No.531946

〔AR〕その21

蝙蝠外套さん

twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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2013-01-14 23:22:45 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:705   閲覧ユーザー数:702

「香霖、次はあれが食べたいぜ」

「まずはその串を手放してからにしたまえ」

 突き抜ける蒼天、煌めく太陽の虹彩。

 人里は、神に祝福されたような――実際神が祝福したかもしれない――秋晴れの元、祭囃子に沸いていた。

 紅葉の神は穏やかな風に流されながら紅葉を舞い散らし、豊穣の神は男衆が担ぐ御輿の上で秋の恵みを歓声上げつつばらまいていた。

「本当にあいつら秋は元気だな。ま、今元気にならずしていつはしゃげって話か」

「彼女たちは実質冬眠するようなものだからね。今この瞬間、信仰を集めるだけ集めて冬に備えないとならないのだろう。大はしゃぎすればすむあたり、熊とかよりは幸せかもしれないが」

 人家の屋根づたいに飛び回る静葉と、街道を練り歩く御輿に揺られる穣子を見て、霧雨魔理沙と森近霖之助はそのように話していた。

「まぁ木枯らしと芋の話はいい。香霖、あれ買ってくれよ」

「今度はなんだい。さっきも言ったが、食べ物ならまずその手に持ってる串をどうにかしたまえ」

 魔理沙は焼き鳥の串で鮎の塩焼き屋台を指しながら、空いているもう一方の手で、ねだるように霖之助の手を握った。

 二人が今歩いているのは、人里に何本かある主要な街道の一つで、道の脇にはこれでもかと屋台が立ち並んでいる。当然人手もかなりのものであり、あまり揚々と立ち止まることはできない。

 人波を避けながら屋台を巡る魔理沙と霖之助に、声をかける者がいた。

「あら、妹さんのおねだりは大変ですことね、お兄さん?」

「あ? 何を意味不明なこと言ってんだ、お前は」

「同意したいところとしかねるところがあるな」

 魔理沙と霖之助が同時に肩越しに振り返ると、そこには、二人にとって予想通りの人物がいた。風見幽香である。

「勘違いしないうちに言っておくが、私はこの出不精に、甲斐性を発揮させてやってるだけだぜ」

「ふうん、なにか勘違いされたくないことでもあるの? ねぇ?」

「さぁてね」

 幽香はいつものように意地の悪そうな表情で、二人の間に割ってはいるように歩み寄った。霖之助は軽くため息をついた。

「魔理沙があまり余計なことを言う前に、僕の方からもはっきりさせておきたい。僕は魔理沙に引っ張られて今日ここにいるわけではなく、目的があって自分から赴いたんだ。魔理沙のお守りはついでだよ」

「へぇ、花見にも満足に出てこない貴方が珍しい」

「里の酒屋が地ビールというのを出していると聞いてね。ビールそのものがそうそう味わえるものでもないし、あまり日持ちがしないらしくて、すぐ飲みきるために、大放出だそうだ」

「おい、香霖。そんなの初耳だぞ? ビールと聞いたら私も黙ってはいないぜ」

 魔理沙は霖之助の視線を幽香から外させるように、その手を引っ張った。

「祭りの宣伝を見ればわりと目に付くはずだけどなぁ。松の広場で露天酒場をやるってのは今回の祭りの目玉の一つだよ」

「んん? 滅多に人里にこないはずのお前が、なんで祭りの宣伝をそんなに知ってるんだ? 天狗の新聞にでも挟まってたか?」

「いや、バイオネットの公開ページだよ。人里の掲示板と同じものが見られるんだ」

 人里の祭りは、度々里外の人妖が集うものだが、今回の秋祭りは、バイオネットを利用して、大々的な宣伝を行ったという。

「今までも、宣伝を行う天狗の新聞はあったはあったが、その内容は新聞ごとに偏りがあって、いまいち実際の催し物の全容がつかみづらいものだった。刊行時期もバラバラだしね。しかしバイオネットは、誰かから少しでも話を聞けば、いつでも詳しい情報が参照できる。それによって、自分が求めるようなものがあるかも判断しやすいのだろう」

