ホームルームでプリントが配られた。忘れてた。まずい。『修学旅行について』と書かれたそれは、俺にツメの甘さを思い出させた。
帰り道、俺は準備のないまま真奈美さんに、それを聞くことになった。
「修学旅行、どうするの?」
「……」
真奈美さんは、うつむいたままだ。前髪が邪魔で顔色は見えないけれど、血色がいいわけがない。これまでの作戦が、どうやって機能していたのかは真奈美さんも知っている。修学旅行では、女子と男子が完全に分断される状況が少なからず発生する。さらに、学校とは違って荷物を常に全部持ち歩くわけにはいかない。つまり、真奈美さんをいじめていた女子グループが他のクラスメイトの目の届かないところで、またちょっかいを出してくる可能性がある。
対イジメ戦略としては、修学旅行に行くべきじゃない。いや、たとえイジメが発生しないとしても行くべきじゃない。
真奈美さんは朝、家を出てから学校に近づくにつれて直進性が悪くなり、足を踏み出すテンポも悪くなる。電車から降りて、他の生徒が周りにいなくなるとほっとした瞳を向けてくる。朝八時三〇分から午後四時までの八時間弱ですら、真奈美さんにとっては息を止めて水の中にもぐりじっと息を止めて耐えているに等しいのだ。
三泊四日ということは、四日間自宅に帰れないということだ。イジメが起こらなくても、真奈美さんが耐えられるかと言えば、難しいとしか言いようがない。
「……行きたい…けど」
たっぷり十五分かけて、それだけを口にした。そして、また黙る。
そうだよな。
卒業アルバムが配られたときに、自分のいない修学旅行のページがあるのは辛い。後々まで辛い。もっとも、真奈美さんが高校時代の思い出に浸ることがあるのか自体も疑問だけど…。
辛い思い出は、ない方がマシなのか?
黙ったまま、市瀬家への道を歩く。到着する。
「ちょっと、あがっていってもいい?」
「…え…う、うん」
美沙ちゃんに避けられて以来、上がっていなかった市瀬邸二階にあがる。
相変わらず、真奈美さんの元汚部屋はCGのごとき綺麗さだ。この部屋なら、床にならべた刺身を箸でつまんで食べられるんじゃないかと思う。他にすることもない。また、漫画見せてもらおう。真奈美さんの部屋は漫画と文庫本がふんだんにあって時間をつぶす方法にはことかかない。
「お茶…もってくるね」
「おかまいなくー」
お、恐竜モノ漫画か?珍しいな…そう思って『ブルーワールド』という漫画を手にとる。
トレイにティーポットとカップを載せて、真奈美さんが戻ってきた。俺はブルーホールを通って、ジュラ紀世界へ入るところだ。
「その漫画、すごいよね」
「うん…すごい」
こんな漫画、読んだことがない。SF小説と映画を丸ごと漫画にしたみたいだ。漫画でこんなことができるのか…。真奈美さんが、紅茶をカップに注いでくれる。いい香りが漂う。真奈美さんは、本当に飲み物や食べ物を用意するのが上手だ。
「クッキー、焼いたの。た、食べて」
「え…それ、真奈美さん作ったの?」
「うん…。冬になっちゃうとバターが硬くなって、作るの大変になるから、その前に作っておきたくて」
菓子器に盛られたクッキーを一つ、つまむ。さくっ。むむ…。期待通りの美味しさ。真奈美さん、接客さえ何とかすれば喫茶店とかできるよ。本当に。
「期待通り、おいしいな」
「…ありが…とう」
絶品クッキーにちょっと失礼だけど、漫画から目を離さないで、一つ二つとつまむ。漫画が面白すぎる。というか真奈美さん、漫画のチョイス渋すぎるぞ。この漫画、どこで見つけてきたんだ。
「真奈美さん…」
「うん」
「…修学旅行。行かないほうがいいんじゃないか」
正直、俺はちょっと怖い。修学旅行でまたダメージを食ったら、こんどこそ復帰できなくなる気がする。最初は俺は妹と美沙ちゃんに巻き込まれただけだったけど、今、真奈美さんは俺の問題だ。
「…そう…だよね」
真奈美さんの声音は、ニュータイプにしかわからないくらいしか変わらないが、俺はニュータイプなので分かる。今、真奈美さんは落ち込んだ。
「でも、行くなら…できることはするよ。たいしたことはできないけど。別のクラスだけど」
