第九話 ラブコメさん
カーテン越しに黄金の埃が舞う。
密やかにカーテンから漏れる日が新たな世界を運んでくる。
ハローワールド。
そう朝の挨拶する男を思い出して少女は上を見上げる。
視線はいつか天上へ届くのだろうかと停滞している思考で思う。
「博士・・・・・・」
その男は言っていた。
朝とは夜を越えた者だけが持ち得る特権だと。
朝とは死んだ世界が甦る儀式なのだと。
闇に消えた全てが照らし出された時にこそ真実は目前に現れる。
そこにはきっと楽しい事だけではなくて、哀しくて辛い事も待っている。
それでも前に進み続けるしかないから、人は朝に希望を見る。
今日は死ぬには良い日だと笑って居を後にすら出来る。
「・・・・・・」
男は最後の朝に言っていた。
朝日が昇り続ける限り、希望が消える事はない。
夜の帳が降り続ける限り、絶望が終わる事はない。
だが、どちらに目を向けるかは自分で決められる。
闇に閉ざされた空がいつかは照らし出されるかもしれないと見上げるかどうか。
たった、それだけの選択が、人と世界を生まれ変わらせる。
「・・・・・・」
熱いモノが瞳の端から一筋零れ落ちて、少女は横を見た。
小さな寝息を立てて眠る青年が一人。
ゆっくりと起き上がる。
薄ぼんやりした意識のまま少女は身を起こし、隣の青年の顔を覗き込む。
いつも人の事ばかり考えていそうなお人よし。
その顔に片手で触れる。
「Hello World・・・・・・」
髪を掻き上げて、少女はそっと唇を触れ合わせた。
ガチャリと扉が開く。
「え――――――」
少女はゆっくりと振り向いて、声の主が知っている人間だと認識した。
「・・・・・・?」
己が今何をしていたのか、少女は再確認する。
「!?」
「ソラ・・・さん?」
その日、朝から外字家には恋の旋風が巻き起こりつつあった。
『今日は一日夏日となる事でしょう』
朝の食卓。
肩を包帯に巻かれて身動きが不自由な久重は顔を微かに引き攣らせて目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
『いやぁ~~~今日の特番ドラマ【愛してるよ。貴女(マイハニー)】は楽しみですねぇ~~~』
部屋の隅にあるラジオから流れる番組など久重の頭には欠片も入ってきていなかった。
『では、今日の運勢です』
ジッと見詰め合う二人の少女がちゃぶ台の左右に展開し、黙々と食事を平らげている。
片や六本の縦ロールを従える押しかけ富豪少女。
布深朱憐。
片や金色の髪を靡かせ颯爽とNDを操る不思議少女。
ソラ・スクリプトゥーラ。
どちらにしても未だ戦いの趨勢は定まっていない。
『おひつじ座の貴方。今日の運勢は最悪。もしかしたら浮気現場を彼女に見られちゃうかも!』
ラジオから垂れ流される番組を真剣に聞くフリをしながら久重は思わずにはいられなかった。
(朝から何でこんな空気!? いや、それ以前にどうしてこうなった!?)
