No.460313

戦極甲州物語 捌巻

武田菱さん

戦極甲州物語、9話目です。
これくらいのペースで投稿し続けられるのが一番いいんですが、そうもいかないところがこの世とはままならぬものとでも申しますか……。

コメントへの返信ができないままで申し訳ありませんでした。皆様のお言葉、いつもありがたく思っております。これを励みに頑張ります!

2012-07-27 14:42:51 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:3478   閲覧ユーザー数:3118

 躑躅ヶ崎館はすでに浮き足立っていた。

 騒ぎ立てれば信虎の勘気に触れかねないからと皆々声を荒げたり走り回ったりはしないものの、顔を見れば、所作を見れば、その心が不安に揺れ動いていることくらい、多少なりとも冷静な者であれば信玄でなくとも読み取れることであろう。

 しかし当の信玄も今は気付いていない。いや、気づいていないのではなく、周囲の者のことなど眼中に入っていないのだ。

 3人の激しい足音が邸内に響く。誰も彼もが音を立てることを躊躇う躑躅ヶ崎館で、信玄・信廉・信龍は揃って走り抜いていた。

 

「し、信玄様!」

「道を開けなさい!」

 

 家臣が驚いて止めようとするも、信玄は自らよりはるかに体躯のいい男を押しのけて進む。家臣もまた、彼女たちを止められるはずもなし。

 そのまま3人は軍議の間へと至り、先頭の信玄は中の様子に構うこともなく閉じられた扉を思い切り開いた。

 

「「「――父上!」」」

 

 構うことなく真正面へと叫ぶ。

 突然入ってきた信玄たちへ、多数の視線が向けられる。しかしそこに非難の色は1つとしてなく、あるのは当然と冷静に受け止め、あるいは動揺を隠しきれず、中には信玄たちに期待するようなものも。

 ところがそれすらも信玄の眼中にない。

 彼女が認識しているのは、ただただ真正面、軍議の間の上座にて座る父の姿だけ。

 

「おお、信玄。遅かったのう。待ちわびたぞ」

「……父上……」

 

 信じられなかった。

 正面に捕えた父の姿が。父の浮かべる顔が。弾んだような父の声が。

 

「なにゆえ……」

 

 確かにその顔が見たかった。昔はよく向けてくれた父のその顔が。最近はいつも不機嫌で眉を顰めて唇を引き結び、一度口を開けば罵声に怒声。刀を抜き、家臣を斬り、わめきちらし……それでもいつかは昔の父に戻ってくれるものと、そう信じていた。

 それでも、今、そんな顔を見たくはない。どうして今見せるのか。どうしてそんな顔ができるのか。どうしてそんな優しい声が出せるのか。

 

「何故……!」

 

 自らの息子を。

 兄を。

 捕えておきながら!

 

「何故、笑っておられるのですか!?」

 

 信じられずに止まっていた足を踏み出し、信玄は部屋の中央へと進み出でる。左右から家臣が出てきて信玄をそれ以上進ませないようにしようとするも、信虎が制した。

 

「何故? ふふ、笑わずにはいられぬからよ」

「ち、父上……」

 

 信廉が震えたような声で一歩下がった。信玄も信龍も足こそ留めているが、心は同じ状態だ。

 怖気づいている。

 信虎は怒っていない。むしろ機嫌がよさそうだ。声にも冷たさは露にも感じ取れないし、怒りのあまりに笑うしかないといった感情の昂りもない。

 とても愉快で、気分がいい。ただ純粋に喜んでいる。それだけとしか受け取れなかった。

 

 

 

 だがそれが、逆に恐ろしい。

 

 

 

 自らの息子が謀反を企んだというのに。そしてその結果捕えたというのに。

 普通は怒るところではないのか。悲しむところではないのか。苦渋に満ち満ちているものではないのか。

 いっそのこと、物を掴んでは投げ、刀を抜いて何かに斬りつけ、怒鳴り散らしていた方がいいとすら思ってしまう。

 

「何がおかしいというのですか! 父上、ご自分が何をなされたのか、理解しておいでですか!?」

「無論わかっておる。わかっておるゆえ、そう騒ぐでない。武田家の次期当主としての自覚が足りぬぞ、信玄よ」

「え……」

 

 父の言ったことがわからず、信玄は怒りも忘れて呆然と立ち尽くした。

 今、父は何と言った。武田家の次期当主とは何のことだ。それは兄上のことではないか。自覚も何も、そもそもにして自分には当主となる気はない。

 信廉も信龍も目を瞬かせて戸惑う。視線を周囲の家臣に向ければ、向けられた者は顔を伏せたり、辛そうに拳を震わせていたり……。

 そんな3人の様子に、信虎がやれやれと膝に肘を立てて顔を拳に乗せる。

 

「よいか、信玄。甲斐源氏の名家たる我が武田家の次期当主としての自覚をいい加減に備えよと申しておる。もうよい歳じゃ。目を瞑り続けるのもこれまでと心得よ」

「じ、次期当主は兄上ではありませんか……!」

 

 その途端、信虎の顔から穏やかさというものが消えた。

 目を細め、眉を寄せ、信玄を見据えてくる。信玄は信虎の表情の変化、その奥を読もうとするが……できない。それも当然であろう。信玄の心は千々に乱れ、相手の心を読むことなどできる状態ではない。その上、信玄には信虎や信繁のことになると自分を引かせてしまう悪癖がある。信玄自身に自覚のないその悪癖が、何より心を読ませようとしなかった。

 

 

 

 なぜか?――わかっているからだ。

 

 

 

 信玄は聡明で敏い。それは信玄を知る者ならば誰もが知っている。

 その信玄が、これまでの信繁に対する信虎の態度を見て、信繁が疎まれていることを察せないわけがない。信虎が信玄を後継者に据えたいと考えていることを、悟れないわけがない。自身がすでに信繁の能力を上回っていることを、理解できないわけがない。

 察することを、悟ることを、理解することを避けている。

 まだ年若くして理詰めで物を考えることができる彼女だからこそ、恐れたのだ。どうすれば兄と共にいられるのか。どうすれば父と共にいられるのか。自らに父と兄の確執の原因があるのならば、この身を引かせればいい。自らに能力などない。あっても兄に勝るものではない。あったところで、当主として振る舞えるだけの心づもりがない。そう示せば、父は兄を後継者にすることだろう。

