第十話 命の宣託を
病院の奥にはいつも闇が広がっている。
廊下の先で誰にも知られないようにひっそりと人生の終わりが訪れる。
命と向き合う現場は戦争のようで、実際には救われる命よりも消えていく命の方が多い。
超少子高齢化が進んだ世界は葬儀屋こそ儲かるものの、人の命を救う病院に金は回らない。
高騰する医療費に国は抑制策を打ち出し、年金というシステムは破綻し、国民皆保険は崩壊しつつもまだ生きている。
そんな世の中でも技術という一点において人々の医療は守られている。
新技術による高い医薬品や医療機器のコストダウンが医療の質を下げずに値段を下げた結果、未だ医療現場も完全には崩壊していない。
人口の激的な減少が起こった【黒い隕石】事件の後も例外的に人口が緩やかに衰退している日本で医療現場と国民は昔よりも親密な関わりを持つようになった。
一日中病院にいる老人達の多くが良い例かもしれない。
患者の誰もが長い生に疲れながらも、笑い怒り泣き、病院で余生を持て余している。
老人ばかりが通う病院からは産声の数が少ないという声が聞こえてくるものの、だからこそ人々は子供達に未来を託そうと制度上は手厚い保護を行なっている。
「残念ですが、諦めて頂くしか方法がありません・・・・・・・」
六十を過ぎるだろう医者が僅かに顔を伏せた。
小さな個室で一人の女性が目を閉じ俯いて唇を噛む。
「私の命を賭けても?」
「どうにもなりません」
張り出した腹を撫でて沈む女性を後に医者が退出した。
押し殺した嗚咽が暗い廊下を伝う。
その場を通り過ぎる看護師達は誰もが顔を沈ませながら早足になる。
そんな時だった。
ガラリとドアが開いた。
医療関係者以外入ってくるはずの無い扉を抜けて一人の青年が顔を覗かせる。
「何方?」
女性には両親がいない。
女性には恋人もいない。
女性には友人もいない。
「失礼を。私はこういう者です」
白いスーツを着た青年が印象の曖昧な笑みでそっと名刺を女性に差し出した。
女性が受け取った名刺に視線を移す。
名刺には奇妙にも名前が無かった。
書かれているのは肩書きと会社名だけで胡散臭い事この上ない。
しかし、そこに書かれた一文が女性に僅かな興味を抱かせる。
先進技術。
「何か御用でしょうか?」
「その命を賭けても守りたいと貴女が望んだからこそ、私は貴女の前に現れた」
「・・・・言っている意味が解りかねます」
「今感じた貴女の胸の内の期待を裏切らないだけの用意がこちらにはあります」
「本当・・・ですか?」
「はい」
「でも、用意できるお金は・・・・・」
手を握り締めた女性に青年は首を横に振る。
「我々は先進技術を実用化する為の被検体を探して貴女を見つけた。適合率七十七%、金銭は要りません。ただ、我々の実験に貴女が欲しい」
「この子を・・・・・・本当に救えますか?」
女性の瞳に決然たる意思を認め、青年は頷く。
「産んだ後、成人まで面倒を見ましょう。しかし、貴女がこの子を抱くのは一度きりとなる」
女性がその言葉に張った腹を撫でて沈黙した。
「神も仏も運命も我々の管轄外ですが、技術という一面において我々は貴女に望むままのものを与えましょう。これは契約書のファイルです。三日の後に回答を」
蝋で封じれられた黒い封筒を渡して、青年が背中を向けようとした時だった。
「待ってください」
振り向いた青年が黒い封筒を受け取った女性の視線に僅かばかり目を見開く。
「・・・お願いします」
「よく内容を読むべきだと思いますが?」
「私には学がありません。難しい事も解りません。でも、この子がもう助からないと医者に言われた時思った」
女性がそっと寝台から足を下ろす。