「……」
なれないことを言った。トリスタン・ブルーホールを目指す主人公たちに感化されていたのだと思う。漫画を読んで、その気になってかっこいいことを言っちゃうことってあるよね。
のし。
真奈美さんが背中からのしかかってきた。温かさと重さ。
「…ありが…とう……………き」
耳元でささやかれているにもかかわらず、最後の方は聞き取れない。とにかく、真奈美さんは行くつもりなのだろう。修学旅行に。俺はできることをする。言ってしまったことは、引っ込まない。ブルーワールド三巻目を手に取る。ジュラ紀世界の暴力の中を生き延びようとする主人公たちと、絶滅の運命にあっても必死に生きる古代生物を見て涙を流す学者たちが印象的だ。
俺の背中にも、必死に学生世界を生き延びようとするか弱くも強い生物がいる。ヤシガニー・マナミンクス・イチノセシス。
俺の背中にのしかかったまま寝息を立て始めた真奈美さんをベッドにおいて、そっとおいとますることにした。
「きゃっ」
ドアを開けると、天使が廊下に転がった。美沙ちゃんだ。ドアによりかかっていたらしい。久しぶりの至近距離の美沙ちゃんだ。あ。やばい。
「…っ!」
美沙ちゃんがあわてて、半分捲れたスカートを直す。
「い、嫌らしい目で見ないでください!変態!」
「…ご、ごめん」
怒られているのがわかっていたのに、目がそっちに行ってしまった。たしかに俺が悪い。男の本能による不随意反応は理性を凌駕する。
「……」
美沙ちゃんの瞳が揺れてる。怒りにゆれている。ひええ。
「…あ、姉の部屋でなにをしてたんですか!」
「お茶飲んで、クッキー食べて、漫画読んでた」
陵辱も調教もしていない。まして姉妹輪姦などしていない。信じて欲しい。切迫の祈りをこめる。
「……じ、自分の家でやればいいのに…」
つまり『(陵辱や調教は)自分の家で(エロゲ内で)やればいいのに』という意味だ。信じてもらえなかった。通報されないのが、せめてもの情けだ。
「はい。帰ります」
もう、それしか言えない。
「…あっ。ちょ…」
後ろを向いた俺に声がかかる。『やっぱり通報するんで、おまわりさん来るまで待ってろ』と言われるのだろうか。
「なに?」
俺を呼び止めておいて美沙ちゃんは、ぷいっと向こうを向いて部屋の中に入ってしまった。なんなんだ?しかたないけどね。最近、すこしあきらめることを覚えてきた。
こうして、人は達観していくのかと思う。いつか、全部をあきらめて悩まなくなるのかな。あ、そうか。それが不惑ってやつか。四十歳とかはるか未来だな。そりゃ、悩まなくもなるだろ。四十になったおっさんは、女の子に近づくだけで犯罪になるんだから悩まなくなる。選択肢がなければ悩まない。可愛い女の子にとって、中年男という言葉には蔑みの響きがある。考えてみると酷い話だ。男は、早死にしない限り百パーセント中年男になるのだ。不惑とは達観で、あきらめなのだ。俺もいつか中年男か死体になる。
そんな後ろ向きな未来を見ながら、階段を下りる。
だめだな。
美沙ちゃんのことが精神にダメージを与えていて、前向きさを失っている。気をつけよう。
「あらー。直人くん、来てたの?ご飯食べてく?もう少しだから」
「あ、いや。もう帰るところです」
「そう?いつでも遊びに来てね」
お母さんはそう言って下さるが、美沙ちゃんが歓迎してくださらないのだ。それにしても、相変わらず美人のお母さんだ。市瀬家の遺伝子は神の遺伝子だな。
外は薄暗くなっていた。日が短くなった。日の落ちた町の空気は少しひんやりとして、秋の空気だ。回り道をして、児童公園に立ち寄る。今日は静かだ。
真奈美さん。修学旅行に行くのか…。
臆病者の俺には、臆病者なりの知恵を使うしかない。いつか真奈美さんの顔を見た遊具にのぼって、ない知恵を絞る。携帯電話を取り出す。頼る先さえあれば便利な機械である。真奈美さんは、持っていない便利な機械だ。
「あ、佐々木先生?」
『…あら。直人くん、なぁに?今、丁度、直人君をモデルにした主人公のエロ漫画のネーム描いてたとこなの』
「また、後でかけます」
