粛々と作業が進められた。息を引き取った女性は、丁重に運ばれていく。自分の天幕に一人残った桃香は、座ったまま呆然としている。助けることの出来なかった無力感に包まれ、その場から動くことが出来ないでいた。
侍女たちも気を遣ったのだろう。天幕には人払いをし、そっとしておいてくれた。それがいつもの対応なのだが、今回は災いとなった。
「誰?」
外に気配を感じ、桃香が声を掛ける。カチャリと鎧の音が聞こえた。見回りの兵士だろうか、そう思っていると天幕の入り口がゆっくりと開く。顔を覗かせたのは、暗い目つきの男だ。
見覚えがある……桃香が考えていると、男は鞘から抜いた剣を持って入ってきた。
「――!」
驚いて身を引いた桃香は、直後に思い出す。この男は、さきほどの女性の夫だ。
「どうして、助けてくれなかった?」
泣いていた。男は怒りに震えながら、涙を流していた。
「どうして! どうして妻を助けてくれなかった!」
「も、もう手遅れだったの。毒が全身に回っていて、私にはどうすることも……」
「何のために、お前の言う通りにしたと思うんだ? 助けてくれると信じたからじゃないのか! こんな危険な行軍に妻を同行するなんて、だから止めろと言ったんだ。だが妻は、お前を信じてこんなところまで来たんだぞ! それなのに」
男は我を失っていた。やり場のない怒りをぶつけるように、桃香に向かって剣を振り上げる。丸腰の桃香に、逃れるすべはない。
(もう、いいかな)
桃香はそっと目を閉じ、覚悟を決めた。
徒労感に包まれながら、桃香はその時を待った。ひとおもいに死ねるなら、それもいいかも知れない。
「死ね!」
男の声が聞こえ、耳元で鈍い音が鳴った。何度も聞いた剣戟の音である。桃香は恐る恐る目を開けた。そこには、桔梗が自分の剣で男の攻撃を防いでいたのだ。
「己の進むべき道は、己で決めるべきだろう。逆恨みで主を殺めようなどとは、許されぬことだ。本来ならこの場で切り捨てるところだが、桃香殿がそれを望むまい。しばらく、頭を冷やすがよい! 誰か! こいつを連れて行け!」
桔梗が叫ぶと、兵士が二人、天幕の中に入ってくる。そして、男を乱暴に外に連れ出して行った。桃香は黙ったままその様子をぼんやりと、どこか人ごとのように眺めていると、桔梗が軽くその頬を打った。
「――!」
「桃香殿、なぜ抗わなかったのじゃ?」
「えっ……」
「助けを呼ぶことも、攻撃を避けることも出来たはず。なのに桃香殿は、あの瞬間、生きることを諦めていた」
桔梗の指摘に、桃香は何も言えずにうつむく。
「おぬしの信じるものは、その程度のものなのか? 逆恨みをした男に踏みにじられるほどの、安っぽいものなのか?」
「……違う。私は、みんなが笑える国にしたかった。ただ、それだけなのに」
拳を握り震える桃香の横に、桔梗は腰を下ろした。そして息を吐くと、今までよりも優しい声色でゆっくりと話し始めたのである。
「ワシも昔はある貴族に仕えておってな、毎日が戦いの日々で、心の安まる時がなかった。そのうち戦うことが嫌になり、ワシは軍を辞めて放浪を始めたのじゃ。とはいえ、路銀を得るためには何かせねばならん。結局、再び剣を取って賞金稼ぎなどする日々になったのじゃよ」
「……」
「嫌だ、嫌だと言いつつも、ここに帰ってきてしまう。それがワシに染みついた、宿命とでもいうのかの。唯一の救いは、少なからず人助けになっておることじゃろうか。賞金を受け取るとはいえ、悪党を倒せば感謝される。感謝されれば、ワシのような者でも嬉しく感じるものじゃ」
桃香は黙ったまま、桔梗の話に耳を傾けていた。
「桃香殿の治癒術を、ワシの剣と同列に語るのは恐縮するがの、染みついたものというのは似ておるのじゃないかな? 投げ出したいくらい嫌なのに、結局、戻ってくる。辛い思いをして、それでも再び手にしてしまうほどのものだからこそ、己の信念になり得るのではないか? 桃香殿とて、治癒術のせいで責められたことは初めてではあるまい」
