東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
(菅原道真)
春眠不覚暁、とはよく言ったもので、里の人間から「慧音様はいつお休みになられているのか」と事あるごとに問われて返答に窮してしまう蒼銀長髪の少女とて例外ではなかった。
その春眠のため、未だ意識がまどろみの中をふわりふわりと漂っている中、ふと雀の囀る声が聞こえた。
眉を顰めながら薄らと片目を開くと、障子から零れる朝の光が射し込んできて思わず片手で即席の日除けを作る。
このまま意識を目覚めから一番遠いところに押し込んでしまいたいところであったが、意思に反して頭の中の歯車がガタゴトと音を立てて動き始めると日除けにしていた手の腕からズキズキと痛みが伴い、思わず小さい呻きが漏れた。
慧音は手の腕の痛みを抑えるように空いている手を添えながら、ふとここ最近のことを思い返す。
幻想郷に春が訪れた。
ただそれだけなら、いつもは規則正しい生活を送っているこの少女も春の息吹の心
地よさについつい春眠に誘われてしまった、といったところだっただろう。
しかし、今年の春は少しだけ様子が違った。
朝餉の仕度をするために川へ水を汲みに行こうと外へ出たとき、道端に梔子の花が咲いているのが目に付いた。
「…梔子は、確か夏の花だったはず。
それがどうして今?」
一つの可能性として浮かんだのは狂い咲きの類ということだったが、行く先々で紫陽花、秋桜、山茶花と場所や季節を問わず一年中全ての花が咲いている光景を目の当たりにし、自然現象のせいではないという考えにいたった。
この光景は眺めるだけなら実に壮観だったが、これは誰が見ても疑いようのない異変であった。
いつもなら人間を守るために右往左往する少女だったが、今回は動き出すどころか、花を前にして膝を折り、手のひらで包み込むようにして花を撫でるのみで異変のために何かをする、といった様子は全く見られなかった。
慧音が動かないことには、ちゃんとしたわけがある。
この異変が人間そのものに害をおよぼすものではなく、また周期的に発生する現象であるということを知っていたからだ。
それよりも、もともと娯楽の少ない幻想郷においてこの異変を神主(?) の贈り物だとばかりに祭囃子に興じ、普段は見せない心の緩みを作ってしまうことを憂慮していた。
心の緩みは隙を生む。
ヒトの心の間に息づく妖怪達はそれを見逃さない。
手の腕の傷はそんなヒトの隙に付け入って取り食らわんとする妖怪から里の人間を守ったときに負ったものだった。
記憶を辿る糸がぷつりと切れると、慧音はすっかり目の覚めてしまった身体を起こし、小さく伸びをする。
そして障子を開け放ち、朝の空気を存分に吸い込んだ。
「…もう朝、か。今日もまた忙しくなりそうだな」
春とはいえ、明け方の空気はまだ冷たい。
慧音が身支度をすませ、里へ向かうために戸を開いたとき、すきま風が身体を撫で思わず身震いをした。
それでも一歩、外に足を踏み出せば地に注ぐ陽光は暖かく、耳をすませば春風の音、鳥や虫の息づく声、どこぞの春の精に運悪く撃墜されて地に落ちていく憐れな者の断末魔が聞こえてくる。
そんな冬の忘れ物も忘れ物のしようがないほどの春真っ盛りだというのに、少女は流れる木々や花の情景に視線を逸らすことなく歩みを進めている。
もともと、喜怒哀楽を代わる代わる移り行かせることができるほど器用な娘ではなかったが、表情には辺りの陽気さには似つかわしくないほどの哀しい瞳を湛えていた。
しばらくすると道の先に堀と板塀で囲まれた里の姿が見えてきた。すると先ほどまでの表情とは一転、頬をほころばせた少女が手を大きく振ると物見矢倉に座していた二人の男がそれに答えた。
「おはよう。朝早くからお務めご苦労様。
…何も変わりはないようですね」
「おはようございます、慧音様。
…昨日の晩に妖怪を追い払ってくださってからは何も」
いつもありがとうございます、と続いた言葉に慧音は小さく頭を振りながら笑みを返す。
少女が物見矢倉の下をくぐって里の中へ入ると、すでに何人かは作業をしていた。
田畑に種を蒔く者たちの影、藁を編む音。
真っ赤な鉄を叩く者の規則正しい動作、武芸に励む者の声。
人々の前を通るたびに掛かる言葉に答えながら少女は足を一軒の、一際大きな家へと向ける。
慧音が目的の家に着いたときには、すでに何人かの老人が集まっていた。
その一人が慧音の姿を認めると、集まっていた全ての者が体を向けて頭を垂れる。
誰もが先ほどの慧音と同じく、哀しみを湛えた表情を浮かべていた。
「…慧音様。仰せの通り、この異変の事情を知っとるもんたちを集めといたよ」
「ありがとう、里長殿。朝早くからご苦労だったな」
里長、と呼ばれた老人は小さく頭を下げると視線を遠くへ向ける。
「以前起こったときのことは…もうこの歳だて、とんと忘れてしもうてかんかないが。
不思議とこの異変が起こったときに聞いた『お願い事』だけはよう覚えとるよ」
「そうなのか?