電話を切った。なかなか見ないタイプのセクハラをされた。というか、現在進行形でセクハラされていると思う。まさか次の冬コミでは、その漫画を売りに行くのか?俺が荷物もちをして…。息の長いセクハラだ。
聞かなかったことにして電車に乗る。自宅に帰る。
「にーくん。対戦するっすー」
夕食の後、妹が格ゲーの対戦を申し込んできた。そうだ。すっかり忘れていたが、ニュータイプ能力で、妹をけちょんけちょんに出来るかどうかを試すはずだったのだ。
「ニュータイプの俺に挑むとはいい度胸だ」
「ニュータイプといえども体を使うことは、訓練しなくてはなのっすよー」
ゲームは体を使わないだろ。ゲームが起動し、キャラクターセレクト画面に進む。
「あ、巨乳キャラ選んでっすー」
相変わらず、格闘ゲームで巨乳に復讐するのか?そうか。そんなに巨乳が憎いか…。そろそろ、妹が可哀想になってきた。妹は、大きなトカゲキャラを選択する。人間じゃないのかよ。両手に骨付き肉を持ったトカゲと、セクシーな巨乳姉ちゃんが画面内で対峙する。
ファイト。
ステップアウト。次は上だ。む、こいつ大技を出すぞ。ジャブっ。おお。見えるぞ。私にも敵が見える。
「うおー。なんで、片っ端から先読みされるっすかー!?」
マジなのか?俺のニュータイプ能力はマジなのか?やべぇ。高校二年生にもなって、中二病を発病しそうだ。だってなんだか知らないけど、今日は面白いほど妹の攻撃が先読みできるぞ。
「うぐぐぉー。ぎぎぎぎぎぎ、きょ、巨乳めぇー。乳がでかけりゃエロいとでも思ってるっすかー」
巨乳キャラにやられた妹が、恐ろしい表情で画面をにらんでいる。おっぱいが大きいのは、あきらかにエロいと思ったが、指摘したらすごく反撃されそうなので心のうちに秘める。
「も、もう一戦やるっすーっ!くそぉ…巨乳めぇ!ぶっ殺すぅー。ぎぎぎ」
負けてあげたほうがいいのだろうか。
うわっ。
今度は駄目だ。ぜんぜん、先が読めないどころか集中できない。
「死ねぇー。このおっぱいーっ。死ねーっ」
隣でおっぱいおっぱい絶叫する女子高生がいて、集中できない。
「ほらほらぁ。このおっぱいめーっ。肉棒くらえーっ。肉棒ぉーアターックっ!」
隣でけしからんことを絶叫する女子高生がいて、本当に集中できない。
画面内で、トカゲが骨付き肉で巨乳お姉さんを殴打した。負けた。
「みたかぁー。このおっぱいめー。ざまみろ、おっぱいー。ぐはははは」
妹が楽しそうでなによりである。でも、おっぱいとか肉棒とか絶叫するのやめような。あと、女の子の笑い方で『ぐはははは』も微妙にどうかと思う。
部屋に戻ると、九時半だった。ちょうどいい時間かな。
携帯電話を取り出して、リダイヤルする。
「あ、佐々木先生?」
『先生に電話?それともつばめちゃんに電話』
「…両方かな」
『公私混同はなるべく避けているんだけど…』
そうだな、これからする相談は先生には対応しづらい相談な気がする。年上の友達の方が話しやすい。
「…じゃあ、つばめちゃん」
『うん。なぁに?』
声が、少し変わる。つばめちゃんなときは、少し年齢が下がる気がする。ガードが下がるというか…俺に年齢が近づく。リアル年齢は三十路だけど。
「真奈美さん、修学旅行行きたいってさ」
『へぇー』
「それで…」
公園で考えていたことを口にする。当然、それには他の生徒の悪口や呪詛も含まれている。佐々木先生だと聞きづらい内容だ。でも、つばめちゃんなら一緒になって聞いてくれる。
でも、実際に手助けが欲しいのは佐々木先生なわけで、なかなかに難しい。これが、つばめちゃんが佐々木先生とは別の人だったら佐々木先生もやりやすいだろうけど…。佐々木先生は佐々木つばめちゃんなので、友達として聞いたことで先生を変えるわけにはいかない。
『直人くんは、男の子のくせによくもまぁ、そこまで女の子のイジメを想像できるのねぇ…』
「外れてますかね?」
『当たってると思うわ。女の子がイジメるなら、そうするわ』
確度が上がってしまった。できれば外れていて欲しいと思う予想だったが、
『最初の…』
「はい」
