[chapter:花酔 1]
「お前、桜が似合うな」
「……あ、……?」
「闇夜に映える桜の簪みてぇだ。その髪によく似合ってる」
桜の隠れ名所として知られる茶屋の軒先で、万事屋と名ばかりの花見をしていた昼下がりのこと。
水路沿いに植え込まれたソメイヨシノから、風に吹かれて枝を離れた花びらが舞い落ちていた。穏やかな空気が二人の間を包み、日々の喧騒から離れたような、ゆったりとした空間が店前に広がっている。
ひらひらと宙を漂う花びらを眺めながら、二人で物言わずにのんびりと余暇を満喫していた時。それはさも当たり前かのように告げられた。肌を撫でる風、いや、もっと自然な感じで、気負いなく。
万事屋の口から語られたのは、耳馴染みのない科白だった。
少なくとも、自分たちは世辞を言い合うような間柄ではない。にも関わらず、その口調があまりにも平々としていて。一瞬、反応が遅れてしまった。
「どういう意味だ」
言っている意味が全く解らない。闇夜に映える、桜の簪、髪に似合う。どれも自分へ向けられるような単語ではないからだ。
唐突に言われた言葉が理解出来ずにいると、『綺麗じゃねえか』などと言いながら、美しいものを愛でるかのように目を細めた。
確かに自分の髪は黒く、漆黒の闇夜に似ている。比喩として間違いではないだろう。かつて髪を伸ばしていたし、簪を挿すだけの長さは充分にあった。
だがしかし、髪を短くした今、男の自分が簪など挿しているはずもない。否、挿したことなど一度もないが。
細められた瞳は太陽の光を受け、花芯の淡い紅のような色をしていた。自分の背後で咲き乱れている桜がその虹彩へ映り込み、造景のような煌めきを帯びている。
きらり、と青い空の光を宿し、自分へと向けられている瞳。今の季節のように、穏やかで暖かい眼差しだった。
(良い眼するんだな、こいつ)
そう思った瞬間、ハッと我に返った。
今、心の中で何を思ったか。そんなことは、自分が一番良く解っている。不覚にもその瞳が綺麗だと感じたのは、紛れもない事実だ。
何故唐突に、そんなことを。
柄にもないことを感じた自分に決まりが悪くなり、慌てて表情を繕って居住まいを正す。
「何が云いてぇのか解んねえだろ。はっきり言え」
怪訝な顔をして、真意を問う。
すると、もぐもぐと咀嚼していた団子をごくりと飲み込んで。のほほんとした口調で『髪に付いてんぞ』と、事も無く言ってのけた。
「桜、か……?」
髪に付いた桜の花びらなど、放っておけばいずれ風で飛んでいくだろう。
その程度のことなど気にする必要もない。だが、指摘をされたまま無視するわけにもいかず。
はらはらと、適当に頭を払ってみる。
しかし、髪から落ちるものは何もなくて。軽く触ってみたところで、薄い花びらを探り当てたような感触もなかった。
「どこだ」
「もうちょっと右」
「……ねぇよ」
「ほら、取ってやるから。じっとしてろって」
手に持っていた団子を皿に置き、スッと白い着流しの袂を自分へ近づけてくる。
不意に伸ばされた、日焼けしていない手のひら。
白魚のような女の手と違い、無骨な、自分と同じ男の手だ。その少し乾燥した指先がするりと耳を掠め、自分の髪へ挿し込まれる。
それと同時に、吸い寄せられるように迫った、思考の読めない万事屋の顔。
「……っ、」
完全に油断していた所で、他人には不用意に侵させない領域へと踏み込まれた感覚だった。
顔が、近い。
恐らく無意識なのだろう。けれど、邪気のないその行動に、不覚にも心臓が高鳴ってしまう。
「……ん。取れたぜ」
「あ、あぁ。悪ぃな」
「別に謝ることじゃねーだろ」
微かに苦笑して、でも、と呟く。