私がこの話しを持ちかけたときは、里長はもとよりみなが怪訝な顔をしていたからてっきり忘れてしまったのかと思っていたのだが」
「そりゃあ慧音様。
ここにおるもんはみんな年寄りやで昔のことをすぐに思い出せるのはおらんよ。
それにこの異変が前に起こったのはウン十年前いんね、ウン百年前じゃったかの?」
里長の言葉に、その場がどっと笑いに包まれた。
「まあ、言い出した私が覚えているのは当然として。みなが覚えていてくれたのはうれしいことだな。
…ならばこれ以上、言葉を積み重ねる必要もないだろう」
ひとしきり笑いがおさまったところで、慧音が口を開いた。
そして老人たちに向かって姿勢を正すと、深々と頭を下げる。
「今回もまた、よろしくお願いしたい」
「いんねぇ、慧音様に頭を下げられんでも…
じつはわしら、異変が起きてからすぐに準備しとったんだわ」
少しぎしやけどな、と里長は言葉を続ける。
顔を上げた慧音は、目の前の老人たちを見て一瞬目を伏せたが小さく頭を振ると口を緩めて笑みをこぼした。
「…ありがとう。
それでは私も、みなに負けぬよう早速準備に取りかかるとしようかな」
少女の微笑は、とうの昔に枯れたと思っていた感情がまだ息づいていることを気づかせたのだろうか。
老人たちは初めて告白をされた子供のような表情のまま一様に黙りこくってしまったが、やがてどこからともなく照れ隠しのような笑い声が上がると瞬く間に広がった。
それは、花が散る夜まであとひと月の頃。
春の暖かく優しい風が吹く。
その風が、里の笑い声を伝えるかのように小さく花を揺らした。
「…よし。これも完成、と」
手に持った筆を硯の上に置きながら、慧音は満足そうにつぶやいた。
視線の先には四方を小さな竹の棒で囲み、その間を紙で張り合わせた箱状の物体があった。
紙の表面には精霊を模した少女の絵が描かれており、先ほど筆で描いた少女の瞳が慧音に向かって微笑んでいる。
視線を移してみると畳にはこれまた同じ形状の物体がところ狭しと並べられていた。
「これでようやく半分ぐらいか。…まだまだ先は長いな」
くいくい、と小さく肩を鳴らすと、慧音はその場から立ち上がり台所へと向かう。
台所には香霖堂の店主からしきりに勧められた魔法の水筒が置いてあった。
この魔法の水筒、聞けば外の世界の物だと説明を受けたが、これがなかなかの代物
で一度沸かした水をこの水筒の中に入れておくと数時間は湯の熱さが保たれているの
だ。
おまけに上から少し圧力をかけてやると、異国の動物…名は獏と云う…の鼻の先の
ようなところから湯が出てくる仕組みになっており、外の人間もなかなかやるものだなと、感心した記憶があった。
今では『獏壱号』と名を授けられ、愛用の一品となっている。
獏壱号から湯を注いだ茶を口元へ運ぶと、慧音は小さく息を吐いた。
「そういえば…みなの準備の方はどれだけ進んでいるのだろうな」
異変の事情を知る老人たちを集めた日からすでに数日が経っていた。
その間全く顔を見せなかったというわけではなかったが、大体の期日と準備の割り
振りを決めていたので、里で会ったときも別段話の中に上がってこなかった。
彼らならしっかりやってくれている、大丈夫だ。と自分で言い聞かせてみたものの、この少女、一度気になりだしたらどうしようもない性質であったらしく、次第に湯呑に口をつけては離しとそわそわし始めた。
