第二話 謀略の読み手
物語には小道具が必要だと知る者ならば、その光景をこう表したかもしれない。
舞台装置としての神。
全てを終着させる【造られた神々】(デウス・エクス・マキナ)の墓場。
古びた劇場の最中、地に落ちた面と衣装が散乱している。
雄々しく優雅に人間臭い愛と欲望に満ち溢れた神々の衣装は安っぽく、生地も飾りもおざなりな出来だった。
『ターポーリン』
舞台の上で一人。
頭を下げている青年がやっと散乱した塵の上で頭を上げた。
「はい。ここにおります」
白いスーツ姿の青年は何処からともなく響く合成音声に畏まった。
『首尾は?』
「ソラ・スクリプトゥーラの処分を完了し、現在は警察に【D1】の回収を急がせています」
『そうですか。無能の烙印は避けられませんね』
「それはどういう事でしょうか?」
『【D1】が稼動しています』
「まさか? 確かにこの手で胸部に致命傷を負わせましたが」
『どうやらソラ・スクリプトゥーラは【D1】を完全に取り込んだようですね』
「生体融合実験は未だに成功しては・・・」
『ジオネット上で【D1】の活動再開と同時に探査プログラムからの発信が途絶えました。変異した【D1】はバックアップが起動したと考えられます』
「では、ブラックボックスが開いたと?」
『ええ、完全な形でプログラムが甦れば、我々が施したロックは消失するでしょう』
「【D1】の機能が完全に戻る事になれば・・・」
『その事態だけは避けなければなりません。ターポーリン』
「はい」
『二個中隊を貸し与えます。ソラ・スクリプトゥーラの処分を最優先に』
「アレは如何しますか?」
『アレと【D1】は諦めて構いません』
「よろしいのですか?」
『他のオリジナルロットの解析が遅延するのは避けられませんが、致し方ありません』
「了解しました」
青年はその場に背を向けて劇場の外へと歩き出した。
『・・・・・・悪魔が笑っていますね・・・これは・・・・・・』
声が途切れた劇場にはもう何の気配も残ってはいなかった。
警察署を後にするクーペの後部座席で久重は空ろな瞳で虚空を見つめていた。
「・・・・・・・・・」
「随分とご傷心のようだけど、どうかしたのかい?」
アズの声に答えは返らない。
「もしかして、行ったら悪徳の限りアンアン喘がされる可哀想な子が一杯いたとか?」
楽しげなその無神経極まる発言に久重の手がすっと伸びた。
胸倉が今にも事故を起こしそうな程に強く掴まれる。
「知ってたな」
質問ではなく確認。
「知ってたとしたら?」
「オレはテメェを・・・」
「許さないなんて言葉だったらガッカリするよ。久重」
「何?」
「君には何が出来た? 君はただの便利屋だ。警察でも無ければNGOでもない。精神科医でも無ければ、消防士でもない。君が出来る事は潜入して探って場を引っ掻き回す事だけだ」
「――――?!」
「君が怒るべきは世の悪徳であって僕じゃない。でも、世の悪徳に君は無力だ。怒るだけなら誰でも出来る。いや、殆どの人間はそれしか出来ない。君がどんなに強くても、君はただ強いだけだ」
久重の手の力が緩む。
「今日だって世界の何処かじゃ大勢が不幸な目にあってる。親に売られ、兵隊に浚われ、乱暴され、薬漬けにされ、兵隊にされ、同じ民族を殺し、病気になれば棄てられ、ボロボロになって死んでいく。貧困と格差と差別と宗教と憎悪と多くの悪徳が今日も誰かを呑み込んでいく。だろう?」
久重の手がダラリと下げられた。
「それでも君は怒るんだろうさ。君の心は真っ直ぐで、折れても折れても真っ直ぐで、君を傷つけてばかりなのに」
「解ったような口を利くな・・・」