 これも理詰めと言えば理詰めだ。理は通っている……ように見える。

 しかしよくよく見てみれば、その理は思慕という感情によって支配されていることが見え隠れしている。

 能力が高い者が治めた方が理に適っているし、心づもりなど当主になるという決意を持って臨めばいい。能力がないとして隠したところで、身を引いたところで、信虎と信繁の確執はむしろ一層深まるばかりなのは明らか。その時点で信玄の理は崩壊している。それでも頑なになっているところが、感情によって支配されている証と言わずして何と言おう。

 だからこそ信虎は目を瞑り続けるなと言う。そう、信虎でさえ、今の信玄の心など容易く見透かせてしまう。それが今の信玄だった。それでも信玄はただただ言葉を重ねようとする。父を信じ、兄を立てようとする。

 

「私は元服してこの方これといった功績もありません。比べて兄上は立派に政務をこなしその成果は微々たるものと言えども着実な成果を上げています。下々の者からの評判良く諸将や兵たちからの信頼も厚うございます。戦でも任務を確実にこなし特に兵の生存率には目を瞠るものが――」

 

 必死だった。

 言葉を途中で区切ることもなく、信繁の成果を並べ立てて。

 それは確かな成果だ。事実だ。ならば家臣たちにも賛同を以って信虎を諌めようとする者がいてもおかしくはない。信玄は家臣たちに視線を向けて訴えた。

 だが家臣たちに応える者はいなかった。

 

「そうでしょう、信方!」

「っ……」

「虎泰! 違いますか!?」

「…………」

「昌辰!」

「…………」

 

 傅役の信方も。虎泰も昌辰も。

 信方は悔しげに顔を逸らし、虎泰は微動だにせず、昌辰は僅かに首を垂れるだけで。信玄の期待に沿えるものでは到底なかった。

 どうして、と信玄は目で訴えるも、その答えは信廉もわかっていた。

 今の信玄はあまりに頼りない。足下がおぼつかず、目を瞑り、ただ感情のままに訴えているだけなのだから。そんな状態から出た言葉に、信虎を諌める力はなく、賛同を示したところで説得力などまったくない。ただ「……姉上」と零すだけだ。信龍は自分が目標とする姉のそんな姿に、何とも言えず顔を背けてしまっていた。失望したわけではない。姉とて人間なのだし、大好きな兄が捕えられ、父がそんな事態にも笑っているのを見れば平静ではいられないだろう。けれど……自分が目標とする人がこのように取り乱した姿はやはり見たくない。勝手なことではあるが、信龍は自身の内にある信玄像とのあまりの誤差に戸惑ってしまっていた。信廉と信龍の様子にも気づかず、信玄はいつまでも父に、家臣に、訴え続ける。

 子供の我儘。

 もはや家臣団の目にはそうとしか映らない。

 

「っ! 虎昌!」

 

 ならばと信玄は、信繁が信頼を寄せる、彼の傅役である虎昌に声をかけた。

 が……返事はない。それどころか姿さえない。

 重臣一同が揃っている現状で、虎昌の姿がないなどおかしい。信玄は背中に伝わる嫌な汗を感じながら、信虎へと向き直った。

 

「虎昌はおらぬぞ。あれも同罪じゃ」

「――――」

 

 最後の頼りがなくなったことを知り、信玄は完全に言葉を失った。

 子供の我儘もこれまでと言うかのように、信虎は彼には珍しく信玄の口上に付き合っていた身を崩し、足を組んだ。

 

「その力を見込んで一度は許してやったというのにのう。恩知らずとはこの事よ。二度目はない」

「父上! 飯富殿をどうなされたのですか!?」

「捕えたに決まっておろう。信繁と共に幽閉しておる」

 

 喋れない信玄に代わり、信廉が彼女の脇から一歩出た。

 信虎の顔は信玄に対するものと打って変わって素っ気ない。不機嫌な時でも信玄へ向ける態度や声には、どことなく娘に対する父親という色が感じ取れる信虎なのだが、信繁ほどではないにしろ、信廉や信龍に向けるものは冷たさがあった。信繁に対しては疎んじているからであり、信廉や信龍に対しては今だ能力の低い子供であるという認識が信虎にはあるからだ。先ほどここに飛び込んできたときも信虎は信玄だけを指してよく来たと口にしたのも、信虎の信廉と信龍への認識の低さのいい証左というものだろう。信玄はその点で本当に特別だった。

 

「ど、どこになのだ!――あ、ううん、違った。えと、どこにいるのでしょうか、父上!?」

 

 いつもの言葉遣いで信虎に睨まれ、信龍はすぐに口調を慣れないものに直しながら訊いた。

 

「恵林寺じゃ」

「恵林寺……あそこは今、朽ち果てているのでは?」

「そうらしいのう。じゃが謀反を企んだ不埒者を置いておくには丁度よかろう」

 

 応仁の乱の戦火は京を中心にした戦乱であったが、何も畿内でのみ被害があったわけではない。地方にも波及し、恵林寺もまたその被害を受けた。現在では誰もおらず、風雨に晒されて朽ち果てるだけの寺だ。

 信廉は嫌な予感を抱く。朽ち果てるだけの寺など、それこそ夜盗や罪人たちのいい隠れ家ではないか。きちんと警備の兵はつけているのか、信繁と虎昌の身は安全なのか。

 

「安心いたせ。充分な兵を付けてある」

 

 安堵する信廉であるが、しかし信虎の言葉には続きがあった。

 

 

 

 

 

「――夜盗くずれに襲われてしもうては見せしめにならんからな」

 

 

 

 

 

 信玄も信廉も信龍も、揃って言葉がない。目の前が真っ白になるとはこういうことだろうか。

 そしてその言葉には家臣団でさえもざわめいた。信虎が鬱陶しげに視線を投げかけるとざわめきはなくなっていくが、その目に宿る動揺は如何ともし難く。

 

「御館様……信繁様を、手討ちになされるおつもりか?」

 

 それでも虎泰が口を開いたのはさすがというところであろう。膝を動かして僅かに進み出て、片手を床につけながら彼は信虎を仰いだ。

 

「手討ちにするまでもない。磔の上、処刑じゃ」

「お待ちを、御館様」

 

 今度は虎泰の対面の位置から昌辰が進み出た。信虎は虎泰に続いての『狼藉』に舌を鳴らしたが、それでも四名臣の進言だ。さすがにすぐに刀を抜くのは控えた。

 