落とした視線の先には、指で摘んだ一束の桜があった。
(簪ってのは、これのことか)
その桜をみて、ようやく合点がいった。確かに簪の飾りを模したようで、可憐だと思う。
花びらが千々に散ることのないまま、花弁ごと落ちてしまったのだろう。風の強い日などはよくあることだ。桜はすぐに枝ごと手折れてしまったりする。脆く、儚い命。
「ちっと勿体無ぇ気もするけどな。せっかく似合ってたのに」
「っ、……」
またしても零れ落ちた意味深な科白に呼応して、また一つ、強く脈を打つ。
上手く返す言葉が見つからず、言葉が喉に詰まる。
不覚にも乱れてしまった脈を落ち着けながら、華々しく散れなかった一つの花を見た。
髪から外されたそれを、どことなく残念に感じているのは……。薄命な桜に対してか、それとも。
偶然にも自分の髪へ付いたその花を、夜桜のようだと例えられたこと。
簪のように髪を彩っていたそれが、自分に似合うと言われたこと。
『綺麗だ、似合う』という言葉の切れ端が胸に刺さり、どうにもむず痒い。
「くそ、……」
こんなにもくすぐったいものなのか、この男から褒められるということは。
胸の内を温かい風に掠められたような感覚に、どんな顔をすれば良いのか分からなくなる。
上手く笑うことも出来ず、怒ることも出来ない。桜乱舞のように様々な思いが入り乱れ、整理の付かない感情に戸惑ってしまう。
そんな自分の変化に気付いたのだろうか。片眉を上げ、不思議そうな顔で視線を投げかけられた。
「なんだよ。キスでもすんのかって、期待しちゃった?」
してみる?と冗談めいた口ぶりで仄めかし、ずい、と顔を近づけてくる。
「……!」
その動きで、縁台の上に置いてある皿と銚子がカタンと音を立ててぶつかった。一瞬にして詰められた間合いに、思わず息を飲む。
「……殴られてぇのか、てめーは……」
柳眉を寄せて、相手を睨みつけてはみたものの。再び高鳴り出した鼓動は、自分でも感じ取れるほどに、煩く耳裏に響いていた。
努めて低く冷静に告げた声は、震えていたりしないだろうか。
自分はちゃんと普段通りに振舞えているか。
そんな気の迷いが脳裏を過る。
先程から自分のペースを乱され続けているなんて。本当に、らしくない。
「なんだよ、ほんっとノリ悪ィなーお前。冗談に決まってんだろーが」
そう言って、興味が失せたかのように何事も無く団子を口に運ぶ。
その横顔の見つめる先は、もう自分の姿ではなかった。遠くを望むような眼差しから、表情の下に何かを隠していることが伺える。
「俺ぁ、キスなんて気易くするような柄じゃねぇ……」
逸らされた視線を少し残念に感じながら、ぽつりと小声で呟く。
それは本当のことで、自分から相手の口唇に触れたいと思ったことは一度もなかった。生理的に湧き上がる欲求とは違う、別の形の愛情表現だからだろうか。
きっとそれは、自分にとってあまり縁のない行為なのだろう。
「そうじゃねーかなぁ、とは思ってたけど。やっぱり当たってたんだ」
「やっぱりって何だ。てめーに俺の何がわかる」
「いや、何となく? そんな感じがしたんだって」
静かにそう呟いた万事屋は、それ以上の詮索をしてこなかった。
いつもなら、ここぞとばかりに目敏く人を馬鹿にするくせに。やけに大人しく引き下がったな、と不思議に思う。
訝しげに見つめても、万事屋は意に介さない様子だった。
食べ終えた空の串を皿に置き、新しい団子を手に取る。ゆっくり引き寄せた三色団子の先端が、口唇にそっと触れた。
何てことはない、ただ団子を食べようとしているだけだ。
それなのに、妙に心がざわついてしまう。
