「くるりん」こと九重理沙は、リビングのソファで寛ぎながら、大好きなザ・ビートルズを聴いていた。ヘッドフォンで聴いていたため、周囲の音は完全に遮断されていた。何度か肩や頭を叩かれたが、彼女は一切反応を見せなかった。彼女が得に好きな『エリナー・リグビー』という曲が流れている最中だったからだ。振り向きもせず、誰ともわからない訪問者をしっしと手で追い払うと、足でリズムを取り始めた。
訪問者は痺れを切らしたのか、くるりんからヘッドフォンを取り上げた。「くるりーん!」耳元で、しかも大声で明里が叫んだ。くるりんは「きゃあっ!」と悲鳴を上げてソファから転げ落ちてしまった。すぐさま起き上がると「ちょっと! 明里! あんた、何考えてんの! 順番が逆とは思わない? 叫ぶならヘッドフォン取る前にしてよね!」動揺しきった様子で捲し立てた。だが、明里はまるで聞いていなかった。
「ねえ、くるりん!」と明里は目を輝かせた。ソファを飛び越えて、くるりんに顔を近づける。「明後日、二十一日って、何の日か知ってるぅ?」
唐突な出題ではあったが、くるりんは一瞬、上目になって考え込んだ。「あんたの命日とか?」
「明里、生きてるもん」明里は呆れたように肩を落とした。
「だから何?」くるりんはバカにしたように肩を竦めた。そんなことよりさっさとヘッドフォンを返して、と手を差し出す。
「何の日か当てられたら返してあげるもん!」あっかんべー、とからかうと後ろ手に廊下へ繋がるドアを開けると、明里は出て行ってしまった。
閉口しきったように、くるりんはソファに腰を落とした。だが、またすぐにドアが開く音が聞こえた。「ヘッドフォン返してよ」背後を振り返ると、アメリの姿があった。明里と入れ替わりで入ってきたようだ。何やら図鑑のような、大きな本を胸に抱えていた。アメリの姿を見て、最初に思い浮かべるのはいつも、ぐちゃぐちゃになった部屋だ。割れた窓ガラス、ひっくり返ったテーブル、真っ二つに裂かれた液晶テレビ。「ど、どうも~」同居して既に一年以上経ってるとは思えないほど他人行儀な挨拶が口から零れた。アメリはゆっくりとくるりんに歩み寄る。逃げ出したくなるほどの、緊張感がくるりんを襲い、思わず身体が仰け反ってしまう。
アメリは、抱えていた図鑑をくるりんに差し出した。『天体図鑑』と表紙に書かれていたそれを開いて、しおりの挟んであったページを見せた。そのページは日食について書かれているページのようで、月が太陽に重なり、月の外側から太陽がはみ出して、光がリング状に見える神秘的な現象、金環日食の写真が大きく載っていた。
「これが、どうかしたの?」くるりんは図鑑を指差して、恐る恐る首を傾げた。
「来週なの」とアメリは短く言うと図鑑を閉じて、てくてくと子供部屋へと姿を消した。
来週……何かあったかな? と心の中で呟くと、ふと、床にリモコンが落ちているのを発見した。それを拾い、目の前にあったテーブルの上に置くと、再びソファに寝転んだ。ふと、何もやることが無いことに気がついた。友達の少ないくるりんは休日でなくとも、いつもこうしてソファやベッドで音楽を聴いていた。音楽を聴くときはいつもヘッドフォンをしていたが、今日に限っては明里に、理不尽にも取り上げられてしまった。気がつくとテーブルの上のリモコンに手を伸ばしていた。しかし、なかなか届かない。んん、と踏ん張って手を伸ばすが、やはり届かない。
「たまには外で遊んだら?」
その声に驚いたくるりんは、またソファから転落して頭を打ってしまった。打った部分をさすりながら起き上がると、ヘッドフォンを耳に当てた明里がソファの背もたれの陰からひょこんと顔を出していた。