「――つまり、どういうことだってばよ?」

「好奇心に飢える里外の住人にとっては、押しつけられて終わりな天狗の新聞より、自分から探しにいけるバイオネットの方が、結果として有益になりやすい、ということね」

 幽香があざ笑うように魔理沙へ助け船を出すと、霖之助は頷いた。

「効果のほどはまだわからないが、アピールの仕方としては確かにそうだね。天狗の新聞も強力なライバルを持ったものだと思うよ」

「ふーん。とりあえず便利なのはわかった。やっぱりお前のところから持ってくればよかったな」

 魔理沙は残っていた焼き鳥を全て口の中に放り込んで、丁度近くにあったくず入れに裸の串を投げ捨てた。

「そんなことしなくても、店にきて使えばいいだろう。どうせしょっちゅう入り浸っているんだ」

「わかってないな。研究のために独占したいに決まっているだろ」

「香霖堂の端末の寿命は、風前の灯火ね」

「勘弁してくれ」

 霖之助は眉を寄せてうなだれた。近い将来、本当にそうなりそうな危惧が彼の脳裏に去来した。

「さて香霖。約束通り串を手放したから、あれ買ってくれよ。そしてビールを飲みに行くんだぜ」

「約束した覚えはないが――まぁ、屋台のものなら持ち込み可のはずだから、買っていくのも悪くはない。君もどうだい?」

「あら、おごってくれるのかしら? でも私は、お酒だけでいいわ」

「そうか。じゃあ魔理沙、二尾買ったら広場にいこう」

「ちょっとまて。幽香、付いてくる気か」

 露骨にいやそうな顔を見せる魔理沙に向けて、幽香は目を細めて笑った。

「悪くて? 私も、露天酒場でワインとブランデーを飲みたいと思ってきたのよ」

「ワインか。今年は例年になくブドウが豊作になったそうで、過去最高の出来と喧伝しているところがあったような――何はともあれ、質のよいものが色々味わえそうだ」

「よく紅魔館の連中に買い占められるから、早いところ口にしておきたいのよ。冬場の常備酒としてもうってつけだしね」

「私は咲夜にねだれば、いくらでもホットワイン飲ませてもらえるから別に困らないがね。どうだうらやましいだろう」

「ところで香霖堂さん、確か松の広場って、近くに大きな道具屋がなかったかしら?」

 幽香は、とてもにこやかに――ともすれば背筋が寒くなるような――街道の先を指さす。人が多くてはっきりとは見えにくいが、その先には、話題の露天酒場が開かれている松の広場があるのだった。

「ん? ああ、直に面しているわけじゃないが、霧雨道具店は松の広場を抜けてすぐのところだよ。霧雨家の二階からは、松竹梅の三広場を見渡せるようになってる。そもそも広場の整備は、霧雨家が代々出資していて――」

「香霖、竹の広場を通っていくぜ。途中でつまみの追加をするためにな」

 気が付けば、魔理沙は二尾の鮎の紙包みを抱え、霖之助の手を広場とは別の方向に引っ張っていた。

「なんで? ここからまっすぐいけばすぐだというのに、わざわざ迂回することもないだろう。つまみにしても、ほら、数件先には枝豆売りもあるし」

「そっちの方角から香ばしいキノコの匂いがするんだ。お前わからないのか?」

「犬じゃあるまいし、わかるわけないだろう」

「ついこの間剪定用の鋏を買いに行った時、霧雨の店主さんも、祭りでビールが飲めることを楽しみにされていたわ」

「ああ、そうだろうね。親父さんは妖怪にも負けない酒豪だし、もしかしたらすでにできあがってるかも――」

「おい、いくぞ香霖!」

「わかったわかった――風見さん、どこか席が空いていれば、そこで落ち合おう」

「ええ、先に行ってるわ」

 霖之助は肩をすくめながら、魔理沙の牽引に従う。二人は、そのまま街道の脇に向かっていった。

「うふふ」

 その姿を見送った幽香は、嬉しそうに歪む口元を手で押さえた。

「今日は酒の肴に困らないわぁ。ああ、今から涎が垂れてしまいそう」

 口の中に酒が入る瞬間を想像しつつ、幽香はあくまでののんびりと歩みを進めた。おそらく、屋台を冷やかしながら歩いていっても、魔理沙と霖之助よりも先に、広場に着くであろう。

 そこで。

「あ、ごめんなさい!」

「あら」

 よく前を見ていなかった幽香は、人ごみをかき分けて横断せんとした通行人に、危うく衝突するところだった。

「これは失礼。大丈夫?」

「い、いえ、こちらこそすみません」

「お気をつけて」

 通行人は目深に帽子を被った少女だった。うわずった声で謝罪すると、そのまますぐに人の波の中に消えた。

「――?」

 しかし、幽香の人知を越えた知覚が、何らかの違和感をとらえた。この場にかすかに残る、バラ科の花の芳香と、それに拮抗するような獣の臭い。

 先ほどの少女が残したものか? なんとも珍しい香りが、幽香には強く印象に残った。

「ぅぅぅ――さっぱり道がわからない――」

 羽根飾りをあしらった帽子を目深に被り、薄黄緑を基調としたフリル袖の洋服をまとった少女は、人の流れに翻弄されながら、手にした地図と周囲の風景を必死に見比べていた。

 帽子の縁に隠れた肌の色は、お世辞にも健康的とはいえない。元々病的に透き通った白さに、うっすらとした脂汗と陰りが見える。

「はぁ、はぁ……」

 人の多い街道をようやく外れ、脇道の壁にもたれ掛かって一息つく。しかし快調とは縁遠かった。

 少女――古明地さとりにとって、今いるこの世界は、さながらサウナで開催されるオーケストラだった。あまりにも多くの生命体が、活発に動きまわることで発散される精神のエネルギーが、心を読める覚妖怪に大きな負荷をかけるのだ。もはや個々人の内面など関係なく、理解できない巨大なノイズとして、さとりの精神を圧迫しているのだ。

 今、さとりは服の中に第三の目を隠している。が、それは外見の偽装の意味しかない。第三の目を遮蔽するだけで心が読めなくなるのであれば、妹は心を閉ざすことなどなかっただろう。覚妖怪は、ただ生きているだけで、他者の心を受信してしまう。

 故に、さとりは人の多い場所に行くことを避け続けてきた。古明地姉妹が他者との接触を断つように生活してきたのは、自分たちの存在が周囲に不安を与えるためであると共に、自分たちの精神の均衡を保つために必要なことだった。覚妖怪が真価を発揮するのは、一対一に限定されると言っても良い。

 それでもなお、さとりは地上に姿を現し、人里に赴いた。そのために、かつてないほど多くの手を打った。

 まず地上に出るために、お燐が命蓮寺の墓場へ行き来するための獣道めいたルート(顔を合わせたときに心を読んで知った)を、服を汚さないように抜けた。途中旧都近くを通ったとき、星熊勇儀とエンカウントして不振な目で見られたが、それ以外は問題なく人里までたどり着いた。

 人里で行動する準備も抜かりなかった。勇儀が怪訝な顔をした変装をはじめ、事前にバイオネット上で公開されていた秋祭りのパンフレットを物理インクで書き留め、待ち合わせ場所を示す地図を用意。事前に空と交渉し、彼女が集めていた地上の貨幣を入手した。金額は心許ないが、あって損はないだろう。

