No.422653 言葉 【1832文字】2012-05-14 03:06:07 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:562 閲覧ユーザー数:562 |
目の前に古びたマンションの非常階段がある。見上げると、上階が夜闇に吸い込まれていく
ように見えた。
私は暗く漠然とした意識で、スチール製のステップに足を掛ける。タイトなスーツスカート
を穿いている所為か、階段を登る足取りが重苦しい。
ストラップパンプスが叩き出す甲高い音が、こんこんと抑揚もなく一定に鳴り続ける。
彼は自殺した。
非常階段の手摺に触れてみると冷たかった。
ここは、こんなにも冷たい場所だっただろうか。
彼と登る非常階段の先に、素晴らしい景色が広がっていた。
彼はその眺めが好きだった。私もその眺めが好きだ。
街並みを見下ろしては、彼の想いを熱っぽく伝えてくれた。
「いつかこの景色に、自分の作った曲を溢れさせてみせる」
そして、おどけたように無邪気に笑うと、
「一緒にここを飛ぼう」
そう言って、羽ばたく真似をしてみせた。
彼と出会ったのは、私が大手メジャーレーベルを辞めたばかりで、彼はミュージシャンを目
指して上京してきたばかりの頃だった。
彼の路上ライブに遭遇した時、その歌声に、その楽曲に、瞬く間に魅了された。
資本回収が義務であるメジャーレーベルでは摘み出されてしまいそうな、独特の楽曲だった。
それこそが、私の求めていた音楽だった。なんとしても、この手で世に広めたかった。
そしてその想いが、淡く抱いていた夢、躊躇していたインディーズレーベルの立ち上げを決
心させた。
自然と笑みが漏れる。
「あの時、彼はドン引きしてたっけね。私があまりにも熱心に口説くものだから」
思い出すだけで暖かい、掛け替えのない出会い。
彼と私とは、お互いの夢を叶えるための唯一無二のパートナー。
そう思ってた。
だからこそ、この渇きにも似た欠落が、鮮明に浮き立ってくる。
今も、こんこんとステップを踏む音が鳴っているはずだけれども、私の耳にはもう届いてい
ない。
彼の遺書にはこうあった。
「自分の曲は、いつも側に居てくれた人にさえ、届かない」
あの時、彼の曲は、彼の歌声は、私の心に響いていた。今までにない素晴らしいものとさえ
思った。
けれども、私は彼の渾身の楽曲を、言葉少なに突っぱねてしまった。
彼ならば、もっと高みを望めると、素晴らしい完成度の曲に仕上げられると、そう思って。
もしかするとそこに、自分のレーベルの経営不振に対する焦りの影が落ちていたのかもしれな
い。このままでは夢を掴むに足りないと。
でも、彼は限界にあった。彼も追い詰められていたのだ。
そして、私は大切な片翼を失った。
非常階段の最上階。
目端に映る夜の景色は、華やかなものではなかった。
マンションの屋内を見つめると、ぽっかりと暗がりが蟠っている。
その暗がりの中で一つ、蛍光灯がちらちらと怯えていた。
彼の死後、私は持てる人脈にあたって、彼の最後の楽曲を、そのビデオ・クリップと共に完
成させた。
声を掛けたみんなは、彼の楽曲に共感し、快く仕事を引き受けてくれた。そして力を尽くし
てくれた。
その際に、私はボーカリストにだけ声を掛けなかった。ボーカルパートは仮歌をそのまま使
うことにした。
レーベルの資金は、楽曲とビデオ・クリップが完成した時点で底をついた。そしてレーベル
を畳んだ。
それでも構わなかった。元より彼の楽曲を完成させることしか考えていなかったから。
広めるだけなら、まだ手段は残されていた。
私は完成した楽曲を、動画共有サービスにアップした。
初めの頃は振るわなかった。けれども、口伝てに広がったのか、次第にアクセス数は増加し
ていき、好評を得ていった。
彼の曲は人々の心に響き、その想いが伝搬していく。
勿論、私にだって響いていた。その想いを受け止めてもいた。他の誰よりも共感したのだと
叫びたかった。
でも、私の想いは彼に伝わらなかった。
笑うしかない。
「当たり前だ。伝わるわけがない。彼とは違って私は、想いを、言葉を、尽くさなかったのだ
から」
悔恨が怒涛のように襲い掛かって来て、眉根が歪む。
それでも涙が零れ落ちることはない。
とうに涙は枯れ果てた。
私は夜の街並みに視線を戻す。
触れた手摺は相変わらず冷たい。
かつて夜を煌々と照らした様々なイルミネーション達は、今は息を潜めている。
その様は、私そのものに思えた。
私は片翼を失った。
でも、眼下に広がる景色には、彼の想いが溢れている。
彼の想いと私とで一対の翼。
約束通り、彼と飛ぶのだ。
そうして、私は夜に溶けていく。
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どうにも自分の作品は芯がないなと思っていたところに、ふと湧いた碌でもない悲劇。
どうも私の思想的なものを組み込めそうな気配を感じたので、
命題を込める練習がてらに仕上げてみた掌編作品です。
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