「はあ。獏壱号から入れる茶はいつもながらに美味いな。
…って、ええぃ!案ずるより生むが安し、人間万事塞翁が馬だ!」
ついには似合わない現実逃避などを試みたが、逆にどうしてもいたたまれない、滑
稽な姿を想像してしまい、結局、まだ冷めない茶を残したまま外へと飛び出していた。
…私はどうしていつもこうなのだろうか。
慧音が突然答えの返ってこない問いを投げかけたのは、すでに目的である里を十里
ほど越えた虚空を漂っているときであった。
少女のいる位置から地を見下ろすと幾重の彼方まで花の絨毯が敷き詰められ、いつ
もは日和見などこぞの巫女さえものんびりしていられないほどの異常な出来事である
ることは容易に伺い知れたが、自分自身に悩める今の少女にとっては本当に些細で、
どうでもいいことになってしまっているのかもしれなかった。
しかし、未だ目的地をとうに越えてしまっていることに気づかないところを見ると、傍では瀟洒で通っているメイドに匹敵するくらいの天然であるのかもしれず、それこそ少女が本気で憂慮しなければならない点であったのかもしれない。
「…あれ?そこで一人悩めるうら若き乙女を演じてるのは…慧音さん?」
「…っ!だ、誰が胡散臭いスキマを信じ…」
「あー、やっぱり慧音さんです。
先日は取材にご協力ありがとうございました」
やっぱり、の言葉に慧音は納得のいかない表情を見せたが、先ほどまでの自分の
様子を問い詰められたりするのはさすがに不利だと感じたのか、コホンと咳払いを
するとへらりと笑みを浮かべる少女の方に視線を向けた。
目の前の少女、名は射命丸文という。
ここ幻想郷で…必要なのかどうなのかは置いておくとして…新聞の記者をやってい
る。
慧音も以前とあることで彼女から取材を受けたことがあり、一応の顔見知りであっ
た。
「いや、あれぐらいのことであればいつでも協力するよ。
相互の干渉が少ない幻想郷ではあなたのような存在は貴重ですし」
「うわー、嬉しいこと言ってくれますね。
これからも地域密着型文々。新聞をよろしくお願いします。
で、ですね。次に記事にするネタなのですが…実はすでにあったりするのです!
本当なら発行まで首を長くして待っていただくところなのですが、今日は気分がい
いので慧音さんだけにこっそり教えちゃいます。大弾幕サービスですからね!」
「私は、弾幕サービスよりビール券サービスの方が…
もとい、そんな大そうなものならぜひ聞かせてほしいですね」
よもや自分のことではあるまいな。もしそうだとしたらかわいそうだが…と、脳内では頭で何かを突き上げながらcで始まる異国語を叫び続ける慧音だった。
そんな記者生命最大の危機を迎えているとは露知らず、文は背の黒羽根を嬉しそうに上下させながらおしその小さな手のひらを成し得る限り大きく広げる。
「ネタとはズバリ、年中の花が咲き狂う今の現象のことです!
こんなことは異常です。異常過ぎです!」
「…えっと…まあ、文々。新聞らしい、真実を鏡の如く映している内容だが。
新聞のスクープとしてはいささかインパクトに欠けるのではないだろうか?」
「いやいや、よう…じゃなくて慧音さん。
確かにこれだけじゃあインパクトに欠けるどころか、また油吸い取り紙にされかねないです。
けれどこの現象が何故起こっているのか、ということに視点を移してみたらどうでしょうか?