 そして、顔も名前も知らない待ち人と落ち合うための、示し合わせの札。これはバイオネット上で交換した直筆サインをなぞったものであり、さとりは、『Initial A』のサイン、向こうは『Surplus R』を持つ。これを待ち合わせ場所で見えるようにしておけば、お互いに気づくことができるはずだ。

 しかし、現地に着いてから、さとりは事前準備だけでは乗り切れない困難に直面していた。地霊殿に閉じこもりっぱなしだったさとりにとって、初めて訪れる人里、その特定の場所を目指すのは、いささかハードルが高いと言わざるを得なかった。地図が読めず、現在位置の把握すらおぼつかない。

「でも――せっかくここまで来たんだもの」

 懐中時計を見た。朝早く出てきた甲斐もあって、待ち合わせ時間にはまだ十分猶予がある。一度人里の外に出て、少し休憩した後、再度待ち合わせ場所を探すことも可能だろう。実際、『Initial A』が提示した待ち合わせ場所は、里の入り口を起点として案内されている。迷ったのならば里を出た方が早い。

 ふと、目の前に紅葉が落ちてきた。

 さとりが頭上を見ると、紅葉のスカートを翻した秋の神が、屋根づたいに空を舞い踊っていた。秋風に乗って、調子の良い勢いで西から東へと飛んでいく。

「……そうだ。今は人間も妖怪も神様も一緒なんだから、空を飛んでも問題ない!」

 盲点だった。実際、周囲をもう一度見渡してみると、軒先に吊されている提灯を手直しや、物資の運搬のために、飛翔している者達の姿が見られる。暗黙の了解として、祭りを見て回るなら地面を歩くのが筋のようだったが、多少空を飛ぶのであれば問題はないのではないか?

 展望が見えてきた。さとりは一度深呼吸をする。精神的重圧の関係で空気さえ重く感じられるが、決して耐えられないものではない。

 一度外に出直し、空から人里の全容を眺め、再度目的地を目指す。

「いける! もう一息よ、古明地さとり!」

 重圧をはねのけるように、さとりは己を鼓舞した。全てはこの日のためにやってきた。負けられない。

 さとりは、鋭く跳躍し、民家の軒先に飛び乗ると、驚くほど軽やかな足取りで駆けだした。

 逢う。必ず逢うのだ。もう一人の自分を認めてくれた人に。

「阿求ちゃん、その服すんごくかわいいよ~!」

「あはは、派手すぎない?」

 竹の広場に続く街道の街灯の下で、阿求とその友人で花屋の娘の冴月鱗が、向かい合って話していた。

 鱗は直前まで親の仕事の手伝いがあったため、祭りに似つかわしくない園芸作業用の服であったが、阿求は白いワイシャツ、花柄のカーディガン、そして黒いプリーツスカートを合わせていた。

「そんなことないよー。きっと十人中十一人は振り返るに決まってるって!」

「一人増えてる」

「気にしない気にしない。後は、これで竹筒の酒コップとか持たなければ完璧!」

「いやいや、流石に今日は私待ち合わせがあるから、すぐにお酒なんて……」

「とか言って阿求ちゃん、目を離すとすぐお酒飲んでるんだもの。だめだよせっかくのお洋服なんだから、クレープとかドーナッツを食べないと。ぎりでりんごあめだね」

「がっちがちに型から入りすぎよ、鱗」

 そういって、二人の少女は笑いあった。

「じゃあ、これあげるね」

 ひとしきり笑った後、鱗は携えていた紙包みから一輪の白薔薇を阿求に差し出した。それは、生花に髪留めを付けた特注品である。

「まぁ、よく採れた一輪差しね。頼んでいた甲斐があったわ」

 その花弁の優美な開き具合は、一切の虚飾をはね除けるかのように輝いている。早速、阿求は、普段と同じようにそれを髪に取り付ける。

「へへ、まぁね。それにしても阿求ちゃんがお祭りでめかし込むなんて、今年は暖冬になって花が咲き乱れちゃうかなー」

「酷いわね。私だっておしゃれするんだから」

「はいはい。それじゃ、私は家に戻って着替えてくるから、また後でね」

「うん。時間になったら竹の広場で」

 妖精のような溌剌さで、鱗は阿求の進む道とは反対方向へと駆けだしていった。

 鱗の姿が見えなくなったところで、阿求は街道を緩やかに歩く。鱗に頼んでいた花を待っていたため、『Surplus R』との待ち時間はもうすぐの刻限であったが、待ち合わせ場所はもう目と鼻の先である。ちなみに、麟とは後々『Surplus R』と共に竹の広場の人形劇を鑑賞する予定だ。

 場所は、竹の広場と人里の入り口の間のほぼ中間点にある、石造りの橋が掛けられた池だ。周囲は円形に整備され、丁度ほかの街道と十字の交点をなしている。

 日本建築作法の池と、西洋建築由来のアーチが組合わさったなんともアンバランスなもので、それ故に人里の中でも目を引くランドマークの一つだ。その調和のとれてなさが、建造された明治初期という時代を物語っているようにも感じられる。

 ここを待ち合わせに決めたのは阿求の判断だ。人里の入り口を真っ直ぐ進めば辿り着くここなら、里外に住んでいる『Surplus R』であっても比較的容易にこれるだろうという目算からだ。

 阿求は、通行人の邪魔にならないよう、里の入り口を向いて橋のたもとに立ち、用意していた札を取り出す。『Surplus R』のサインが書かれた札だ。これを掲げることが、『Initial A』として『Surplus R』を待つ文字通りのサインとなる。