「信繁様は一門の、しかも長子にてあられます。幾ら謀反を企てたとは言え、処刑するのは如何なものでしょうか?」

「例え我が息子であろうとも、不忠者の虎昌如きの言に乗せられて謀反の旗を背負った以上、斬らねばなるまい。身内であるからと言って軽い処分で済ませては示しがつかん」

 

 下剋上の世の中だからこそ、信虎の言葉には正論であるところも多分に含まれている。親子や兄弟でさえ家督を巡って争い、時に殺し合い、当主の座を奪い合う。信虎自身、武田家の家督争いを経験し、叔父と戦になって力で武田家当主に就いた身だ。信虎なりの人生論と言ってもいいだろう。例え信玄だろうと虎泰だろうと、この実体験に基づく人生論を覆すことは容易ではない。

 強く、強く在ること。それが信虎の人生論の根幹と言ってもいい。信頼や信用などよりも、他人を従わせる絶対の強さが求められると。だから信虎も信繁の傅役には虎昌を付けたのかもしれない。軍略に長けた虎泰より、力という点で何より目立つ虎昌を。多くの反逆者を殺し尽くしてきた信虎が虎昌を生かしたのも慈悲からではなく、特に優れた武力を持つ虎昌を従えさせれば有象無象を従わせるよりも自身の武力を誇示する上で役に立つからでしかないのかもしれない。

 その虎昌ですら二度目はない。ならば信繁を生かしておく理由はない……そういうことなのか。

 ただでさえ疎んじ、信虎が真に後継者に据えたい信玄を立てる上でどうしても邪魔になるのが信繁なのだ。信繁が政務軍務に携わるようになってから、何かと自身の方針に異を唱えることが多かったのだから、身内という点を無視すれば信繁は単なる邪魔者以外の何者でもないのだ。

 

「御館様のお言葉はごもっとも。しかし信繁様の武田家、そして甲斐国における影響力は無視できませぬ。信繁様を慕う者も多うございます。これを処断されてしもうては、兵や民の離反を招きかねませぬ」

 

 だからこそ、信繁を立てようと、庇おうとすることが許し難いのだろう。尚も言葉を重ねる虎泰に、信虎は立ち上がった。

 家臣たちが体を動かす。特に虎泰と昌辰の近くにいる家臣――信方や高松、原虎胤や小幡虎盛らは、最悪を想定して座りながらも即座に動けるように。すぐに信虎を抑えられるように。

 そんな彼らを一瞥することもない信虎。代わりに虎泰が目をやって制した。

 諫言する気だ。

 虎泰の有無を言わさぬ一睨みに、誰もがそう理解した。亡き4将を髣髴とさせ、そして彼ら以上に漲る宿老中の宿老としての所以たる存在感と威容を放つ虎泰が、死をも覚悟しているのだと。

 

「虎泰……長きに亘り武田家を支えてきた宿老であるお前であるがこそ大目に見てきたが、反逆者を庇い立てするとは何事か」

「お怒りもごもっともでございましょう。然れども、この虎泰! 武田家への忠義は失っておりませぬ。この命、尽き果てるまで武田家に尽くす所存にてございます」

「なれば命令に従え。虎泰、信繁と虎昌を処刑するのじゃ」

「恐れながら申し上げます!」

 

 虎泰が頭を下げ、床に額を付けて深く深く土下座した。老いた身なれどそこに老いなど感じさせない。腹から出した強い声も、伸ばされた背筋も。若者に負けない、現役の将であることを否応なく理解させる。

 

「御館様! 強さと冷たさを混同なさるが如き所業は、どうか、どうかおやめくだされ! 人を人とも思わぬ行いを重ねれば、兵も民もついては参りませぬ!」

「ついて参らぬならついて参らせるのじゃ。それが強さよ。一国の主たる者、他人を従えたる者、それができずして主君としての価値はない」

「然り。なれど御館様のそれは恐怖によって為されるもの! それはついて参らせている点で同じでございまするが、人々はやむなく従っているだけに過ぎませぬ! それではいずれ破綻を招きまする! これは日ノ本においても海の向こうの大陸においても通じる道理にてございますれば、例を挙げ連ねるも容易きことにてございます! 御覧なされ! 小山田・穴山の両将がおられぬこの状況を! これが示すことは、真の主君たる者、人々が自らついて参る度量を見せねばならぬということであると、この虎泰、愚考いたしまする!」

「……無礼者が。この信虎に、主君としての度量がないと申すか?」

 

 信虎の声に明らかな怒りが混じる。虎泰のような張り上げた声でもないのに、その声は皆々の体を総毛立たせ、震わせる。信玄でさえ同じだ。信廉や信龍に至っては言うまでもない。

 信玄の脳裏に蘇る過日の光景。目の前で斬られ、血を流す虎豊の姿。その血が自らを汚した記憶。今まさに、目の前であの時の再現が起きようとしている。信玄は気付けば手を震わせ、歯をカチカチと鳴らしていた。

 

「わしをお斬りなされるならそれでも構いませぬ。しかしどうか、信繁様と飯富殿に今一度のお慈悲を下され! あの2人は今後の武田に、なくてはならぬ存在でございますれば!」

「わしと信玄がおるであろうに。それで不服であるとぬかすか?」

「甲斐一国ならばそれでも構いますまい……なれど。武田が天下を獲るためには、必要でございまする」

「虎泰! この不忠者がああああ!」

 

 止めようがなかった。

 信虎はいきなり虎泰の頭を蹴り上げ、彼の体が起き上がったところに、その顔を足の裏で蹴り抜いた。

 虎泰は折れたのではないかという勢いで首を曲げ、たまらず背中から倒れ伏す。

 

「父上! 虎泰!」

「父上、おやめください!」

「爺!」

 

 信玄たちは自分たちの足下に倒れ込んできた虎泰を庇い、すぐにその身を囲んだ。家臣たちも信虎を羽交い絞めにして止める。刀に手をかけていた信虎だが、抜き放とうとする前に信方に柄を抑えられて止められていた。抜きかけた刀身が鈍い光を発して覗いている。信玄はその刃を見て、またおぞましい光景を否が応にも繰り返し鮮明に蘇らせてしまう。

 

「う……ぬ……」

「爺! 爺! しっかりするのだ!」

 