異変が起こっていることは誰もが知っていますが、異変の原因となると意外に知られてないのじゃないですかね?」
話が異変の原因にまでおよんだ途端、慧音の眉がピク、と反応する。
「それを…記事にするつもりか…?」
「ええ、もちろんです。
あ、このネタは誰にも口外禁止ですよ?久しぶりの大スクープですから」
慇懃そうな口調だが、もし誰かに話しでもしたら…という脅しをも隠さない素振り
はいかにも天狗らしい態度であった。
そんな相手に対して、紳士的に振舞う必要はないと判断したのか、慧音も露骨に嫌
な表情を見せる。
「ああ。口が裂けても言うものか。
だがそれは文、あなたにも同じことをして欲しいというのが私の望みなのだけれど」
「…残念ですが、記者としてこのスクープを見逃すことは今のところ考えてはいませんね」
文が小さく首を左右に振る。
そして、少々の呆れ顔で慧音を見ながら言葉を続けた。
「しかし、慧音さんに戯れの趣向があるとは意外です。
…先ほどは少しの取材なら協力すると言っていたはずなのに、今は協力どころか取材妨害。慧音さんの真実たるや如何に?
…つじつまの合わないミステリーほど不快にさせるものはないですよね」
「物事を二極化で考えることほど危険極まりないことなどない。よって、私の真実はどちらも肯だ。矛盾は大いに結構。
世の中はミステリー小説などではないのだからな」
「…素晴らしい弁解、ありがとうございました。
それを無にしてしまうのは大変心苦しいのですが…このネタを記事にする考えに変わりはないです。
第一、公表してはいけない理由ってなんなのでしょう?少なくとも、私には心当たりがありませんけれど」
「ああ、人間は襲う対象でしかないあなたには到底わからないだろう。
…物事には、広めて良いことと良くないことがある。今回の異変の原因は外の人間の魂が花に憑依して起こったものだ。
仮に文が異変の原因を記事にしたとしよう。そうなったら好奇心の赴くままに生きている妖怪達のことだ、記事の真偽を確かめようとして人間たちを無意味に襲う事態になりかねない。あなたはそこまで考えた上で新聞を出してい…て、なぜそこで書き物をしている?」
弁を振るうことで辺りが見えていなかったのか、ふと慧音が文を見たとき、何故か
彼女はいつも持ち歩いているネタ帳に筆を走らせているところであった。
みるみるうちに文を見る視線が敵意あるそれに変っていく。
「…あ、いやあの…これは、ですね」
「もしや…文、私を嵌めたな?」
「嵌めるだなんて、私はただ異変の原因についての確証が取れなかったから、知識豊富な慧音さんから取材をしていただけでして…」
「ほう。文にとって取材とは、相手を挑発して言いたくもないことを引き出すことか。
ならば私もしつこい記者に対する振舞いを考え直す必要があるな」
慧音は胸の内に手を入れるとスペルカードを取り出し、発動の文言を唱え始めた。
辺りの色彩がガラリと反転し出すと歴史を彩る文様へと変化する。
「今日私に出会ってからの歴史…なかったことにしてや…ぐぅ!」
「あー、慧音。今日は一段と戯れが過ぎるな。カルシウム足りてるか?」
まさにスペルが発動しようとしたそのとき、二人の間にモンペ姿の少女の影が割っ
て入ったかと思うとそこから手が伸び、慧音の口を塞いだ。
慧音がその人物を認めると今にも自分の口を塞ぐ手を食いちぎらんばかりの勢いで
睨みつけたがモンペの少女はその視線に意を介することなく文へと目を向ける。
「おーい、鴉。もう取材とやらは終わったんだろ?自分のことが記事になりたくないんだったら、早々にこの場から立ち去ったほうがいいぞ」
モンペのポケットに突っ込んでいた手をヒラヒラさせながら軽い口調で言葉を発し
ていたが、鴉…文を見る瞳は全く笑っていなかった。
「んー、そうですね。これから裏を取りにいかないといけませんし。
では、本日は取材にご協力いただきありがとうございました」
永遠亭のおひいさまですら撤退を決め込むかもしれない二人を前にしても文は飄々
の体のまま、本当に用がなくなったととばかりにスカートを翻すと風神少女の名に相