「何をしても私はこの子が産みたい」
青年が女性の強さに敬服するようにゆっくりと手を胸に置いた。
「人間を捨てる覚悟があるならば、貴女の願いは叶います。ですが、己の幸せを考えるならよく悩んだ方がいい」
女性の瞳は揺るがず。
「いいでしょう」
手を取って青年が先導する。
「では、行きましょう」
「彼方の・・・・・名前を教えて頂けますか?」
青年が恭しく名を告げる。
「ターポーリン。世界平和を造るサラリーマンとでも呼んで頂ければ。お嬢さん」
その日、病院から女性が一人消えた。
誰もそれに気付く事は無かった。
洒落たブティックの一角。
カーテンが開く。
黒のスラックスに白いワイシャツ。
男装と見紛う姿に金色の髪が清(さや)かに擦れる音。
艶やかな色など無くとも少女は美しく笑みを咲かせる。
「どう・・・?」
恥ずかしげに頬を染めて聞かれて「それは無い」とか言う野暮な者は誰もいない。
しばし見入っていた久重はソラの服のチョイスが少し残念だと思いながらも無言で頷いていた。
「あんまり女の子っぽい服装だともしもの時に動き難いから」
言い訳のようにソラが言って、傍らの黒いコートにチラリと視線を向けた。
「他にも幾つか買っておくか?」
ソラが常に自らが追われている事を意識しているのだと気付いて、何かやりきれない気持ちになりながらも久重は動じずに応じる。
「ううん。これを二着だけでいい」
「金なら本当に心配要らないし、遠慮する必要も無い」
「・・・やっぱりいい」
サッとカーテンが閉められた。
「今、一杯服を買っちゃったら久重とまた来れなくなるかもしれないから」
「はい?」
思わずポカンと口を開けて首を傾げた久重にソラが続ける。
「その・・・また、一緒に・・・その・・・連れてきて・・・欲しくて・・・ダメ?」
心臓に杭でも打ち込まれたか。
久重の体にジワリと汗が浮いた。
世界の何処にこの破壊力満載なおねだりをダメと言う男がいるというのか。
ソラの声に当てられて紅くなった顔を冷ましつつ、久重は苦笑しながら答える。
「ダメじゃない」
「本当? それじゃあ、また来てくれる?」
「ああ、折りを見てな」
「うん!」
カーテン越しに輝く笑みを見た気がして、久重がカーテンから視線を逸らし、
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
体を硬直させた。
「――――――――?!」
店内にいた女性客からの好奇の視線が久重の全身を磔にしていた。
平日の昼からブティックで金髪の少女に服を買い与える青年。
暇な奥様のゴシップ材料には十分すぎるネタに違いなかった。
「行こ。ひさしげ」
上機嫌で服を持って出てきた少女が真っ黒いコート姿をしているとなれば、もう百パーセント周辺の奥様達の噂になるのは避けられない。
「・・・・・・・・・・・・・・」
手を自然に引かれながら久重は思う。
少女の笑顔が見られるならば、それくらいの事はいいかと。
(いつか、女の子らしい服くらい着せてやりたいな・・・)
ブティックを出ると昼を過ぎていた。
余計な外食は外字家家計の敵ではあったが、久重は構わずにファーストフードの店に入る。
「知ってる。これって『ふぁーすとふーど』でしょ!?」
まるで幼子のようにはしゃぐ姿にソラの過去が透けて見えて、思わず一番高いセットを注文した久重はほぼ満席の窓際の一角に隣り合って座った。
「ひさしげ。みんな楽しそうだね」
二階の硝子越しに行きかう人の群れを見つめながらソラが微笑む。
何が楽しいのかと思わず聞こうとした久重は口を噤(つぐ)んだ。
楽しいはずだ。
久重にも想像できる程にソラの過去は暗い。
