音量で耳が痛いわ」

「響子ちゃんは、夕方から鳥獣伎楽のライブがあるんじゃなかったけ。今からあんなに叫んでて大丈夫なのかな」

「いや、あいつも要領良くなったのか、適度に声を出しつつ白蓮の声を反響させてごまかしてるみたい」

「強かだねぇ」

「そうじゃなきゃあんなパンクバンドやってないよ……あーそれにつけてもビールが飲みたい!」

 ぬえは指定された箱を積み終えたところでだらりと手近な椅子にもたれ掛かった。

「いつ抜け出せるかしらね~、お昼時に人が減ればいいんだけど」

「でも、お酒飲んじゃまずいんじゃないの?」

「あー、いいのいいの。白蓮は酒に詳しくないから、ビールのことなんて知らないよ。適当に泡のでる麦茶っていっておけば大丈夫。ワインだってぶどうジュースでごまかせるし。それにさぁ、今日はハレの日でしょ、ハレの日! 食って飲まなきゃ損ってもんよ」

 命蓮寺の面々は、住職の白蓮を除き、仏門でありながら日常的に飲酒と肉食を行っている。日本の仏教は日常生活の戒律については緩やかな宗派がままあるが、それとは関係なく命蓮寺の戒律では本来禁止されたことである。そして、そのことは三者会談で白蓮にばれたため、戒律の遵守が厳しくなった。

 にもかかわらずその習慣が続いているのは、ひとえに命蓮寺の面々が白蓮を慕っているのであって、仏教に帰依しているわけではないという事情がある。そのため、白蓮も言葉では厳しくしつつも、実力行使には踏み切れないところがある……こいしは、在家の身ながら、そのような命蓮寺の事情をよく観察していた。ちなみにこいしも寺での合宿時以外はあまり仏教の戒律を守っているとはいえない。

「こいしも、どっかに出かけたいとかってないの? うまいこと一輪とかムラサと入れ替わって、遊びにいきたいもんねぇ」

「うーん……そりゃ確かに見て回りたいけど、言いつけは言いつけだし」

「まっじめー。いつもぼんやりしてるあんたがそんなこというなんてねぇ。あんた、命蓮寺に入信してから少し変わったんじゃない?」

「え? そんなことないけど」

「いや、正直言って、私は今あんたとこういう風に会話してるのが不思議な感覚なのよ。地底にいた頃は、会話が十秒以上続くことなんて、滅多になかったじゃん」

「そ、そうだっけ」

 こいしに、ぬえの言うような自覚はない。

「あ、そうだ。行きたいところならあるよ」

「あん? どこよ」

「人形劇。確か竹の広間で正午くらいにやるんだよ」

「子供かあんたは。正午かぁ。今思ったけど、うちは昼食になるようなもの出してるから、正午は一層混むかもね」

「あ、思い出した、二回講演だから夕方前にもやったと思う」

「んじゃ、その辺で抜けられるよう頼むことね。私はこれがさばき終わったら、星でも騙して松の広場にダッシュするわ」

 確か持ち込みOKだったよねー、といいつつ、ぬえはこっそりと在庫のチーズおかきの袋をくすねる。このような横領はぬえにとって日常茶飯時であり、見つかると友人で食客の二ッ岩マミゾウにさえ怒られる有様である。近くにいるこいしに対して気を許しているのと同時に、侮っている証拠でもあった。

 実際に、こいしもぬえの行いを咎めようとはしなかった。お目付け役を頼まれたわけではないこともあるが、もし発覚した場合、ぬえは自分に泣きついてくる可能性がある。その時に、今の目撃証言をすればぬえは雲山の拳の下敷きになる未来が確定する。その方が良いお灸となるだろう。

(なんか、お姉ちゃんみたいな考え方だなぁ)

 より相手の精神的ダメージを増やすような立ち振る舞いは、さとりが好んで行うことだ。こいしは微妙な心地になった。姉は基本的に優しいが怒ると怖いし意地も悪くなる。自分は、無意識のうちに姉と似たようなことをしようとしているのだろうか。

 ふと、こいしはさとりのことが気にかかった。数日前に家に帰って以降、姉とは連絡の一つも取っていない。バイオネット経由での手紙もなかったため、特段の言伝もないようだった。

 さとりは今日も地霊殿にいる。お燐や空はもしかしたらひょっこり顔を出すかもしれないが、姉が出てくることだけは想像がつかない。誘ったとしても、旧都にさえ滅多に赴かない姉は、かたくなに地上に出ることを拒むだろう。

 だがそれも仕方のないことだと、こいしにはわかっている。これだけの人手だ。さとりにかかる負荷は相当なことになるだろう。今や心を読む力は失われてしまったが、こいしも似たような経験をしたことを、おぼろげながら覚えている。