 懐中時計を確認する。時刻は予定の十分前。周囲を見渡すが、阿求のように札を掲げた人物は見あたらない。というより、皆主要な街道や広場に集まっているため、ベンチすら設置されていないこの池の周りは、ほとんど人がいない。

 阿求にとっては都合が良い。このランドマークに近づく人物を注意深く観察していれば、おのずと待ち人を見つけることができるだろう。

「ドキドキするなぁ……どういう人なんだろう」

 

 さとりは、他者との空中衝突を警戒しながら、人里の瓦屋根の上を飛翔する。

 里を離れて体調を整えるのに思ったより時間がとられ、待ち合わせ時間まで十分を切った。

 しかしその甲斐あって、さとりは待ち合わせ場所となるアーチのある池の場所をしっかりと特定できた。また、気分も上向きになってきた。

 外の上空から里を見たとき、祭りの活気がオーラのようにさとりには見えた。疲れるはずだ、とさとりは内心苦笑する。しかしその活気も、密度が濃いのは地上の方であり、少し浮かべば大したことはなかった。やはり、人ごみの中を歩くのは良くなかったのだろう。

 『Initial A』と逢うには、また地上には降りなければならないが、短時間であれば重圧に耐えられる自信がさとりにはあった。

(ようは、気の持ちようね……楽しい時間を過ごせば、周りもきっと気にならなくなる)

 もうすぐだ。もうすぐ逢える。さとりは待ち合わせ場所を見据える。

 石造りのアーチと苔むした池の不可思議な共存。その橋のたもとに、一人の少女がいる。周囲には他に人物はいない。

 秋晴れのまぶしさに眩みながら、さとりはその少女が、文字の書かれた札を掲げていることを認めた。

(あの人だ!)

 まだ文字がうまく読める距離ではないが、間違いない。あの少女こそ、『Initial A』に他ならない。

 心臓の鼓動が高鳴ると共に、さとりは加速した。一気に距離を積め、彼女の目の前に降り立つのだ!

 着地位置を確定させるために、さとりは、少女にフォーカスする――。

(――!?)

 突如、ガンッ、という音が、さとりの頭を殴りつけた。

 『Surplus R』とは幾度も手紙をやりとりしたが、阿求にはまだまだかの人物の全体像がつかめていない。文字のタッチや語り口調から、おそらくは女性ではないかと考えているが、色々と憶測をたてても、結局は直接逢ってみないことにはわからない。

 ただ、話したいことはたくさんある。この二ヶ月間の文通でも、多くのことを語り合った。しかし、交わしたいと願う言葉は、尽きることを知らなかった。

 早く逢ってみたい。気持ちははやるばかりだ。阿求は、もうすぐ指定の時刻を示す懐中時計と、周囲の情景をせわしなく交互に見渡す。

 と、喧噪の中に、風を切る音がした気がした。

 反射的に、阿求は視線を空に向けた。

「――へ!?」

 なんということか。阿求めがけて急降下してくる、少女の姿!

 阿求はとっさに横に跳び退こうとした――が、それよりも前に、阿求のつま先一尺の地点に、少女は顔面からダイブした!

「むぎゃ!?」

「ひゃあ!?」

 悲鳴と共にうつ伏せに倒れ伏した少女は、顔面を打った痛みで、痙攣するように震えた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 阿求は少女に駆け寄って屈むが、そこで逡巡する。空中から地上に、顔面から突っ込んで無事で済むはずがない。手当ができる者を呼ぶべきだろうか?

 だが、予想外なことに、阿求が行動を起こす前に、少女はゆっくりと身を起こした。帽子を被っていたが、落下の衝撃で位置がずれ、頭を動かした時点でそれは地面に落下した。

「あ、あたたた……」

 そうして、露わになる、紫色の癖毛。帽子の中にまとめていたのか、セットが乱れていた。

「あ、あの……今人を呼んで…………ッ」

 癖毛を揺らしながら、少女は阿求の顔を見上げた。それで、阿求は少女の顔を初めて確認できた。

 土で汚れている。それは当然だった。にもかかわらず、少女の顔には、血はおろか、擦り傷さえできていなかった。

 いや。

 それも重要ではなかった。

 阿求は凍り付く。

「……?」

 一方で少女は、落下の衝撃で朦朧としているのか、目の焦点が合っていない。故に、今視線を交わしている相手の顔がどうなっているのか、よくわからない。

「す、すみません、突然……そちらこそお怪我は」

 少し呂律の回らない口調で、少女は阿求に話しかける。

 反応はない。

 少女は、それをいぶかしむ間に、少しずつ意識が回復していく。それに伴い、視界もクリアになる。

 そして、焦点が阿求に戻ったことで……少女もまた、金縛りのように動きを止めた。

「あ……あ……」

 かろうじて出来たことと言えば、喉を振るわせるだけだった。

 時が止まったように、動きを止める二人の少女。

 祭りの喧噪は、どこへ逝ってしまったのだろう。

「嘘、でしょ……?」

 再び動き出したのは、阿求が先だった。

 阿求は知っている。少女とは初対面であるはずだが、知っている。

 天狗の写真だった。地底に取材しにいった時のものだと、天狗の新聞記者に写真を見せてもらった。

 一切の記憶を止める阿求に、見間違いはない。

 だから、この現実を誤読することなどできない。

「古明地……」

 いつかのアリスと、こいしとの会話がフラッシュバックする。

 呪術をかけられたような気分だ、とその時は思った。

「古明地、さとり」

 空から落ちてきた少女。

 阿求の目の前に身を沈めている少女。

 今こうして、阿求と見つめあう少女

 少女の名は、古明地さとり。

 地下に封印された、覚妖怪である。

 何だ。

 何なのだ。

 目の前のこの少女は、一体何なのだ?