朝、起きた瞬間から何故か背筋を震わせた久重が見たのは二人が互いに無表情で見つめ合っているところだった。
目が笑っていない、どころの話ではなかった。
乙女達の瞳が澄み過ぎた水のように自分の顔を映した時、久重の背筋には何か言い知れぬ冷や汗が伝った。
清過ぎる水には何も棲めない。
正に聖人君子ならば泰然とその視線を受け止められたのだろうが、何かと後ろ暗い仕事をしている久重にはその瞳が眩しすぎてかなり近寄り難かった。
「ひさしげ様」
「は、はい? な、何だ?」
オドオドしながら朱憐に振り向いた久重が作り笑いを浮かべる。
「今日のお味噌汁はどうですか?」
「う、上手いと思う」
何度も頷いた久重に朱憐が僅かに微笑み、チラリとソラを見てから再び食事に戻る。
「ひさしげ!」
「ソ、ソラ?」
ソラがジットリとした視線で睨み付けるように久重の方に身を乗り出す。
「食事が終わったら包帯変えるから!」
「わ、解った」
頷く事しか出来ない人形のようにカックンカックン首を動かす久重の様子に満足したのか、ソラがチラリと朱憐を見てから何事も無かったように食事に戻る。
「ひさしげ様」
「こ、今度は何だ?」
朱憐の視線が少しだけ迷う素振りを見せてから久重の肩に注がれた。
「その・・・ケガは大丈夫ですか?」
「ああ、大した事ない。少し仕事で痛めただけで三日もすれば直るらしい」
「そうですか・・・・・・」
僅かに顔を曇らせた朱憐が俯いて食事に戻るも箸を止めた。
『腕取れてたのに・・・。大した事無いわけない』
久重の耳にソラの沈んだ声が響いた。
ソラが自分にしか聞こえないようNDを使ったのだと気付いて久重はその場の居たたまれなさに頭を掻く。
「ひさしげ様。今までずっと言わずにおこうと思っていた事があります」
「朱憐・・・?」
俯いていた朱憐の顔がいつの間にか上を向いていた。
その瞳に宿る今までとは別の色に久重が戸惑った。
「ひさしげ様。ひさしげ様が普通のお仕事をしていない事・・・わたくし知っていましたわ」
「・・・そうか」
たぶん、そうなのだろうとは久重にも解っていた。
ご令嬢と呼ばれる人種である朱憐が本気になれば家の力で大概の事は調べられる。
そんな素振りもなくいつも接してくれていたからこそ久重は身分や門地とは人間にとって重要なステータスであるという基本的な事を朱憐の前では忘れられていた。
それを急に持ち出すという事は朱憐にとっても久重自身にとっても互いの深い場所に触れ合う行為であり、その場は無傷では済まない鋭さを持つ。
「ひさしげ様がただの大学院生だけではなくて・・・何でも屋というものをしていて・・・時には危ない事や法に抵触するかもしれないような事をしているのも・・・」
「その通りだ。間違っちゃいない」
久重が朱憐の言葉を肯定する。
「それで失礼かと思いましたが、ソラさんの事も調べさせてもらいましたわ。久重様に留学のご経験は無く、世話になった大学教授もいないと家の者から言われました」
「―――いつ調べたんだ?」
「昨日です」
久重がその日数に内心で驚く。
久重は自分が思っていたよりも朱憐の家の力は強大なのだと今更ながらに感じた。
「ひさしげ」
「ソラ?」
箸を置いたソラが朱憐を見つめる。
制止しようとした久重を手で制して、ソラが首を横に振った。
「私が話さないといけない事だから」
その微笑に久重が反論の余地が無いと知る。
「大丈夫だから、ね?」
「解った」
「シュレン」
向き直るソラに朱憐を真っ直ぐに見つめた。
「単刀直入にお聞きしますわ。聖空さん。いえ、何処かの誰かさん。貴女は一体誰ですの?」
「話す前に聞いておきたいんだけど、私の事をシュレンはどれだけ知ってるの?」
「貴女がこの日本では不法滞在者である事。貴女がこの国では存在しないはずの人間である事。貴女の経歴が全て嘘である事。貴女がひさしげ様の仕事に何らかの関わりを持っている事。これで全部です」
ソラが持っていた箸を置く。
「私は・・・ひさしげに助けられたの」
静まり返る食卓からラジオの音が遠ざかっていく。
「それまで私は一人だった。昔親しかった人達と道が違えてしまってからずっと・・・世界中を逃げ続けてきた」
「逃げ、る?」
衝撃を受けている朱憐の言葉にソラが頷く。
「もう何もかもに疲れてた。そんな時、私はひさしげに出会ったの」