 以前、命蓮寺になら姉も遊びに行けるのでは、と冗談めかして言ったことがあるが、よく考えればそれさえ厳しいかもしれない。命蓮寺は大所帯だし、人里の参拝者がたびたび訪れる場所だ。

 決して、強要することなどできない。

 ならばせめて、おみやげを持てる限り持ち帰ろうと、こいしは心に決めていた。

「それでしたらうちの桃など如何でしょう?」

「!」

 こいしははじかれたように振り返る。

 スペースを仕切るテーブル越しに立っているのは、豪族仙人達の長ともいうべき、豊聡耳神子だった。

 しかし、奇妙なことだった。豪族達のスペースを伺うと、誂えられた雛壇の上には、紛れもなく神子がメガホンで演説めいた呼び子に専念していた。なのに、なぜこいしの目の前にも神子がいるのか?

「あ、あれは残像です」

「!?」

 まるでこいしの疑問を先読みしたかのような言葉。こいしは、珍しくぎょっとした。

「というのは冗談であると共にわりと真実です。あれは尸解仙の術のちょっとした応用、虚と実をすり替えてみせる式神。登録された声のパターンをランダムに発生させてるだけのシンプルなものです」

 なにがどうシンプルなのか、こいしにはわずかにも判断が付かなかったが、とりあえず壇上の神子は偽物だと言うことがわかった。

「その通り。古今東西慎重を期した権力者は代理や影武者を立てるのが常というものですが、私の場合こういう身なりでしたので、代理を立てないと面倒なことが多々あったものです。まぁ、その影響なのか、『伝聖徳太子像』などと伝わっている絵が、代理人を写していたのは私にとっては複雑なところですね」

(だからなによ)

 なんだこの仙人は。仙人には変人が多いという俗説はこいしも耳にしたことがあるが、こいつはその中でも特上級だろう。本当にこんな奴の手で日本の歴史は始まったのだろうか?

「ううむ、君は欲が薄いので『聞き取る』のが中々に難儀ですが、ひょっとして君は私のことを馬鹿にしていますね?」

「ちょっと……!?」

「こいし、どうしたのー……って、あー! なにしにきやがったのよこの変態太子!」

 こいしのただならぬ声に反応したぬえは、彼女と対面している神子を見て血相を変えた。

「変態太子とは聞き捨てならないですね。あ、人間から仙人に変態はしましたけど、君の言う変態とは意味が違いますよ」

「やかましい! この前街中で白蓮と一緒にすれ違ったときの、卑猥な流し目を忘れたとはいわせんわ!」

 ぬえはこいしを押し退けて、神子の前に立ちふさがった。あたかも神子からこいしをガードするようでもある。

「失敬な。私はちょっとばかし、悟りを開くよりもいっそ仙人の道を志しませんかとお誘いしただけのこと。その方が彼女も楽になれると思いませんか?」

「いーや、あれは白蓮にやらしいことする魂胆がまるみえだったね!」

「ほー、いやらしいこと……ふむ、君はもう『淫獣ぬえ』と改名し、野に下った方が良いのでは?」

「……おう、スペルカードだせや。今日はハレの日だ、弾幕勝負に応じてやる」

 ぬえから剣呑な妖気が迸る様に、こいしは危惧を抱き、彼女を羽交い締めにして押さえた。

「やめなってば、ここで暴れたら命蓮寺のスペースが台無しになっちゃうよ」

「そうそう、そもそも私はそちらのお嬢さんと話をしていたのですよ」

「がるるる……」

 ぬえは唸りながらも引き下がり、後ろを向いた。

「……ところで、私に何か用なの?」

「特別何かあるわけではありません。まぁサボリの口実程度と考えてください」

「私はさぼってるつもりなんてないんだけど」

 先ほどはぬえの押さえにまわったこいしだが、彼女自身もこの仙人にはいけすかない感情が先行している。理屈は不明だが、どうやらこいつは、姉のさとりですら読めないはずの、閉ざされた自分の心を読んでいるように思える。

「覚り妖怪ほど、私の力は不躾ではありませんよ。その気になればシャットアウトできる分調節も利きますしね」

「皮肉が言いたいのならよそにいってくれない?」

「君は興味深い。心を閉ざし空に近づいているという触れ込みを聞いていたのだけど、それだけではないようだ」

 こいしは、久々にいらだった。皮膚がささくれ立ち、腹の奥底が焼けるような錯覚を覚える。

 一ついえるのは、この仙人は自分達覚り妖怪よりも、精神的に厄介なのではないかということだ。

「ところで、君に質問をしたい」

「なによ」

「ここ最近、命蓮寺で……人里で……あるいは、君のご実家だ。そこで、何か奇妙なものを見たことはなかったかな?」

「!」

 瞬間、こいしは電流のようなショックと共に、数日前自分の部屋で見たアルフレッドの幻影を想起した。あれは、間違いなく奇妙なものだった。故に、未だに自分の目が信じられない。