 信龍が虎泰にしがみつく。

 虎泰は口の中を切ったらしく、唇の端から血を垂らし、蹴られた左頬は赤くなっていた。最初の蹴り上げられた額には信虎の爪が食い込んだか、そこからも血が流れ、鼻によって二筋に分かれていて。

 信龍は虎泰を爺と呼ぶが、それは信繁や信玄、信龍にとっても同じであった。生まれたときにすでに祖父と呼べる存在がいなかった信繁たちにとって、虎泰は厳しい教育係であると同時に、4人全員の爺でもあったのだ。4人だけではない。信方にとっても父のようで、昌辰にしてもまた然り。家臣団全員が、彼を慕い、誇りに思っていた。

 そんな彼が傷つけられ、信虎に対する怒りは否定しようがない。それでも主君であるからと、皆それを押し隠す。それくらいは出来るだけの者たちなのだ。それだけの忠誠を、武田への忠義を、誓っている者ばかり。

 

「ええい、放せ! 放さぬか! その不忠者はこのわしを愚弄したのだぞ! わしでは天下を獲れぬと、そう申したのだぞ!」

 

 そんな者たちを、信虎は叩き、蹴り、振り回し。それでも彼らは信虎を御館様と呼んで必死に止める。

 虎泰まで失ってしまえば、今度こそ武田家は終わってしまう。亡き4将の欠けた穴は大きく、それでも武田家が揺らぎを抑えて立っているのは偏に虎泰の存在と尽力によるものが大きいのだから。

 

「お、御館様……!」

「甘利殿! 無理をしては……!」

「爺! もうやめるのだ!」

 

 なのに。老将は自ら信虎の前に立とうとする。体をよろめかしながらも起き上がり、再び信虎の前に傅く。信廉が止めようとしても、信龍が泣き喚いても。まるでここが自分の死に所であると言うかのように。

 

「誰でもよい! 虎泰を捕らえよ! 信繁と虎昌と共に処刑してくれる! いや、それでも手緩い! わしが直々に斬ってくれようぞ!」

「なりませぬ! 御館様!」

「大将殿のこれまでのご忠孝、お振り返り下さいませ!」

「甘利殿を失のうては武田家は大きく揺らぎまする! どうか、どうか心をお鎮め下され!」

「ええい、貴様らまでもか! 何故理解せぬ! この信虎が在ってこそ甲斐は統一されたのではないか! 武田家の力を盛り返したはこのわしぞ!」

 

 家臣たちを振り払い、虎泰に迫ろうとする信虎。それを必死で止める家臣たちは振り払われようとも何度でも信虎に取りついた。自身が斬られようとも構わぬとばかりに。何としても虎泰を守ろうと。

 父に抗おうとは思わない。父に反逆しようなどとは露とも思わない。

 けれど信玄もまた、信虎と虎泰の間に割り入ろうとした。虎泰を失うわけにはいかない。この老将の存在も武田家にはまだ必要であるのだから――そんな打算もある。けれど何よりは。

 

――爺を死なせたくない!

 

 その一心だった。

 だが信玄が割って入るより前に、虎泰が吼えた。

 

 

 

 

 

「御館様ぁ!」

 

 

 

 

 

 信玄も。信廉も。信龍も。信方や昌辰、家臣団も。そして信虎でさえも。

 一瞬で静まる。視線が虎泰に集まる。

 虎泰は信虎の目が自分に向いているのを見て、そしてその目を見返して。ややあって、静かに頭を垂れた。

 

「どうか。甘利虎泰、一命をかけてのお願いにてございまする……!」

 

 これが忠義の鑑であると、誰しもが思ったことだろう。

 喉から絞り出された声に、深く土下座する姿に、誰しもが注視した。注視させられた。

 だが。

 それなのに。

 

「――不忠者の言など、聞くに及ばず」

 

 信虎は切り捨てる。

 そして自分に取りつく家臣たちが虎泰に注目していて力が抜けてしまっているその隙をついて振り払い、勢いのまま虎泰の頭を踏みしだいた!

 鈍い音。苦悶の声はなかった。床に僅かな亀裂が入り、凹む。

 

「虎泰!」

「甘利殿!」

「爺ぃぃぃぃ!」

「御館様! 甘利殿!」

「御館様! これ以上は!」

「大将殿ぉ!」

 

 再び家臣たちが信虎を抑えたが、すでに信虎からは力が抜けていた。もはや手を下すつもりはないのだろうか。それとも、もう下す必要がなくなったと思っているのだろうか。

 虎泰は起き上がらない。その額からの血であろう、血が床を染め始めた。

 信玄はその血を見て動けなくなる。信廉は震えながら虎泰にしがみつき、信龍は泣き叫んで飛びついた。

 

「おや、かた……さま」

 

 虎泰は微動だにしない。

 血を流しながらもなお土下座を続けていた。

 もういい――誰もがそう言いたくなった。

 

「どうか……お聞き届けを。御館様……!」

 

 死に場所を決めた男とは、かくも壮絶なものなのか。

 これが忠臣というものか。

 

 

 

 

 

 これが、音に聞こえた武田の宿老――甘利備前守虎泰か。

 

 

 

 

 

 虎泰を語るは容易い。その智将・猛将として伝わる話は数知れず。

 だが今このとき。

 それらすべてが無用。何を用いようとも、今のこの姿を以ってすれば虎泰を語るには充分過ぎるであろう。

 いや、語る必要すらない。

 蹴られ、踏み敷かれて、額を割られてなお。土下座の体を崩すことなく。主君を諌め。その声に力を宿らせて。

 信玄は、無意識のうちに涙をこぼしていた。

 信玄だけではない。信廉も信龍も信方も。涙の有無はどうあれ、感じ入っていることはこの場の皆に言えたことであった。

 ……ただ1人、信虎を除いて。

 

「……もはや耳に入れるも不快じゃ。この場で斬り捨てる」

「――父上!」

 

 信玄が動いた。この場の誰より早く。

 虎泰の前に立ちふさがり、手を伸ばせば届く距離にある父に相対する。

 信方が「信玄様! 危のうございます! 下がられませ!」と叫ぶが、信玄は聞き入れなかった。刀に手を置く信虎が見下ろしてくると、それだけで信玄は体が固まり、ただ涙を流しながら睨み返すことしかできなくなる。

 