応しく風のようにこの場から消え去る。
そのあとには春の、暖かい風が残された二人の頬を撫でた。
「…すまない。妹紅」
「たく、慧音らしくもない。
まあ、あの鴉の取材には時々閉口することはあるよなぁ。物事に熱心なのは結構なことだけれども」
文の背が見えなくなると、慧音は落ち着きを取り戻したのか悪戯のばれた子供のよ
うにしょんぼりしながら妹紅の言葉を聞いていた。
そのお小言も終盤に差し掛かったとき、ふと慧音は何かを思い出したような表情で
妹紅を見た。
「しかし、妹紅が仲裁に入るなんて、珍しいこともあるものだな。
てっきり人間や妖精たちのようにこの異変を楽しんでいるものだと思っていたのだが」
「…いけしゃあしゃあと言ってくれるよ。楽しみたくても楽しめなくなる話を聞かせたのはどこのどいつだっけかねぇ」
「ああ、主犯はもちろん私。
…妹紅も私が話したことを覚えていてくれたのは、嬉しいことだな」
妹紅の露骨に不満そうな表情に対して慧音は嬉しそうに笑みを返す。
悪態をつくことにも効果がないことを知ったのか、モンペのポケットから両手を外
に出すと宙に上げる仕草をしながら小さく首を振った。
しかし、それも一瞬のことで再び両手をポケットに突っ込むと急に自嘲気味に口元
を歪める
「でも、ホント。他のことは退屈しのぎにいくらでも楽しむんだけどなぁ。
こんな成りになっても、人間OBだってことは頭っから離れないものなんだな」
「…妹紅」
「あー、やめやめ。なんか私も慧音の『らしくない病』を貰ってしまったみたいだわ」
らしくない病、と言われて顔をむっつりさせた慧音に妹紅はニヤリと口を緩める。
「さて、慧音もからかえたことだし。…そろそろ準備に戻ろうかな」
「…あ、準備って…」
慧音が言葉を続けようとしたとき、妹紅はすでに背を向けて鼻歌混じりに虚空へと
舞っているところだった。
「妹紅…感謝する」
一人残った少女は姿勢を正すと、すでに何もない虚空に向かって深々と頭を下げた。
花の散る夜まであと二週の日の頃。
茜色の夕暮れが慧音を映す。
地には、友人を見送る少女の影が細く、大きく伸びていた。
満月のきれいな夜だった。
いつもは里を警邏する頃合であったが、満月の夜は妖怪の行動が活発になる割に里
を襲う輩は少ない。
故に慧音は少々遅れている準備のために家に留まる事にした。
もちろん、里に何が起きたらすぐさま駆けつけることのできるよう万全の体制を取
ってはいるが。
「…ふう。これで最後だな」
笑みを浮かべながら呟く少女の視線には、この数日ずっと作り続けていた箱状の物体…灯籠というらしい…があった。
灯籠の中にはロウソクが添えられており、実際に火が灯ると表面に描かれている精霊が夜の闇で優しく微笑む姿が思い浮かぶ。
「あとは…里の者たちがオガラをうまく配置してくれたかを確認するだけだな。今回もなんとか花の散る頃合に間に合いそうだ。
…となると明日からは詰めに入るだろうな。今日はこのくらいにしておくか」
もう一度大きく息を吐くと、畳の上に並べられた灯籠をひとつひとつ丁寧に移動させ、空間を作る。
…カサリ。
あとは布団を敷いて寝るだけ、というところで障子越しに気配を感じた。
ピクン、とそれまでの動作を止めて辺りを伺う。
初めこそ畜生の類かと思ったが、明らかにその気配が意思あってここにいることがわかると慧音は小さく口元を歪めた。
「…満月の夜に、しかも私だけを狙って来るとは、よほどの馬鹿か腕に自信のある奴か。どちらにせよ、その面を拝みに行かなくてはなるまい」
里の人間を守っている慧音にとって妖怪から命を狙われるということは少なくはない。
しかしそれはあくまで里の警邏中の遭遇戦であって、直接住処を狙って来るものは皆無に等しかった。
慧音は部屋の上座に備えてあった太刀を手に取ると、左腰に添え親指を鯉口へと掛ける。
月下、畳に映る影は頭に二本の猛々しい角を備えた少女の姿。
この姿こそ、満月の夜にもかかわらず妖怪たちが里を襲わない理由であった。
…カサ、リ。
気配からまた一つ音が立ち、それに合わせて左足を一歩前に踏み出し、左の親指の腹で鯉口を切る。