「さっきの問題の答え、わかった。だからさっさとヘッドフォン返して」飛び掛るように、明里からヘッドフォンを取り上げようとするが、すんなりかわされてしまう。
「まだ答え聞いてないもーん」明里は得意げに指を立てた。
「日食でしょ? 皆既日食」
「皆既日食? 金環日食だよ。全然ちがーう。ハズレ~」
「あ、それ良いヒントね。答えわかった。答えは金環日食でしょ?」
「あー! ずるーい! 今明里が答え言ったもん! これは返さないよーだ」明里はヘッドフォンを外し後ろに隠した。
「ちょっと!」とくるりんはビシッと明里を指差した。「答えは出たじゃない! 皆既日食でも金環日食でも太陽が隠れることに違いは無い!」返しなさい! と手を差し出す。
「ふーんだ。それじゃあ聞くけど、金環日食が起こるのはいつ?」
「ちょっと何のマネ? いつまで続ける気? もう問題ごっこは終わりよ!」
「答えたらねっ! ラストチャンスってやつ」
「むー……。今月だ!」
「だから何日?」
「むー……!」くるりんは腕を組み、考え込む。
「テレビ点けようとしてたんでしょー?」
くるりんは直ぐ様、テーブルに置いてあったリモコンに手を伸ばした。画面に向けて電源ボタンを押す。ちょうど昼の帯の情報番組が放送されていた。小太りの男性アナウンサーが、色とりどりの文字で、新聞記事のようにびっしりと情報が書かれた大きなボードの前に立ちながら演説のように説明をしていた。それが金環日食についてだったので、さらにタイミングが良い。
「世紀の天体ショー」と強調し、コメディアンのように異様なテンションで大袈裟に文章を読み上げ、時には、まるで日食がこの世が終わりかのように真剣な表情で視聴者に訴えかけていた。「日食メガネを必ず掛けてください!」という言葉が「地下シェルターに避難してください!」と警告しているように聞こえるほど、そのアナウンサーの盛り上がり方は野蛮だった。
テレビ画面の右下に、「ついに21日! 世紀の天体ショー!」と書かれているのを発見すると、「二十一日!」ここぞとばかりに叫ぶ。「っていうか、そんなに騒ぎ立てること? このアナウンサーも、まるで発情期のハムスター」
「何言ってるのぉ! こんな都心で見れるなんて滅多に無いんだよぉ? 百年以上振りなんだよぉ? 東京に住んでてよかったぁ、ってそう思わない?」
「ふんっ、私が見なくても、私の子孫がしっかり見てくれるわよ。性格が私似じゃなかったらの話だけど」と肩を竦めると、明里に背を向けた。
「くるりんのバカ! あなたきっと後悔する!」明里はヘッドフォンを叩きつけるようにくるりんに投げ付けた。「それにくるりんは結婚なんてできないもん!」今度は、庭側の引き戸を力強く開けて、そこから出ていってしまった。イライラした様子で、ずかずかと足を鳴らしながら幼稚園がある方へ走り去っていった。
テレビを消し、ヘッドフォンのコードを音楽再生プレイヤーに差し込み、安堵したようにソファに寝転ぶ。突然の、奇襲とも言える妨害が入ってイライラに苛まれた心を癒すため、くるりんは『イン・マイ・ライフ』を選曲した。その次には『恋におちたら』か『イエスタデイ』を聴こうと考えていた。とにかく、落ち着いた曲が聴きたかった。『イン・マイ・ライフ』の超有名なイントロを聴きながら、ふと、日食の映像を想像してみた。それが金環なのか皆既なのかは判然としなかったが、神々しい輝きを放つ黒い月、というよりは黒い丸が何故かとても愛しく思えた。私って丸が好きなんだ?