「信玄よ。よもやお前までこの父に刃向かうつもりではあるまいな?」

「…………」

 

 答えられない。

 虎泰を斬らせるわけにはいかない。父に反逆する意思はない。この場では矛盾した思いが信玄の中で激しく相争う。

 頷くことも首を横に振ることもできず、震えながら睨み返すだけ。

 

 

 

 

 

「どかぬか、このたわけ!」

「――っ!?」

 

 

 

 

 

 信玄が刃向かう。

 その一事がそれだけ気に食わなかったのか、信虎はここ一番の、虎泰へ向けた怒りよりも強い覇気を発して信玄へとぶつけた。

 体をびくつかせ、信玄は反射的に後退する。体の芯から生じる怖気。やはり信虎も甲斐の内乱を治め、甲斐統一を成し遂げた者。その覇気は確固たる強さを持っていた。今だ父を信じ兄を信じ、自らが武田の当主として相応しい立場であると認められない、足下がおぼつかない信玄などに抗うことのできるものではなかった。

 足から力が抜けそうになる。体の震えはもはや隠しようがない。それでも信玄は歯を食いしばり、己が体を叱咤した。させてはならない。父に虎泰を斬らせてしまえば、もう武田は終わりだ。

 そんな理詰めの考え程度など、信虎の覇気の前に信玄を抗わせることができるわけがない。

 それでも信玄が立っていられる理由は1つしかない。

 

(……兄上……!)

 

 ここにはいない信繁を想う。信繁ならばこんなときどうするだろうかと。これに唯一まだまともに動く僅かな思考が即座に答えを出したのだ。

 必ず、父を止めると。

 虎豊の時がそうだったではないか。虎豊に飛びつき、信虎を毅然と睨み据えたというではないか。

 あの時、信玄は信繁と信方によって部屋から退出させられたが、その後に成り行きは聞いていた。信繁が虎豊を守れず、涙を流し、虎豊を抱きしめていたと。虎豊が斬られる前に信繁がいれば、きっと信繁は身を挺して守ったはず。そう、今のように。

 虎泰が斬られたとなれば、信繁はきっと悲しむだろう。そうなれば、信繁は今度こそ本気で信虎に反旗を翻すのではないか。信玄はそうなると思うと怖くてたまらない。兄が父と骨肉の戦いを演じるなどと、それだけは絶対に駄目だ。

 

(兄上……信玄は……!)

 

 息が苦しい。立っているのも辛い。

 それでも信玄は決してそれ以上退かなかった。

 しかし信虎は容赦ない。実の娘であろうと、一番に期待を寄せる愛娘であろうと、むしろだからこそ立ち塞がることを許さない。

 

「信玄、どけい!」

 

 今一度、信虎が一喝した。信龍が恐怖に尻餅をつき、信廉は姉を止めようと手を伸ばし。

 

「…………控えなさい…………」

 

 そのとき、信玄が呟いた。

 とてもとても微かな声。最も近くにいる信虎にすら聞こえぬほどの。ただ信玄が僅かに口を開けた――それくらいしか認識できない程度。そんなことに止まる信虎ではない。動かぬ信玄に、なおも一喝を浴びせようとして。

 

「どけと言うておるのが聞こえぬのか、信玄!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――控えなさい、父上!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もがその覇気に飲まれた。信虎の覇気を押し返し、軍議の間を揺らした咆哮に。

 真っ昼間だというに、鳥の鳴き声すらもない。風の音もない。すべてが消え失せる。

 信廉は手を伸ばしたまま固まり。信龍はとうとう気を失って倒れ込み。信方たち家臣団は信虎を抑えることも忘れて慄き。

 そして信虎でさえも、その足を一歩、二歩と――後退させたのだ。

 

「「「「「――――」」」」」

 

 誰もが言葉なく、ただ信玄を見据えるばかり。

 当の信玄は大きく息を吐き、涙を溜めたままの目で信虎を睨みつけている。自分がしたことになど気づいていないのだろう。自分に向けられる視線の意味など理解していないのだろう。彼女にあるのは信虎を止めること、それだけなのだから。

 信玄の吐息だけが音の全てだった。信玄の存在だけが、この場において絶対であった。当主であるはずの信虎でさえ、今この時においてはただの1人でしかない。

 

「……ふ……ふはははは」

 

 どれほど経ったのだろうか。

 不意に信虎が笑い始めた。その声は震えており、恐怖からなのか歓喜からなのか、はたまた昂りからか、信玄にも信廉にも家臣団にも判別できなかった。

 

「はーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

 

 信方たちはまるで狂ったように笑い出す信虎に呆気に取られ、ついその体を放してしまう。しかし信虎は笑い続けるだけで、信玄を押しのけるわけでも虎泰に斬りかかるでもなかった。そんなことはどうでもいいとばかりに笑い飛ばす。

 信玄はそんな父を、しかし動じずに見つめていた。いや、動じずにというのは正しい表現ではあるまい。すでに動じているにも等しいのだから。だからこれは、動じているがゆえにこれ以上動じようがないと言うべきか。

 

「良いぞ、信玄! とうとう目が覚めおったか!」

「え……」

 

 ひとしきり笑い続けた信虎が次に発した言葉に、ようやく信玄は我に返った。そこでようやく、周囲の者が自分に向ける視線に気づいたくらいだ。信方が口を開けて呆然とし、高松や虎盛らは信玄に視線を向けられると跪き、頭を垂れるほどだ。その意味が分からず、後ろを振り返ってみれば……信廉がビクリと体を震わせたと思いきやその伸ばしていた手を引っ込め、信龍は仰向けになって倒れており、虎泰さえも土下座の体を崩してはいないものの意識を失っているようだった。

 

「そうじゃ! それがお前の資質よ!」

「私の……?」

「この父をも戦慄させるとは驚いたわ! いや、実に痛快じゃ! このわしに覇気をぶつけ指図するとは論外じゃが……ここは見上げたものとして不問としようぞ!」

 

 信虎は信玄の肩を両手で掴んだ。その力は強く、信玄は痛みに顔を顰めたが、それよりも間近に迫った信虎の顔にこそ恐怖を覚え、目が離せなくなった。

 

「ち、父上……虎泰は……!」

「虎泰のことなどどうでもよい。不問としようぞ。信玄、お前の目を覚まさせたのじゃ。この一助となったのであらば許そうではないか」

「ほ、本当ですか?」

「二言はない」

 