そして、障子に手がかかるや否な、右足を勢いよく踏み出しながら鞘を後ろに滑らせると障子もろとも斜め左上から袈裟に太刀を振り下ろした。
「わわわっ!」
珍妙な叫び声と手応えのなさに、慧音は眉を顰めた。
振り下ろした太刀が相手の持つ得物に受けられたことは、すぐさま分かった。
だがその感触が何か筋のある紙のようなものであったことに更に疑問を募らせる。
「お前、一体なにも…あ」
口を開いた途端、太刀の峰が自分の外側の方向に捻られたかと思うと視界がぐるりと反転し慧音の身体が宙を舞った。
「…くっ!」
足が地面から離れた瞬間、慧音は太刀から手を離すと空中で身体を捻り本来なら地面に叩きつけられていたところを両足で着地する。
顔を上げると自分を投げ飛ばした相手を見据えた。
「お前は…」
今まで影になっていた相手だったが、場所が入れ替わったことによりその容貌がはっきりと伺えた。
月光注ぐ闇に生える白を基調とした服に黒のスカート。
頭には小さな頭巾を被り、手には太刀を巻き付けた天狗団扇を携えている。
「…文か」
「あはは…こんばんはです」
慧音が呟くと、文はバツが悪そうにペコリと頭を下げた。
文を部屋の中に招き入れた後、二人は湯呑を前に対峙しながらしばらく無言のままであった。時よりどちらか一方が口を開こうとするも相手と目が合った途端、視線を湯呑に落としてしまい一向に先に進まない。
「…えーっと…まずは、すまなかった」
意を決して言葉を押し出し、頭を下げたのは慧音だった。
「…いえ、もとはこちらが盗人の真似事みたいにコソコソしないで、玄関から堂々と入ってくればよかったんですよね。
あ、玄関の場所がよくわからなかったってのはここだけのお話しですけれど」
「…堂々と入ってこられるのも、玄関の場所がわからないというのもどうかとは思うが…まあいい。ところでこんな夜更けにどうしたんだ?」
「…はい、そのことなんですけれども。
…慧音さんに謝りたいことがありまして…」
これまでの文の口調とは一変して、何かに憑かれたかのような真顔を向けると慧音
に頭を下げる。
「先日、慧音さんたちと別れた後、話しの裏を取ろうと思って無縁塚に行ったとき、閻魔様にあったんです。
それで…慧音さんに言われたことと同じようなことを諭されちゃいました」
独白のように呟いて、文は顔を上げる。
そこには先ほどの真顔は消え、へらりと笑う少女の顔があったがあまりにも力のな
く、弱弱しいそれに慧音は口を開くことすらできなかった。
再び二人の間に静寂が訪れると、文は湯呑を手に取り、すっかり冷め切ってしまった茶を見つめる。
「私…このままいったら地獄に堕ちてしまうみたいです。
これまでの好奇心のままに書いてきた記事によって誘発されたり捻じ曲げられたりして起こった事件に対する罪なんですって。
ほら…ちょうど、お茶の水面にほんの少し触れただけで波紋が広がったり、今まで映っていた自分の顔がぐにゃぐにゃと変な顔になっちゃうみたいに。
…ですから、あまり記事を書かないほうがいいのかなって思いました。
でもそう考えてたら、新聞がなんの為にあるのかわからなくなっちゃいまして。
…これまで自分のしてきたことって、なんだったんだろうって」
「…そうか。ならば文は、もう取材のために飛び回ったり、記事を書くために頭を捻らせることはしないのか」
湯呑に視線を落としていた文の頭がピクリと止まる。
やがて、カクンとうなだれるように頭が下がろうとした。
そのとき、慧音の口が開かれる。
「閻魔殿からどのように言われたのかはわからないが…私は、新聞のすべてを否
定したわけではない。
新聞によって事件を広めることで新たな事件を誘発されるのなら、逆を言えば良いことだって誘発することができるはずだ。
それに、物事を広めればそれに触れた者それぞれに感じることが違ってくるのは当然だ。
そのことを『覚悟』できるのであれば…文にはこれからも新聞を書き続けて欲しいと、私は思うがな」
文が、顔を上げる。
瞳が少し濡れているように見えたが、そこにはもう先ほどまでの力のない笑みはな
かった。
「…そうですか?
