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真・恋姫無双~君を忘れない~ 九十九話

マスターさん

第九十九話の投稿です。
秋蘭の奇襲、雪蓮の負傷。風は突発的な事態を見事に取り纏め、江東軍を窮地に追い込む。絶望的な状態は兵士たちの心の闇に巣食い、徐々に抵抗を意志を失わせるが、その中で立ち上がる人物がいる。人々はそんな人物を英雄と呼ぶのだろう。

はい、随分と話数も進みましたね。次で百話です。これまで駄作製造機を支えてくれた皆様に感謝をしながら、頑張って執筆作業に邁進したいと思います。ではどうぞ。

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2012-09-20 16:10:18 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:5470   閲覧ユーザー数:4810

 

 ――来る……っ!

 

 冥琳の握る拳に力が籠る。

 

 敵の布陣はこちらを完膚なきまでに叩きのめすことを目的にしていることは容易に見て取れる。春蘭を中心軸に圧倒的な力で、こちらの命も、残された者の心も打ち砕く必殺の布陣。将も兵も全てにおいて完璧な形であった。

 

 自分たちはあれを乗り越えることが出来るのだろうか。

 

 誰もがそう思った。

 

 自分たちの王、雪蓮は敵により負傷している。そして、誰があの化物のような武人たちを止めることが出来るのだろうか。誰もが思い出していたはずだ。江東を代表する将が、片手だけであしらわれていた光景を。そして、援軍の到来という絶望的な状況になっていることも、彼らの中の一つの感情を呼び起こす。

 

 怖い。

 

 死にたくない。

 

 もう勝てる筈がない。

 

 如何に雪蓮の許に集った勇猛果敢な兵士たちといえど、彼らも人間であることに――否、生き物であることに変わりはない。本能的に恐怖という感情が心の中から溢れ出て、それを止められないのは仕方のない話だ。

 

 誰も彼らを責めることなど出来はしない。

 

 傷ついた王。

 

 怯える兵士。

 

 迫りくる絶望。

 

 しかし、それでもまだ諦めていない者たちがいる。

 

「全軍、すぐに密集隊形をとれっ! 思春と明命は虎豹騎を、祭殿は夏侯淵をお願いしますっ! 絶対に止めろっ! 我らが王を絶対に守るのだっ!」

 

 必死の形相で声を嗄らす冥琳。

 

 彼女ですら恐怖を感じている。心のどこかであんな大軍の一軍を止められる筈がない諦めの気持ちを抱いているのかもしれない。それでも怯える本能を、滾る理性で埋め尽くしていく。自分が諦めてしまえば、そこで全てが終わってしまうのだから。自分が矛を捨ててしまえば、誰も王を守る者はいなくなってしまうのだから。

 

 迷いは不要だ。

 

 怯えは無用だ。

 

 迷っている暇があれば、怯えている時間があれば、その分だけ彼女は得物を振るう。一人でも多くの敵兵を討ち、一人でも多くの仲間を救う。理性で本能を制御して、出来る限り冷静に考え、出来る限り熱く滾る。

 

 その想いは冥琳だけに限った話ではない。

 

 祭や、思春、明命もまた同じ気持であった。

 

 ――策殿にこれ以上触れさせるわけにはいかんっ! 黄公覆、たとえ我が両腕がもがれようとも、口を使って弓を射てみせようっ!

 

 ――冥琳様だけに負担を強いるわけにはいかないっ! この甘興覇、己の全てを懸けて敵を屠り、黄泉路まで突き落としてみせんっ!

 

 ――これが最後の戦いですっ! 皆を守るために、この周幼平、修羅になって全てを切り裂きますっ! ここから先は一歩たりとも通しませんっ!

 

 だが、それでも足りない。

 

 彼女たちには絶対的に足りないものがある。

 

 祭が秋蘭を止め、思春と明命が季衣と流琉を止めることが出来たとしても、では誰が春蘭を止められるのだろうか。全てを薙ぎ払う魏武の大剣をどうやって止めるのであろうか。雪蓮が負傷した今、彼女の代わりになる人物などいるのだろうか。

 

 ――だから、私が行く……っ!