「誰にでもすんのか、てめーは」
「……――は?」
やや間が空いて、小首を傾げた万事屋が、再び自分の姿を視界に入れる。
そこでやっと、自分が何を口走ったのか気が付いた。
実のない問いかけをしてしまったことよりも、どうしてそんなことを問いかけたんだ、ということに内心が焦り出す。
『あー……、』と意味のない声が溢れ、視線が宙を彷徨った。
[chapter:花酔 2]
さぁ、と春風が吹き、桜の花びらが風に乗って遠くへ運ばれいく。
その一枚が、盃の中へひらりと舞い落ちた。
微かに酒の水面を揺らし、ゆらゆらと浮かんでいる薄紅色の小舟。その様子は、今の自分の心模様と似ているのもしれない。
その花びらをじっと覗きこんでいると、隣からふ、と柔らかい息が漏れた。
僅かな間を置いてから、何かを察したように口元を綻ばせて。凛とした声で、はっきりと言った。
「そんなもん、好きな奴にしかしねーよ。つーか、他の奴にはしようとも思わねぇ」
耳に届いた声と、その穏やかな表情に、また少し脈が上がる。
「……そうだな」
呟いた声に反応して、盃の中の花びらが、ゆらりと揺れる。
淀みなく伝えられた言葉に、内心ほっと安堵していた。
自分の見ている男は、そういうことを誰彼構わずにするようなタイプではない。それは自分の勝手な憶測でしかないが、脳内で思い描いていた姿が間違いではなかったと確信する。
その事実をどこかで嬉しいと感じている自分も、否定することが出来なくて。
(何なんだ、この妙な感覚は――……)
これはただの応答だ。自分が投げかけた問いに対して意見を返しただけで、他意はない。
先程の行動も自分を誂っただけで、本気ではない。頭ではそう、冷静に理解している。
なのに何故、深い意味はないと自分へ言い聞かせているのか……。
風に吹かれ、銀色のくせ髪がさらりと揺れた。
長めの前髪の奥に佇む色だけが、微動だにせず自分の姿を捉えて離さない。
交錯した視線の先に、万事屋は何を見ているのだろう。
瞳に映っているのが自分の姿であることは間違いない。
けれど、その読めない視線に、うっかり勘違いをしてしまいそうになる。
「桜見ててさ。お前に似てる、って思ったんだよな」
珍しく真面目な顔つきで、万事屋がぽつりと告げた。
「……あぁ?」
「まっすぐなその黒い髪もそうだけど。綺麗なもんは、お前に似合うよ」
直毛は羨ましいぜ、と呟きながら、襟足をくしゃりと掻き乱す。
日差しを浴びた銀髪が、きらきらと光を帯びる。
(よっぽどその髪の方が綺麗だと思うがな)
だがしかし、そんな事を素直に口に出せるわけがない。
「どういう風の吹き回しだ。気色悪ィこと抜かすんじゃねぇ」
「そうか? 俺ァ思ったことを素直に言っただけだけど」
「それが気色悪ィ、っつってんだ」
言葉を返すうちに、つい声音が荒いでしまった。
常日頃の会話のように、互いに思ったことを思うまま口にしている。
それでも、手応えがいつもと違うのは、相手が自分を語ろうとしているからに他ならなくて。
応戦するような罵声や揶揄ではなく、純粋に感じたことを言葉にして、投げかけてくる。そんなことは、過去一度たりともなかったはずだ。
だからこそ……、簡単に自惚れてしまうような、みっともない真似だけはしたくなかった。
「まぁ、信じる、信じないはてめーの勝手だ」
万事屋が自分のことをどんな風に見ているのか、なんて。どうでもいいはずなのに。
しかし、胸の奥で芽吹いた新緑は、自分の意志などお構いなしに葉を広げていく。
気付いたことによって光を得て青さを増す、初々しくも躊躇いのない、萌え出る生命のような感情。
