―――美しい。
凡そ戦場に持ち込むべきでないそんな形容が脳裏を過った時、桃香は雑念を払う様に首を振った。
突然目の前に現れ、助太刀を申し出て、瞬く間に三人の敵を切り伏せた男―――天救義志軍総大将、北郷一刀と名乗った彼は、未だ周囲を囲む様にして此方を窺う賊徒を前にして、反りのある独特の刀身が特徴的な剣を整然と構えていた。
その背には一切の油断も慢心もなく、そのあり方そのものが最早一つの武器であるかの様にすら感じられる。
そんな彼を前にして、賊徒達は襲いかからない。否、襲いかかれない。
自分達の持つ鈍とは比べ物にならぬ程に鍛え上げられたのであろうその刃は、最早一種の美術品の様ですらありながら、男三人を切り伏せたにも関わらずその美しさは曇るどころか、血の滴りすら美を助長する要素の様に煌めいている。
全身から感じられる気焔はこの数的不利にも関わらず泰然としており、一切の乱れがない。むしろ、囲い込んで有利な筈の自分達の方が追い詰められている様な錯覚すら覚える。
「桃香様ッ!!」
と、賊徒達の背の向こう側から桃香の半身たる義妹、愛紗の声が響いた。
途端、賊徒は堰を切った様に騒ぎ立てる。
「び、びびってんじゃねぇっ! 数はこっちの方が上なんだ!!」
「そ、そうだそうだ! 全員でかかりゃ、恐いもんなしだ!!」
図らずも愛紗の言葉が、窮鼠の心を一つにしてしまった。
一斉に声を張り上げて自身を鼓舞し始めた賊徒が刃をギラリと閃かせ、手当たり次第に反撃に出ようとした、正にその時、
「よし、まずはアイツを――――――!」
ザクリ、と、肉片を貫く様な鈍い音が一瞬響いた。
数瞬訪れた静寂の後、湯水の如く溢れだす赤々とした液体―――血が、四方八方の賊徒の身体から飛び出した。
「う、うわぁぁぁ!?」
「痛ぇっ! 痛ぇよぉっ!!」
「ひ、ひぎゃぁぁぁ!」
大地に木霊する断末魔とふき上がる血飛沫の中、やたら悠長な声音が桃香の鼓膜を揺らした。
「やれやれ…………言った筈だぞ一刀。肉体労働は、僕の専門外だと」
腰元にやたら長大な鉄の塊――よく見れば、それは折りたたまれた扇の様なモノだと推測出来る――を提げて、手をすっぽり覆う骸骨の様な装飾の手甲を弄りながら歩み寄る男を視界に収めた瞬間、桃香の背筋をゾワリと冷たい何かが駆け抜けた。
「――――――お陰で、弓兵の配置に思いの他時間がかかってしまったではないか」
刹那、空気を切り裂く様に無数の矢が雨の様に大地に降り注ぐ。
最短距離に立っていた人間“だけ”を切り裂いた為に逃れていた者達目がけて降り注いだそれは、寸分たがわず賊徒達を針鼠へと変えていく。
断末魔すら許されず。
降伏すら許可されず。
ただ粛々と、整然と下された一命によって、百を数える賊徒が瞬く間に屍と化した。
そんな光景を背景に、男は桃香の前に立った。
「公孫瓉軍遊撃部隊、劉備軍総大将、劉玄徳とお見受けする」
「…………は、い……」
「この地の後始末は我らが引き受ける。貴殿らは直ちに主力部隊と合流し、敵拠点の制圧に―――」
と、男の声を遮って遠方から鬨の声が上がった。
それを聞き届けて、僅かに眉を顰めた男が踵を返す。
「やれやれ…………引き上げるぞ一刀。戦は終わりだ。君のお人好しが今に始まった事ではないとはいえ、ロクな戦果も上げられぬままとはな……」
「悪かったよ……けど、仕方ないだろ? 目の前に助けを求める人がいて、助けられる力があるなら、俺は、」
「分かっている。だから僕らは君と共にある」
仕方ない、とでも言いたげに、その声音は優しかった。
振りかえりもせずに自分から遠のいていく男、そして桃香に軽く礼をしてからその背を追った一刀とすれ違う様にして、愛紗が駆け寄って来る。ややあって、鈴々も走ってきた。
「桃香様、ご無事ですか?」
「桃香おねーちゃん!」
「うん、私は平気…………ごめんね、二人とも。私の所為で……」
桃香が謝罪の言葉を口にしようとした時、諌める様に愛紗は桃香の唇に指をあてた。
「謝らないで下さい、桃香様。此度の戦は、我ら姉妹の力が及ばぬ故の結果。何よりも、民を慈しみ“守る”為に戦う道を選ばれた桃香様の御志の強さを改めて知る事が出来、この関雲長、より一層の忠勤を誓いましょう」