「み、見てな……」

「ふむ、まぁいいでしょう」

 反射的に嘘を言おうとしたこいしに、神子はやんわり遮るように言った。

 あるいは、それは神子による超常的な誘導尋問だったのだろうか。

「参考になりました。さて、これで後は何事も起こらないといいのですが」

「何事って、なによ」

「いやなに、せっかくのお祭りが台無しになるようなことが起きなければよい、そう思ったのですよ」

「ならとっとと帰れコノハズク」

 会話を聞いていたらしいぬえは、神子を見ることもせず毒づいた。

「そうそう、コノハズクといえば……」

 しかし神子はかまわず、またどうでもいいことを語り始め――。

 ――助けて!

「!」

 こいしははっとした。頭の中を突き抜ける叫び声。

(だれ……お姉ちゃん?)

 自分でもなぜかはわからないが、こいしは姉の顔が思い浮かんだ。

「……なにやら、竹の広場の近くから聞こえましたね」

「あ? なにが?」

 神子が、竹の広場の方角へ視線を巡らす。ぬえは不審そうにその姿を見る。

「竹の広場の声なんて聞こえるわけないじゃん。あんたどんだけ地獄耳……」

「ぬえ、ちょっとごめん!」

「へ、あ、ちょ!?」

 突如、こいしはテーブルを飛び越え、命蓮寺のスペースから離れていった。ぬえはこいしの袖をつかむことさえできなかった。遠ざかるこいしの背中に、ぬえは叫ぶ。

「待ちなよ! まだ代理も立ててないのに……」

「ぬえ~! 箱一つこっちに持ってきて~!」

「……あー、ちくしょう!」

 販売窓口から水蜜の声が届いた。ぬえは忙しなく在庫の箱を持ち上げる。

「お忙しいようなので、私は彼女を追いかけることにしましょう」

 神子は、そのようなぬえを後目に、こいしが飛んでいった方角に踵を返した。

「おいこらてめぇ! こいしになんかしたら承知しないからな!」

「しませんよ、君じゃああるまいし」

「くたばれ! 孕ませ太子!」

 ぬえの罵詈雑言を背中で受け流し、神子は優雅に人の波をかき分けて進んでいった。まるで、人々の方が無意識に道を譲っているかのようだ。

 しかし、優雅な足取りに比べ、神子の顔つきは少なからず緊迫感を湛えていた。

「やれやれ……今何か起こるのがよいのか、それとも後に起こった方がいいのか……今回ばかりはすぐに判断できそうにないわね」

 誰にも理解できないつぶやきを落としながら、神子は少しずつ足を早めていった。

 

 さらに時間はやや前後して。

 竹の広場には、様々な芸人とそれを見に来た観客でごった返していた。

「麟、阿求はまだこないのかな?」

 本居小鈴は、冴月麟と共にアリス・マーガトロイドの人形劇の席を取っていた。彼女達は、共通の友人である阿求を待っていた。

「うーん、サプライズゲストを連れてくるって息巻いてたんだけど、遅いね」

 麟は、実家で着替えた後にこの会場に移動したのだが、てっきり阿求が先に到着していたと思っていた。だが実際は、合流した小鈴と待ちぼうけを食っている体である。人形劇がそろそろ始まろうという時間に、阿求が会場に姿を現していないのは妙だった。

「サプライズゲスト?」

「えーと、人形劇の脚本原作の人だとか……」

「何!? 『Surplus R』さんが来てるの?」

「ああ、そんなペンネームだったね」

 小鈴は少し目の色を変えて麟に詰め寄った。小鈴は、阿求から『Surplus R』の小説を薦められてかの人物の作品のファンになり、同時にバイオネットの利用を始めた口だ。日頃から読み物に飢えている彼女にとって、『Surplus R』が短期間に発表した多くの小説群は、その旺盛な読書欲を満たすには最適であった。

「どういう人なの?」

 そのあたりの事情に詳しくない麟は、シンプルに小鈴に訊ねた。

「それは私にもわからないなぁ。阿求は文通してるとは言ってたけど、詳しくは聞いてないし。文通が続いてるあたり、まぁ阿求と話を合わせられるくらいの知能指数はあるんじゃないかな」