『班分けで、わざわざ市瀬さんを自分たちの班に入れて判別行動や部屋で虐めるってのだけど…。市瀬さんが特殊ってのは、みんな分かってるから「市瀬さんは、先生と一緒に行きましょう」ってのは出来ると思う。だけど…』
声が佐々木先生に戻ってる。自分でもうまく切り替えられてるわけじゃないのか。
「それは、あんまり…」
俺は自分でそう言いつつ、一方で、ダメージを受けるよりいいんじゃないかなとも思っている。
『そうね。それをしたら、このあと、ずっと一歩引かれて過ごすことになっちゃうものね』
「ですよね」
それを教室でどうするか聞くだけでもだめだ。
『他の生徒には悪いけど、出席番号順で班を決めちゃおうかしら…』
「だめですよ。きっと虐めているグループには出席番号の近い人が含まれています。そうでなければ、一年生の最初の一週間で保健室登校になるわけがない。一年の一学期にも近くに座っていたんだ」
『おー。すごい。直人くん、名探偵ね』
「これが、すぐにひらめいていたら名探偵なんですけどね」
二ヶ月くらいずっと考えていた。真奈美さんを虐めてたバカはどこの誰なのか。二ヶ月も考えれば性能の悪い俺の頭でも、だいたいの相手くらいは想像がつく。それこそ本当に陵辱調教してやりたいくらいだが、こっちが退学になる。臆病者の俺は、そんなことをする勇気がない。
『んー。もー。直人くん、真奈美さんと結婚しちゃえ。もしくは私と』
つばめちゃんになった。
「どっちとも、しません」
きっぱり。
『それと、もう一つの…市瀬さんに旅行中も逃げ場が欲しいってのだけど、教師もけっこう相部屋だから難しいのよねぇ』
「そうですか」
学校の教師というのは、思いのほか役立たずだ。
『役立たずでごめんねー』
なぜばれたし。
『でも、宿での逃げ場は大丈夫よ。事情を話して、直人君の部屋の監視は緩くしておいてあげるからロビーとかに抜け出しちゃっていいわよ』
「なんで、それが解決になるのか良くわからないんですけど」
『名探偵のくせにわかんないの?市瀬さんは、直人君にしがみついたりすれば、どこにいても大丈夫よ』
「…そうかな?」
思い当たる節はないわけじゃないけど、それを旅行中にしたら、なんか修学旅行で逢引してるみたいじゃないかな。とはいえ、手段を選んでいる場合じゃないか…。
『直人くん…』
佐々木先生でも、つばめちゃんでもない真面目な声。
『…どうしようもないとき。直人君も、少し悪いうわさに立ち向かう覚悟はある?正直、直人君は巻き込まれただけじゃない?』
「きっかけはどうあれ、投げ出せませんし…。まぁ、少々なら…。いや、まぁ、もう手遅れだし、そういう時は選んでる状況じゃないか…」
『優柔不断なんだか、覚悟が決まっているのかわからないセリフね。漫画にはつかえないなぁ』
そっちかよ。
『覚悟完了!とか言えない?リアルで聞いてみたいっ!』
完全につばめちゃんモードになってる。
「覚悟は準備中です。ありがとうございました」
ぴっ。通話終了。
翌日。ロングホームルームの時間は、修学旅行中のグループ決めに使われた。グループと言っても、基本的には二日目の奈良と、三日目の広島での自由時間にしか使われない。あとは、宿で男女に別れて二グループずつ相部屋になるくらいか…。基本、男女三人ずつの六人のグループになる。
「まぁ、俺らは俺らでいいだろ」
上野が当たり前だといわんばかりにこっちをみる。
「んだな」
「でしょーな」
俺と橋本がダルく答える。つるんでいる人数が三人だと悩まなくて済む。さて、あとはどの女子三人と組むかだが…。
「人望あるハッピー橋本さん。東雲さんなどどうでしょうな?」
上野がハッピーを上手に使おうとしている。東雲史子は、おっぱいが超でかい。Fはある。多少、頭がゆるいところがあるが、それがまたいい感じだ。一緒に自由行動時間を歩くには悪くない。
「悪くないな。人望ある橋本さん、突撃してきてください」
俺も同意だ。
「俺は、ちょっと駄目だ。いや、東雲さんは良いんだが…」
橋本が渋る。視線の先を見て、俺もそれに気づく。Fカップ癒し系東雲さんの横には、三島ロケット由香里がいる。