 何の事だか信玄にはわからなかったが、それでも虎泰の身が保障されたのであればこれ以上問いかけることはない。信玄は安堵し、心の中で信繁に信玄はやりましたと報告する。信繁が良くやったと褒めてくれる光景が浮かび、信玄は涙を拭いながら笑顔をこぼす。

 

 

 

 

 

 が、それが早計であったことを、信玄は知らされるのである。

 

 

 

 

 

「じゃが信繁と虎昌については別よ」

「――え」

 

 笑顔のままで固まる信玄。目の前で信虎の顔から笑みが消え失せ、信玄にはその無表情となったその変化にどういうことなのか思考が追いつかない。困惑する信玄に、信虎は言葉を重ねる。まるで信玄に思考させる余地すら与えぬと言うかのように。

 

「あれははっきりとわしに反旗を翻した。虎泰めは諫言であると見なせても、信繁と虎昌の行動はもはや諌めの範疇にない。反逆じゃ」

「そ、そんな……証拠は……証拠はあるのですか?」

「この通りよ」

 

 信虎が懐から何やら1通の書状を取り出した。そして信玄の目の前でそれを片手で開いて翳す。重力に従って書状はパラパラと開いていく。それほど長くはなく、書状は床にまでは至らない。信玄は近すぎて読めず、少し体を離そうとするが信虎がもう片手で信玄の肩を掴んでいるためそれもできず、やむなく首を反らして何とか距離を取った。

 どうやらそれは連名状のようであった。赤い、指紋の入った印もあることから血判状と言ってもいいかもしれない。そして一番頭には『武田典厩信繁』の名があり、続いて『飯富兵部少輔虎昌』『飯富三郎兵衛昌景』『山本勘助晴幸』と続いている。中には名跡が途絶えた亡き4将の一族郎党と見られる名もあり、また虎昌と縁の深い大村衆や御岳衆の名も入っていた。

 

「反逆の証左としてこれ以上のものは必要あるまい?」

「し、しかしこれはただの連名状……何の連名状かもわかりません」

「血判までするほどのことを当主たるわしに知らせぬのじゃぞ? 隠し事をしておるという時点で怪しいわ」

 

 信虎の言うことの方が正論。信玄のそれはただの屁理屈に過ぎない。信玄自身、わかっているくらいだ。

 信虎は書状を放り、もうそれには興味ないと再び信玄の顔を見据えた。肩を掴まれて逃れようのない信玄は顔を逸らすことで何とか逃げようとしたが、信虎は構わない。まだ信繁を庇おうとする信玄を、それこそ不機嫌そうに睨み据えてくる。しばし信虎は無言のまま何かを図るように信玄を見ていたが、ややあって何かに気づいたように口を開いた。

 

「――信繁か」

「え?」

 

 信虎は一言呟くと信玄から手を離した。そして打って変わって憎々しげに天井を仰ぎ、鬼面の如く顔を歪めたではないか。

 

「そうじゃ。あ奴がすべての元凶じゃ。信玄の目を閉じさせ、今もなお信玄の目を塞ごうとする不届き者めが……その罪、万死に値しようぞ」

 

 それはもはや息子にかける言葉ではない。今まででさえ信虎にはまだ息子であろうとも、という言葉通り、親と子の感情が欠片でも残っていたのだと思えるほど、今のそれは完全に情を排して敵として見ている。下すべき、倒すべき、滅ぼすべき敵として。

 それを感じ取った信玄は背中に走る嫌な予感を振り払うように首を振り、信虎にしがみついた。

 

「父上! 兄上は反逆などなさいません! 何なら私が兄上から話を聞いて参ります! 仮に反逆の意思があったとしても、私が説得いたします! ですから――!」

「信玄……哀れな娘よ。こうまでも信繁に毒されておったか……」

「毒されてなどおりません! 兄上はそのような汚い手をお使いになられるが如き卑怯な人では決してありません!」

「もうよい、信玄。これを治すにはもはや言葉ではどうにもなるまい。手は1つしかなかろう」

「父上!」

 

 どうにも話が通じていない。状況が悪化している。

 そう感じ取った信玄は必死になって言葉を重ねるも、信虎はもはや確信にも等しい段階に至った自分の考えに完全に傾倒し、信玄の言はすべて信繁の罠だとして受け入れない。信玄は信廉や家臣団に助けを求めるも、彼らが口を挟もうとしたところで信虎は彼らを睨み返し、有無を言わせずに黙らせる。信玄の言葉ですら受け入れない信虎に、彼らの言葉などもはや届くはずもなかった。

 

「信玄よ。お前に命を下す」

「父上……!」

 

 

 

 

 

「信繁を斬れ」

 

 

 

 

 

「…………………………………………え?」

 

 何を言った。何を言われた。誰に。誰を。どうせよと。

 頭が理解する前に心が拒否する。意味を解する前に心が考えることすら拒絶させる。

 しかし信虎はそれを感じ取ったように信玄の顎に手をやり、自分に信玄の顔を向け、目を大きく開いて信玄へと顔を近づけて、逃げるなとばかりに繰り返す。

 

「お前が信繁を斬るのじゃ。さすれば信玄、お前の目も必ずや覚めよう。信繁に毒されたその精神、取り除くにはお前自身の手で毒に打ち勝つしかあるまい。その方法としてこれ以上の手はなかろうて」

「お、御館様、お待ちください! 信玄様に実の兄を斬れとは、あまりに無慈悲な――」

「黙れ、信方!」

 

 信虎に背後から取りついた信方だったが、信虎は腕を振り乱して振り払い、さらには蹴り飛ばした。鍛えているとは言え、その身は女性。信方以上に戦場を長らく駆け、同じように鍛え続けている信虎の力には敵わなかった。武人でありながら信玄でさえ羨ましく思うほどの艶やかな黒髪を振り乱して信方は倒れ込んだ。腰まで伸びる長い髪は先端で括られているため、乱れることはなかったけれど。

 

「丁度良いわ。信方、お前は虎昌を斬れ」

「な……」

「なに、どうということはあるまい。常より虎昌を疎んじておったお前のことじゃ。許しが出たとあらばこの上ない機会。喜んで斬るがよい」

「そ、そんな……私は、決してあれを疎んじてなど……」

「ふう……やれやれ。傅役は傅役に毒されておったとはのう。これを見抜けなんだとは、この信虎も目が濁っておったわ」

 