音楽鑑賞を中断して、アメリがいる子供部屋を訪ねた。もう一度、『天体図鑑』を見せてもらった。さっきと同じページ、同じ写真だが、さっきとは違い、その金色のリングがとても神秘的なものに思えた。気がつけば、床に座り込んで図鑑に顔をうずめていた。アメリの視線を感じて、我に返った。恥ずかしそうに顔を赤らめるが、何事も無かったかのようにアメリに本を返して立ち上がる。日食の虜になっていた。何としても、日食が見たい。
足元を見ると、アメリがこちらに何かを差し出していた。アメリの手にあったのは、メガネのような長方形の型紙だった。黒いフィルムを囲むように、可愛らしいウサギやキリンといった動物の絵が描かれていた。「何? そのダサいサングラスは」半笑いで、そのメガネのような物を手に取り、目にあててみた。視界が一気に真っ暗になり、蛍光灯の明かりは弱々しくハッキリとしていない。すごい遮光率ねと関心した。
「日食メガネ」とアメリは自分の差し出したものを指差した。
「日食メガネ?」くるりんは、日食メガネを掛けたままアメリを見た。
「うん。日食を見る時にはね、それを掛けなきゃいけないの」
「でもこれ、なんにも見えない」周囲を見渡した後で、もう一度アメリの顔を見る。さっきテレビをつけた時に偶然放送していた情報番組でアナウンサーが叫んでいた言葉を思い出した。『日食メガネを必ず掛けてください!』だが、あの小太りのアナウンサーの言うことは無条件で胡散臭いと感じた。「私は要らない。だってこのサングラスじゃ、日食は見えそうにない」と肩を竦め、日食メガネをアメリに返した。
※※※
二日後、日食が起こる当日、五月二十一日。くるりんはいつもより早い、早朝五時過ぎに起床した。顔だけ洗うと、パジャマ姿で、乱れた髪のまま、サンダルを履いてベランダへ飛び出した。子供部屋にあった小さな椅子を持ち出しそこに座ってじっと空を眺める。二時間後の七時半に始まる、ということは施設の職員に知らされていたが、生憎、空はどんよりと雲に覆われていた。
「理沙ちゃん? 随分と早く起きたのね」ピンク色のエプロンを着た、施設の職員、本田美香子が驚いた表情でくるりんの顔を覗き込んだ。「もしかして、日食待ち?」
「ええ」空に向けた視線を逸らすことなく、無愛想に頷いた。
「日食は七時半からよ? それに、日食メガネは?」美香子は心配したようにくるりんへ歩み寄った。
「日食メガネって、小1の工作みたいな、あのダサダサなサングラスのこと?」まるで感情の無いロボットのように淡々と言った。「そんなもん必要無い」
「必要無い、って日食を観測する時には、必ず日食メガネを掛けないと! 大変なことになるのよ?」
「大変なことって何? 月が爆発するとか? そりゃ大変」くるりんは鼻で笑った。「日食メガネなんてマヌケがするものよ」
美香子は呆れたような笑みを浮かべ「私は聞いたことないけどなぁ~」ズボンのポケットから日食メガネを抜き取り、くるりんに差し出した。「マヌケどうこうじゃなくてね、本当に大変なことになるのよ。目が見えなくなるかもしれないし。それってすごく嫌なこととは思わない? 大好きなポール・マッカートニーもジョージ・ハリスンも見れなくなるのよ? あなた毎日Youtubeでビートルズの映像見てるじゃない」
「言いたいことはそれだけ?」
美香子は呆れ果てた様子で、くるりんの膝の上に日食メガネを置くと片眉を下げて微動だにしない彼女の姿をあわれむように見下ろした。「どうなっても知らないからね? それと、日食の前に朝食。ご飯食べた後でゆっくり日食を鑑賞しましょ。もちろん、ちゃんと日食メガネをかけてね」くるりんの頭をぽんと撫でるように優しくたたいて、美香子は立ち去った。
美香子に言われた通り、くるりんは朝食を摂ることにした。腹を満たした万全の状態で世紀の天体ショーを見たいと考えたからだ。だが、やはり日食メガネに関しては頑なで、拒み続けた。美香子は「日食観測禁止! 見るならテレビの生放送で見なさい!」と食卓で彼女を叱りつけた。
「みんな心配し過ぎよ。私の目はあんなサングラスが無くたって平気だもん!」とくるりんは拗ねたように言うと、箸でご飯を掬い、口に頬張った。
「心配?」と同じ部屋で五つ年上の今井美咲が鼻で笑った。「誰もくるりんの目の心配なんてしてない。美香姉が心配してるのは、あんたの脳ミソ」
「うるさい! ●●●●! ●●●はいても友達はいないくせに! 受験生なら受験生らしく勉強しろよな!」美咲の対面に座って食事をしていた、彼女よりもより一つ年下の高橋純也が箸を置いて憎たらしげに叫んだ。
「ちょっと二人とも! 食事中よ!」すかさず美香子が注意をする。
「ちょっと待ってよ!」美咲が立ち上がった。「『二人とも』って、それあたしも入ってる!? 冗談じゃない! 汚いことを言ったのはそこのおバカ一人だけじゃん!」悔しそうに純也を指差す。