「久重。君は一人の少女を救えなかったらしい。だから、君は悔やんでる。心で泣いてる。けれど、それは無意味な感傷だよ。少女の人生で君はたった一欠けらの最後に過ぎない。悲しみも苦しみも痛みも君は癒してやる事が出来ない。少女の命すら助けられない。それが君だ」
「オレは・・・」
久重の手がゆっくりと白く白く握り締められた。
「君には出来ないことがある。君には助けられない人がいる。偶然、君は出会ってしまっただけだ。自分の手の届かない人に。忘れるといい。殆どの人間はそうやって生きてるんだから」
「オレを勝手に決め付けるな」
力なく項垂れる久重が吐き棄てるように呟く。
「着いたよ」
久重が顔を上げるともう安アパートの前でクーペは止まっていた。
車を降りた久重が少しだけ躊躇してから窓を叩く。
ウィンドウが下り、怪訝そうな顔のアズに対して久重は一言だけ告げた。
「・・・送ってくれて・・・ありがとう」
少しだけ驚いた顔をしてアズが小さく首を振る。
「警察から釈放させた分は付けておくから。気にしなくていい」
「金取るのか」
「ああ、それが僕のやり方さ」
微笑んだアズがクーペを発進させた。
僅かに軽くなった心を引きずりながら、久重は階段を上る。
自分には他に何が出来たのだろうかと。
自室のドアを開ける。
そのまま靴を脱ぎ散らかして畳みの上に倒れこんだ久重は天井を見上げる。
「・・・・・・オレには出来ない事がある・・・か」
どんなに怒っても少女を生き返らせる事はできない。
どんなに怒っても少女を救う事はできない。
「格好悪くて死にたくなる。まったく・・・・・・」
独り言の余韻すら消えて、静寂に耳を傷めながら、久重は瞳を閉じた。
そうして、やがて眠りへと誘われていく。
(オレには誰も救えないのか)
答えはもう出ていた。
明確な回答が映像となって久重の脳裏を巡っていく。
『泣かないで』
不意に響く声に夢現を漂う久重の意識が反応した。
ゆっくりと瞼を開ければ、滲む世界は紅。
いつの間にか夕方になっていると気付く。
起き出そうとして、紅の世界に金色が紛れ込んでいる事に気付く。
ぼやけた視界がゆっくりと焦点を結び始めて、久重は初めて、自分が心に大きな傷を負ったのだと知った。
見下ろす瞳。
緩められた口元。
ほっそりとした手。
久重自身、そんなものを見てしまえば、認めざるを得ない。
自分は少女を救えず、傷つき、幻想に逃げてしまうくらい、疲弊しているのだと。
「・・・・・・・・・?」
紅の静寂に温もりが入り込んだ。
頭を撫でる手。
「!!!」
完全に目が覚めて久重が起き上がり、振り向く。
「あ・・・・・・」
金色の髪をした少女。
何故か、命のやり取りをして、何故か、殺されてしまった、守れなかったはずの少女。
「・・・ぇと・・・・・・ひさ・・・しげ?」
そんな少女を前にして久重はただ呆然とするしかなかった。
「戒十(かいと)さ~~~ん。ちょっとはこっちにもネタ回してくださいよ~~~」
警察署の一角。
資料の山に埋もれるようにして存在するデスクに近づいた三十代の女が画面に齧り付いて文書を作成している男にベッタリと甘えた調子でしな垂れかかった。
「うっせぇ。ちょっと黙ってろ」
「そんなどうでもいい報告書なんて書いてないであたしとお話しましょ?」
「手口が記者クラブ時代より悪辣になってねぇか? 了子(りょうこ)」
「今はフリーですから」
今年で定年を迎える佐武戒十(さたけ・かいと)六十五歳にとって女はハイエナより達の悪い友だった。
了子と呼ばれた女は佐武にとってみれば、自分の子供の世代で、どうしても何処か甘くなってしまう部分がある。
記者クラブ時代の女はまだ本当に佐武にとって子供と思える程に若かった。
それが今では長年連れ添った伴侶以上に色々とややこしい関係になりつつある。
ネタをくれとせがまれたり、ネタをくれとせがまれたり、ネタをくれとせがまれたり。