たった数日前の事をソラは懐かしそうに語る。
「その時の私は何も見えなくなってた。自分はまだやれるって弱気になんてなって無いって自分が強いフリをしてた」
久重が始めて出会った頃のソラを思い出す。
まるで何もかもを拒絶するように強がった少女の姿が今も瞼の裏に焼き付いていた。
「本当はこんなにちっぽけで何も出来なかったのに・・・・・・」
己の手を自嘲気味に見つめてソラが拳を握る。
「敵だと思い込んで酷い事をした私にひさしげは優しくしてくれたわ。そして、私の為に怒ってくれた。私は絶対に忘れない。ひさしげが私にしてくれた事を・・・」
朱憐がソラの瞳の奥。
揺らめきを見つける。
「・・・・・・・・・」
耀かしいものを秘めた瞳が自分と同じものだと朱憐は認める事にした。
その誰にも侵せない輝きは辛苦を舐めた者の証。
それを知って尚その先を望む者の色。
「私はソラ。【ただ聖書のみ】(ソラ・スクリプトゥーラ)。世界平和を望む逃亡者」
朱憐がその響きを微かに呟くとソラが頷いた。
「私の本当の名前は誰も知らない。私自身さえ。きっと、私を追いかける者さえ。自分がどんな国のどんな人種なのか私には解らない。予測は出来ても証拠が無い。たぶん、どんなに探したって私の生まれた記録はこの世界の何処にも記されて無い。私に解るのは私が誰にも利用されてはいけないという事だけ」
シュレンとソラが名を呼ぶ。
「貴女に私が教えられるのは貴女の未来に私はいないから心配しなくていいって事。それだけ・・・・・・」
「――――――」
その微笑に感じられるものが胸を抉って、朱憐は胸を片手でそっと押さえる。
それは痛ましさだった。
最初からソラという少女が己の未来を信じていないという事実。
朱憐が望む未来に自分がいないと断言するという事はつまり「そういう」話だ。
「空さん。それはご自分を過小評価し過ぎですわ」
「え?」
未だ整理出来ない混沌とした胸の内が僅かに「弾んでしまった」事を朱憐は羞じ悔いる。
「わたくし達には明確な差がある。確かに優劣が最初から存在する。でも、それは貴女の想いが実らない事に対する言い訳にならない。それがどんなに『致命的な溝』であるにしろ、諦めるのは最後でいい」
「――――――」
今度はソラが何も言えなくなり、胸を押さえた。
「それがわたくしの持論です。わたくしの未来に貴女がいないとしても、それはただわたくしの前からあなた『達』がいなくなっているだけかもしれない」
「シュレン・・・・・・」
ソラの顔に一筋の流れが伝った。
思ってもみなかった言葉がソラの胸を震わせていた。
「殿方の前で無闇にソレを見せてはいけません。それは女の最後の武器なんですから」
ハンカチを差し出した朱憐の手を震える手が捉えて、きゅっと握る。
「あり・・・がとう・・・」
二人の様子にどうやら丸く収まったようだと久重がわざとらしく咳払いをして告げた。
「早く食べないと遅刻するぞ」
「え? あ、は、はい!?」
腕時計を確認した朱憐が慌てて箸を持つ。
その顔は僅かに高潮していた。
着替えでも覗かれたような気分に違いなかった。
自分の心の内を吐露するという事は誰だって恥ずかしい。
「空さん。これからもそう呼んでよろしいですか?」
ハンカチで目元を拭いたソラが朱憐に赤い目元を細めて笑った。
「うん!!」
闇雲に走り出せるのは何も若い人間だけとは限らない。
佐武戒十にとっての人生はいつも五里霧中。
その最中を最速で走り抜けてきたからこそ、今の佐武があると言っても過言ではない。
職業倫理スレスレの違法捜査は数知れず。
しかし、自分の正義だけは貫き通してきた。
上から何と言われようと上すら黙らせる結果こそが全てを押し通す剣となった。
磨り減った靴の踵を誇れないならば、己の人生に一欠けらの価値無しと断ずる峻厳さ。
多くの人が佐武を称して「鉄槌」と呼んだ。
その佐武の称号をしてもその結果は警察始まって以来の大戦績だった。
「お宅の住所を家宅捜索させてもらいました。出てきた書類は高度な偽造を施されたものばかり、カード類も免許類も全て偽造。銃弾二十箱。サブマシンガン二挺。フラッシュグレネード七発に通信傍受装置。顔を照会したら何処かの国のテロリストモドキな諜報員ときた。GIOの実働部隊を捕まえたのは初めてだが、どうやら噂通りらしい」