複数の聞かされた事実を照らし合わせれば、ソラにはたぶん明確な親が存在しない。
それどころか育ての親とも言うべき親しい人間すらこの世にいない。
残っているのは親しかった「博士」から受け取った【ITEND】と大きな組織から追撃されているという事実のみ。
まともな精神性を獲得しているからとソラを普通の少女として扱うのは問題がある。
久重が今まで出会ってきたソラの追撃者達は誰もが人格的に何処か壊れていた。
ソラと追撃者達は同じ場所で過ごしていた知り合いらしいが、ソラがその場で異端であった事は疑いようがない。
まともな性格をしているからと言って自分の「普通」に当て嵌めてソラと語り合えば無自覚に傷つけかねない。
久重が見る限り、ソラには常識的な知識こそあるものの経験としての知識が乏しい。
何処にでもあるような町並みに感心するのは新鮮だから。
服を一着買うだけで大はしゃぎなのは買った事が無いから。
妥当な理由が久重の心に重く沈んだ。
「あ、呼ばれてる」
ソラが嬉しそうにカウンターへ向かう後ろ姿を複雑な感情のまま久重は見送る。
それから、戻ってきたソラと共に昼食を平らげ始めて数分後。
「ひさしげ。今日はありがとう」
「どういたしまして」
窓の外に視線を向けていた二人の間に生まれた会話は何処か静かだった。
ポツリと呟いたソラがバーガーを置く。
「凄く楽しかった・・・・・・」
「そりゃ良かった」
「ねぇ。ひさしげは楽しかった?」
「ああ、少しだけ緊張したが」
「どうして?」
「異性に付き添ってブティックなんて行くのはリア充くらいなもんだからな」
「りあじゅう?」
「簡単に言うとNEETとは対極の人種だ」
「にーと?」
解らないという顔をするソラに解らなくていいと笑って久重が口元に付いたソースを指で拭った。
「~~~~~~?!」
「どうかしたのか?」
「ひさしげってずるいわ・・・」
僅かに俯いた少女の黒いコートが揺れる。
「・・・日本ていいところよ。ひさしげ」
「そんなにか? ハッキリ言っちゃ何だが技術は進歩しても国力は衰退してるし、国政は数十年前からグダグダで毎年首相が代わるし、オレなんかもう社会の底辺スレスレだし」
冗談交じりの久重にソラが「それでも」と首を横に振る。
「だって、この国には平和があるもの」
「平和?」
ソラの言葉に久重が耳を傾ける。
「街にはゴミが落ちてないし、今日の糧を乞う物乞いもいない。家族でショッピングをする人がいて、友達同士で笑い合う場所があって、体を売る人が道で誰かを待っている事もない。空は蒼いまま排ガスで曇って無いし、夜は女の人が出歩いても襲われる事が無い。食料と水を奪い合う時代に飲み水が何処でも手に入って食事も命掛けで手に入れる必要が無い。家族を亡くした子供が通りで一杯座ってる事も無ければ、自分の未来を夢見るだけの余裕もある・・・」
「確かにそうかもしれない。でも、それは『綺麗事』だ」
「うん」
久重の言葉に頷いて、それでもソラは窓越しの蒼い天(そら)が贋物だとは思えなかった。
「博士が言ってた。自分のいる其処が戦場なんだって」
「そうだな。たぶん、その通りだ」
久重はそんな「冷たい当然」が未だ幼さが残る少女に教えられた事を内心苦く思った。