 

 春蘭の武を一度受けたことがある冥琳は、それがどれだけ無謀なことは分からない筈がない。一度は奇跡的に避けることが出来たとしても、打ち合うことはおろか、一分以上その前に立っていることも不可能であろう。

 

 しかし、行くしかない。

 

 仮に不可能であっても、無謀であっても、無策であっても、蛮勇であっても、愚行であっても、雪蓮を守るためならば、それをするしかないのである。力で勝てないのなら、知略を駆使してぶつかるしかない。四肢を失っても、冥琳の全てであるその頭脳さえ残っていれば、必ず可能性は残されている筈なのだから。

 

「……待って」

 

 だがそこで……。

 

 その冥琳の覚悟を止めたのは雪蓮だった。彼女は未だに血が流れる肩を押さえ、痛みで辛いのだろうか、その表情はやや青白く、剣を杖代わりにしてやっと立っていられる状態であった。

 

「雪蓮っ! 下がっていろっ! お前の身にもしものことがあれば――」

 

「いつから私はあなたたちに守られる身になったの?」

 

「何だと?」

 

「……私は王よ。王は民の頂に立ち、そして彼らを守る。兵士だって、私にとっては大切な民よ。王たる私は皆を守る立場にある。どうして、その私が守られなくてはいけないのよ?」

 

 それは独白にも近いものだったのかもしれない。自分が不甲斐ないばかりに、敵の奇襲を許し、更には自分が負傷してしまったことで、兵士たちは大きく士気が下がることになってしまった。それは気付けなかった冥琳の責任ではなく、自分自身の責任であると雪蓮は考えている。

 

 そんなことは許されない。

 

 そのような者が民の頂に立つことなど許されるはずがない。

 

 雪蓮は額に玉粒の汗を浮かべながらも、顔を上げた。彼女の瞳に映るのは虚ろな表情を浮かべた兵士たちだった。彼らを死なせるわけにはいかない。自分を守るという目的のために彼らの命が犠牲になることなどあってはいけないのだ。

 

「皆も聞きなさいっ!」

 

 よく通る声で兵士たちに語りかけた。

 

「孫呉の王、孫伯符はこの場に戦いに来たのだっ! 我が血潮が全て大地に流れようとも、我が首が敵将の手に刎ねられることになろうとも、あなたたちは私が守るっ! 私の真名にかけてここに誓うわっ! 皆は勝つために戦いなさいっ! 私が皆の先頭に立って、血路を開くっ! 皆は私に従い、私を守るなんて考えずに、ただ勝つことだけを考えて矛を振るいなさいっ! 孫呉の王は戦いの王となり、必ずや皆に勝利を、栄光を与えるだろうっ!」

 

 雪蓮は傷口を押さえる手を放し、彼女が母親の孫堅から受け継いだ南海覇王を掲げた。止血を緩めたことにより、傷口からどっと血が流れ、彼女の戦装束を朱に染める。しかし、彼女はそんなことを全く気にせず素振りを見せずに、一歩を踏み出したのだ。

 

 戦に向かうための一歩を。

 

 皆を守るために一歩を。

 

 だが、その一歩を踏み出すために彼女がどれだけの苦痛を耐え忍んでいるのか。そのような身体で剣を振るえるはずがない。動かすだけで激痛が駆け巡り、全身から汗が流れる。しかも、相手にしようとしているのはあの春蘭である。万全の状態でも互角であった相手なのだ。

 

 しかし、雪蓮の表情はいつもと変わらない。民や家臣と触れ合うときの柔和で悪戯好きそうな人懐こい笑顔、そしてそのころころ変わる表情は誰からも愛され、誰からも慕われるものだが、戦場に立つ雪蓮の表情は覇気の漲る戦女神のそれである。

 

 兵士たちの隙間を雪蓮は歩き続ける。誰もがその姿にただ彼女を見送ることしか出来ない。断金の契りを結ぶ盟友の冥琳ですら最初は声を掛けることが出来なかった。雪蓮の道の邪魔にならぬように一人また一人と壁が退いていく。

 

 鋒矢陣を布いた敵の軍勢はもう間近に迫っている。

 