私も…やっぱり取材であちこち駆け回ったり、記事を書くの…好きですから。
さっきは記事を書くのを止めようかなーって思ったりもしましたが…もう、書くのを止めるだなんて思わないです」
絶対に。
へらりと笑う文の顔にいつもの狡猾さが戻ると、慧音は大きくうなずいて湯呑を手に取ると、ごくりを音を立てて飲み干した。
文もそれにならって湯呑の中を空にすると、二人は声を上げて笑った。
花の散る夜まであと少しの頃。
月から零れる光が咲く花々を青白く照らしていた。
花の散る夜の日。
いつもならば里は闇に埋もれてひっそりと静まり返っている頃合である。
だがこの日は笛や太鼓の音が響き渡り、人々はやぐらを中心に輪をなしてそれぞれ
が思いのまま、踊りに興じていた。
その様子を見守るかのように、里のあちこちでオガラを燃やした送り火が焚かれ、
すぐ近くを流れる川では慧音がこしらえた灯籠がうっすらと火を灯しながら水面に浮かんでいる。
ふと、人々の踊る輪から少し離れた場所から笑い声が聞こえた。
みな、眼下に炎の宴を映しながら、蒼銀長髪の少女を囲んでいる。
少女の表情は始終緩んだまま、何かをやり遂げた後に自然と溢れてくる笑みを抑えきれない様子であった。
慧音はこの数ヶ月、大量に膨れかえってしまったために『あの世』への逝き所を失ってしまい、一時の依り代として花に取り憑いていた人間の魂が、再び迷うことなく『あの世』へと逝けるよう、奔走していた。
それが今宵、予想以上の盛大な宴、という形で実り、今かつての『お願い事』を果たした幼子と共にいる。
慧音はそれまで緩みっぱなしであった口を小さく引き締めると、老人たちを前にして深々と頭を下げた。
「改めて、ありがとう。
これが…死んだ外の人間たちのせめてもの餞となれば良いのだがな」
「いんねぇ、慧音様。まんだありがとう、は早いわ。
仰山火ぃ焚いとるから勘違いしとるかもしれんけど…今はまだ化けモンがうろうろしよる夜やで」
「ああ、そういえば…そうだったかもしれないな。
だが、今日はこんな様子だ。妖怪たちの方がびっくりして近づいてこないんじゃな いのか」
慧音の言葉に、里長がそりゃあええ、と笑いながら皿の上にある胡瓜と茄子の漬物を頬張る。
送り火を焚き始めてから随分と時間が経ったはずだが、里の人々がよほど力を入れたのか、火の消える気配は一向になく、まるで富士の山に掛かるうす雲にでもあったかのように煙が立ち上り、その勢いは夜の天蓋にまで立ち込めんばかりだった。
「慧音様のおっしゃるとおり…この火と煙を道標にして亡くなりゃぁたモンらがあの
世に逝けたらええのぅ」
隣にいた里長が空へと伸びる煙を見つめながらポツリと呟いた。
慧音は小さく頷きながら茄子の漬物を一つ、つまむと里長の視線を追うように空へと目を向ける。
その時だった。
東の山から…それこそ山より遠く離れている里からでもわかるぐらい…鮮明にピカ、と強い光源を発したかと思うと、里で煌々と焚かれる幾重もの送り火に劣らぬ炎の塊が姿を見せた。
炎はやがて大きな火の鳥の型を黒色のキャンバスに描き切ると、ぶわ、と虚空へ舞
い上がる。
風が、起こった。
その風は、すでに地へと落ちてしまった花弁を立ち込める煙と共に空へと巻き上げた。
そして、西の方へと飛び去る火の鳥に連れられるように西へ、西へと流れていく。
いつの間にか辺りは、水を打ったかのように静まり返っていた。
太鼓を叩いていた者。
笛を鳴らしていた者。
踊りに興じていた者。
語らいあっていた者。
すべての者が火の鳥によって起こされた花吹雪に目を奪われている。
火の鳥が博麗神社のある辺りの山に差し掛かる。
ぱあん、という大きな、乾いた音が空気を震わせる。
はじめは単発であったものが、やがて二発、三発、大中小規模の弾幕花火となって