「ああ、やめておこう。五島さんとこにしておくか」
つかつかつかつか。大またで三島がこちらに一直線に近づいてくる。やめていたんだから、わざわざ来ないでくれないかな。
「なにこっちみて、ひそひそやってんのよ」
「やってません」
「やめました」
「およびじゃない」
こちらのグループは意見の統一がとれている。よく統率されたチームだ。
「丁度いいわ。一緒のグループに入れてあげる」
「けっこうです」
「ご遠慮もうしあげます」
「間に合ってます」
冗談ではない。モラルがチタンフレームに詰め込まれている超音速ロケットと一緒の自由行動とか、まったくもって息苦しい。成層圏に打ち上げられたような息苦しさのはずだ。
「間に合ってないでしょ。他に、どこのグループと一緒に行く気だったのよ」
「五島さんと」
「武藤さんと」
「七見さんのグループなどを考慮しておりました」
七見さんは、スレンダー美人でなかなかよろしい。
「あんたたち、失礼よ。いいかげんにしなさい。私たちと一緒のグループでいいわね。ほら、ここに名前書いておくからね」
「勝手な」
「まねを」
「するんじゃない」
「橋本、あんた下の名前なんだっけ?あと、上野も」
一番上の欄に、さらさらと『二宮直人』と書きやがった。こういうとき、簡単な漢字は損だ。覚えられている。
「黙秘します」
「黙秘します」
「……」
三島は残った二つの枠に、黙って「上野」と「橋本」と書いて教卓のほうに向かう。考えてみたら、それで十分だ。同姓はこのクラスにいない。特に珍しい名前でもないが、佐藤みたいにかぶるような名前でもない。下の名前を聞いたことこそ、純粋に礼儀の問題だった。
「二宮…」
「…お前のせいだ」
上野とアンハッピー橋本がにらみつけてくる。
「なんで、そういうことになるんだ?」
「お前が、ロケットに目をつけられているからだ」
「三島はお前に任せた。俺たちは、東雲さんと八代さんと楽しくやる」
統率の取れていた俺たちのグループは、瞬く間に内部分裂した。
帰り道。
真奈美さんの直進性が著しく失われていた。危なっかしいので襟首を掴んで方向修正していたら、どうにも懲罰チックな見た目になった。あきらめて手を繋ぐことにした。やはり、恐れていた通りのグループ分けになったのだろう。畜生、こういう予想は外れていいのに。それにしても…。よく我慢した。よく漏らしもせず、吐きもせず耐えた。真奈美さんは本当に強い。かなわない。
「真奈美さんは、強いなぁ。よく、耐えた…」
ふいっと、前髪の間の目がこちらを向く。怯えきった目。だけど、耐えた目だ。
「強いなぁ…」
もう一度つぶやく。繋いだ手が、ほんの少し強く握り返される。強い、手だ。さっきまで本当に、まだ修学旅行に行くつもりなのかをたずねるつもりでいた。手が答えを返している。真奈美さんは、来週修学旅行に行く。背中を丸めて、荷物を抱きしめて、前髪で顔を隠して、それでも自分の足でバスに乗り込んで修学旅行に行く。自分の足で、だれよりも強い意志で、四日間の大冒険に出る。俺も、できることはする。手を握ることで伝える。
電車に乗る。二駅。十二分。電車を降りる。
歩く。今日は、手を離さない。一歩ずつ、真奈美さんの足取りが戻ってくる。よかった。
「明日の土曜日さ」
「…うん」
「買い物、行く?修学旅行で必要なものとかさ」
「うん。行く…あ、朝…なおとくんの家に…行くね」
「じゃあ、明日の朝」
「うん」
そう言って、市瀬家のドアが閉まる。俺は、駅にUターン。
うわっ。
振り向いた瞬間、美沙ちゃんと対峙した。あたりまえだ。同じような時間に学校が終わって、ここは美沙ちゃんの家の前なのだ。今まで、こういうことにならなかった方がおかしかった。
氷の視線。綺麗な顔だから冷たい目も似合うのだけど、胃に悪い。うう…。
「…だれが、買い物のお世話まで頼みましたか。変態。姉のパンツとか買いに行く気ですか。変態」
特殊な趣味の人ならご褒美になるほどの冷たい声音だった。ぎゃううーっ。
返答を待たずに美沙ちゃんは家の中に入ってしまう。ひどい。
俺、マジで死にそう。小さな悪意で死にそうなチキンは、真奈美さんの強さの欠片が欲しい。