「この国で当たり前に享受してる事が実は凄く尊いものなんだってのは誰もがいつもは忘れてる事実なんだろう。でも・・・世界から見れば本当に恵まれてる日本ですら自殺者が出る。純粋に餓死者が毎年必ず出る。行方不明者の数も変死体も多い。孤独死して数年も発見されない老人がいる。他人からどう見えようと確実に「不幸」である人間は消えないんだ。命に関わらなくとも平和とは程遠い奴が大勢いる。老後の年金が無くて困る連中が沢山いるし、今日を生きてく為に病気でも働く奴がいる。住所が無くて日雇いで働いてネットカフェに数十年暮らす奴もいれば、増水しそうな橋の下に寝ぐらを構えるホームレスも山の如く。暮らし向きが苦しくて不和を起こす家族、働き口も無く家で親の財産を細々と食い潰す独り者、信頼できる大人がいなくて非行に走る子供、どれだけ平和だと言ってもそういう人間はこの国で減るどころか増えてる」
「ひさしげはこの国が嫌い?」
純粋な瞳が久重を見つめる。
「半分だけ」
「それじゃあ、後の半分は?」
「嫌いじゃない。少なくともオレはこの国で生きて行きたいと思う」
「どうして?」
「オレが悲観主義者(ペシミスト)じゃないからだ。この国に将来の展望や希望があるとは思わないが、これ以上に悪くなるなら誰かが変えてくれるはずだと信じてる」
「自分で変えられるとは思わないの?」
「思わないな。人間一人の力には限りがある。大きな変革が個人の力で出来る状況なんて限られてる。理想を共有して大勢の人間を動かしてすら、一つの事を変える為に人生は足らないかもしれない。オレに変えられるのはオレの身近な事だけだし、それ以外に手を伸ばす気もない」
ポンポンと久重の手がソラの頭に置かれる。
「喧嘩して仲良くなった居候の今日のご機嫌とか。近頃いっつも朝方にやってくる女子高生のご機嫌とか。一体オレ以外の誰が取ればいい?」
「それ・・・・何か凄くダメな人みたい」
はぐらかされたソラが呆れた様子で半眼になって睨む。
「いいんだよ。それで」
笑った久重がソラの頭をグリグリと撫でる。
「ひ、ひさしげ!?」
慌てるソラに久重が視線を合わせた。
「オレはそういうのでいい。オレは世界を救ったり変革できたりしない。オレはオレが出会った奴が幸せとはいかなくとも笑って過ごせるなら、それで十分な人間だからな」
「ひさしげ・・・」
ソラは気付く。
目の前の人はきっとそういう男なんだと。
助けてくれたのは大そうな理由からではない。
それがその人にとって当たり前の生き方なのだと。
(ひさしげはもう世界を救ってる・・・誰にも救えなかったはずの世界を・・・)
『ソラ・スクリプトゥーラ』の死と共に世界は劇的に変わっていたはずだった。
多くの人間の血を流して、世界は変革を迎えるはずだった。
そんな未来を変えた人の言葉をソラは胸に刻む。
「それじゃ・・・その・・・ご機嫌まだ取ってくれる?」
おずおずと上目遣いに少女は青年に甘えた。
「そうだな。今日の夕飯は外食にするか?」
「ひさしげが一緒なら凄く安い袋に入った「らーめん」でもいいけど?」
少女が囁く。
「どこでそんな話を聞いてきたのかの方がオレは知りたい」
「まいったな」と財布の中身を看破されて苦笑する青年は頭を掻いた。
「ま、それはとりあえず保留にしとこう。そろそろ出るか」
「うん」
互いに気付かぬまま、少女と青年の手は結ばれ、その日遊び呆けた後の夕食は屋台の「ラーメン」となった。
黴の臭いが僅かに鼻を擽(くすぐ)る図書館の最奥。
十数メートルの本棚を左右にしてカウンターが置かれていた。
天蓋からの漏れるのは緋色。
背表紙は日に焼ける事もなく、静かに智を収めている。
日が落ちれば明かりの全てを失うだろう場所で老人が一人本を読んでいた。
白髪であるものの、燕尾服を着込んだ老人の背筋は未だ鋼の芯を有している。
カウンターの傍らに置かれたカップから立ち上る香気が市販されるあらゆる茶葉と似ても似つかないものだと知る者は少ない。
本とインク、黴と紅茶。
「・・・・・・?」
全ての薫りが渾然と漂う世界に老人が足音を聞くのは久方ぶりの事だった。