「うわ、どうしよう。そんなんだったら私、話が噛み合わないよ」

「それよりも麟は作品を読んでるわけじゃないからね。それで話題について行けない可能性も……」

 そのように会話を続ける二人に気づき、通り過ぎる手前で振り向いた人物がいた。

「おお、麟に小鈴か。ようやく見つけたよ」

『あ、慧音先生!』

 麟と小鈴は同時に上白沢慧音に応答した。慧音は、いつもよりもさらに小綺麗な衣装に「巡回」の腕章を付けている。彼女は、祭りの時は大抵見回り役を買って出ている。

「どうしたんです? なにがご用ですか」

「溜まってる宿題なんてないですよね?」

「何故宿題が出てくる。それよりも、二人にはちょっと残念なことを伝えなければならないんだ」

 慧音は二人の席に歩み寄り、渋い表情を作った。

「お前達が待っている阿求なんだが……さっき体調を崩してしまってな。稗田の屋敷に引き上げざるを得なくなった」

『ええ!?』

 麟と小鈴は悲痛な声を上げた。

「い、いったいなにが起こったんです!? 阿求ちゃん、さっきまでとっても元気だったのに!」

「寿命短いとか言っておきながら僻地まで歩いていっちゃうあの子が体調崩すって……」

「それがなぁ、私も詳しい事情がよくわからないんだ。たまたま他の自警団の者から連絡を受けて、本人から、二人に言付けを頼まれたんだが、とにかく具合が悪そうでな」

 慧音の話を受けて、麟と小鈴は大いに戸惑い、顔を見合わせた。

「ど、どうしよう……」

「人形劇を見ている場合じゃないよ……」

「いや、二人には、自分にかまわず人形劇を見てほしいと、阿求は言っていた。無念な話だが、二人はこのまま人形劇を見て、祭りを楽しんでいきなさい」

「で、でも……」

「確か人形劇は夕方にもう一回あるだろう? それまで数時間はある。その間に持ち直すこともできるはずだ。そうなったら、そのときに改めて三人で見ればよいんじゃないか」

 慧音は諭すように言う。確かに、人形劇をキャンセルし、阿求のところへ見舞いに行ったところで、それが体調回復にプラスになるかは定かではない。

「わかりました。阿求ちゃん、元気になるといいなぁ……」

 麟は不安そうに話す。一方、小鈴は、あることに気づいて、慧音に質問した。

「慧音先生。今日の阿求は、人形劇に知り合いを連れてくるようなことを言ってたんですが、それについて何か聞いていませんか?」

「あ、そういえばそうだったね。私も、最後に阿求ちゃんと会ったときは、阿求ちゃんは待ち合わせ場所に行くつもりだったし」

「む? そんなことは言ってなかったが……ちなみに、誰を連れてくるかは聞いていたか? 阿求は仕事柄人妖双方に顔が広いからな。もしかしたら私も知っているかもしれん」

「『Surplus R』さんです。阿求が文通してる小説家で……」

「ああ、かの人物か。そうか、人里にきていたんだな。元から人里の住民かもしれんが……しかし、それだと居場所を突き止める手だてはないな。もし阿求と遭遇していないのであれば、待ちぼうけを食っているかもしれん」

「阿求ちゃんは、アーチ池のところで待ち合わせするっていってました」

「そうか。よし、念のため、その周辺を探してみるか。もし会えれば、阿求が体調を崩したことを伝えておきたい」

 慧音は、そこで踵を返した。

「では、私は仕事があるのでな。二人とも、羽目を外さない程度に」

「お、お疲れさまです慧音先生」

「お疲れさまです」

 そうして、すぐに慧音の後ろ姿は人混みに消えていった。

 麟と小鈴は、神妙な顔を見合わせた。

「なにがあったんだろうね……」

「とりあえず慧音先生の言う通りにはするけど、人形劇が終わったら、一度様子を見に行った方がいいね」

「そうだね。おみやげを買っていって、元気出してもらおう」

 二人は頷きあって、それから舞台を振り返る。

「皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより、アリス・マーガトロイドの人形劇、まもなくの開幕です」

 丁度、舞台の壇上では、アリスが前口上を執り行っていた。

「本日の演目は、新時代のコミュニケーションを創造する魔法の木箱、バイオネットに現れた孤高の剣筆家、『Surplus R』原作! 愛らしい動物達と無垢な少女が触れ合うハートフルコメディ、『頼れるアルフレッド』でございます!」

 割れんばかりの拍手が、竹の広場の外にまで溢れた。

 

 胸騒ぎというのはこういうものか。久しく忘れていた感覚を引きずりながら、こいしは人家の屋根と屋根を飛び交って、前を目指した。

 今のように、ある一つの目的のために疾走するという経験も、どれだけブランクがあるだろう。思い出せるものではなかった。心を閉ざした彼女にとって、目的意識でもって己の能力を引き出すことが難しくなってしまった。

 故に、人間より明らかに速い動きで瓦屋根を飛び越えながらも、こいしは泥の中をもがいているような感覚しかなかった。えもいわれぬ焦燥感。明確な理由も根拠もない。何に? 何が? 何を? ただ、直感で、何か取り返しのつかないことが起こっているという心配が胸を圧迫するのだ。 