友人だからとお歳暮を毎年毎年贈ってくるわ、色仕掛けが似合う歳になるわ、ピンポイントで佐武自身の情報が筒抜けになっているわ。
化粧が若い時より濃くなった以外はまだ二十代でも通用しそうな美貌が懐いた猫みたいに擦り寄ってくる光景は警察署内でも見過ごされてしまう程に常態化している。
「不祥、羽田了子(はた・りょうこ)。上司のセクハラに耐えられず辞職して、今はフリーですから」
「そこんとこだけ強調すんな。セクハラに対してビンタ一発お見舞いして慰謝料ふんだくった奴が言う事じゃない」
「このお仕事、お金の為でもあるけれど、自分の為でもあるんですよ? ネタを追う。良い記事が書ける。世間が少しだけ、ほんの0.000000一パーセントくらい良くなる。私、超満足。良い事ずくめじゃないですか!」
「真実を探求するとかフリージャーナリストみたいな事を言い出さんところは買ってやる」
「それでネタありませんか?」
溜息を吐いて佐武はデスクを発った。
お供にしてはありがたくない良子を子機よろしく引き連れ、近くの公園まで散歩を始める。
警察署に出入りする老若男女の署員達が微笑ましそうな顔で二人を見送った。
「で、で、ネタはあるんですか!!」
「あ~~どうだったかな。この頃物忘れが激しくてよぉ」
「そうなんですかDHAがいいらしいですよDHA」
「ホント、そういう旧過ぎるネタだけは持ってんのな。お前」
「社の書庫で時々昔の記事漁って読んでますから!!」
「何してるんだよ?」
「○○年目の真実的なネタが無いかと暇潰ししてるだけですけど?」
「・・・・・・もういいわ」
「そうですか。それではさっそくネタを頂戴します」
「マグロでも食ってろ」
「絶滅危惧種で今じゃ一皿二千円。奢ってくれるなら頂きます」
「解った。お前と話してると頭痛がしてくらぁ。ネタやるからとっとと今日は帰れ」
キラキラと子供のように瞳を輝かせる三十代のフリージャーナリストに頭痛を通り越したものを覚えつつ、佐武はタバコを取り出して咥えた。
無論、火は付けない。
「昨日のビル火災あんだろ。あれの出火の原因は人為的なもんだ」
「ネタキタ―――!!」
突っ込みも入れずに無視して今では一箱四千円するタバコを噛みながら佐武が続ける。
「ちなみに放火とかそんなんじゃない。証拠隠滅ってやつだ」
「証拠隠滅キタ―――!!」
「あそこは人身売買の拠点だった」
「―――それって近頃話題になってる華と韓の非合法風俗に関係あります?」
「いや、裏ルートで入国させた連中を働かせてるとか、そういうのじゃない。移民政策であぶれた連中が報告してない未戸籍の人間をターゲットにした専門店だったらしい」
「らしいってまた戒十さんにしては曖昧ですね」
「しょうがねぇよ。本庁から来た奴らが主軸で捜査が進んでやがるからな」
「それでそれで!!」
「こっからはオフレコにしとけよ」
「イエスシーキャン」
「その場所で商品にされてた連中を保護した際に怪しいのを引っ張ってきたんだが、あっさり釈放された」
「はい? それって重要参考人って事ですよね?」
「ああ、だが、上の連中はバッサリ捜査線上からそいつを切り捨てやがった」
「どういう裏が?」
怪訝そうな了子に佐武が解らないと首を振る。
「ただ、問題はそれだけじゃねぇ。あいつらが何故か執拗に現場を漁っててな。とにかく虱潰しに何かを探してるみてぇなんだよ」
「何かを探している?」
「他にも不可解な点が幾つもある。さっきの重要参考人だが、店にいたのは確かだが、別に店を利用してたわけじゃねぇらしい。それどころか保護した連中の話だと助けようとしてくれたとか。そいつの証言だと女の子が一人死んでるはずだとか」