火の鳥を、花吹雪を包み込んだ。
まるで、これから逝く者たちをおもしろおかしく、愉快に歓待するかのように。
「慧音様、これは―」
「…ああ。
しかし、妖怪どもは…こんな情報、どこで耳にしたことやら」
暇な奴らだ、と悪態をつきながらも、慧音は漬物を口の中へと放り込むと、小さく
膨らんだ頬を緩めた。
「東風吹かば…か」
里には再び喧騒が戻っていた。
次々と上がる炎、弾幕、そして花火に人々は歓声を上げる。
その歓声は波紋となってさらに人々を高揚の渦へと巻き込んでいく。
「わしゃあ―」
不意に、里長がそのしわがれた声で独り言のような言葉を発する。
「ガキん頃、慧音様から聞いた『お願い事』を覚えてはいたが、意味の方はようわからんかった。
…だども、老いた身の上になってまたこの光景を見たらようやく慧音様の本当に云いたかったことがわかったような気がしますわ」
里長の言葉はこれからの老い先短い己の境遇悟った者の呟きであった。
そこには偽りのない満足感と、希望に満ち溢れており、恐れや絶望などといったも
のは一切浮かんではいない。
「みなは…ズルい。
そうやって、別れが近くなってからようやく悟ったような顔をして私の前からいなくなってしまうのだから」
「…かわいい娘を残して逝ってしまうのは、わしとしても口惜しいことだどもな」
「!?…どさくさにまぎれて誰が娘か!」
慧音の反応に、里長がからからと笑う。
「…まあ、冗談はさておき。
慧音様や残る里のモンらが、わしら老いぼれが死んだ後でも今夜みたいなことを忘れずに続けてさえくれれば、『いなくなる』なんてことは絶対にありゃせんよ。
…こんなにおもしろおかしいこと、化けてでも行かにゃあ何が幻想郷か」
そう笑いながら話す里長に対して、慧音は返そうとした言葉を詰まらせて小さく俯く。
少しでも口を開いたら、喉元まで込み上げる熱いモノが全て吐き出されてしまいそうであったが、それでも小さな、囁くような言葉を搾り出した。
ああ、忘れるものか、と。
「けいねさまぁー」
甲高い、元気な声が慧音をいつもの気丈な少女へと立ち返らせる。
そして声の主である子供たちが自分の元へと集まってくると、慧音はパン、と小さ
く頬を叩き、顔を上げた。
慧音様も一緒に踊ろう、と誘いに来た子供たちに対して、その前に、と慧音は人差し指を立て、かつて老人たちが幼い頃と同じ言葉、同じ表情で子供たちにお願い事をする。
「いいか。これはお前たち子供にしか頼めない、お願い事だ」
時が過ぎるのは早いもので、狂い咲きの花が散り幻想郷が再び元の日常に戻った頃
にはすでに季節は移り、初夏の様相を見せていた。
耳をすませば田んぼのあちこちで、ウシガエルの呻きのような鳴き声が響いている。
そんな中、『異常事態でも変わらず営業!非日常に疲れたアナタに平凡な日常を送ります♪』をモットーとしている屋台が、今宵も目の前を真っ暗にして一度人生をリセットした気分を味わいたいという客を相手に八目鰻の赤提灯をぶら下げている。
目の前が真っ暗になるのは実は自分が鳥目になっていることも知らず、ドンチャン騒ぎをしている客の前に置かれている串揚げの下には、油を吸い取るのに最適だという理由で真新しい新聞が敷かれている。
串揚げの皿の隙間から覗く内容には「上白沢慧音」と銘打った文でこう書かれていた。
東風吹かば 炎咲かせよ 花映の夜
身のうさとても 忘我に帰して
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何年かに一度発生する百花繚乱の現象。明らかに異変であることは目に見えてわかるものの、人間の里を護る半獣、上白沢慧音は特に気にも留めずにある準備に取り掛かる・・・