自分自身がその変化について行けず、どう反応すればいいのかも分からなくなっている。
「綺麗なもんは儚く散るから美しいって言うけどさ、俺ァそれだけが華じゃねーと思うわけ」
枝の間から差し込む木漏れ日を、緩やかに口元を綻ばせながら見上げる万事屋。
少し眩しそうに目を細め、片手を宙に翳す。
端正な白皙と銀糸の髪が光を受けてきらりと輝き、思わず目を奪われてしまった。
隣の男はそんな自分の視線に気付くことなく、ひとひら、ふたひら、と言葉を零していく。
――桜って言うと、どうしても花の方を連想しがちだが、咲いてなくたって桜の樹は、桜だ。
花の欠片が一枚散ろうが、二枚散ろうが、それを支える幹は動かねぇ。何かに押されて揺らぐこともねーだろうな。
一本の太い魂が真ん中にあって、地面に揺るぎない根っこを張ってさ。逞しく、根強く、自力で立ってる。真冬の風に曝されても、その幹は枯れたりしねぇ。しっかり立って、また直向に一花咲かせようと懸命に息づく。
だからこそ桜を、華々しい真っ直ぐな生き様を見て、美しいって感じられるんだろ。
そういう綺麗な心みてーな感じが、何となくお前に似てるんじゃねーかって――……
[chapter:花酔 3]
『桜には、心の綺麗な人、という意味があるんですって』
突如脳裏で再生されたのは、ミツバの声だった。
まだ武州の田舎で過ごしていた、二人が若かりし頃。大切なものを胸に刻むかのように、地面からそっと満開の桜を見上げていた時の言葉だ。
『まるで十四郎さんみたいね』
懐かしい、けれど鮮明に蘇る、済んだ声音。
その時、自分は何て答えただろうか。否、何も答えなかったはずだ。
古ぼけた記憶の中、遠い昔に見た景色と今の風景が颯踏する。
もう何年も前に、心の中へ自ずと封じた記憶の欠片。今も色鮮やかなまま保たれているのは、手にも触れずに、そっと残したからかもしれない。
風がざわめき、万事屋と共に見上げていた薄紅色の空が、想いの欠片をはらりと撒き散らす。
好きだと告げることが出来ず、空を彷徨いながら流れていった、かつての恋。
人を純粋に愛おしいと思ったのも、そして届かなくなった姿を想って涙を零したのも、ミツバが初めてだった。
それは今でこそ綺麗な思い出として胸に残されているけれど。これが特別な感情とは、思っていない。
初めてのことは、時間が経っても印象強く記憶に残る。ただそれだけのことだ。
もう既に気持ちを完全に切り換えているし、逐一感傷に浸るほど純情でもないと自負している。
ふと思い出したのは、あの時と同じ台詞を、似たような状況で告げられたからだろう。
あの時ミツバも、自分を『桜みたいだ』と言った。それが気恥ずかしくて、笑い飛ばすことが出来ず、目を逸らした記憶がある。
片田舎で喧嘩ばかりしていた日々から一転し、仲間と共に稽古へ励むようになった若かりしあの頃。
背負うものもなく、強くなって一花咲かせようとひたすら懸命に剣技を磨いていた。
思い返せば、確かに当時今よりも純粋だったと思う。それは若さ故に、だろう。
しかし、真にひたむきな美しさを兼ね添えていたのは、隣に立って桜を見上げているミツバの方だ。自分ではない。その考えは、今も変わらなかった。
そして、今。
隣で穏やかな眼差しを送っている男もまた同じで。
過去や真実の多くは謎のままだが、決して散ること無く、ひたむきに生きている。
悔しいけれど、自分よりもしなやかで美しい魂を持っていると思うのだ。
(つまり俺ァ、こういう奴に惹かれちまうってことなのかもな――……)
そよ風に吹かれて、桜吹雪が巻き起こった。
一度気流に乗れば、たちまち幾千もの花びらを乗せて舞い踊り始める。