 雪蓮は迷うことなくそこに吶喊するだろう。

 

 敵の軍勢の先頭を駆ける魏武の大剣を迎え撃ち、そして、もしそうなってしまった場合どうなってしまうのか。この場にいる兵士たちの誰もが想像に容易いことだろう。戦場に奇跡など起こるはずがないことは誰もが理解しているのだから。

 

 誰もが想像出来ても、誰もが想像したくないことである。

 

 だが、そのとき、兵士たちの中から一人の男が前に出た。

 

 彼は先代である孫堅が戦の最中に討死し、彼女が所有していた領土を奪われ、雪蓮が袁術の客将に身を落とした時から彼女に従い、その後も雪蓮直属の部隊の将校の一人となった歴戦の猛者であったのだ。

 

 彼は真っ直ぐに雪蓮の瞳を見ながら、その前に立ったのだ。

 

 

「……我が王」

 

 彼の低い声は震えていた。

 

 雪蓮は彼の顔を見る。

 

 彼は泣いていたのだ。男が女性の前で、家臣が主の前で涙を流す姿など本来であれば恥ずべき行為であるはずなのに、彼はそんなことを気にせず、立ち止まる雪蓮の前で跪くと、その頭を垂れた。

 

「……我が王、申し訳ありませぬ」

 

「…………」

 

「私は自分が情けない。死への恐怖に怯え、あいつらにもう勝てないなどと思ってしまった自分が情けない。いや、それ以上に、私たちは王たる貴方様に忠誠を誓っておきながら、その信頼を裏切ろうとしていることが何よりも情けない」

 

 雪蓮は自分たちをずっと守ってくれていた。

 

 民たちの上に君臨し、王としてずっと自分たちを守ってくれていた。王とは孤高の存在である。誰もが敬い、誰もが畏れ、そして、誰からも愛される存在でありながら、その身一つで国というものを背負っている。それがどれだけ辛く、重く感じるのか、平凡な彼には分かるはずもない。

 

 だが、一つだけ分かっているものがある。

 

 仮に王が孤独な存在だとしても、それならば、彼ら民が王を支えてあげればよい。孤独など感じさせないように、横に立つことは出来なくても、常に自分たちが守られることで後ろに従っていればよい。後ろから王の背中を見つめ、代わることは出来ないかもしれないが、少しでも共有してあげればよい。

 

 だから、もしも自分たちが王から離れてしまえば、王の側に誰もいなくなってしまう。国の元である彼ら民がいなくなってしまえば、国は成り立たなくなってしまい、王はその資格を失うことと同義である。

 

 そのことに気付いた彼は、その罪深さに恥じ、己の情けなさを悔い、その愚かさを呪った。彼は自分のことしか考えていなかった。戦や死への恐怖心で彼の心は一杯になり、それ以外のことなど考えることすら出来なかった。

 

 しかし、雪蓮は違った。

 

 自分は手傷を負い、既に戦うことも――否、立ち上がることすら困難であるはずなのに、彼女が最初に言った言葉は自分たちの身を守るというものだった。これだけ窮地に立たされながら、彼女の表情に何の迷いも見られなかった。

 

 ――情けない……。

 

 その姿が彼の心を打った。

 

 怯えていた自分がとても矮小な存在に感じ、彼の胸中には一つのことで満たされたのだ。

 

 ――我が王と共に戦場へ……っ!

 

 彼は周囲の人間に視線を向けた。

 

「我らは孫家の兵士であるっ! 我らが矛は何のためにあるっ! 我らが心は誰のためにあるっ! 我らが生きる道はどこにあるっ!」

 

 一瞬の静寂。

 

 しかし、どこから声が上がる。

 

「我が矛は……孫家の敵を切り裂くために……」

 

「我が心は……孫家の、我が王のために……」

 

「我が生きる道は……孫家の栄光のために……」

 

 小さかった声は徐々に大きくなる。一人、また一人と俯いていた顔を上げ、落としそうになっていた矛を握り直し、崩れ落ちそうになっていた足を地面に立たせた。一人、また一人と雪蓮に向けて顔を見せる。

 

「我が王よ……っ!」

 