「死体って事は殺人も絡んでますか。だとすれば、何故釈放されたんですか?」
「死体が出なかったからさ」
「は?」
「証言が丸っきりの嘘だったのか。あるいは死体が消えたのか・・・」
「これはまさかのミステリー路線!?」
「って事で、オレは帰る。お前もお前の巣に帰れ」
佐武が後ろを振り返った時にはもう了子の姿は影も形もありはしなかった。
「お前の方がよっぽどミステリーだっつーの」
佐武の声は暮れ始めた空に虚しく吸い込まれていった。
夕飯の匂いが家々から立ち上り、まるで平和という名を表したかのような黄昏時。
八畳一間で机と本棚しかない場所で、久重はジットリとした汗を浮かべていた。
その前には少女が何処か済まなそうに正座して久重を真っ直ぐな視線で見上げている。
「その・・・・・・」
ゴクリと唾を呑み込んで、その行為があまりにも周囲から誤解されそうであるという認識の下、久重は混沌とした内心とは裏腹に、明るい声でソラ・スクリプトゥーラと呼ばれていた少女に声を掛ける。
「君は・・・どうして?」
冴えない一言はあまりにも多くの質問を含んでいる。
どうして此処にいるのか。
どうして死んでいないのか。
どうして自分の名を知っているのか。
どうしてどうしてどうして。
「謝り・・・たくて・・・」
会った時とはまったく正反対に大人しい少女が真摯な瞳で久重に向かい合う。
「私・・・勘違いして・・・それなのに・・・助けてくれようとしてくれて・・・だから」
「オレは別に・・・・ただ、当たり前の事を」
少女ソラが久重の手を両手で掴んだ。
「ごめんなさい。ありがとう」
ソラが頭を下げた。
そして、頭を上げると立ち上がり、ドアの方へと歩いていく。
「さようなら・・・・・・」
久重の勘は言っている。
その少女ソラに関われば大事になる。
問題が多発する。
関わるべきではない。
関われば、命にすら危険が及ぶ。
長年アズに使われている久重にとって、危機に対する防衛本能は絶対の信頼が置けるものだ。
そうなると確信したならば、それはもう現実に危機と同じ。
だから、久重は己の本能に従った。
「ぇ・・・?」
ソラの手を掴んだ久重は一言。
「命の取り合いをした仲だ。夕飯ぐらい食べてけ」
「ぁ・・・・・・」
久重の手に篭る力にソラは俯けていた顔を上げる。
「でも・・・私・・・」
「それとオレはこう見えて危ない仕事も引き請ける何でも屋なんてのをやってる」
ソラが呆然として、慌てて首を振る。
「もし、何かに巻き込むと思ってるならもう遅い」
「ど、どうして?」
「あの白スーツ野郎にオレとお前の分はぶち込んでおいた」
「な!?」
ソラの手を離して、久重が台所へと向かう。
「わ、私・・・!?」
慌てて止めようとするソラに久重がそっと人差し指で口を閉ざす。
「人の厚意は素直に受け取っておけ。それが世渡りの基本だろ?」
クシャクシャと金髪を撫ぜて、久重が台所に立つ。
「ちゃぶ台が横にあるから出しておいてくれるか?」
「・・・・・・」
ソラが泣いているような笑っているような、そんな顔で久重の背中を見つめ、
「・・・・・・はい」
玄関から部屋の中へと戻る。
黄昏時、どこからかチャルメラが響いた。
「あ」
久重が固まる。
「?」
「ちょっと一人増やしてもいいか?」
「??」
久重は冷蔵庫を背にケータイを取る。
その中身は言わずとも空っぽだった。
「で、正体不明の死んだと思ってた命の取り合い(ガチ)をした謎少女が部屋に来て、優しくも夕食をご馳走すると言い張った愚かで可哀想な外字久重君は夕飯にする食材すら買えない有様でありながらも見栄を張る為、更なる借金をこの僕に申し込み、尚且つ食材の調達まで任せてくれたわけなんだね?」
胃酸で今にも解けそうな内心をグッと呑み込んで久重はアズのジットリとした視線を背中に受けながら答えた。