 信方はもはや信玄を助けるどころではない。床に転がったまま、体を戦慄かせていた。目は落ち着きなく揺れ、瞳は完全に開ききって震えている。怯えていると言ってもいいだろう。信方も武においては虎昌には敵わなくても充分な腕を持った将だ。数々の戦功を上げ、武勇を語る話には事欠かない。なのに今の信方は別人のように怯えていた。

 だがそれを信玄は責めない。当たり前だ。自身が信繁を慕うように、信方が本当は虎昌を想っていることなど、信玄の傅役たる信方であるがゆえに近くにいたからこそ、そして同じ女性であるからこそ、強く感じ取っていた。それがわからないほど鈍くはない。自分が恋慕を抱く相手を斬れと言われて、どうして動揺せずにいられようか。

 信玄は許し難いという気持ちに、信虎を睨んだ。これは親だから子だからという問題ではない。幾ら主君と家臣と言えど、踏み入っていいことではない。信方の気持ちというものをあまりに無視し、誤解しているだけならまだしも、誤解のまま信方の人格を冒涜するが如き言動は許し置けるものではない。一言、いや二言三言と物申さねばならない。何せこれは虎昌をも侮辱したものだ。あの豪快な男が難しいことは任せればいいと全幅の信頼を置く信方に対し、毒そうとしていたなどとあんまりだ。

 

「良いか、信玄。直ちに兵を率いて恵林寺へと赴き、信繁を斬れ」

 

 だが口を開きかけた信玄を封じるように信虎が重ねて言った。そして信虎は非情にも信廉と信龍も連いていくように命じた。信龍は気絶しているが、信虎は気にもしていない。弱い精神ならばなおの事で、兄を斬る場面を見せて鍛えさせるつもりなのではないかと信玄は信じられない思いで父を見上げた。信廉もまた、震えながらただ首を横に振った。嫌だと。だが信虎がその意を汲むことなどない。元より信繁ほどではないにせよ、信玄ほど大事には見ていない信廉と信龍だ。信繁に心を寄せていたとあればなおの事腹立たしいのだろう。

 

「父上! お願いします! どうか、どうかお考え直しを――!」

「信玄~~~~!」

「あっ!?」

 

 頬に走る痛み。

 勢いよく首が回り、信玄は床に倒れ込んだ。家臣たちが「信玄様!」と叫んでいる。

 痛みが熱を持ち始めた頬に手をやり、信玄はゆっくりと見上げた。荒い呼吸をしながら右腕を掲げたまま自信を見下ろす信虎を。

 ああ、叩かれたのか。

 どこか他人事のように信玄はそれを捉えていた。そして同時に、もはやこの男に自分の声は届かないのだと悟った。すなわち、自分は信繁を、実の兄を……心から尊敬し、慕う兄を、斬らねばならないのだと。

 

 

 

 

 

 もう、父と兄と共に在ることなど、叶わぬ夢なのだと。

 

 

 

 

 

 赤くなった頬を、再び一筋の涙が流れた。

 

 

 

 

 

「お、御館様! 御館様はどこですか!? 一大事なのですよぉぉぉぉ!」

 

 そのとき、1人の女性――いや、少女と形容するのが適当であろう――が駆け込んできた。

 入った瞬間、彼女は軍議の間の異様な光景に言葉を失くしたが、信虎が「何じゃ、騒々しい」とつまらぬものを見るかのように冷たい視線をやると我に返ったが、すぐに跪いて頭を垂れた。

 それでも信虎の目は冷ややかなままだ。まあ、それも致し方ない。何とその少女、頭に馬の被り物を付けているではないか。信虎でなくても冷ややかにもなろう。おまけに空気を読まないにも程があるのだから。とは言え、少女からすればこの部屋の空気が異様過ぎて読めと言う方が無茶なのだが。

 

「し、失礼しましたのです……どうかお許しを」

「……もうよい。さっさと口上を申せ。下らぬ内容ならば斬り捨てるぞ」

「ひいっ!? そ、そんな……」

「早う申さぬか! 鬱陶しい!」

「は、はいぃ!」

 

 哀れと言うしかない少女であるが、庇うにも庇えないと言うのが信虎と少女を除くこの場の総意とも言えよう。何と言うか、やはりその恰好が。特にその馬の被り物はどうにかならないのか。信虎に一喝されてもなお脱ごうとしないのだから、気づいていないだけか単に間抜けなのか……。

 しかし彼女の口から告げられた内容は、見た目とはまるで違う、この場を再び騒然とさせるものであった。

 

「信濃より敵襲なのです!」

「なに!?」

「なんと!?」

 

 ある意味で予想されていた事態。武田の家督争いが本格化すれば、必ずその気に乗じて侵攻してくる勢力と言えば第一に信濃の諸勢力だ。それゆえに信繁を主とした計画は穏便かつ迅速を旨としていたのだから。

 しかしわかっていたことであるというのに、家臣たちの心中は乱れていた。

 

 

 

 早すぎる。

 

 

 

 信繁が捕まってからまだ数刻。半日と経っていない。幾ら早馬を用いても普通ならようやく耳に入るかどうかというところだろうに、敵はすでに進軍して甲斐を侵しているというのだ。これはあまりに早すぎる。

 偶々侵攻計画があり、それが偶然にも重なったというだけなのか。それも都合が良すぎる。しかし不穏な気配があったと言うのは勘助によって既に知らされていたこと。信濃だけではない。小山田然り、北条然り。

 

「して、敵将は!?」

「旗指物から小笠原及び諏訪の連合軍と思われるのです! その数、推定八千!」

 

 当代の両氏当主は小笠原長時と諏訪頼重。小笠原氏は信濃守護である。一方の諏訪氏は甲信国境に接していることもあって最も武田家と刃を交わしている。彼らが徒党を組むのは珍しいことではない。和睦と手切りを繰り返しながら、信濃は混沌とした状態にあった。

 

「ふん、長時に頼重風情めが! 敵の数は侮れぬが、戦は我が庭にて行われるのじゃ。地の利はこちらにある! 恐れるに足らぬわ! わしの具足を持てい!――何をしておる! 貴様らも直ちに館に戻り、兵を集めよ!」

「は、ははっ!」

 