「我らと共に……っ!」

 

「戦場へ……っ!」

 

 そこにはもう虚ろな顔をした者などいなかった。

 

 雪蓮の周囲にいた人間は一斉に彼女の許へ平伏した。誰もがその顔を涙に濡らしていた。その罪深さを恥じても、己の情けなさを悔いても、その愚かさを呪っても、構わない。だが、それは一つのことを成し遂げた後に充分にすればよい。

 

「我が王よっ! 我らと共に戦場へっ! 我々はいつまでもその後ろに従いますっ! 王の背後を突き進み、敵を切り裂き、我が王のために孫家の栄光の道を切り開きますっ!」

 

 そして、一斉に雪蓮に背を向けた。

 

 それは雪蓮に告げているのだ。

 

 さぁ早く我らの前へ。その道を邪魔しようとする者があれば、我らは全力でその者を排除します。我が王はただ正面を向いて、突き進めばよいのです。王は道をお決めになり、我らを導いて下さればよいのです。

 

「あなたたち……っ!」

 

 雪蓮は唇を噛み締めて、己の瞳から涙が溢れ出そうになるのを必死に堪える。

 

「……雪蓮」

 

 冥琳はそんな親友の肩にそっと手を置いた。そして、自分の装束の一部を切り裂き、包帯代わりに傷口を縛ってあげる。その瞳にも涙が溢れていた。戦は一人で行うものではない。彼らのような素晴らしい仲間と共にするものだ。

 

「さぁ……行こう。彼らと共に戦場へ……」

 

「ええ……っ!」

 

 さっと用意された馬に跨り、雪蓮は彼らに命令を下した。

 

 ――戦場へっ! 私と共にっ!

 

 その瞬間を春蘭たちは眺めていたに違いない。

 

 江東軍は逃げることも、進むこともせず、一瞬だけ止まったのだ。全員が同時に腰を下げたのだ。その行動の意図は当然分かるわけもない。だが、それはスタートダッシュをするために、全ての力を前へと向けるために、地面をより蹴るための動作。

 

 恐怖から前に出るのではない。苦肉の策として前に出るのではない。

 

 彼らが前に出る理由は一つだ。

 

 雪蓮の、孫家の勝利を掴み取るためだけだ。

 

 次の瞬間、彼らは一つの力となって前へと進んだ。

 

「おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっ!!」

 

 魂の咆哮。

 

 それは紛れもなくそう表現せざるを得ないものだった。

 

 勝てるとか負けるとか、生きるとか死ぬとか、彼らの中にもうそんなものは存在しなかった。何故ならば、自分たちの王が進む道は栄光へ続くと決まっているのだから、彼らの命はきっと雪蓮が守ってくれると決まっているから。実際問題とは切り離された、忠という言葉だけが彼らを突き動かしているのだ。

 

 そして……。

 

 彼らは衝突したのだ。

 

 ――これは……。

 

 風は部隊の背後からその光景を誰よりも冷静に見ていた。その目は驚愕に見開かれ、手に持つ飴を地面へと落としてしまった。言葉など出る筈もない。何故ならば、初手の一撃で敵を砕き、続く手で一気に粉砕するつもりであり、それは確実なことであったのだ。

 

 だが、そうならなかった。

 

 秋蘭の部隊は祭の部隊に阻まれ、季衣と流琉の部隊は思春と明命に阻まれている。いや、そこまで想定の範囲内であった。彼らが抵抗出来るとしたら、戦力的にそうするしかなかったのだから。そこまで含めても、彼女は殲滅出来ると確信していた。

 

 何故ならば誰も春蘭の部隊を止めることなど出来ないからだ。

 

 しかし、止められている。衝突のインパクトを外されたわけでも、遠巻きに逃げ回っているのでもない。正面から彼女の武力を受け止め、その上で拮抗状態を作り出しているのだ。その暴風雨のような進撃を止めているのだ。

 

 ――誰が……?

 

 そんなこと問う必要すらない。

 

 ――孫策さんですか……っ!