 目指すのは、竹の広場、ではなく、その広場に繋がる街道。特別なランドマークがあるわけではなく、屋台が軒を連ねる何の変哲もない道。だが、そこから、こいしは強烈な思念が飛んでくるのを感じたのだ。

 やや高い人家の壁を、勢いよく一蹴り。漆喰をへこませることなく、蹴った反作用だけを享受して、こいしは一際大きく飛び上がった。すると、目の前に目的の場所が見えてくる。

 瞬間だ。

 こいしの真横を、何かが駆け抜けた。

 その一瞬にこいしは対応できず、駆け抜けた後の残り香で、ようやく知覚する。

 バラとペット達の匂い。地霊殿の香りだった。

 こいしは飛び上がった反動を殺しながら後ろを振り向く。こいしのそばを通り過ぎていった何かは、もう既に遠い彼方の空にまで達していた。

 だが、こいしの妖怪としての視力が、その姿を克明に捉えた。

 自分の服と同じデザインで色違いの上下、そして、紫色の癖毛。

 普段着ではないが、見間違えるはずのない、姉の後ろ姿だった。

「お姉ちゃん……!?」

 そう叫んだ頃には、こいしの視力でも、その後ろ姿を見ることはかなわなくなった。

 こいしは空中で呆然と立ち尽くす。

 何もかもがわからない。何故姉がここに? 何故自分の服を着て? 何故里から遠ざかる?

 あまりにも考えようのない事実。こいしは、思考のループに陥りつつ、状況判断を自己の思考に求めた。

「お、追わなきゃ……」

(でも、今私は命蓮寺のお手伝いをしているんだ)

「お姉ちゃんを追う方が先決……」

(今すぐ追ったところで、追いつけるの?)

「まごついてたらなおさら追いつけない……」

(でももう見失っちゃったなら同じことだ)

「う……」

 どうすればいい? 早く姉を追いかけるべきか。それよりも先に、命蓮寺に一度戻って事情を説明してからにするべきか?

 こいしに自覚はないが、それはこいしにとっては不可思議な迷いだった。ついこの間のこいしであれば、おそらくは思考に至ることもなく姉を追いかけたことだろう。

 だが、今のこいしにはそれが即断できない。

 こいしは、命蓮寺に入信するようになって、姉のさとりに常日頃から「命蓮寺の者達に迷惑をかけないように」と言いつけられていたからだ。

「ぬえを置いて抜け出してきちゃった……」

 先ほどは反射的に勢いよく飛び出してしまったが、よくよく考えればそれははた迷惑なことであるはずだ。

 姉は気になる。しかし、命蓮寺も無視することはできない。

 こいしは、梅の広場の方へ戻りだした。

 姉を追うことをあきらめたわけではない。しかし、気がついた時点で既に追いつけなくなったのであれば、命蓮寺の面々に事情を話した方が、筋が通る。

 果たしてそれが、この状況で最善であったかは、こいし自身はもとより、仏でもわからないかもしれない。

 だが少なくとも、こいしは、己一人だけで脇目もふらず突き進むことを否定した。

「ホウレンソウ、というやつですね。正直どっちに転んでも問題はないとは思いますが、その心がけは悪くありません」

「……なんかよう?」

 いつの間にか、こいしのすぐ横に、神子が出現した。だがこいしは特に驚きはしなかった。

「あの柄の悪い妖怪の代わりに君を引き留めに来た、ということにしておいてください。ま、そうする必要もなさそうです。では一緒に戻りましょうか」

「いいわ。一人で戻れる」

「方向は一緒です。広場についたら別れればいいだけのこと」

 言いつつ、神子は竹の広場に通じる街道を一瞥した。その所作が気になったこいしは、つられて神子の視線を追う。

 見れば、なにやら街道の中腹あたりで、不自然な人だかりができている。何かトラブルでもあったのか?

「誰かが自警団に助けを求めたようですね。不審者でも出たのでしょうか」

「……何が言いたいの?」

 こいしは神子の言葉に、鋭く反応した。反応してから、こいしは内心で不思議に思う。なぜ過敏になっている?

「おっと、言葉の綾になりそうなので、今の発言はなかったことにしてください。ただ、自警団が集まっているあたり、何かがあったことは確かです。後で事情を誰かから聞いておくのがよいでしょう」

「……」

 こいしは、それ以上何も言わなかった。

 神子は、こいしが口を閉ざしたのを見計らったように、するりと梅の広場に進路を取った。

 その後ろに続くのがどこか癪だったが、こいしも従った。

 

 

 結論を述べるならば。

 稗田阿求が、その日、自室の布団から起きあがることはなかった。昼の人形劇を見終えた冴月麟と本居小鈴は、稗田家で彼女の様態を聞いた後、意気消沈のままそれぞれ家路についた。

 古明地こいしは、命蓮寺の面々に事情を話し、すぐ祭りを抜け出した。姉を追い、幻想郷の空を日が落ちるまで駆け巡った。

 では、最後の一人は?