顔の半分を包帯で巻いている白人の男が黙りこくった。
一晩過ごした留置場で体が固まったのか。
佐武の前でしきりに首の間接を鳴らしている。
「おたくのお仲間半分は自供しましたよ? 後の半分はGIOが助けてくれると思っているのかだんまりだが、時間の問題でしょう。ちなみにGIOにおたく達の顔を照会しましたが「我が社は現在その犯罪者達に内部機密を持ち出されたのではないか調査中ですので」とか何とか」
「・・・・・・・・・・・・」
頑なな男の態度に机の上で手を組んだ佐武が笑みを作る。
「ちなみに此処の留置場の警護は交代で二人」
ピクリと男の眉が動いた事を佐武は見逃さない。
「今時電子錠も掛けてない旧い設備なんですが、いや困ったな。今日辺り少しの間オレの呼び出しで五分は持ち場に戻ってこないかもしれない」
「――――――脅しているつもりか?」
「いやぁ? どういう意味で」
男が唇を噛んで佐武を睨み付ける。
いつ始末されてもおかしくない男にしてみれば、佐武の言葉は『不審死』を遂げたいのかという脅しだった。
「取引だ」
佐武がニッコリと微笑んだ。
「条件を聞きましょう」
「オレが『独自に行った作戦行動の全容』を教えよう。その代わり絶対に釈放するな」
(まぁ、さすがにそこら辺が落としどころか)
内心で佐武が一人ごちる。
あらゆる分野に進出しているGIOの影響力は絶大。
そのGIOに楯突く供述などしようものなら、どんな方法で始末されるか解ったものではない。
だからこそ、男の妥協点は「作戦内容は教えるがGIOと自分は公式には関係ないという事にしてくれ」というものだった。
「では、銃刀法違反で書類送検しましょう。検察には話しを通しておきます。気にしなくても彼方が嫌いな国とは犯人の受け渡しが無いので安心を。『幸いな事』に彼方は外国人だ。今のご時勢なら再度逮捕されるでしょうから二十年は堅いでしょう。では」
四十分後、席を立った佐武は外で待たせていた同僚にその場を預けて部屋を出た。
佐武が脳裏で話しを整理する。
男の話を要約すると単純なものだった。
男に暗殺の仕事が舞い込んだ。
とある男を始末しろと言われて手を出したが途中で見失った。
再度見つけた時には女と青年と少女を連れていた。
そこで襲ったが返り討ちにあった。
対象の詳しい情報は知らない。
(国家権力を何だと思ってやがる)
内心の怒りを静めて佐武はGIOの遣り方に吐き気を覚えた。
男があそこまで警察に協力的な理由は一重にGIOに対する恐怖があるからに他ならない。
状況的にぶち込まれるのはもう『詰んでいる』状況の男にとって逆にありがたい措置だろう。
日本程にスパイ天国の国は他に無いが日本程に国家権力が仕事をする国もまた無い。
官僚や幹部こそ天下りだの何だのとやっているが日本の末端の公僕は外国に比べても犯罪者との癒着や賄賂などに対してのモラルが高い。
組織内部への宗教汚染や官僚・経済界からの圧力なども比較的容易に撥ね退け自浄する。
日本の警察組織そのものの独立性が高く、その独立性の高さ故に様々な外部からの干渉が悪い意味でも良い意味でも届き難い。
未だに民営化されていない刑務所の管理は先進国の中でもとりわけ厳重というわけではないが、末端まで行き渡る職業意識が大きな背任行為を発生させづらく刑務所内での暗殺なんて仰々しい事はまず起こらない。
これが隣国ならば、知らぬ間に殺されていても何の不思議もないのだから、男にとって捕まった事は未だ最悪の結果ではないと言わざるを得なかった。
「とりあえず回るか」
男の身柄の安全を確保する為、複数の協力者に厄介事を申し入れようと佐武が端末を取り出した時だった。
「佐武さん!!」
声に佐武が振り向くと慌てて今正に男を預けてきた同僚が駆けてくるところだった。
「今、被疑者がいきなり死んだ!!」
「――――――!?」
「佐武さん!!」
後ろからまた声がして佐武が嫌な予感に顔を強張らせる。
「どうしたってんだよ!?」
怒鳴る佐武に他の同僚が二人駆け寄ってくる。
「留置場の連中が軒並みやられた!!」
「死んだのか!?」
「今、救命処置を行ってるがダメそうだ!」
思わず舌打ちして佐武が唇を噛んだ。
「それで原因は?」
「それが目撃者は全員いきなり苦しみ出して死んだとしか?!」
(やられた!?)