 

 風の額から汗が流れる。

 

 あらゆる事象を風のように受け流す彼女の表情が焦りに染まる。目の前の事象が理解出来ない、理解したくない。そんなことがあり得る筈がないのだから。彼女が描く勝利のビジョンには決して起こるはずがない事態なのだから。

 

 だが、これは冥琳の仕掛けた戦術ではない。彼女にも秋蘭の参戦は予期せぬ出来事であったはずであり、自分の王を負傷させることなど絶対にないのだから。そして、何よりも秋蘭の弓を受けた雪蓮が戦い続けられる筈がないのだ。

 

 だが、それでも目の前に起きている。

 

 傷ついた王。

 

 怯える兵士。

 

 迫りくる絶望。

 

 その状況でありながら、彼らは今も抗い続けているのである。

 

 

 戦場で矛を振るう江東軍の兵士。

 

 先程まで死への恐怖で震え、立ち上がることすら出来なかった彼らは、自分たちの身体から溢れんばかりの力が漲っているのを自覚していた。開戦から随分と時間も経過しており、本来であれば体力的にも苦しい時間が続くはずなのだが、彼らの身体は軽く、その振るう武は重い。

 

 本来の己の力以上を出せる状態――それは武の達人であれば死域に入ると表現するだろう。一般的にその表現が有名というわけではないのは、そこに辿り着ける人間がごく僅かな者だけということが原因なのだろうか。

 

 だが、一般兵である彼らはその領域に達したのだ。

 

 それは雪蓮の存在が切欠になったに違いない。自分たちが極限までに追い詰められた状態において、負傷した雪蓮が放った言葉、彼女の立ち姿、それが彼らの潜在能力を最大限に引き出しているに違いない。それは正しく奇跡と呼ぶに相応しいことだろう。

 

 戦場では奇跡は起きない。

 

 しかし、人の手によって起こすことは可能なのかもしれない。

 

 鋒矢陣による突撃を敢行する曹操軍にとっても、彼らのこの獅子奮迅の働きには驚きを隠せないだろう。これまでのぶつかり合い、先の荊州での戦いを含めた中でも、その抵抗の強さは群を抜いていた。

 

 それでも曹操軍は止まろうとはしない。

 

「私の前に立つなど百年早いわぁぁぁぁぁっ!!」

 

 その先頭に立つ人物、隻眼の武人、春蘭こと夏侯惇がいるからだ。

 

 群がる雑兵を――仮に彼らが死域に入り持ちうる全ての力を発揮しようとも、彼女にとっては何も問題はない。彼女の持つ大剣、七星餓狼にて全てを両断し、木端微塵に粉砕していくことに変わりはないのだ。

 

 そこに相対するのが雪蓮である。

 

 だが、彼女が負傷しているというのは事実であり、これまでの様に互角の戦いを演じるなど不可能なことである。一発一発の斬撃に対して、全ての集中力を動員して撃ち落としていくのが精一杯で、反撃することなど出来る筈がない。

 

 故に本来であれば、彼女たちの勝負は時間の問題であった。

 

 雪蓮の集中力が途切れてしまうか、それとも、体力が底をついてしまうか、理由は様々であろうが、反撃をすることが出来ないのならば、少なくとも雪蓮の勝利という可能性は皆無であり、勝利は春蘭にのみ許されたものといえるだろう。

 

 だが、春蘭の表情が不快感に歪む。こめかみに青脈を浮かせ、七星餓狼を握る拳に力を込め、奥歯を強く噛み締める。今の春蘭ならば、負傷した雪蓮を相手にするのに、正直なところを言えば、全力を尽くす必要がないのにもかかわらず。

 

 その理由は明白だ。

 

「我が王の……っ!」

 

「邪魔はさせん……っ!」

 

 それは江東軍の兵士たちである。

 

 春蘭と雪蓮、大陸でも屈指の武人同士のぶつかり合いである。一般人である彼らはそこに介入することなどしない。それは味方の援護になるどころか、実力差があまりにもあり過ぎて逆に邪魔になる可能性すらあるからである。

 

 しかし、彼らは介入した。

 