 

 

 祭りの日が落ちる。夜こそが本番、という者達も居るが、祭りは徐々にオーラスへと向かいつつある。

 だが、そんな喧噪と遠く離れて、こいしはとぼとぼと家路についていた。夕日も沈み、暗闇が空を巻きとっていた。

 別に夜目が利かないわけではないが、こいしは日没を刻限にさとりの捜索をあきらめた。数時間飛び回って、さとりの痕跡さえも見あたらないのでは、夜通し粘ったとしても成果は上がらないだろう。

 そう判断した後、こいしはある可能性に思い当たった。いや、はじめから気づいていたのかもしれない。

 さとりは、明らかに人里から逃げ出していた。里で何かあったと考えるのが自然である。その姉が、逃げ出す先が、この地上のどこにあるだろうか。

 なぜ、すぐその判断に基づいて動かなかったか。こいしは己の迂闊さを呪うと共に、その不可解さに頭痛を覚えた。本来であれば真っ先にそうするであろう行動に行き当たらない自分が、おかしく感じられる。

 もしかして、自分は考える時間が欲しくて、徒労であることを予想しつつもあえて空を飛び回ったのか?

 実際に、今現在のこいしは、昼頃の少なからぬ動転からは立ち直り、精神の均衡を保っている。だが同時に、何か得体の知れない漠然とした不安を抱えていた。それは、何らかの結末の答えを用意しているかのようだ。

 その答え合わせは、地霊殿でなされるであろう。内なる声が予言する。

 こいしは速やかに地上を後にして、地底へ潜った。その足取りは瞬間移動したかのように――実際、瞬間移動したかもしれない――あっさりと隔たる距離を超えた。

 家に帰る途中、旧都と地霊殿の境目のような場所で、こいしは星熊勇儀に声をかけられた。

「よう、お前さんが姿を現すたぁ珍しい」

 勇儀がそうこぼすのも無理はない。こいしは無意識の力で旧都を抜けていくため、彼女の姿を道すがら見かけるということはまずない。

「珍しいかな。私はよく旧都を歩いているけど」

「だから珍しいんだよ。そんなに早歩きしてな」

 こいしは足を止めず、勇儀は話をしながらも彼女を引き留めないように横を歩く。こいしの速度は、勇儀の大股の歩きと拮抗していた。

「そういや気になったんだが、今朝、さとりの奴がお前さんの服着てたぞ。何の悪い冗談かと思ったが、あいつは誤魔化して逃げちまった」

「そう、なんだ」

 こいしは思い至り、勇儀に質問した。

「その時のお姉ちゃん、どういう感じだった?」

「んー、私に見つかったのは具合悪かったみたいだが、それを差し引いてもまぁ、浮き足立ってたよ。まるでこれからお祭りに行こうって感じだったねぇ」

「――そっか」

 こいしは静かに頷いた。その様子を少し凝視した後、勇儀は、突如足を止めた。

「そろそろ地霊殿だろ? 私が行ってもしょうがないし、この辺で帰るわ」

「わかった。勇儀さん、ありがとう」

「礼を言うのは筋違いだよ。感謝の安売りはやめとけ。じゃ、そのうち気が向いたら、また缶詰でも差し入れにくるよ」

 勇儀は洒脱な振る舞いで踵を返すと、元来た道、すなわち旧都へと去っていった。

 その後ろ姿を数秒、こいしは眺めていた。美しく、かっこいいと素直に思う。わずかなやりとりの中で、さらりとした粋と気遣いを見せられる彼女は、誰もが認める地底の星であり華だ。

 そんな勇儀に、こいしは今まさに勇気づけられた。だから、礼を言った。これから直面するであろう現実に立ち向かう力をくれた。ささやかでも、こいしにはそう思えた。

 

「こいし様、こいし様!」

「さとり様が、おかしいんです!」

 地霊殿の玄関から入ってすぐ、こいしはお燐と空に泣きつかれた。

 お燐は普段の飄々さがなりを潜め、青ざめている。空に至っては、元来の大柄に反して体を縮こめ、顔面に涙をたたえていた。

「家に帰ってきた途端に癇癪を起こしになられて、その後部屋に閉じこもっちゃったんです!」

「あ、あんなさとり様見たことない――どうしようどうしよう」

 半ば恐慌状態の二人の様子から、事態は深刻であるとこいしは重く受け止めた。見れば、廊下には他のペットたちも落ち着かない様子で右往左往しており、地霊殿全体に動揺が広がっているのが空気でわかった。