「にゃはは! 鈴々ももっともーっと頑張って、次の戦では桃香おねーちゃんを勝たせてあげるのだっ!」
二人の言葉を聞いて、桃香は目頭が熱くなるのを感じた。
「ありが、とう……っ!」
選んだ道は、決して優しくはない。
見果てぬ夢に辿りつくまでに、幾度となく困難が立ちふさがる事は目に見えている。
それでも、と桃香は思う。
それでも、みんなで力を合わせれば、きっと夢は叶う。
『天救義志軍総大将、北郷一刀! 義によって、劉備殿にお味方する!!』
そう。
恐らくは、同じ志を持っているであろう、彼と共に――――――
広宗の戦いは、連合軍の勝利に終わった。
大部分の黄巾党は討伐され、首魁の張角、張宝、張梁らは行方不明。辛くも逃げた黄巾党も微々たるものであり、大将軍の何進ら官軍は勝鬨を上げてこれを喜んだ。
連合に参加した諸候にも振る舞い酒が配られ、皆々が戦勝に沸き立つ中、義勇軍の陣から少し離れた小川の畔に、趙雲の姿があった。
「ちょ―――」
呼びかけようと口を開きかけた所で、素早く趙雲の掌が俺の口を塞ぐ。密着した肌からは酒の臭いに混じり、妙に色香を感じさせる不思議な薫りが鼻孔の奥を擽った。
「お静かに、北郷殿」
耳元で睦み事を囁く様に、趙雲が声を潜める。
それに従って耳を澄ますと、小川のせせらぎに混じって人の声が聞こえた。
雲の無くなった夜空に浮かぶ月が、その人物を照らしだす。
仲達と、朱里だ。
「……全く、一刀のお人好しには、慣れたつもりだったのだがな」
「そんな事言って……仲達くん、本当は嬉しかったんじゃないんですか?」
肩を竦める様な仲達の言葉に、朱里が笑顔を浮かべていた。
二人ともが傍らに杯を置き、寄りそう様に大樹に身体を委ねている。触れそうで触れない、微妙な距離を保ったまま、二人は言葉を重ねた。
「一刀さんが、どうしようもないお人好しで……だけど、一番大事な事はちゃんと分かっている。現実をしっかりと見据えて、それでも理想を捨てないで、頑張れる人だって分かって、嬉しかったんでしょう?」
「…………まぁ、否定はしない」
仲達の言葉に、朱里は柔らかく微笑んだ。
そうしてどちらともなく会話を区切り、目の前の小川に視線を移す。
滔々と、せせらぎを静かに見つめて、不意に、
「―――けど、やはり駄目だな」
鬱憤を吐きだす様に、仲達は言った。
「今のままでは……一国の主になろうと、直ぐにこの乱世に呑み込まれてしまう。優しいだけでは、大切な民は、国は……守れない」
仲達の言葉に、知らず、俺は握り拳に力を込めていた。
華琳――――――曹操は。
俺の知る、最愛にして最高の王は、何時だって気高かった。けれど、非情さだけではない。時に敵でさえ許し、認めて、必要であれば利用する賢さや、優しさだってあった。
しかしそれは、王としての英断と背中合わせ。己の覇道を突き進むためであれば、時には冷徹な決断さえ下す覚悟を内包していたからこそ、彼女は正しく“王”だった。
だが、俺は――――――
「……それでも、いいんじゃないんですか?」
朱里の言葉が、俺の耳朶を打った。
「この世に、完璧な人間なんていません。私は、仲達くんの駄目な所を沢山知っています。私だって、駄目な所が沢山あります」
微笑みかける様に、朱里は仲達に顔を向ける。
「だけど―――いいえ、だからこそ、私達は互いを支え合って、補い合って、平和な国を作ろうって誓ったんじゃないんですか?」
「…………」
「一刀さんの足りない部分は、私達で補えば良いんです。逆に、私達では足りない部分を一刀さんや他の人に支えて貰って…………」
朱里は小さなその手を仲達の手と重ねて、
「そうやってみんなが助け合って、支え合えば、きっと大丈夫です」
「……理想論だな」
「えへへ……」
僅かに苦笑してみせる朱里を見やり、仲達は手を伸ばした。
「―――ふぇ」
息を呑む音が、内側に響いた様だった。
彼の肩越しに夜空を見上げて、抱き寄せられた自分の表情が吃驚した様なものを浮かべているのが、簡単に想像できた。
「朱里」
「ふぁ、ふぁいっ」
素っ頓狂な返事しか返せない私を余所に、仲達くんは更に強く、私の身体を抱きしめた。