翌朝、六時半。ニュータイプの勘が呼ぶので、自宅のドアを開けると、やはり玄関先に真奈美さんが座っていた。
「…す、少し早く来すぎちゃった…から」
少しじゃない。十時ごろの約束だったから、三時間くらい早い。
「中に入っていいよ…。あ、家族はまだ寝てるから、静かにね」
言わなくとも、ステルス真奈美さんはいつも、足音一つ立てない。今日も空中を浮いているんじゃないかという無音さで階段を上がって、俺の部屋に入る。
あ、しまった。
起き抜けのままのベッドが、ちょっと恥かしい。しかもベッドの上は真奈美さんのお気に入りポジション。今日もためらいなくベッドの上に這い上がって枕を抱えて体育座り…から丸まったまま横になる。ごろん。
「……ふふ」
楽しそうだな。
「なおとくんの、匂い…する…」
シーツに顔をすりするするのやめて。恥かしい。
「朝ごはんは、食べてきたの?」
「うん…ホットサンド作って、食べた…」
何時に起きたんだ。
「そっか、俺、まだだからちょっと待っててね」
むく。真奈美さんが、ベッドの上で体を起こす。
「…お台所借りてよければ、なにか作るよ」
真奈美さんの朝食か、それは楽しみな気がする。遠慮する理由はない。ぜひお願いしたい。
台所で、真奈美さんがボウルに卵と砂糖と牛乳、それに蜂蜜を入れてかき混ぜ始める。コンロにフライパンをかけてバターを溶かしながら、四つ切にしたパンを耐熱容器の中でボウルの中身に浸す。驚くべき手際の良さだ。
「時間がないから…あんまり美味しく作れないかも…」
そんなことを言いながら、パンならべた容器をレンジにかける。そして、すぐに取り出してフライパンでパンを焼いていく。甘い香りが漂う。すでに美味そうだ。
とんとんと階段を降りてくる音が聞こえた。
「あら。直人…。あらら、真奈美さん。来てたの?早いわね」
「……ま…す」
「真奈美さんは『おじゃましてます』と言ってるよ。母さん」
「彼女に朝食を作らせるとか、あんた、いい身分ねぇ…」
彼女ではないんだが…。だが、そんなことを言うと『彼女以外に朝食を作らせるとか、死ねば?』とか言われるから、黙る。
母さんを見た真奈美さんが、次のパンをまた浸してレンジに入れる。
「なんか、いい匂いがするっすー」
寝癖爆発ヘアーの妹も降りてきた。面倒くさい奴が降りてきたぞ。
「……ちょ、ちょうど…よかった、す、少し余分に出来ちゃう…から…」
そういいながら、一皿目が出来上がって、俺の前に運ばれてくる。丁度コーヒーメーカーのコーヒーも出来上がった。真奈美コーヒーは豆と挽き器がない俺の家ではできない。
「えっと…これは?」
「あら。フレンチトースト?」
そういう食べ物でしたか。うちは和食ばかりだから、こんな朝食は食べたことがなかった。
「いただきます」
うまー。
サクサク甘くて、美味くて、血液に滋養が染み込む味だ。真奈美さん、すげー。
二皿目が出来た。母さんの前に出される。母さんが、妹に譲る。
「真菜、先にいいわよ」
「いただくっすー」
サクッ。
「むおっ!うまーっ!」
だよな。妹も感激してる。
三皿目。今度こそ、母さんの分と思ったら、親父が起きてきた。へんなところで古風な母さんは親父に譲る。親父…いつもは昼まで寝てるくせに。匂いにつられて起きてくるとか、うちの家族は動物か。
「お、直人の彼女の手料理か?」
「彼女じゃないっすよー。パパっちー」
妹が代わりに否定してくれるが、余計なお世話だ。
「彼女じゃない女の子を家に呼びつけて、朝食作らせてるの?あんた?」
ほれみろ。事実はいつも誤解を生む。歴史も証明してる。真奈美さん、早く甘くて美味しいフレンチトーストで母の機嫌を回復させてくれ。
四皿目。
「あら…」
母さんも、声を失う。絶品なのだ。
「…も、もう少し時間があったら…もう少し美味しくできたんだけ…ど」
真奈美さんが、まるまってボソボソと言う。
「もう少し時間があったら、どうしたの?」
これ以上、なにをするというのか。美味すぎるぞ。