 四つん這いのまま身動きができない。さとりは、まるで少女の視線で釘付けにされているようだった。

 いや、まさしく、だ。さとりは、この白薔薇の生花を髪にさした、二十歳にも満たない紅顔の少女を見て、体が動かなくなったのだ。

 先ほど飛翔してきた時、突如頭に衝撃が走った。死角から何かが当たったか、それとも何者かに襲撃されたか。身を起こす直前まで、さとりはそのような予測を立てていた。

 だがそれらは全くの的外れだった。

 さとりが読みとる他者の心というのは、その者の顕在意識が基本となる。本人が普段意識していなかったり認識できない記憶を読みとることはできず、それらを掘り返すには、催眠術で潜在意識をくみ出す必要がある。

 人間をはじめとするある程度以上の知的生命体は、顕在意識だけでも、常に様々なことを思考しており、一枚岩ではない。人間は口に出す言葉と別の事柄を心に秘めることができ、だからこそさとりに心を読まれるを恐れられる。

 さとりとは、覚妖怪とは、そのような複雑な意識を受信できる生き物というわけだ。知的生命体の意識は、ただ生きているだけで相当な情報量を湛えているのだが、覚妖怪は、それを受け止められるだけの耐性をもっているということだ。

 だが、さとりは、彼女に意識を向けただけで、墜落してしまうほどの精神的ダメージを被った。

 驚愕以外の何があろう。

 数え切れないほどの人妖が、あらんかぎりにはしゃぎ回るこの祭りの喧噪よりも。

 目の前の少女が顕在意識に抱える情報量は、破滅的に上回っているのだ。

 その現実が、信じられない。さとりには、彼女が人間に思えなかった。いや、この世に生きている生命体であることさえ疑わしいレベルだった。サウナと形容していた祭りの熱気による重圧など、比較にもなりはしない。

「ハァー! ハァー!」

 今度はさとりの肉体の方が悲鳴を上げだした。あまりの衝撃に呼吸を忘れてしまったため、さとりの自律神経は酸欠を訴え、無理矢理肺を稼働させる。それが、過呼吸を誘発させるのもかまわずに。

 突如として息を荒らげだしたさとりを見て、阿求は金縛りから解放されたように後ずさった。その表情は、青ざめている。

(何? 何なの? どういうことなのこれ? いきなり息を乱してなんなの!?)

 まだ、体がうまく言うことを聞かない。

(に、逃げ……)

「ゲホッ、ゲホッ……ま、まって……」

「ひっ!」

 阿求のこらえきれない悲鳴が走った。それはさとりの聴覚を強烈につんざく。音が大きかったからではない。

(恐怖、している)

 ようやく酸素が行き渡り始めた思考の一部で、さとりは忌まわしい感情をくすぶらせた。

 その一方で、さとりは事態を好転に向かわせようと、必死に言葉を考える。

(なんとか、落ち着かせないと……)

 できるか? 彼女は、自分の名前を口走った。おそらく、彼女にはもう覚妖怪であることはばれている。それに彼女がおびえていることは日をみるより明らかだ。

 だが、彼女こそが、さとりが逢いたかった『Initial A』であり、自分は『Surplus R』なのだ。その事実は違えようがない。

 覚妖怪であることが知られたのならば、もはや開き直るしかない。恐怖されるのは慣れている。それは甘んじて受け入れよう。

 それよりも、自分の方が少女の特異性に気づかない振りをした方が良いだろう。さとりは、カメラのレンズを絞るように、あえて少女から焦点を外し、直視しないようにした。

 しかし、満足に相手の心が読めないというのは、こいしをのぞくと初めての体験かもしれない。まともに心が読めていない証拠に、未だ、さとりはこの少女の名前を知らない。

 とりあえず、どうする? さとりは立ち上がり、自己紹介をすることにした。

「は、初めまして……『Surplus R』こと、古明地さとりです」

 震える舌で、さとりは名乗った。それと共に、懐から『Initial A』のサインが書かれた札を取り出す。

 そのサインを見た少女――阿求は、ビクリと肩を震わせた。が、少し落ち着きを取り戻したのか、手にしていた『Surplus R』のサインの札を胸元に掲げ、口を開いた。

「初めまして……『Initial A』こと、稗田阿求と申します」

 稗田阿求。さとりはすぐに思い当たった。

 そうか、彼女こそが、幻想郷縁起とやらを書きおこし、妖怪の情報を纏めている地上の人間であったのか。さとりはいろいろと合点が行った。考えてみれば、『Initial A』は自らが稗田阿求であることを匂わせることを度々手紙に書いてきたような気がする。

「稗田阿求……貴方が、そうでしたか。うちの妹やペットが、お世話になったようで」

「ああ、はい……古明地さん、貴方のことは、こいしさん達から伺ってます」

「恐ろしい妖怪であると、聞いていたり?」

 その言葉に阿求が固唾を飲んだ。さとりはしまった、と内心舌打ちする。人間と話すときの、相手を脅かそうとする癖が出た。もはやばれてしまったとはいえ、この少女をいたずらに刺激するのは望ましいことではない。

「ああ、あのええと、とても動物好きで優しいお姉さんだと」〔っと言っておけばいいかな? 実際こいしさんはそう言ってたし〕

「ま、まぁ、あの子ってば」

 なんとか話が通じるようになったためか、さとりは阿求の心を少しずつ読めるようになっていた。言葉に付随する裏心であれば、すぐに理解できる。

 ただ、依然として阿求が凄まじい情報密度の固まりであることに変わりはない。一度認識してしまったがために、もはや目線を合わせないようにする程度では、彼女の発する記憶の圧力を無視することはできない。

「きょ、今日はその、お祭りに誘っていただいてありがとうございます。地上に出てくるのは、本当に久しぶりでして……」

「あ、はい! こちらこそ、来て頂きまして……」〔この人が、『Surplus R』先生?〕

(この人が、『Surplus R』先生?)