 家臣たちはこの場の状況を一瞥したが、こちらも急ぎだ。諸将はすぐに自身の館へ戻って兵を招集するために走って軍議の間を出ていく。高松と虎盛は虎泰を、虎胤は信龍を抱え上げて運んでいった。

 

「え、え~っと。私はどうすれば……?」

 

 少女は脇を抜けて走り去っていく家臣たちを見回し、そして彼らが去った後、この場に残っている信玄や信方たちを見ながらその異様さに改めて目を瞬かせたが、ややあって信虎を仰いだ。

 

「その方、まだおったのか。名は何と申す?」

「へ? あ、はい。私は教来石景政と言いましてですね、中山砦に詰めておりますです」

「教来石じゃと? うぬがあの武川衆の1人じゃと申すか?」

「はい、そうなのですよ!」

 

 精鋭で知られる武川衆。その1人であることを誇るように少女は御世辞にもあるとは言えない胸を張った。

 だが信虎の目は胡散臭げだ。それに気づかず自信満々な彼女は大したものだと信廉は思う。

 

「なれば早々に砦に戻って絶対死守せよと申し伝えい! 最後の一兵に至るまで抵抗せよ! 長時と頼重如きに甲斐の地を蹂躙させるでない!」

「は、はい!」

「――む。いや、待て」

「は、はい? えと、まだ何か?」

 

 怒声に驚いて立ち上がり、つんのめるように走り出した景政だったが、信虎がそこで呼び止めた。彼女はどうすればいいのかと言いたげに信虎に振り返り、ずれた馬の被り物を直しながら急いでいると示すように廊下の先と信虎の顔とで何度も視線を往復させる。主君に対する態度としてはかなり失格であるが、運のいいことに信虎は思いついたことに意識が向いており、少女の無礼には気付いていなかった。

 信廉にすればハラハラものなのだが。

 これも精鋭ゆえの豪胆なのか、それとも単に馬鹿なのか……本当に判別しにくい少女である。

 

「伝令は他にやらせよう。うぬも精鋭であるなら信玄の護衛に回れ」

「信玄様の護衛ですか?」

 

 信虎が信玄に視線をやったので、視線を向けられた、今だ床に倒れ伏している少女こそがそうなのだと知った景政も信玄へと目をやった。しかし信玄はそんなことに全く頓着していない。ただ床を見つめ、起き上がる気配すらない。景政も信玄のことは噂などでよく聞いていた。とても聡明で、とても見目麗しい方だと。確かに綺麗な子だとは思うが、しかし床に倒れ伏し呆然としている様子は、聡明や厳しいといった印象とはかけ離れていて、何だかとても危うげだった。

 

「今は一兵でも惜しい。うぬが精鋭であるのならば、一騎でも10人程度の働きはして然るべきじゃ」

「む。10人と言わず、20人でも30人でもどんと来いなのですよ!」

「ならば信玄をしっかり護衛せい。もし信玄に何かあれば、うぬの首を飛ばす。いや、うぬだけではない。武川衆全員の首がないと心得よ」

「ええ!? あ、いえ、はい、わかったのです……」

 

 景政は簡単だと思っていた任務が一気に重圧のかかった任務に変わったと知るに至り、喉を鳴らして跪いた。

 信虎はそれを見てから、ふんと鼻を鳴らし、そして倒れたままの信玄や固まっている信廉、信方を見やり……。

 

「いつまでそうしておる! さっさと恵林寺へ向かわぬか!」

「ち、父上……!」

「御館様……!」

 

 

 

 

 

「……わかりました」

 

 

 

 

 

 信廉と信方がそれでも何とか信虎に声をかけようとした時であった。

 信玄が幽鬼のように立ちあがりながら答えた。その声に力はなく、感情すら感じられない。

 信廉と信方は信玄の答えが信じられずに顔を向けたが、信玄は景政以外には背を向け、その表情を見せない。一方の景政にも、俯いた信玄の顔はやはり見えなかった。ただ……乱れた髪に隠れた奥で、唇を噛み締めているように見えた気がしたが。

 

「行きますよ……信廉、信方」

「あ、姉上!」

「信玄様!」

 

 2人を置いて、信玄は駆け出す。それはまるで逃げるように。

 信廉も信方も唖然としていたが、一瞬置いてすぐに彼女の後を追った。見向きもされずに取り残されかけた景政であったが、信虎が一喝すると即座に彼女もその後を追うのであった。

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

【後書き】

 信虎が非道です。

 何と言うか、実際にこういう人物だったという逸話には事欠かない信虎ですけど、こういう悪役っぽい人はやはり必要とは言え、もうちょっと日の当たる人間として描くべきなのかなあとも思うんですよ。じゃあそう書けよって話ですね……拙作なりの理由というものもございまして、史実に伝わる人柄よりも非道っぽく描いてあるんです。

 

 御覧になられた皆様の中には「あれ?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。信虎が持っていた書状について。他の家臣たちの名前がないし、あれは昌景や勘助は署名していなかっただろうと。これは故意にやっていることで、また後でちゃんと理由がわかるようにしていますので。そしてこれこそが、今回虎泰が命がけで諫言をした理由にも繋がってくるんです。

 信玄があまりにも情けなくないかと思う方もいらっしゃるかと思います。私としましては、原作でも信玄は実の兄にそれ以上の感情を持っていたと受け取れるわけですから、信繁に見捨てられてから心を閉ざす前の信玄はきっとこういった依存のようなところがあったのではないかと考えた結果、こういう人物として描いています。拙作では信繁がすぐには出奔しないのですから、相応に信玄もそれによる変化があるものとして考えていますので。

 

 恵林寺は信玄が立て直したと資料にはありますが、それまで全く手つかずの状態だったかはわかりません。朽ち果てるままの状態と拙作ではしましたが。

 

 さて、小笠原・諏訪連合軍が侵攻しました。この面子は史実にある韮崎合戦をモデルとしています。甲陽軍鑑では連合軍兵力は九千六百とありますが、このあたりもちょっと理由があります。これ以外だとあとは時期が少し早いものの、ほぼ史実通りと言えますが……これだけじゃないんですよ。おまけに作中で虎泰が言っていますが、小山田・穴山両将が軍議に参加していないように、史実より兵力面で不安がある状況です。史実にない『甲州擾乱』は、まだまだ始まったばかりです。

 

それでは失礼いたします。


 
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