「もうあたいたち、どうしていいかわかんなくて――」

「わ、私たちなんか悪いことしたのかな? 守矢神社でチョコレートねだったのがばれちゃったのかな?」

「あんたそんなことしてたのかい! ってそんなんでさとり様が怒るわけないだろ!」

「うん、わかった」

 慌てふためく二人を落ち着かせるように、こいしは割って入った。

「私が何とかする。二人は、他のペットたちと一緒におとなしくしていて」

「は、はい」

「うにゅ……」

 こいしは、決断的に地霊殿の奥へと踏み出していった。

 ペットたちを押し退けながらさとりの部屋に面する廊下にさしかかったところで、こいしは臓腑に鉛が落ちるような心地を味わった。

 さとりの部屋の前に置かれてあった、バイオネット端末が、粉々に破壊されていた。

 どのように壊されたか、細かく検分する気にはならなかったが、端末を置いていた木の台もが崩れているあたり、相当のことが起こったのは想像に難くない。

 破壊の痕跡に眉をひそめながら、こいしはさとりの部屋に近づく。その度に一歩がどんどん重くなる。理屈抜きでわかってしまうのだ。このバイオネット端末の破壊は、これから見ることになるであろう光景のサンプルにすぎない。

 部屋のドアとこいしは対峙する。その頃には、足をカーペットに縫いつけられたような心地だった。怖かった。覚悟を決めてもなお現実と向き合うのが。

 だが、こいしは、勇儀にもらった勇気の力を借りて、ドアを開いた!

 ――こいしは、力をくれた勇儀に、もう一度礼を言いたくなった。

 まず目に付いたのは散乱する本と紙の数々、それらに覆い被さる木製の本棚の残骸。

 平行して視界に飛び込んできたのが、鏡のたたき割られた化粧台だった。ただ割られたわけではない。血痕の付き方から、おそらくは額を打ち合わせた後、拳を数度叩きつけて多くの鏡の破片を剥離させている。

 書斎机は引き出しが軒並み飛び出していて、中身を引き吊り出されている。床にばらまかれた紙の何割かは引き出しに納められたもののはずだ。旧地獄を管理する仕事関係の書類に混じって、さとりが小説を記した紙や、手紙の便箋が踏みにじられていた。

 大同小異、この部屋はそのような破壊が詰め込まれている。

 こいしの意識が暗転しかける。これは、ただ単に物に八つ当たりしたというレベルではない。心身双方にわたる徹底的な自傷行為だ。

 それでも、どうにかこいしは踏みとどまった。なぜなら、まだ、本当の現実に直面していないからだ。

「う――うぅぅぅぅぅっ」

 無意識のうちにシャットアウトしていたらしい聴覚が、ようやく最初から部屋に満ちていたすすり泣きを受け取り始めたのだ。

「う、う、う、」

 天蓋のついた贅沢なベッドに彼女の姉が埋もれていた。うつ伏せで、服はこいしから無断借用したままのものだ。ベッドに目立った損傷はないようだが、これは姉の精神がぎりぎりで逃避できる場所を守ろうとしたのかもしれない。

「お姉ちゃん」

 後ろ手でドアを閉め、こいしは姉を呼んだ。変化はない。

 距離が遠いか。意を決して、こいしはベッドにまで歩み寄り。

「お姉ちゃん」

 改めて、姉を呼んだ。

「うっく……こいし?」

 枕に突っ伏していたさとりが、軋んだ玩具のように顔を上げた。

 こいしは息を飲む。

 さとりの顔は、幾筋もの切り傷とひっかき傷で血みどろだった。その上を今なお大量の涙が伝い、子供がふざけて口紅を塗りたくったような有様だ。

 ベッドは少女二人が乗りかかってもなお大きい。こいしは靴を脱いでベッドに上り、さとりの手を取った。

 べとりとした感触。見れば、本来ならたおやかであるはずの白い手も赤く染まっている。鏡を叩き割っただけにとどまらず、多くの物を壊し、己の顔面にさえ爪を立てた、その末の姿だろうか。

「ああ……ごめんね、こいしの服、汚しちゃったね」

 どうでもいい。もはやこの服は破棄せざるを得ないだろうが、それを惜しんで何になる。

「ごめんね。帽子も……落としてなくしちゃった」

 どうでもいい。確かにこいしはどの帽子もお気に入りだが、それを恨んで何になる。

「お姉ちゃん……」

 いったい何があったの? と続けようとしたが、さとりの方が先に言葉を紡いだ。

「お姉ちゃんね、やっぱりだめだったの。だめだってわかってたはずなのに、それでも好きになってもらおうとした。でも、だめだったの」

 独白だった。しゃくりあげながら、か細い涙声で。

「こいしには、口ではいつもああ言ってたけど、ほんとは私の方がそうだったんだね。小説を書いていたのだって、それを発表していたのだって、文通していたのだって、みんなに受け入れてもらいたかったからなの」