 春蘭と雪蓮の間に割って入る者、武器を捨てて身体を使ってまで春蘭の身体に縋り付こうとする者、それすら出来ない者は馬の尻尾を掴もうとしている。手段など何だって構わない。春蘭を止めることが出来るなら、雪蓮に道を進ませることが出来るなら何だって構わない。

 

 本来であれば戦いの邪魔になる。

 

 しかし、今の雪蓮は反撃することが出来ないのだ。従って、彼らの行動が雪蓮の邪魔になることはない。

 

 一人では前に立つことは出来ない。

 

 十人いようとも止めることは出来ない。

 

 一般兵と春蘭の実力差は歴然である。

 

 数十人いようが関係ない。

 

 ならば、百人で攻めるだけだ。

 

 それでも足りないのなら千人で攻める。

 

 それが彼らなりの覚悟である。

 

 普通であれば春蘭に立ち向かうなんて愚かなこと、恐怖心が許さないだろう。目の前で傍若無人なまでに武を振るい続ける春蘭を見れば、一般兵である彼らは失禁したっておかしくはない。すぐに背を向けて逃げ出してしまうだろう。

 

 だが、今の彼らに恐怖心なんてものは存在しない。

 

 彼らの行動原理は全て雪蓮の後ろをついて行くことにある。

 

 それは雪蓮が前へと進むことを意味し、それを阻む者は全て排除する。それは彼女の後ろに従うだけのためにである。雪蓮に自分たちを守ってもらうためである。そこには既に崩壊した論理しか存在せず、そのような狂った考えはときに恐ろしいものへと姿を変える。

 

 忠義。

 

 彼らはそれをたった一言で済ましてしまうだろうが、そこに含まれた意味は少なくない。

 

「貴様らぁぁぁぁぁっ!!」

 

 身体を捻るだけで木の葉のように散っていく。剣を振るうまでもなく粉砕出来るまでに惰弱な存在なはずだが、江東の兵士たちは次から次へと春蘭に襲い掛かってくる。誰もかれもが怯えた表情を浮かべておらず、満足そうな表情を浮かべて死んでいく者すらいる。

 

 大勢の兵士たちの死と引き換えに生まれるほんの僅かな隙。

 

 それを雪蓮は見逃すことはない。反撃出来ない状態を、春蘭が振るういくつもの斬撃の直後に、一発だけ反撃出来る状態へと変える。しかも、それは雪蓮の全力であっても、春蘭からすれば蠅が止まる程に遅く見える程度のもの。目を瞑ったままでも撃ち落とすことが出来てしまうものだ。

 

 所詮は、ここは戦場。

 

 全てが都合よく運ばれるわけではない。

 

 仮にいくら江東の兵士たちが全員死域に入る程の奇跡を起こすことが出来ても、それで戦況がいきなりひっくり返ることなどあり得ないのだ。結局は大勢もの兵士たちを犠牲にして、やっと膠着状態を作り出すことが出来るくらいものである。

 

 その光景を見ながら、雪蓮はぐっと唇を噛み締める。

 

 ――無駄にはしない……っ! 絶対に無駄にはしないわっ!

 

 結局は春蘭を止めるために多くの犠牲を払わなくてはいけない。その事実が彼女の心を押し潰すが、止まるわけにはいかない。彼らの意志、想いを踏み躙るわけにはいかないのだ。死んでいく彼らのためにも前へと進まなくてはいけない。

 

 後悔なんていくらだってしたって構わない。

 

 戦の後は大泣きして、遺族や残された者に泣いて謝罪して、彼らのことを後世まで語り継ごう。孫呉の王を支え、その道を作った英雄として、名前など歴史に残らないちっぽけ存在だと言われても、自分たちの記憶の中で永遠に語り継ごう。

 

 雪蓮は雄叫びを上げなら何度も春蘭に立ち向かう。

 

 敵の剣圧を耐え、迫りくる斬撃を撃ち落とし、何度も何度も耐え忍んだ上に繰り出す反撃。それすらも簡単にも弾かれる。途中、春蘭の攻撃が髪の一房を断ち、その肌を薄く切り裂くこともあるが、それでも雪蓮は諦めることは決してしない。身体から体力がなくなるのを実感しながらも、それでも剣を放すことはしない。

 