「…前の日から、パンを漬けておくの…きょ、今日は時間なかったから、レンジで横着しちゃった…の…途中で一度ひっくり返して…あ、あとバニラエッセンスとシナモンをちょっと使って…」
朝食二十四時間がかりかよ。
そういいながらも、真奈美さんは使った調理器具をさっさか洗っている。台所に立つと、動きに無駄がなくなる真奈美さんである。台ふきんまでつかって、台所まですっかり綺麗さっぱりだ。家事能力高すぎる。あれか、家から出ないでいた期間のどこかで練習してたのか?そのわりには汚部屋にしてたけど。
二階から、おどろおどろしいマイナーコードの曲が聞こえてきた。
「あ、わたしの携帯っすー」
妹がぱたぱたと階段を上がっていく。こら。自分の食べた食器くらい洗っていけ。真奈美さんを見習え…あ、見習わなくていい…途中に引きこもりを経由してるから。
「ま、まだ時間あるし、俺の部屋に行こう」
真奈美さんを連れて上にあがる。このままダイニングにいると、母さんと親父が要らないことを言い出す。嫁に来いとか、そういうことを…。真奈美さんの異能級家事能力は、両親には毒だ。
「あらー。美味しいご飯食べさせてもらったんだから、ちゃんとサービスするのよ。直人。」
母さんが早くも、超要らないことを言い出した。シャラップ。っていうか、こういうところは、あの妹の母親だよな。
「ふぅー。ありがとな。家族の分まで作ってもらっちゃって」
「…ううん…りょ、料理は好きだから…」
「そっか」
むぎゅ。
うわ。抱きつかれた。不意打ち。柔らかくて、温かくて、華奢。甘い匂いはフレンチトーストとはちょっと違うな。
「な、なに?真奈美さん?」
「…サービス…して」
ほら、母さんがよけいなことを言うから。一瞬だけ、俺のエロゲ脳がエロ漫画展開の『サービス』を連想したけど真奈美さんは現実だ。背中をそっとさすってみたりする。サービスになってる?サービスしているのか、されているのか…。されているだな。これは。
「そうだ。今日、買うもののリストを作ろう」
「…うん」
買い物はリストを作らずに行くと、よけいなものを買ってガラクタばかり増える。生活の知恵だ。買い物は店に行く前にリストを作ること。リストにないものは買わないこと。鉄則だ。
ルーズリーフを取り出して、二人でリストを作る。俺は、旅行用のちょっとした歯ブラシとか、そんなものだけだ。真奈美さんも似たようなものか?あ、そうか。ちょっと思い立って、一つ二つリストに追加する。
「なにしてるっすかー」
いつの間にか、シャワーを浴びてきたらしき妹がぺたぺたと水滴を髪からしたたらせて、俺の部屋に入ってきていた。
「髪拭けよ」
「拭いてるっすよー」
わしゃわしゃ。
水滴飛ばすな。脱衣所で拭いて来い。とは思ったが、少し甘やかしておいてやろう。
「真菜、お前も一緒に買い物行くか?」
「言われなくても行くっすよー。さっき、美沙っちから監視指令があったっす。ぐへへ。変態のにーくんが真奈美っちに変態しそうになったら妨害しろって、ツンデレてたっすー」
お前がエロゲを美沙ちゃんに渡さなければこんなことにならなかったのだ。
「変態じゃねーし。あと、お前ツンデレって意味間違ってるぞ」
「間違ってないっすー。美沙っちツンデレってるっすー。あとにーくんは、完全に変態っすー。完全変態生物っすー。エロゲチョイスが変態すぎるっすー。乳首にローターなんて貼り付けても気持ちよくないっすよ。アホっすかー。キモいっすー」
いいじゃないか。エロゲで乳首にローターを貼り付けるシーンがあったって…。
くそぉ。俺がいつもやられっぱなしだと思うな。
「…じゃあお前は…あるんだな」
「へ?」
「気持ちよくないって断言するってことは、あるんだな…」
「え?な、なにがっすか?」
「お前は、乳首にローターを貼り付けてみたことがあるんだなッ!断言するってことは、実験してみたんだなッ!」
どっちが変態だ。このバカモノめ。
「…な、ないっす」
「じゃあなんで断言できるんだ。ひょっとしたら、エロゲみたいな声出すくらい気持ちいいかもしれんぞ!」
「に、にーくん。や、やめるっす」
「いいや。やめんッ!」