「……うん。今までも、助けられない人がいて、その家族に責められたことがあったよ。仕方がないとは思っても、やっぱり辛いよね」
「じゃが、桃香殿はなおも治癒術を捨てられない。同じ苦しみを繰り返し、それでも続けようとするほどの強い意思があるのなら、そこから逃げないで欲しいのじゃ」
「……」
堪えきれないように、桃香は膝を抱えてすすり泣いた。
「私……助けたかったの……みんな……みんなが幸せになれるように……私は、ただ……」
多くの怪我人や病人を診てきた。苦しむ姿に胸が痛んだが、救えた時の喜びはその何倍も大きい。だからこそ、今まで挫けずに続けてこれたのだと桃香は思う。
「ただでさえ大変なところに、領主としての責任も背負わねばならん。じゃから、弱音を吐くのもよい。後ろ向きになるのも構わない。じゃが、諦めるのだけはしないで欲しい。それが、従う者すべての願いでもあるのじゃよ」
「桔梗さん……」
「縁あって、こうしてともに戦っている。話を聞くことくらいしか出来ぬが、何か心につかえるものがあるなら、いつでも声を掛けてくれ」
桔梗はそう言いながら、優しく桃香の頭を撫でた。
「私、もう子供じゃないよ」
そう言いながらも、桃香は嬉しそうに目を細めた。
まだ、心のすべてが晴れたわけではない。それでも今は、ほんの少しだけ暖かな気持ちに包まれていた。
木陰に身を潜め、月、詠、天和、地和の四人は長安の様子を伺っていた。とはいえ、ここからでは城壁すらも遠く、中の様子などわかるはずもない。
「もう、占領されちゃったのかな?」
天和が不安そうに漏らす。長安の周辺では、オーク兵があちこちで見回りをしていたのだ。そのため、近づくことが出来ない。
「恋たちはどうしたのかしら? さすがに捕まってはいないと思うけど」
「ご主人様と真桜ちゃんたちも、もう到着したのかな?」
詠と月が心配する気持ちを抑えきれずに、落ち着かない様子で手を握り合っている。
「大丈夫よ、一刀は強いんだから!」
「そうそう」
地和が力説する言葉に、姉の天和も同調する。ともに、一刀に対する絶大の信頼があった。離れて久しいが、未だに一刀に助けられた時の事を思い出すと胸が熱くなるのである。
やがて、近くの集落に行っていた人和が帰ってきた。
「どうやら劉備軍は、長安の住民を連れて南下したようです」
「南下……まさか、漢中に?」
人和の言葉に、詠が驚きの声を上げる。
「あそこは『星見の里』と呼ばれる、排他的で知られる場所じゃない。でも、他に劉備軍が身を寄せる場所なんてあったかしら……」
「噂では、賢者が来訪したみたいね。ともに逃げる住民が話していたのを聞いていた人がいたわ」
「それじゃ、ついに臥竜鳳雛が動いたのね!?」
「何、それ?」
地和が詠に尋ねた。
「『星見の里』のさらに山深くに隠遁している、諸葛亮と鳳統の事よ。仙人とも呼ばれる水鏡の唯一の弟子でもある二人。天と地を眺め、世の中が大きく動く時に現れるとも言われている天才よ」
「ふーん。つまり、今こそ世の中が大きく動く時ってことね」
詠は腕を組み、何か考え事に沈む。
「それでー、結局、これからどうするの?」
天和が溜息とともに言うと、詠が宣言するように言った。
「漢中に向かいましょう」
「でも、一刀は恋ちゃんを追って、きっと涼州だよ?」
「この警戒の中、涼州に向かうのは無理よ。かといって、この場にとどまる事も難しい。となれば、とりあえず劉備軍に合流する方がいいと思うの。ねえ、どうかな月?」
「……うん、詠ちゃんに任せる」
月の決定で、全員はオーク兵に見つからぬよう、その場を離れた。
近くに止めてあった馬車に乗り込み、劉備軍を追って漢中を目指す。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。