 しかし、その反撃を放つためには多くの犠牲が必要となり、時間が経過すればするほど、徐々に江東軍が押され始めるのは当然のことである。兵士たちの気力も無限というわけではないのだ。徐々にその抵抗から力が抜け始める。

 

 ――予期せぬ損害を被りましたが、ここまでです。これで終わりにしましょう、孫策さん、周瑜さん。

 

 風も冷静さを取り戻し始めていた。彼らの最後の抵抗にはさすがに驚きはしたものの、自分たちの勝利は揺るがない。膠着状態を作り上げたことすら奇跡的であるのだから、そこから逆転劇を演じるなど、更なる大きな奇跡が起こらない限りあり得ないのだ。

 

 しかし、先も述べたように奇跡とは勝手に起こるものではなく、人が起こすものである。

 

 そして、戦は自分の意志で動かせるものと信じ、大きな流れを戦略で作り上げ、そこに戦術という波を起こすことで操るものである。戦とは川であり、その流れを全て支配して自分たちを勝利という対岸へと渡す手段として捉えている人物――冥琳はまだこの戦を全く諦めていなかった。

 

 ――これが私の最後の切り札だっ! 孫呉の絆を舐めるなっ!

 

 冥琳が繰り出す秘中の策。

 

 それは彼女だからこそ可能な手段であり、孫家だからこそ可能な策であった。嗜虐的な笑みを浮かべながら冥琳は思った。最後の決戦にして最大の敵に会うことが出来た。性質的に相反し、天敵とも呼べる風であるが、実はお互い似ているのかもしれないなと。

 

 ここから孫呉の最後の反撃が始まるのだった。

 

あとがき

 

 第九十九話の投稿です。

 言い訳のコーナーです。

 

 いやぁ、夏アニメも終わってしまいますね。今年も随分と面白い作品が多く、作者は大満足でありました。いくつかの作品も最終回を迎え、それを見ながらふと寂しさを覚えるわけですが、そんなことよりもこの作品を早く終えなくてはと焦り始めた今日この頃、皆様はどのようにお過しですか?

 

 さて、相も変わらず江東編。

 

 前回、秋蘭の奇襲、雪蓮の負傷と江東陣営は相当追い詰められてしまいました。

 

 その状況であれば、いくら精強な兵士たちが集まっているとはいえ、人間である以上恐怖心から逃げ出したいと思う心はあるはずです。死にたくないという願望は生き物の共通しているところだと思っておりますゆえ。

 

 そんな中で立ち上がる雪蓮。

 

 最初はそこで立ち上がった雪蓮が見事に春蘭を撃退する感じで描こうと思いました。

 

 しかし、窮地にあって立ち上がるのは常に英雄だけとは限りません。寧ろ、窮地に立ち上がる者のことを作者は英雄であると思うのです。英雄だからという理由ではなく、そらが英雄であったという結果ですね。まぁ戯言なのでスルー推奨です。

 

 そいうわけで、今回は敢えて雪蓮ではなく名前もないような兵士たちに立ち上がってもらいました。戦の中で最前線を進むのは彼らであり、彼らは常に犠牲となる存在です。従って彼らには盛大に彼らの意志で犠牲になってもらいました。

 

 さてさて、本作で出てきた死域というワードは別作品から引用しました。普通は死兵とかって言うんだと思うんですが、言葉の響きがあまり好きではないので、そちらを使うことにしました。意味的には大して変わりません。

 

 まぁ彼らが死域に入ったとしても、所詮は一般の兵士たちです。春蘭からすれば虫を殺すように捻り潰すことが出来るでしょう。しかし、一匹ではなく、それが百匹、千匹であれば話は変わるはずですね。

 

 さてさてさて、次回が江東編の最後になります。

 

 冥琳が放った最終手段。それは作者的には邪道であり、純粋な力ではありません。いつものように批判中傷は控える方向でお願いします。

 

 寧ろ、そんな邪道な手を推理することが出来たらかっこいいとか思いませんか? とか言い訳をしながら、皆様に妄想を楽しんでもらいたいと思います。

 

 では、今回もこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。

 

 相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。

 

 誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。

 


 
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