「そうじゃないっす。真奈美っちが、買い物リストにローターって書き加えてるっすよ」
「…え…ま、真菜ちゃん、た、試すんじゃないの?」
高校生が入れるお店では、そういうものは売っていないと思うし、妹にローターを買わせるとかしたら俺は、本物になってしまう。
気がつくと十時近くになっていた。少し距離はあるが、歩いてホームセンターまで行く。いつか、美沙ちゃんと水着を買いに行ったショッピングモールよりも、人の密度が少ないホームセンターの方が真奈美さんにはいいと思った。下着とかはあるみたいだし…美沙ちゃんは、変態の俺がぐへへと笑いながら、真奈美さんにスケスケ下着とかを買わせると思っていたみたいだが…。
「あ…」
売ってた。俺と妹がレジ横にあるそれを同時に発見する。ミニ電動マッサージャーとか言って売ってるが、この姿かたちはまさしくアレだ。
「売ってるっすね」
「まさか買うのか?」
「買うわけねーっす。にーくん。マジ変態っす。ってか、今、想像したっすか?」
「ああ、肩のツボにマッサージ器を押し当ててるババ臭いお前を想像したぞ」
「肩っすか?ホントっすかー?ぐひひひ」
この小型サイズの電池式マッサージ器って、ほとんどエログッズなんじゃないかな。いいのか?
「えーと。バカ妹は放っておいて…まずは…バッグか。カバンもないの?」
「…う、うん」
三泊とはいえ、泊まりだしな。荷物は多くなりそうだからキャリーバッグかな。
「…こ、こっちがいい」
リュックのほうがいいの?重いよ。
「…そ、そっちは、手を離さないといけないから…」
ああそうか、抱きしめておけるほうがいいか。わりと大き目のオレンジ色のリュックを一つカートに放り込む。それと、もう一つ少し小さめの黒いデイバッグ。あと、小銭を入れるみたいな小さなポケットバッグも入れる。次は、ビニール袋。歯磨きセット。折りたたみのヘアブラシ。そして錠前。
「なんすか?それ?」
「勝手に荷物を開けられないようにしておかないとな」
「…うん。そうなの」
俺と真奈美さんにそう答えられて、妹の表情がこわばる。
「…あ、ああ。そ、そうっすね」
真奈美さんは、お前ほど平和ボケな世界に生きていないんだ。同じ国にいて、同じ学校で、戦場みたいな用心をしないといけない人もいるんだぞ。
ついでに真奈美さんのパジャマ代わりのスウェットを二着。真奈美さんは昼間も制服は着れないから、宿ではなるべく早めに着替えちゃったほうがよかろう。
一旦、うちに帰って俺の部屋で真奈美さんの荷物と俺の荷物を分ける。ついでに一緒に会計した分の清算もする。
「真奈美さん。このデイバッグは俺のだよ」
「…う、ううん。わ、私が払う…それは」
デイバッグの値段を真奈美さんのほうの会計に入れると、俺のほうの買い物はほとんどなかった。真奈美さんの荷物はけっこう多いな。
「家まで、荷物もちしようか?」
「…ううん。大丈夫。ほら、バッグの中に入れちゃえば…」
修学旅行に持っていくバッグと持っていく荷物で足りない分を買っただけなのだから、入るのは当たり前だったな。
「な、なおとくん…きょ、今日も…あ、ありがとう…」
「ん。じゃーね」
真奈美さんを玄関で見送ると、妹が複雑な表情でこっちを見ていた。
「にーくん…。美沙っちの言う理由がわかったっすー」
俺、なんか変態なことしたっけ?今日の俺は、徹頭徹尾紳士的だったよね。まぁ、マッサージ器が売っているのは見たけど。マッサージ器だし。マッサージ器だし。大事なことなので二回言いました。マッサージ器はエログッズじゃない。
(つづく)
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今日の妄想。ほぼ日替わり妄想劇場。25話目。美味しそうな食べ物が出てきますが、ぼくは卵のアレルギーがあるので食べられません。美味しそうだなぁと悶えながら書きました。
最初から読まれる場合は、こちらから↓
(第一話) http://www.tinami.com/view/402411
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