佐武が苦い顔で思考を巡らせる。
(もしナノマシンや毒物なら証拠も残らないクソ!!)
GIOならば大げさでも何でもなく証拠の残らない殺害方法をコスト無視で行える。
体内に本人達の知らぬ間に何かしらの仕掛けが施されていたに違いなかった。
「それで今現場はどうなってやがる!?」
同僚の男の端末に連絡が入り、佐武の前で男が渋い顔をした。
「今、あっちの捜査本部が現場を封鎖してるらしい」
「クソが・・・・・」
歯を軋ませて佐武がその場から歩き出す。
「どうするんだ?」
同僚達から佐武に質問が飛ぶ。
「オレはこれから出てくる。お前らは何か解ったら連絡してくれ」
同僚達を置き去りにして佐武は騒がしい警察署から抜け出した。
歩きながら佐武が端末を取り出して短縮ダイヤルに掛ける。
「おい」
相手はすぐに出た。
「ふぁ~~~い。こひら、りょうほ~~」
伸び伸びの声が寝起きである事に佐武がげんなりした顔で続ける。
「面白いネタをやる。欲しかったら公園に来い」
「!? マジ!? 了解しちゃいますですはい!!」
「お前の頭には何が詰まってんだ? ああ!!?」
不機嫌にかなり切れ気味で佐武が怒鳴ると了子が答える。
「それは無論。一にネタ。二にネタ。三にネタ。四に命。五に、くぁ~~~~あ・・・とりあえず衣食住」
欠伸を挟んだ了子がバタバタと外出の準備を整えていく。
「それならお前もネタ出せ。言っとくがこれからの話は命賭けになるかもしれん」
佐武がそう口にするとカラカラと了子が笑う。
「命賭けてないネタでスクープなんて無いですよ。戒十さん」
「冗談に聞こえるか?」
「これでも戒十さんに命賭けなネタを十や二十は上げました。えっへん」
「今回は今までの比じゃねぇ」
「・・・・・・それでも戒十さんならどうにかしてくれると信じてます」
「お前・・・後悔すんじゃねぇぞ」
「はい!」
了子の電話越しの明るい声に何か救われたような気がして佐武は電話を切った。
昼間の公園に辿り着くまで数分。
(少し他のネタもサービスしてやっかな・・・・・・)
佐武の口元にはいつの間にか緩やかな微笑が浮いていた。
永橋風御にとって数日も親友が尋ねてこないというのはほぼ異常事態と言ってよかった。
しかし、それが親友の仕事の話だと言うならば納得するだけの理由として十分だった。
アズトゥーアズ。
そう呼ばれる女の仕事にはいつも危険が隣り合わせ過ぎる。
風御が知る限り、親友外字久重は常にその危険(リスク)を背負っている。
数年前。
初めてその年齢不詳の女に出会ってからというもの久重は才能とも呼ぶべきものを開花させている。
それを知る故に風御はその女の情報には気を付けている。
傍から見ればアズと久重の関係は雇用関係の域を出ない。
しかし、風御にはまるでアズが久重を試し鍛えているようにも思えた。
最初こそ小さな仕事をしていた久重が今では正体不明の女フィクサーの片腕と裏の世界では大評判だからだ。
猫探しだの浮気調査だのやっているだけならば風御はアズという女を見過ごしていたかもしれない。
しかし、諜報機関を相手取り詐欺紛いの手法で翻弄し、武器商人を相手に得物を安く値切り、公安とのパイプを持ちながら公安そのものにマークされ、海外富豪の私設軍隊やSASと一線交え、暗殺者に狙撃されてもケロリと外出しまくり、出所の解らない莫大な資本で特定業種の会社をM&Aし続け、小国だらけの地域でパワーバランスの調整に一役買い、交渉相手が気に入らなければ確実に破滅させる人間は見過ごせない。
そんな危険人物が親友の借金を持っているとなれば尚更に。
親友の傍にいる自分もその類だとは自覚しながらも風御は久重に極力裏社会に関わらせてこなかった。
自分が裏社会でどんな仕事をし、どんな地位にあったのか。
それは恥ずべき事ではあっても、誇れる事ではない。
未だに親友である男にそんな自分の昔を見せる事は出来ないと思いながらも、裏社会での仕事から抜けている風御には風聞だけが届いてくる。
情報にイライラもどかしい毎日を送るのは体に悪い。