 阿求はようやく落ち着きを見せていたが、洋服の下は冷や汗でぐっしょりだった。

 祭りの数日前、アリスとこいしとの会話で、一瞬よぎった不吉な予想。その時は、こいしの言葉を信用し、アリスが推理を霧散させたことで、阿求の不安も消えた。

 しかし、現実は運命のいたずらの織りなすありさまだった。阿求にとって、『Surplus R』が古明地さとりであったということは、都合の悪いどころの話ではなかった。

 覚妖怪の恐ろしさは、身に染みるように知っている。覚妖怪は、人間の心を次々に読み当て、その度に魂を奪っていく妖怪だ。覚妖怪を退治するには、無意識の力に運が向いてくれるか、真実無我の境地でもって望む他ない。そのようなことは、阿求のみならず、通常の人間には不可能だ。

 あるいは、先代の誰かが、覚妖怪に襲われた経験があるのではないかと思えるくらい、遺伝的な恐怖を感じる。阿求にとっては、鬼や天狗以上に恐るべき相手の一つであった。

 それが今、自分のすぐ目の前にいる。そればかりか、こともあろうにその覚妖怪こそが、阿求が恋い焦がれてやまなかった憧れの人物だったなどと。ショックという言葉で言い表されるものではない。

 どうする? どうすればいい? 幸い少し走れば周囲には人がいる。助けを求めることはできるだろう。今回の祭りは警邏として博麗の巫女も引っ張られてきて――。

「あの、その、稗田さん」

「あ、はい! 何でしょう?」〔に、逃げられない!?〕

「まだ時間はあるようですし、屋台を見ながら、人形劇の会場に行きませんか?」

「そ、そうですね」〔行くつもりなんだ――〕

 阿求は努めて冷静さをたぐり寄せる。

 確かにさとりは覚妖怪だが、『Surplus R』としてここにやってきたのであり、その目的は、阿求――『Initial A』と交わした手紙に書かれていたことであるはずだ。下手に刺激をしなければ、さとりとてあたら阿求に対して害をなすことはないだろう。

 そして考え方を切り替える。ある意味今この瞬間は、滅多に姿を現すことのない本物の覚妖怪の姿に迫る、またとない機会ではないか。幻想郷縁起のさとりの項目は、伝聞のみで書かれたものであり、その精度を高めるためにも、さとりとの接触は大きな意味を持つ。

 心を読まれるのはぞっとすることだが、慎重に対応すれば大丈夫なはずだ。阿求は、そうやって自分を奮い立たせた。

「じゃ、じゃあ、行きましょうか。この街道をまっすぐ進んでいけばすぐですので、何か飲み物でも買いながら行きましょう」〔何事もありませんように――〕

「ええ」

 阿求が橋の向こうの道を指さす。さとりは、ゆっくりと首を縦に振った。

 阿求はどこか駆け足で、池にかかる橋を進む。それを渡りきって少し歩けば、竹の広場に続く街道に入ることとなる。

 阿求の後にさとりが続く。しかし、その表情は、暗かった。

 ほんの数分前の幸せな心地は、既に消え失せていた。

 一寸先の明かりが見えない。そんな気分だ。さとりは重い足取りで、阿求の背中を追った。

溢れかえる人の流れの中を、阿求とさとりは肩を並べて進む。

 しかし、どちらも動きがぎこちない。阿求は、隣のさとりが腫れ物のたぐいであるかのような所作だ。一方さとりは、骨が鉛になったかのように一挙手一投足が鈍重である。

 竹の広場までまだ距離はある。二人は、待ち合わせ場所を移動し始めて以降、新たに言葉を交わしていない。

 とにかく気まずい。しかして、何を話していいか、阿求とさとりは互いに考えあぐねていた。

「あっ」

 そんな時だ。阿求は、青果店が開いているジュース売りの屋台を見つけた。先ほど飲み物を買おうと言った手前、丁度良いと判断した阿求は、さとりに声をかける。

「古明地さん、ジュースが売ってますから、何か買っていきませんか?」〔あ、でもお金は持ってるのかな〕

「あ、はい。人里の通貨は多少の持ち合わせがありますので」

「そ、そうですか」〔藪蛇だった――〕

 そうして二人は、難儀しつつも屋台に移動し、阿求はぶどうジュース、さとりはりんごジュースを注文する。

 屋台のジュースの提供の仕方はユニークで、あまり節同士が離れていない竹を節の部分で切り取り、節の片一方の仕切りを取って中に液体を入れる。そして、くり貫いた仕切りには少し穴を開けて、藁のストローが通るようにしてから元の位置にはめ直すという手を込んだ構造だった。

 これによって多少振ったりひっくり返したりする程度では、中身はほとんどこぼさずに持ち運べる。使い捨ての品としては少々工数の多い代物だが、コストと祭りでの使い勝手を考慮した結果行き着いたのあろう。店側も、できれば飲み終わったものは回収したいと言っていた。

 竹と果実のジュースというミスマッチはあるが、阿求とさとりは共にこの竹タンブラーを興味深く眺めた。

「竹というのはこういう風に使えるんですね……」

 特にさとりは、地底では竹製品が貴重であるため、このように手にすること自体が珍しい。

「人里から少し離れたところに竹林がありますから、竹製品はポピュラーですよ。こういう使い方は今年初めてみましたが」〔そもそも、地下って植物が育つんだろうか?〕

「……地底では竹は生えていませんからね。地上から取ってくるしかないのです」

「なるほど、ずずず」〔い、今のも心を読まれたのかしら〕

「……」

(まずい、どうしても口に出す言葉が相手の心を読んだ結果になってしまう)