「イエス」
「へぇ、君にこんな冗談の才能があったなんて僕もまだまだ君に対する研究が必要だと心底に感じたよ」
「HAHAHAHA」
食材を調理しながら白々しい会話が展開される。
「君にロリコンなんて高尚な日本の精神が根付いてたとは。気付けなかった僕の負けだ。今日の分は僕が支払っておく。心配しなくていい」
アズの機嫌を損ねている要因が主に自分の女性関係だと理解している久重にとって、「支払っておく」との文句は「君は命を大切に出来ないの?」という死刑宣告に等しい。
一頻り久重にプレッシャーを掛けたアズはちゃぶ台を挟んで座っているソラへと視線を向ける。
「【ただ聖書のみ】(ソラ・スクリプトゥーラ)、か」
ボソリと名を呼ばれて、縮こまっているソラが更に身を縮こまらせた。
「久重の話を要約すると君は狙われている。狙われるに足る何かを持っている。そして、殺された。殺されたにも関わらず生き返った。あるいは死亡できなかった。更には【僕の】久重に会いに来てしまった」
「いつ、オレがテメェのもんになったんだよ!?」
「何か問題でもあるのかな。久重」
思わず突っ込んだ久重にアズの眼光が飛んだ。
怖気すら走らない、見られれば諦観しか持てなくなる視線に晒されて、久重が脂汗全開で調理に戻る。
「その容姿からしてゲルマン系かな。アングロサクソンの中でも血統書付きなレベルだ。所作に美しさがある。上流階級だね。その歳で日本語がペラペラって事は頭は優秀だ。男の部屋で羞恥心丸出しだからまだ男性経験は無しかな。キョロキョロ視線が動くのはこういう室内が珍しいから。つまり、少なくともこの国でもそれなりの場所に住んでいたわけだ。眉間の筋肉の動きからして近頃は怒ってばかりいたんじゃない? 服装のデフォルトが某有名ブランドのワンピースだけど、それは近頃発売した奴だ。その状態からして買ってきたばかりだろう。キャッシュの持ち合わせが外国人に多くあるとは考えにくいから支払いはカードだ。更に言うと君はどうしてそんな事が僕に解るのだと不安に思ってる。ただの推理にしか過ぎないけれど、当たってる?」
「それくらいにしておけ」
ペチンと久重がアズの頭を叩く。
「君が知りたい事を教えてあげただけだよ。久重」
「人に知られたくない事まで晒すのは卑怯者のやる事だ」
「それじゃあ、一番重要な事だけ教えておこう」
「なに?」
料理がちゃぶ台に置かれる。
カレーだった。
「久重。この子は間違いなく君に思慕の情を抱いているよ」
「ば?!」
「し・・・ぼ・・・?」
ソラが首を傾げ、久重が顔を紅くした。
「・・・・・・・・~~~~~~~?!!」
意味に気付いたソラも顔を急激に紅くした。
「ついでに言うと猫も被ってる。ちょっと考えられないくらいの優良物件だけど、手を出したりしないように」
「テメェはどうしてそう場をカオスにぶち込む天才なんだ!?」
「ふふ、こんな事言ってるけど、内心少しだけ嬉しいのさ」
「え?」
「そこ!? 無駄話をしない!!」
そ知らぬ顔でカレーを突き始めるアズにそれ以上何も言えなくなって久重が自分の分をちゃぶ台において座る。
「こいつの話は真に受けなくていい。とりあえず飯にしよう」
「頂きます」
久重が手を合わせる。
「いただきます」
ソラもそれに習った。
静かに始まる食卓にカチャカチャと音が響く。
「それで久重。これからどうするつもりなんだい?」
「Cコースってのはどれくらい掛かるのか聞きたい」
アズと久重のやり取りにソラが疑問符を浮かべる。
「ざっと四千万」
「!?」
ソラがアズの語る金額にビクリと体を震わせる。
「・・・・・・付けておけ」
「君は優し過ぎるよ。久重」
アズが溜息を吐いた。