数日見かけないと思えば、海外で大暴れしているアズのお供が工作員をダース単位で返り討ちにしただのと聞いて風御は愕然とした事もある。
いつの間にそんな話になっていたのかと溜息を吐きたくなる事は数知れず。
(まったく。持つべきモノは気に掛けてくれる親友だろうに)
毎朝のように朝食をタカリに来るのは正直辟易するものの、風御にとっては久重が裏社会に取り込まれていないか確認するコミュニケーション手段の一環だった。
そんなコミュニケーションを数日ほったらかしている親友が何をしているのかと微妙に気になった風御が朝から外字家を訪問するのは殆ど予定調和かもしれない。
淡々と階段を上り、外字の表札のあるドアをそのまま開けようとした時、風御の耳に甲高い声が響く。
『ひ、ひさしげの変態!!』
「は?」
思わず風御は自分の耳がイカレタのかと思った。
万年、アズ以外の女とは無縁の久重の部屋から若い女の声がする等という事態は風御にとって非常事態だった。
『ジャ、ジャパニーず銭湯はこ、混浴だって知ってるんだから!!』
「はぁ?」
声はたぶん少女。
そんな若い少女が久重の部屋でほんのり桃色空気な会話を展開している。
その事実に頭痛を覚えて風御がドアを少しだけ開けて中を覗く。
「博士が日本のお風呂は裸の付き合いで銭湯は男と女がくんずほぐれつ夢のドリームパラダイスだって言ってた!!」
少女がぎゅっと自分の体を抱きしめてジットリした視線で呆れ顔の久重を睨んでいた。
「凄い混ざってるというか特定の業種に偏ってるというか何から突っ込めばいいんだオレは?」
「ひ、ひさしげが・・・その・・・一緒に入りたいって・・・言うなら・・・考えてもいいけど・・・」
モジモジした少女の姿態にげんなりした様子で久重が首を振る。
「オレはここ数日忙し過ぎて風呂に入ってないという驚愕の事実に今気付いただけだ」
「ぅう。私も少し忘れてたけど」
「いや、忘れちゃダメだろ!? 女の子として!!」
「で、でも、ただ忘れてたわけじゃなくて。【ITEND】は体の老廃物なんかを排除して常に肉体の置かれる環境を保つから汗とか皮脂とかそういう汚れを綺麗にしてくれて」
「オーバーテクノロジー無駄に使ってんな?!」
久重が思わずツッコミを入れた。
「こ、これは戦場なんかで清潔を保つ事で士気の向上なんかを目的にしてる機能だから。それにそういう能力があるから今まで逃亡中も不快な思いはしなかったの・・・・・・」
「―――そうか。悪い。少し考え無しだったか」
頭を掻いて何やら反省した親友の顔に風御は愕然とした。
『あの』外字久重が自分よりも数歳は若い少女を相手にラブコメをしている。
風御の気が遠くなった。
「言っておくが日本の銭湯は混浴じゃない」
「ふぇ!?」
「とりあえず、これからは毎日風呂ぐらい入りに行くから」
「ひさしげも一緒?」
「ああ」
「あ、でも・・・・・・」
「どうかしたのか?」
「その、着替え」
「・・・・悪い。気付かなかった。今日はその辺も含めて買出しに行こう」
「いいの?」
「悪い理由があるのか?」
「それは・・・だって、ひさしげ貧乏みたいだし」
「そういうのはこっそり心の中にしまっておいてくれると助かるな」
「お金大丈夫?」
「それなりに」
「うん・・・ひさしげが言うなら。お世話になります」
「畏まらなくていい。少し値段に気を付けてくれれば数着分買える金はある」
「無理してない?」
「してるように見えるか?」
「いいわ。ひさしげが驚くくらい安いのにするから」
「それはそれはどうもありがとうございます。お姫様」
おどける久重に少女は輝くような笑みを浮かべた。
【・・・・・・・・・・・・お前誰?】
ラブコメを繰り広げる親友へ密かにツッコミを入れて風御はそっとドアを閉め、その場から立ち去った。
どうやら悪い夢でも見ているらしいと風御が二度寝したのはその日の正午過ぎだった。
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青年と少女はラブコメをしていた・・・。