 阿求とさとりは二、三言葉を交わしながら、それぞれ軽くストローを啜る。生搾りの甘酸っぱい果汁は喉の乾きを心地よく癒してくれるはずだが、どこか意識と感覚がずれてる気分だ。

 阿求は、ふと豊聡耳神子との会話を思い出す。あの仙人も、実質的に心を読める力を持っている。だがそれは、神子自身が取り入れた情報を自分で解釈した上でのものだ。かの仙人のペースのままだと、話がやりずらい。

 やりずらいが、逆に言えばペースにつきあわなければよいだけの話だ。

 しかし覚妖怪の場合、こちらの思考を直に知覚するため、即座の的確な対応ができる。それどころか、こちらが言わんとしていることを先に言われてしまうため、身動きがとれなくなってしまう。

 そのように阿求が分析という名の精神統一を図っている様を、さとりは横目で見るような感覚で伺っていた。フォーカスを合わせるのは相変わらず危険だが、阿求の表層意識を読みとるコツは掴んだ。

 それ故に、さとりは相手の思考を読んでペースを掴もうとする、己の習性を制御するのに難儀しているのだった。

 阿求が心を読まれることに恐怖と嫌悪を抱いているのは明白だ。当たり前だろう。普通は、さとりを前にしてこうなるのは自然なことなのだ。以前地上からやってきた巫女と魔女が、よほどの強靱な精神力の持ち主か、後先考えない馬鹿だったということが改めてわかった。

 ただ、さとりに阿求へ危害を加える意志は微塵もなかった。どうすれば、こちらに敵意や悪意がないことを安心して受け取ってもらえるか?

(……無理よ)

 そんなことができていれば、古明地姉妹は地下に潜ることもなく、妹のこいしは心を閉ざさなかった。さとりは内心歯噛みする。残念ながら、現時点でそれは夢物語と同義の愚問だった。

(人形劇まで、我慢してもらうしかない)

 阿求が危惧を抱くのは、実質さとりとふたりっきりであるというこの状況だ。周囲の人出は、今や膨大なノイズを通り越して、巨大な壁のようである。壁で囲まれた中に、二人はいるのだ。

 だが、人形劇が始まれば、二人とも意識は壇上に向かうはずだ。動かない限り、隣が誰であろうと関係がなくなる。

 それが、何か間違っているのは、さとりも自覚している。一緒に見るはずの人形劇が、お互いの存在を意識しないための口実になってしまうなど。

(何のために、私はここに来た?)

 それでも、仕様のないことだ、とさとりは悲しみと共に諦めるほかなかった。

 現実は、理想になってはくれないのか。

「あの……」「あの……」

 沈黙に耐えられなくなって、阿求とさとりは同時に声を掛け合った。そのタイミングができすぎていて、再び二人の動きは硬直する。

「こ、古明地さんの方からどうぞ」

「あ、はい。ええと……」

 しどろもどろで、さとりはその場を凌ぐ会話を始めた。

「稗田さんは、どういう経緯で『Surplus R』の小説を知りましたか?」

 さとりは、敢えて自分の小説とは言わなかった。殆どイコールではあったが、今やさとりにとって唯一の防壁は、小説家『Surplus R』というペンネームだからだ。

〔心を読めば分かるんじゃないの?〕「そうですね。私は、サービス最初期からバイオネットを使っておりまして、比較的多くの情報をはじめから手に入れられる環境だったんです。それで、サービス開始から一週間くらいで、人里の友人に教えて貰ったんです」

 さとりの質問に対する阿求の疑問は尤もだが、今のさとりに阿求の心を注意深く読むことは難しい。また、そもそもが場繋ぎのための問いかけである。

 答えてから、阿求はさとりの意図を理解した。確かに、今のぎくしゃくした状態を緩和させるには、いっそ会話を途切れさせない方が良い。

「私からも聴いていいですか? 小説を、書くようになったきっかけとか」〔そう、多分、他意はないんだ……〕

「これを言ったらがっかりされるかもしれませんが、暇つぶしから始めたんですよ。これでも、数百年生きてますから。その色々試した中で、読書と執筆が一番長く続いているんです」

「なるほど、長生きしている妖怪……特に、記憶が長く続かないことを自覚している妖怪は、自分の記憶や知識を残そうとする傾向にありますからね。そういうタイプが、本を書くのに向いているんでしょうか」〔でも自分で物語を創作する妖怪は、滅多に居ないなぁ〕

 物語を紡ぐということは、どちらかと言えば人間が妖怪に対抗するための手段だ。阿求は自身の記憶というデータベースを検索するが、さとりのようなケースは実際少ない。阿求は記憶した事柄を一切忘れないが、その脳内ではある程度の重要度付けがされており、そのランクが低いものは、思い出すのに時間がかかる。

 ――ザリ。

(……?)