「まだ、その本読み終わってなかったんだね?」
アズトゥーアズと呼ばれる事もある女にそう言われて老人が顔を上げた。
「これはどうも。CEO」
本を置き、頭を下げる老人にアズが笑った。
「いや、頭を上げてくれないかな。君に此処を任せてるのは頭を下げさせる為じゃない」
「はい。それで今日の御用は?」
「ちょっと昔の資料が見たくなって。七年前と十七年前の移民政策に関する情報。それから三年前のアメリカ上院議会八月の議事録。後はGIOの五年前の資料を」
「畏まりました。今日はえぇと・・・・『ろ』の二千八百八十九番と『さ』の六千百二番です」
「ありがとう」
「資料は閲覧後如何しますか?」
「アーカイブに放り込んでおいていいよ。今のところは」
「了解致しました」
頭を下げた老人が手元のキーボードを操作し始める。
カウンターの左右に展開されていた本棚が分割され一本の道だったはずの道が三本に分かれていた。
「今日は右かい?」
「いえ、左に六十メートル。下に五百メートルです。はい」
「ありがとう」
アズが左の道に進むと本棚が再び動き出した。
行く手にギッチリと詰まっている本棚が歩みに合せて左右へ分かれていく。
やがて、きっちり六十メートル進んだアズの足元がゆっくりと回りながら下り始める。
その足元を構成していた本棚の多くがまるで生き物のように自らを別の場所に置き換える事で足元は変化し続けていた。
アズの視界には無数の本棚が蠢く光景があった。
一分もせずに足元が止まりカチリとロックされる音がして目の前に本棚がせり出す。
一冊だけ置かれていた本が取り出された。
開かれた本の中身は紙ではなく画面。
上から高速でスクロールされていく情報を読み取って十数分後。
アズが本を閉じて本棚に戻すと再び本棚は何処へともなく埋没していく。
元来た道を戻ったアズの前に広がっていたのはカウンターではなく扉だった。
「また、来るよ」
扉の外に出て行こうとするアズの背後に老人の声が掛かる。
『そういえば少し聞きたいのですが【BMI Sight】の調子は如何でしょうか?』
「さすが工学博士と褒めておこうかな。脳に対する負担は最小限で済んでるよ」
『それは良かった。ソレの適合者が何人か狂ってしまって少し心配していたのですが安心しました』
「まったく酷い爺だ。君は」
苦笑するアズに老人も笑う。
『今のところBMI(ブレイン・マシーン・インターフェイス)技術の課題は生体改造(エンハンスメント)後、何処まで脳が適応し得るかというところにあります。脳と機械を直結しても未だ人間は脳に直接意味のある情報を入力する事が難しい。高次機能を代替するレベルでは未だ成果も出ていない。だからこそ抹消感覚レベルで置換しているのですが、それでも適応性が低く耐えられない者もいるようで』
「確かに普通の人間なら狂うって言うのは解る気がするよ」
『何か見えましたか?』
「君のコレは高機能(みえ)過ぎる。問題は其処さ」
片目を手で隠してアズが笑う。
『・・・・・・?』
「要は無駄に見たくないものが見える」
『ああ、そういう事ですか?』
「やたらと使い勝手が良くて殆ど完璧な視覚情報を得られる上、『更に』高機能だから最低限の機能でも恒常的に脳への負担が重くなる。普通の人間には少し辛いんじゃないかな」
『IPS細胞との合いの子なので期待していたのですが・・・』
何やら落胆した様子で老人の声が溜息を吐く。
「重過ぎるプログラムはいつの時代も嫌われるよ」
『今度取り替えましょう』
「いや、いい。僕にはこっちの方が合ってる」
『では、次回には大改造(バージョンアップ)を』