「ははっ、すげえ。綺麗だなぁ」
「あぁ」
きゃっきゃ、とはしゃぎながら、桜の乗った風を近所の子供たちが追いかけていく。
一陣の風のように過ぎ去っていく小さな姿へ軽く手を振り、にこやかに微笑む万事屋。その顔を見て、自分もつられて頬が緩んでいくのを感じた。
何の変哲もない、ありふれた日常の風景。その中で、こんなにも自然な笑みが零れる。
張り詰めるような緊張感もなく、穏やかな午後の日差しにも似た温かい気持ちが、二人を包んでいるようだ。
「なんだ、どうした?」
片眉を上げ、少し不思議そうに尋ねてくる。
やはりその表情には険がなくて。どくん、と胸が強く脈を打つ。
心地良く肌を撫でる風の音よりも、自分の鼓動の方が煩く感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。
「どうもしねぇよ」
「ふーん。何か言いたいことでもあるんじゃねーの?」
にやり、と笑う顔は、いつもの小憎たらしい万事屋ものなのに。何故か今は、それが嫌じゃない。
「どうもしねーっつってんだろ」
「言えよ、茶化さねぇから」
「……うるせえ、ほっとけ」
瞳を閉じ、会話を振り切る。
このまま目を合わせていたら、自分の感情が顔に出てしまいそうだ。
敏いこの男は、もしかしたらすべてお見通しなのかもしれないが。
大きく息を吸い込み、深呼吸を一つ、二つ、と繰り返す。
「なに、深呼吸ばっかりして。動悸でもすんの?」
「しねぇよ。オッサンに片足突っ込んだてめーと一緒にすんじゃねえ」
「残念でした、まだ片足分残ってますぅ。つーか、心はまだ青春真っ盛りだからね」
「ほぉ。青臭ぇ春で年中浮ついてっから、そんな頭してんのか」
「ばっ、……違ぇよ。天パ馬鹿にすんな」
軽く口唇を突き出してむくれる表情に、苦笑を漏らす。
春の匂いが胸いっぱいに拡がっていく感覚は好きだ。
いつの間にか冬の凛とした空気から変わった、草木の息吹を含んだ柔らかな香りを感じる。
そう、当たり前のように、ごく自然に変わっていたのだろう。季節の風も、互いの間の空気も。
いつしかコイツは、自分の隣へ当たり前のように身を寄せるようになっていた。喧嘩は相変わらず絶えないけれど、それ以外の時間も着実に増えている。
口を開けば素直じゃない台詞も多々向けられるが、それは嫌悪を示すものばかりではないのも認めよう。
[chapter:花酔 4]
そっと、静かに、息を吐き出す。
もう二度と、人を愛さないと思っていたのは本当のことだ。だが。自分でも気付かぬうちに惹かれてしまっていたのなら、仕方ない。
気付かぬうちに隣にいる。それはつまり、万事屋が一方的に来るだけではなく、自分からも自然と姿を追っているということだ。
当たり前のように、近くにいて。当たり前のように、受け入れる。それがとても難しいことだと、互いに知っている。
ずっと続く永遠なんてないこともまた、心得ていて。奇跡に近いこの状態を、互いに悪くないと思っているからこそ、こうして肩を並べていられるのだろう。
そう考えたら、色々なことがすっと胸の中で落ち着いていく。
閉じていた瞼を再び開くと、万事屋と目が合った。
桜が舞う。
ひらり、ひとひら。
薄紅色の口唇がふわりと綻び、目元が緩く細まる。
自分もまた、この男と同じような顔をしているのかもしれない。
視線の端に映った、一枚の花びら。
銀色の髪をそっと彩っているそれを見て感じたのは、やはり先刻、自分へ向けて告げられた言葉と同じで。
(綺麗、だ)
一度瞬きをして、手元の盃を縁台へ置いた。
酒の水面で揺れている、鮮やかな淡い紅色の花びら。目の前の男の髪にある桜と、同じ色。