「汚いんだよ」と純也が追い討ちをかけるように口を開いた。「性格が」
「むきー! ものごっつぇ頭に来た! あたしの必殺パンチ喰らいたい?」
「おおっと! こりゃまずい! ラバーポールも倒せないヘナチョコパンチをお見舞いされる! 俺の人生もここまでか!」純也はバカにしたようゲラゲラと笑った。
「自分で殴って跳ね返ったラバーポールがタマキンに直撃したダサダサ男がよく言うわ」
「二人とも黙って食べなさい!」美香子の本気の怒鳴り声に、美咲と純也は二人して拗ねたようにそっぽを向いた。
ちょんちょん、とくるりんの右隣にいたアメリが、腕をつついてきた。「ラバーポールって何?」
「さあね」くるりんは困ったような笑みを浮かべた。
「あ、そうだ」アメリは何か閃いたように、ぱあっと笑顔になった。「日食が起きれば、色んな動物が普段とは違う行動をとるんだって」
「うーん……つまり、日食が起これば、普段仲が悪いあの二人も、仲良しになるって、そう言いたいわけ?」勝手な解釈ではあったが、「うん」とは言わずに笑顔を見せつけるアメリは、きっとそういうつもりで言ったんではなく、ただ単に図鑑で得た知識をひけらかそうとしただけなのだが、ちょうど良い答えが見つかったんだ、そういった意味が込められてる、とこれまた勝手な解釈で自己完結させた。「でも、それだったら日食が起こる必要無い。だって、よく言うじゃん、『ケンカするほど仲が良い』って」
食事を終えたくるりんは、ひょいと椅子から飛び降り、再び庭へと出ようとした。しかし、やはり美香子に止められた。肩を掴まれ「この真っ暗なメガネじゃあ日食を確認できないって、そう思ってる? それなら安心して良いのよ。確かに蛍光灯とかの光は殆ど遮断されるけれど、日食はちゃーんと見れるのよ」これが最後だと言わんばかりに神妙な顔つきでじっとくるりんを見つめる。
「わかった」とくるりんは溜め息を吐いて日食メガネを受け取った。「掛けるわよ。よく見ると可愛いじゃない、このメガネ」
庭に出るとちょうど明里と出会した。手を振ってこちらに走り寄ってくる。
「楽しみだね日食! もうすぐだよ~!」明里は嬉しそうに跳び跳ねた。
くるりんは、手の平に載せた日食メガネに視線を落とした。やっぱり、日食メガネを使いたくなかった。彼女は明里には見えないように後ろ手に日食メガネを破り捨てた。
「日食を見るのに、良い場所があるんだぁ」と明里がくるりんの手を掴んだ。「くるりんも知ってる場所だよっ」
案内されたのは、この施設の三つある寮の内の一つで、くるりんが居る「レモンの家」、そのすぐ脇にあった小道を進んだ先にある、施設と隣接した廃墟となった団地だった。仕切りとなっている柵の欄干が大きくあいていて、簡単に出入りができた。そこには、くるりんも何度か来たことがある。ただ、不気味でとても一人ではとても行きたくないような不気味な場所ではあった。それに、施設の職員からはここには入らないようにと言われていた。ここの屋上で日食を見よう、と明里は言う。
屋上からの景色は良かった、ただ空が曇っていることに不安を感じた。果たして日食が見れるのか。早くも落胆したように下を向く。
「あ!」と明里が叫んだ。「日食! 始まったみたい!」すかさず日食メガネを目にあて、空を指差す。
空を見上げると、雲の切れ間から眩しい光が差し込んだ。太陽がハッキリと見えた。太陽は徐々に欠けてゆく。月が太陽と重なり、幻想的な金色の輪が出来上がった。くるりんはそれを終始肉眼で見据えた。
約五分ほどで金環日食は終わった。くるりんはうずくまって目をおさえていた。
「ねえ! くるりん!?」と明里が焦った様子で声を掛けるが、彼女の声より目の痛みが先行して返事を返すことができない! 目は突き刺されたように痛む。「日食グラスを掛けないからだよ! もう! どうしよう……!」泣き出しそうな声で、どうしていいのかわからなかったのか明里はくるりんの背中をさすった。
ハッと起き上がったくるりんは、恐る恐る押さえていた手をはなし、目を開けてみた。「大丈夫?」心配そうに声を掛けてくる明里の方を見るが、視界は真っ白で、明里の顔がわからなかった。
----終-----
途中の「うるさい! ●●●●!」らへんは、自主規制しました。
ちょっと下品だったので。
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金環日食間近、「くるりん」こと九重理沙は、その神秘的な現象に魅せられて、なんとしても日食を見たいと思っていた。ただ、彼女は何故か日食メガネを異様に拒み続けた。
「オアシスがかれるほど騒ぎたい!」の間章です。
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