「あ、あの、何を話して・・・」
「良かったね。ソラ・スクリプトゥーラ嬢。君の身の安全の値段を久重が僕に払ってくれるってさ」
ソラが目を見張る。
「な、何でそんな?!」
「それは君に死なれたのがよっぽど堪えたからじゃないかな」
久重がアズを睨み付ける。
口元を押さえてアズが話題を変える。
「ちなみにこのコースはジオネットからの完全遮断と戸籍の抹消その他の個人特定情報の完全秘匿を目的にして僕が開発した代物で、捜査機関や公安が全力でも追跡は不可能。要するに君は目視以外の情報を完全に失う事になる。その上で生活していく為の環境の全てを整えるからお値段的にも馬鹿高い」
ソラが久重を見上げる。
久重は頭を掻いて、目を逸らした。
「あー、袖振り合うのも他生の縁ってな」
「君が気に入ったから助けたいらしいね」
翻訳したアズの言葉に信じられないといった面持ちでソラが首を振る。
「そ、そんなのダメ!! 私、他の人にこれ以上迷惑なんて掛けられない!!」
思わず立ち上がったソラの手からスプーンが零れる。
そのまま立ち去ろうとするソラの手が大きな手で掴まれる。
「オレは君を助けられなかった。その代償だと思ってくれればいい」
「そんな?! だって、全部私の勘違いで!! 私は彼方を殺そうとして!! それで勝手に巻き込んで!! なのに!?」
手を振り払おうとしたソラの肩を掴んで久重が視線を合わせる。
「オレは、君を助けたい。だから、助ける。これは君の為じゃない。オレの為なんだ」
「オレの為?」
「ああ、オレのただの我侭だ。君を救えなかったオレが、自分が救われたいから願い出ただけの話だ。君がもしもそれを本当に嫌だと思うなら断ってくれていい。でも、その場合はオレがオレの責任でオレの力でオレの都合で君を勝手に助ける」
「私、そんな、そんな価値なんて!!」
うろたえるソラにアズがお茶を啜りながらニヤリとした。
「ご愁傷様。こうなったらこの年中金欠男はテコでも動かないよ。犬に噛まれたとでも思って諦めるといい」
「私・・・私・・・」
ポロポロと零れ始める雫が頬を濡らした。
「まずは夕食を済ませてからこれからの事を話そう」
久重の優しい声にアズがやれやれと肩を竦める。
「まるで【できちゃったの】とか言われた男のいいそうな台詞だ」
「――――」
ソラが涙を零しながら紅くなった顔を伏せた。
すっかりと夜が更けた八畳間からアズが立ち上がる。
「とりあえず、この子の身柄は此処に置いておくよ。今説明したように必要な偽装と戸籍、書類は三日で何とかする。ちなみに此処に居候する【聖空】(ひじり・そら)のストーリーはこうだ。君はロンドン留学の経験がある久重がお世話になった日系の大学教授の娘で夏休みを利用して遊びに来ていて、日本での保護者である久重の自宅にホームステイしている」
「ああ、解った」
「Cコースは最低でも二か月以上準備が必要になる。準備が出来るまでの仮の身分だけど気を付けるように」
久重が頷く。
アズがソラへと視線を向ける。
その視線は今までの遊び半分のものではなかった。
「ソラ・スクリプトゥーラ嬢。僕は君の過去に付いて一切の調査を行わない。君が何処の出身で、どうして追われていて、何を秘めているのか。依頼を受けた以上、追求する事は無い。ただ、それは久重の身に何も無かった場合の話だ。僕は君を信じていないし、君の何かしらの事情も斟酌しない。僕の債権者である久重が死ぬという事は君と久重に関する全ての負債を償還できないという事だからだ。もしも、久重に何かあった場合、君がそれでものうのうと生きてる場合、僕は君が負債を償還し切るまであらゆる方法を使って稼がせる。君が『潜伏先』として使ったあのクラブで行われていたような事を含めてだ」