「……じっとしてろ」
「ん?」
その色へ誘われるように、頭へ静かに手を伸ばす。
柔らかそうだと思っていた髪は、想像していたよりも弾力があった。触り心地の良い、銀糸の髪。
「俺の髪が闇夜なら、てめーのは夜明けだな」
「……ふぅん」
すぐに手を離してしまうのが名残惜しい気がして、指にくるりと絡ませる。ゆるり、するり、円を描くように、馴染みの良い感触を楽しんでいた。
「…………」
抵抗されないことを好として、気を取られていたせいか。長めの前髪に隠れた顔から、音もなく笑みが零れたことに気付かなかった。
「土方、」
名前を呼ばれ、手を離そうとした瞬間。ふ、と吐息を間近に感じて。
「――、……」
一瞬のような、何秒も経ったような感覚の中、温かな口唇が重ねられた。
それが何なのかなんてことが解らないほど、子供ではない。さっきまで煩いくらい高鳴っていた鼓動が、今はやけに落ち着いている。
というよりも。
そっと離された、口唇の先。間近にある万事屋の顔の方が、余裕のなさそうな表情をしているのは気のせいか。
「…………悪ィ」
儚げに目元が歪み、消え入りそうな声で上目遣いにそう呟いた。
(なんつー顔してんだ、こいつは……)
触れるか、触れないかの距離にある、万事屋の顔。その表情の方が、よほど胸をくすぐられるというのに。
「謝るくらいなら、するんじゃねえ」
髪に触れたままの手で、ぐっと頭を引き寄せて。自ら再び、口唇を塞いだ。
「……っ、ん……」
柔らかい感触を重ね、下唇、上唇、と軽く食むように合わせる。
ちゅ、と啄んでから離せば、目の前にある男の顔がほんのり色付いていた。
「お前、大胆なことするのな」
ここ、外だけど、と。柄にもないことを聞いてくる。
「てめーが先に仕掛けたんだろが」
「いや、まぁ、そうなんだけどさ……」
ちょっと意外だったから驚いたっつーか。なんて、ぼそぼそと独り言を零す。
外だろうが、誰に見られようが、そんなの知ったことか。
第一他人なんて、自分が気にしてるよりも見てないものだ。それくらいで動揺しているこいつは、良くも悪くも、本当に少年の心の持ち主なのかもしれない。
「花に酔ったんだよ」
そう、お互いに。
眺められることはあっても、間近で見つめられることはない、桜の花。その綺麗な美しさを目の当たりにして、心を奪われ、酔ったのだ。
「そういうことにしとけ」
「ってことは、いつか酔いが冷めちまうじゃねーか」
出来れば冷めないで貰いてぇんだけど、と弱気な声で訴えかける万事屋。
「さぁな。そいつはてめー次第だ」
にやり、と意地悪く笑い、置いたままの盃を手に取る。一気に煽れば、空になった底に一枚の花びらが残った。
そこへ先程取った花びらを、ひらりと散らす。すれば、偶然にも二枚の先端が重なって。
薄紅色のハートの形を象っているように見えた。
今は亡き人のために空けていた隣へ、今は違う人が座り、共に笑い合っている。
あの頃と同じように、この気持ちを言葉にすることはないかもしれないが。
――俺も、桜は嫌いじゃねえよ。
それくらいは教えてやってもいいかな、と思い始めていた。
End.
2012/05/09
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
【Update:2012/05/09、Remove:2012/09/18】
pixivでお世話になっていた絵描きさんに捧げた、原作の二人のお話。
春にお花見をしている万事屋さんと副長さんの馴れ初め的な何か。
(pixivで公開していたものを移転しました)