「それもお断り」
『そうですか・・・・・』
少し残念そうな老人の声がしょげる。
「君の言う改造は全身機械とかになりかねないから。健全な青少年を機械に恋させるなんて野暮ってものだろう?」
『まだ、あの男に御執心なのですか?』
「文句でも?」
『誠心誠意これからも応援させて頂きますが』
「男心の掴み方とか教えてくれると有り難いかな」
『女性のしなを作った際の「ねぇ」は日本の昔ながらの口説き文句です』
「君の感性が昭和風味なのは理解したよ・・・」
呆れ笑いながらアズは外へと出ていく。
『貴女の前途に幸在らん事を・・・CEO』
図書館の扉がそっと光を閉ざした。
太平洋側にある港の埠頭に大型の石油タンカーが横付けされていた。
深夜を過ぎて作業をする者の姿は消えている。
置かれている事務所の一角で握手が交わされていた。
分厚い遮光カーテンに遮られた室内で二人の男が椅子に腰掛ける。
一人は四十代の黒人。
一人は三十代の白人。
どちらの顔にも笑みこそ浮いていたが、内心は厄介事にうんざりで疲れていた。
「はじめまして。ミスター・・・何と呼べばいいかな?」
黒人が少し困って白人に訊く。
「商売敵にはOZなんて呼ばれてるが何でもいいさ。マイケルだろうがハワードだろうが」
フランクに白人が答えると黒人が僅かに顔を顰めた。
「この国では身分証明が必須だ」
「なら、オズ・マーチャーとでも呼んでくれ」
どうでもよさそうに適当な答えを返すオズに黒人が溜息を吐いた。
「それじゃあ、オズ。君に三つ忠告だ。一つ目は『ニュウカン』に付いて。この国は基本的に密入国外国人に厳しい。移民局こそ無いが法務省下の『入国管理局』はかなり優秀だ。偽造書類は必ず最も信頼できる物を使う事を奨める。二つ目はこの国での態度に付いて。この国だとその態度はかなり目立つ。別人に成り切る演技力が無いなら本国に帰った方がいい。この国での君のような白人のスタンダードは外国人観光客か日本の公共マナーを守る留学生だが、間違っても移民に化けるのは止した方がいい。都市部だと夜間に職務質問の嵐を受ける事になりかねない。三つ目はこの国では公務員その他のあらゆる業種に対して不正を教唆するのは極めて難しいという事だ。チップの習慣は無いし、賄賂も殆ど効かないし、義務や規律の遵守姿勢は尋常じゃないから痛い目を見るかもしれない。もし生の情報が欲しいなら、とりあえずその人物のブログやツイッターを調べる方が手っ取り早い。おっと、ゴミは漁るなよ? 近所の「オバサン」にマークされるからな。後、仲良くなる手法は厳禁だ。顔を覚えられたら似顔絵を描かれて顔を変えなきゃならなくなる」
「三つ以上のご忠告どうも」
軽いノリのオズに黒人が再び溜息を吐いた。
「言っておくがくれぐれも表立った犯罪は行わない方がいい。警察の優秀さは侮れない」
「今まで中東だったから思うのかもしれないが、法治国家なんてまだ残ってたんだな」
「地球が崩壊する日に暴動も略奪も犯罪も起こらなかった国だぞ。統計だと、その日だけは日本人の犯罪率が劇的に下ったそうだ。無論、移民や外国人達は例外だったが、それもちゃんと機能していた警察に押さえ込まれて死傷者は日本全国でもごく僅かだった」
男が驚きに口笛を吹く。
「本当か? あの日に警察が動いてたって? どういう神経してるんだこの国の連中?」
「それが国民性、民度の違いと言ってもいい。インテリジェンスには最適の国と言われる程に平和呆けしているし、「スパイテンゴク」なんて汚名も事実だ。世界各国の人間が入り込んで好き放題に情報を盗み出してもいる。だが、居心地が良いと評判なのは君にもすぐ理解できるだろう。此処に住み着いたら金さえあれば不自由な思いはしない。食事は十年違うものを食べていられる程に種類が豊富だし、酒も世界中のが揃ってる。女は総じて御淑やかで露出が少ないものを着てるが『そっち』の文化も進んでるから心配は無用だ」