「僕は……君や、雛里の様に優しくは出来ない。他人にどうこう言われても、自分の考えしか、自分のやり方しか絶対の信頼を置く事は出来ないんだ。例えそれが非情であろうと、冷徹であろうと……それが最善で、最良の判断なのだと、ずっと思ってきたし、それはこれからも変わらない」
「…………」
「だから朱里……お願いだ。もし――――――もし、僕の行いに、考えに過ちがあったのなら、遠慮なく糾弾して欲しい。僕が道を誤る前に、叱りつけてでも僕を正してくれないか?」
そう言って、更に強く私を抱きしめる彼の肩は、小さく震えていた。
まるで、知らない筈の何かに怯える様に、目に見えない何かを恐れる様に、童子の様に弱弱しく見えたその肩を、彼と同じ様に抱きしめる。
「仲達くん……?」
何が貴方を脅かしているのだろうか。
何が貴方を追い詰めているのだろうか。
その全てを、疑念のままに問いかけられる程に“子供”であったのなら、どれだけ良かっただろうか。
―――もう私達は、守られるだけの“子供”のままではいられないのだ。
自分の足で立って、自分の目で見て、自分の頭で考えて――――――自分で、行動するしかない。
この乱世を治めると誓ったあの日から、誰に言われるでもなく私はそう決意していた。
だから、今はただ……
「……大丈夫ですよ、仲達くん」
震えるその肩を、怯えるその頭を、優しく撫でる。
迷い、戸惑う幼子をあやす様に、優しく、何度も――――――何度も。
「仲達くんは、絶対に間違えません」
「―――ッ」
ビクリと震えたその身体を逃さぬ様に抱き寄せて、私は言葉を重ねた。
「仲達くんは、ちゃんと自分自身が見えています。自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、ちゃんと見えています」
「…………」
「だから仲達くんは間違えません。仲達くんが、私の知っている仲達くんでいる限り、絶対に間違えません」
その選択が非情であろうと。
その判断が冷酷であろうと。
その献策が残忍であろうと。
彼の心が涙を流し、痛みを忘れない限り、それは決して“間違い”などではないのだから。
「……………………あり、がとう」
小さく、けれどはっきりと、彼の口は感謝を述べた。
やがてどちらともなく身体を離し、何となく口を開き難い雰囲気が二人の間を漂った。
「…………」
「え、えへへ…………」
先程まで重ねられていた掌を撫でながら、朱里は顔を赤らめて気恥ずかしそうに苦笑を浮かべた。
仲達は仲達で小川の方を向きながら杯を手に取るが、その横顔は首元から耳の先に至るまで真っ赤である。
近頃は色々あって触れあうどころか私用で話す機会など殆どなかったから、お互いにその距離感を掴みかねている感じだった。
だから極端に近づいてみて、今度は恥ずかしさからさっきより微妙に距離を置く、と……
「ちょ、ちょっと恥ずかしかったですね……」
「そ、そうだな……」
やや上擦った声音でそれぞれに口を開く。
「け、けど誰も見てないか、ら………………」
言いかけて、朱里がある一点を――――――仲達が朱里を抱き寄せた辺りから微妙に岩陰から身を乗り出していた俺達を捉えて、硬直した。
その様子に不自然さを感じたであろう仲達が同じ様に此方を向き―――やはり同じ様に硬直した。
一瞬、世界から音が消える。
「か、かかか、かず、かずと!?」
何時になく冷静さを失って困惑する仲達。
「いやあのこれは決して盗み見ていたとか抱き合っている所に思わず出くわしたとかそんなんじゃなくて偶々偶然遠目に二人が見えたからというかあのそのえとえと―――!」
何故か腰を引きながら狼狽する俺。
「ふふっ、冷徹な軍師殿にしては、中々初々しい逢い引きではないか」
茶化す様に笑みを零す趙雲。
「ふぇ―――!」
そして、体中の血液が頭に集まっているんじゃないかと心配になるくらい顔を真っ赤にした朱里。
何だか、こんな空気が懐かしいなぁと既に現実逃避を始めた俺が見上げた夜空に、
「ふぇぇええぇえぇぇぇぇぇええええぇぇぇええええぇぇぇえええええ!!!」
朱里の悲鳴が響き渡った。
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二か月……いや、三か月か。
諸々思案とかしていたらいつの間にか八月が終わっていました。