 さとりは、こめかみに指を当てて記憶を掘り返す阿求の姿に、新たな違和感を覚えた。何故だろう、どうにか目を逸らすことで対処してきた、彼女の情報密度が、まるでさざ波のように動いているように感じられたからだ。

 しかし、さとりはそれを見なかったことにして、話を続ける。

「ええ、そうかもね。妖怪は自分達を認識して貰うために、あれやこれや手を尽くす。本という媒体は、その手段としては、もしかしたらとても優秀かもしれない……私は、そこまで意識しているわけではありませんが」

「実際、最後の手段として、書物に名前を残すことで生きながらえようとする妖怪も居ます。里には、そういった妖怪を記した本もあるんですよ。まぁ、大抵読めたものじゃないんですが」〔関係ないけど小鈴はいつから妖魔本を読めるようになったんだろう〕

 ――ザリザリ。

(まただ)

 さとりは再び違和感に襲われる。今度は、気のせいで済ませられるほど矮小ではなかった。不快だ。首筋に汗の玉が浮き出てくる。

「へ、へぇ、それは興味深いですね――」

「鈴奈庵という貸本屋兼本屋兼印刷屋で、私と同い年くらいの友人が店番を務めてまして、最近とみにそういう本を掘り当てるんですよ」〔変な外来の本もね〕

「旧都にはそういうのはないから――羨ましいです」

 ――ザリザリザリ!

 違和感は悪寒となって押し寄せる。それまで必死に耐えてきた祭りの喧噪が、ここぞとばかりに息を吹き返して、自分を押しつぶしにかかりだしたような気分だ。

(まずい、なにかまずい)

 指先が震える。舌が乾く。脂汗と冷や汗が止まらない。

 やめろ、見るな、離れろ。肉体の悲鳴が精神に向けて、乱暴に言語化を強要させる。

「とはいっても、紙の流通量が増えたとはいえ、まだまだ人里だって本が出回ってるわけではないです。紙さえあれば色々な情報を取り出せるバイオネットは、その点でも画期的だったんですよ」〔あれ、なんか古明地さんの顔色が?〕

 阿求は話し続ける。自分のペースを掴んだのか、彼女から過剰な恐怖心は感じられない。それはさとりにとって望ましいことだ。

 では、今さとりを襲う異常は? 引き寄せられる。太陽よりも直視してはならない、目の前の少女に、精神が引き摺りこまれる。

「あ、あ、あ、」

 軋む。軋む。軋む。一番最初に感じたあの衝撃。あれをもっと強く、もっと鈍くしたものが、さとりの精神を押しつぶす。

(だめ、だめ、このままでは――)

 見る間に、さとりの表情は歪んでいった。肌の色は病的どころではない蒼白で、瞳孔がぎらりと開く。

「!」〔様子がおかしい!〕

 その変貌を見ていた阿求に、再度恐怖が走る。先程まで、どうにかごまかし続けてきた不安が首をもたげてくる。

 そして、さとりに阿求を気遣う余裕はなかった。

 ただ、理解だけが先を走った。阿求の心を見ることが、何故負担になるのか。

この少女が記憶を引き出した瞬間を感じることで、疑問は氷解した。

 一度見たものを、決して忘れない程度の能力。

 人間にしろ、妖怪にしろ、記憶を持つ生命は忘却というフェイルセイフを有する。そうしなければ、精神が持たないのだ。

 顕在意識に知覚した情報全てを溜め込み、それを自在に引き出せるなど、さとりの常識では絶対に考えられないことだった。

 それを理解してしまったことが、さとりの不幸だった。心を読むという、覚妖怪の生存本能。それを見てはいけないと理解してしまっても、見てしまう、禁忌の誘蛾灯。

 覚妖怪にとって、御阿礼の子が常軌を逸した怪物である事実。

 だが同時に。

 そこには、食べても食べても無くならない、山盛りの言葉があるのだ。

 ――震えるさとりと視線がかち合った阿求は、恐怖の臨界点に達した。

 その目は幾度となく見た。この代ではなくても、先代も、その前の代も、絶対に目にしたことがあるはずだ。

 妖怪が、人間を獲物と認識した眼差し。

 転生によって九度失われても尚、魂の奥底に眠る記憶。それが今、時空を超えて阿求の潜在意識から沸き立ち、顕在意識から放射される。

「た――」

 稗田阿求の生存本能は、あらゆる状況判断をかなぐり捨てて。

「助けて!!」

 叫んだ。

 ――――――。

「――あ」

 だが、叫んですぐに、阿求は気付いた。

 前を見る。彼女の目の前に、彼女が己の記憶の井戸からくみ出したような恐怖の存在など、どこにも居ない。

 居たのは、表情を失い、瞳から一切の光を亡くし、か細く透き徹る少女だけだった。

「あ……」

 取り返しの付かないことをしてしまった、と理解することだけ、阿求は速かった。

 ――さて、阿求の叫びは、絶え間なく沸き立つ喧噪を一瞬だけでも引き裂く力があった。当然、人々は、何事かと阿求の方に振り向き出した。

 悲鳴を聞きつけ、叫びを上げた人物を認識し、誰かが駆けつけてくる。その過程はやけにスローモーションであった。少なくとも、二人の少女にとっては。

 水飴のような時間の中で、阿求は、なにかさとりに声を掛けようとした。

 だが、その前に。

 さとりは、ただ泣き笑い、そして一瞬で姿を消した。

 

「稗田のお嬢さん! どうしました!?」

 一番最初に阿求に駆け寄ったのは、自警団の青年だった。それから、ぞくぞくと、阿求を知る住人が集い、彼女を守るように周囲を囲っていく。

「何か、スリか狼藉者にでも会ったんです?」

 自警団の青年は、優しく阿求に尋ねた。

 阿求は答えない。答えられない。

 青年の言うような、スリや狼藉者は、あるいは祭り全体では居ることだろう。

 だがしかし、先程まで阿求が話していた相手は、そんな悪党ではない。

 心が読めるだけの、可哀想な女の子。

 阿求は、茫然と視線を落とす。

 地面に竹のタンブラーと紙が落ちている。タンブラーの隙間からじんわりとりんごジュースが零れて、『Initial A』のサインが書かれた札を滲ませた。


 
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