オズが黒人を呆れた様子で見つめた。
「楽しみ過ぎだろう。おい」
「二十年も居れば愛着も湧く」
「それでオレの部屋は何処に置く事になってる?」
「契約は済んでる。住所はここだ。『カンジ』読めるか?」
「問題ない」
黒人が男に書類一式を渡した。
「ちなみに治安は最高だ。旧華族、旧財閥の名家が乱立する場所が近いせいで普通の組織は手が出せない。だが、逆に犯罪が起きれば徹底的な追及を受ける危険がある」
「こっちから何か事件を起こさない限りは大丈夫って事か?」
「そういう事だ」
「了解した」
書類と鍵を全てを受け取ったオズが事務所から出て行こうとすると背後から声が掛かる。
「言い忘れたがお隣には必ず挨拶に行け」
「はぁ? 何言って―――」
思わず振り向いたオズが黒人が真剣な顔に黙り込む。
「その場所を確保するのに色々とコネを使った。部屋を借りる条件がソレだった」
「・・・そのお隣ってのはどんな奴なんだ?」
「オレも詳しい事は知らない。いや、知りたくない人間だ」
しばし考えたオズがそっと聞く。
「・・・・・・・『ヤクザ』?」
黒人が首を横に振る。
「そんなものよりずっと恐ろしい」
「おいおい。危険人物に挨拶に行けってどういう神経してんだ」
「危険は危険だがこちらから手を出さない限り安全だ。彼女はそれを裏切らない」
「女かよ!」
「いや、正確には彼女の下で働いている男だ」
「男かよ!?」
「それと居候が一人いるらしい」
「何なんだよ?!」
喚くオズに黒人が「まぁまぁ」と宥めながら汗を浮かべつつサムズアップする。
「頑張れ。相手はただの下働き。ただの『AS』の手下だ」
「――――――――――何?」
時間が数秒止まったオズが再び動き出して訊く。
「・・・ウチの上層部が昔は目の敵にしてた?・・・」
オズに黒人が頷く。
「その『AS』だ。だが、今は協定で互いに過干渉しないと取り決めてある」
「知ってる。そん時オレの同僚が四人程仕事止めたからな」
「くれぐれも機嫌は損ねないでくれ。この国での仕事が人生最後になるぞ」
「ああ、解った。くそったれ」
「後は自力で何とかしてくれ。ここもそろそろ引き払う。もう会う事もないだろう。祖国の為に頑張れ」
「オレがそんな年に見えるか? ったく」
オズが事務所から出て行くと黒人がドッと疲れた様子で椅子にもたれてグッタリとした。
階段を上がってくる人の気配に黒人が慌てて起き上がる。
事務所の扉が密やかに開いた。
「あなたいる?」
三十代と思しき女の声に黒人が破顔した。
「おお、マイワイフじゃないか。どうしたこんな夜更けに?」
「お仕事頑張ってるって同僚の方に聞いたから来ちゃった。さっき降りていった人との商談だったのかしら?」
「まぁ、ね。とりあえず入りなさい。外は蒸し暑かっただろう」
「ええ、お弁当持って歩いてきたから汗掻いちゃった」
「おぉ、ベントーか!」
妻の手に持たれていた大きなバスケットが目に入って黒人が大喜びしニッコリと笑ってバスケットを受け取った。
(これで借りは返したぞ。アズ・・・・・・)
二人の賑やかな声が事務所の外に僅かに響き、歩き続けるオズは一人愚痴った。
「何処がテメェの祖国なんだっつーの」
声は小さく闇に呑まれた。
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少しずつ少しずつ闇は日常に迫り出し始めます。