「……」

「きっと、こいしが羨ましかったんだ」

 ぼそりと、さとりがつぶやいた言葉がこいしに刺さる。

 痛い。胸が痛い。本当に心臓にナイフを刺されたように。

 いつしかこいしが胸の内に抱いていた、姉に対する罪悪が、今ここで発露した。

 自分は暗い地の底で机に向かってる間、妹は日の当たる大地の上で、楽しそうに遊んでいる。その現実に、何も思わないわけがないだろう。

「ああ、でも違うの、こいしは悪くないの。お姉ちゃんが間違っただけだから」

 だがさとりは優しいため、こいしを心配することを優先させた。こいしも、それに甘えていた。

 こいしはかつて、さとりが恐れられてることを理不尽に感じた。さとりだって、きっと受け入れられるはずだと言った。だがこいしは、自分こそそう述べる資格がないのだと思う。さとりが求めてやまないものを享受する自分が、さとりを勇気づけたところで何になるのか。

「お姉ちゃんは、こわいこわい、覚り妖怪だものね」

「お姉、ちゃん」

 上半身を持ち上げたさとりの胸元には第三の目がある。それも表面をずたずたに切り裂かれていた。もっともそれで心の目が閉じられたわけではない。未だ、さとりは他者の心を読みとることができるだろう。

 だが、このままでは、さとりもまた心を閉ざしてしまうかもしれない。

 心を閉ざせば、心を読めるから嫌われる覚り妖怪でなくなり、みんなと仲良くできる……。

(違う)

 それがよいなどと、こいしは口が裂けても言えない。言ってはならないことだった。

 こいしは今まさに理解した。心が読めなくなったことを初めて後悔すると共に、覚り妖怪が心を読めなくなる本当の不都合というものを知ったのだ。

 何よりも近しい存在の心をわかってやれないこと。同族の苦しみを分かちあい、痛みを和らげてあげること。今の自分にはどうあがいても無理なことだった。

 すなわち、こいしが勇気を借りてまで直面しなければならない現実とは。

 傷ついた姉を見ることで、己の無力さを自覚することだったのだ。

「妖怪は……人間に怖がられて……当然だもん……ね……」

「……お姉ちゃん……」

 こいしはさとりを引き寄せた。泣きはらした姉の顔を胸元に乗せる。そうして、強く、固く、さとりの小さな肩を抱きしめた。

「こい、し…………ぅうあああぁぁぁぁぁ!!」

 堰はもう切られていたはずだが、今度こそ致命的な緊張の線が途切れた。

「あああぁぁぁあああああぁぁっ!」

「……」

 あらん限りの絶叫で泣き喚くさとりを、こいしは瞳を閉じて、ただかき抱いた。乱れに乱れた紫の癖毛を撫でる。

 こいしの頬を、さとりとは対照的な、静かな涙の筋が伝う。

 ふと、遠い昔のことがこいしの脳裏によぎった。覚えているのも不思議なくらい昔の話。まだ姉妹が、今よりももっと子供だった頃。

 ベッドではないが、何らかの敷物の上に二人で座り、向かい合ってじゃれあったり、遊んだり、喧嘩したり、泣きあったり。

 確かなのは、姉妹はずっと一緒だったことだ。二人で一人、一人で二人。そう言えるくらい、離れることなく寄り添っていた。

 それが解れてきたのはいつのころか。単純に、こいしが心を閉ざしたことが契機とは言えない。

 ただ一つ。さとりの心は折れてしまった。これを直すことが自分にできるか。誰かにできるか。わからない。

 さとりが何故ここまで傷ついてしまったのか。こいしは当初、話を聞こうとした。だが、もはやさとりに語らせることはできまい。故に、詳しい事情もわからない。

 わからない。わからない。

 こいしには、何もかもがわからなくなっていた。

 ただできることは――その程度のことを、「できること」などと認めることも苦しかった――さとりの気が済むまで、泣かせてあげることだけだった。

 

 その夜、二人は溶け合うように、強く、強くお互いを抱きしめ、一つのベッドで眠った。さとりは泣き続けながらも徐々に眠りに落ち、こいしはそんな姉の傷だらけの寝顔を見ながら、まどろみに沈んでいった。

 本来ならば、最低限さとりの自傷の手当はするべきだったかもしれない。しかし、さとりにもこいしにも、そんな気力はなかった。

 どんな理由であれ、もはや姉妹は、一寸たりとも、一瞬たりともお互いを離したくはなかった。 

 

 

 以上が、第百二十七季の秋の祭りの日、少女たちに訪れた非可逆の変化のあらましだ。

 それは、ともすれば、破局と形容されるような、無惨な話であろう。一つ言えるのは、誰もが無垢であり、誰も悪意など持っていなかったということだ。あるいは、それこそが悲劇の引き金であり、幕切れと言えるのかもしれない。

 だが、物語はまだ続く。

 続くのだ。

 


 
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