アズの念押しにソラが真っ直ぐな瞳で頷き返す。
「後、僕の久重にちょっかいを出したら僕も本気を出すからそのつもりで」
「だから、テメェのもんじゃないって」
頭痛を抑えるように久重が片手で頭を押さえる。
「それじゃあ、また明日」
ドアが閉まる。
まるで嵐の後。
静けさが戻ってきた部屋に互いの呼吸音だけを認めて、久重がオロオロし始める。
「そ、そろそろ寝るか?」
「ひゃ、ひゃい!!?」
完全に意識してしまっているソラが頷く。
まるで沈黙を嫌うかのように久重はパパッと布団を敷き終えた。
「悪いがオレの布団しかないんだ。これでいいか?」
「は、はい。で、でも、その、ひさ・・・しげ・・・さんは?」
ソラの問いに久重が首を振る。
「オレは別に何処でも寝られるからな。布団は使っていい」
「で、でも!?」
「それと口調も・・・これからしばらくは一緒に暮らす事になるんだ。遠慮とかしなくていい」
「で、でも!!」
「でも、は無しだ。オレも君の事をソラって呼ぶ。だから、君も最初みたいにオレの事は呼び捨てでいい」
ソラはしばらく迷っていたがコクリと頷いて、躊躇いがちに名前を呼ぶ。
「ひさ・・・しげ・・・これでいい?」
「ああ、十分だ。ソラ」
「うん」
ソラの天真爛漫を絵に描いたような笑みに久重も思わず笑みが零れた。
明かりが消える。
もぞもぞと布団の中で動いていたソラが壁に寄りかかって瞳を閉じた久重の方を向く。
「ひさしげ」
「何だ?」
瞳を閉じたまま、久重が答える。
「ひさしげは優しいわ」
「そんな事ない」
「嘘。だって、普通はこんな事してくれる人なんていないもの」
「言っただろ? オレの為だ」
「人を助けるのが?」
「ああ、そうだ」
「日本人ってもっと慎ましい人達だって思ってた」
「難しい単語知ってるな。慎ましい・・・か」
「私の日本語。何処か変?」
「いや、今の日本に慎ましいなんて使う奴はいないと思ってな」
「そうなの?」
「オレもアズもソラよりは慎ましくない」
「そ、そんな事・・・」
照れた声のソラがもぞもぞと布団を口元まで上げる。
「いや? 一応、慎ましくないところもあるか。勘違いで戦ったし」
「あ、あれは!? ちょっと、その・・・ひさしげが強くて・・・絶対追跡者だって思って・・・」
「オレ、強いか?」
「普通の人は銃を持ってるプロを倒せたりしないわ」
「武術ってのは肉体労働じゃなくて思考作業だってのがオレの持論なんだがな」
「どうして?」
「自分の体なんだから自分の思うように動かせて当然。自律神経や副交感神経だってある程度は恣意的に操作できるのが普通だ」
「それって普通?」
「銃だって射線上にいなければどうって事ない。人間が引き金を引く時間は狙いが定まった時こそ早いが、狙いも定まってない時は躊躇するのが大半だ。ちなみに真正面の至近距離でもなければ狙いも定まってない銃で負傷するなんて有り得ない。そもそも拳銃じゃ致命傷を負わすには一発二発じゃ殺傷能力が足りない。頭や心臓を狙い撃たれない限り」
「ひさしげが玄人なのは解った・・・」
「難しい漢字知ってるな」
「ひさしげって危ない仕事をしてる人?」
「オレは大学院生だ。何でも屋は借金返済の為の副業だ」
「ダイガクインセイ?」
「簡単に言うとGraduate Student」
「博士になりたい?」
「オレの場合は色々と事情があってな」
「事情・・・」
「そろそろ寝ないと明日起きられないぞ。今日はここまでにして寝た方がいい」
「うん。オヤスミナサイ。ひさしげ」
誰かにそんな言葉を掛けられて眠るのはいつぶりだろうかと、そんな感慨を覚えながら久重の意識は落ちていった。
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