捨てしをりの 心をさらに あらためて
見る世の人に 別れはてなむ
頬を撫でるようなやわらかい風が通り抜けると、はらり、と紅が落ちた。
夏のやかましさなどは、とうに過ぎ去り、木の葉も地に恋する、秋。
二百由旬とも云われる西行寺の庭には、紅色に染まった桜の木が幾重にも連なり、所々に花をつけている十月桜とかさなって秋のもの悲しさなどとは無縁とばかりに、にぎやかな風情を見せていた。
その木々に寄り添うように平屋の大きな屋敷があり、昼は陽光、夜は月を臨む縁側に一人の少女がいた。
少女は膝元に落ちた紅を払うでもなく、手に持った湯呑を口へ運び、離しては物憂げに息を吐く。
その様子はどこか世の理に儚さを感じる僧正を思わせた。
トン、トン、トン
ふと、小気味よく廊下を叩くような足音が響く。
そこで初めて少女の手元にある湯呑が、それまでの挙動を休め、用意されていた茶皿に置かれた。
足音が、止まる。
「幽々子様」
「なにか…しら、妖夢?」
幽々子と呼ばれた少女は声のした方向――妖夢、と呼んだ少女へと体を向け、声を発したが、その表情は露骨に返答を拒否するものだった。
「そろそろ剣の稽古の時間ですので、稽古着に着替えていただきたいのですが」
原因は、目の前に見せられた木刀と、銀のおかっぱ頭にクセのあるリボンのアクセントという愛らしい容貌に似合わない、今日こそはという決意にも似たその瞳にあった。
「…妖夢、わたしはね」
幽々子は、その桜色の髪を揺らしながら口を開く。
「連日の不当な過剰労働で疲れているの。だから」
手は口ほどに、とでもいうのだろうか。
茶皿を前方に押し出しつつ、次の言葉を発しようとした。
が、そこは妖夢もなれたもので、押し出された茶皿に手をかけて気勢を制する。
「疲れたって、幽々子様はドンチャン騒ぎしていただけじゃないですか」
「いやいや、妖夢。わたしだって、ちゃんとお勤めしているのよ?」
茶皿が止まっても、甘いわよ、と言わんばかりに茶皿をくるり、と回す。
「……初耳ですね。それは一体どのようなことでしょうか?」
「客人のおもてなし、よ」
制したはずの手を迂回され、気づけば自分の元に茶皿が添えてあるのに気づいたときにはすでに遅かった。
妖夢は、はぁ、と一つ息を吐くと、用意が良いのか悪いのか後ろに控えてある急須を木刀と持ち替え、一杯だけですよ、と湯呑にお茶を注いだ。
幽々子はお茶と勝利に満たされた湯呑を満足そうな表情で手に取ると、口元に運ぶ。
そして、その口から漏れた息からは、先ほどの陰鬱から打って変わって至高の幸せがあふれていた。
西行寺 幽々子。
冥界にすむ亡霊少女にして、伝統ある西行寺家のお嬢様。
ここ、白玉楼のご主人様である。
「ねえ、妖夢?」
「なんでしょうか?…剣のお稽古をなしにしてくれ、っていうのは聞きませんからね」
「そんなこと言わないわよー。…ただ、少し思ったことがあるの。
…ほら、前に幻想郷が花でいっぱいになったことがあったじゃない?」
ああ、そんなこともありましたね、と妖夢は幽々子の言葉を聞きながら、そのときの事を思い出す。
幻想郷に開花宣言。
そんな号外をちんどん屋の騒霊姉妹からもたらされたとき、妖夢は「花見ー」と言い出した幽々子のために下見をしてこようと地上に降りた。
しかし、その開花宣言は誰もが見てもはっきりとわかるぐらい異常であった。
まだ春だというのに、桜、向日葵、野菊、桔梗……と一年中全ての花が同時に咲き出していたのだ。
多くの人間と全ての妖精は、自然からのプレゼントと受け取っていたが、誰もこの現象に疑問を呈する者はおらず、妖夢は…多少の興味もあっただろうが…花見の場所探しついでに追及に乗り出した。
結局は、三途の川の水先案内人、小野塚小町に幻想郷外のニンゲンの魂が花に取り憑いた為に起こったことと教えられ、挙句の果てに閻魔様…もとい四季映姫・ヤマザナドゥにきつくお説教をいただき、白玉楼に戻ってくるなり当の幽々子には放っておけと言われた、なんとも「骨折り損の、くたびれもうけ」という言葉を絵に描いたような事件ではあったが。
「おかげで毎晩、歓迎会にかこつけて宴会三昧…じゃなくて。
どうしてニンゲンは幻想郷みたいに他の脅威がないところで大勢死んでしまったのかなって。
そんなことができるニンゲンって一体どんなものなのだろうな――って、ね」
幽々子は袖から扇子を取り出すと、口元に添える。
視線は何事か想いを馳せるかのように、庭へと、そして虚空へと移りゆく。
その間、妖夢は一言も発せられないままでいた。
魂魄 妖夢。
ニンゲンと幽霊のハーフであり、死んでも生きても居ない、割と理想的な半人半妖。
つまりは、ニンゲンではない。幽霊でもないが。
ゆえに、完全なニンゲンの気持ちなどわかるはずもなかった。
それに、幽居した先代の後を継いで幽々子に仕えるため、日々練磨を重ねなければならない自分にとって、ニンゲンの行動は不可解以外のなにものでもなかった。
「…妖夢。幻想郷には、ニンゲンは少ないけれど、聞いてみればもしかしたら何かわかるかもしれないわ。一応、同じニンゲンなんですもの」
扇子が一枚一枚、擦れる音がして徐々に広がっていく。
開かれた扇子がすっかり口元を隠すと、幽々子の視線は懊悩する少女の方へと向けられた。
「…承知しました。幽々子様の問いに答えられなかったとあっては魂魄の名折れ。
しばしお暇をいただきますが、必ずやその答えを見つけて参ります!」
「気をつけて行ってらっしゃいな~」
妖夢が背に負う大小の刀を確かめてから立ち上がる様を見て、幽々子は扇子をひらひらと仰ぎながら答える。
ニンゲンとは、なにものか。
久しく舞う虚空の下からは、やけに紅色が目について離れなかった。
余談ではあるが。
妖夢が、剣の稽古をはぐらかされたことに気づいたときには、結界を越えてすでに地上に降りているところだった。
弾幕日和な秋晴れの空を翔けること数刻。
眼下にポツリと、赤い鳥居が目に入った。
妖夢は、徐々に高度と速度を下げていき、ふわりと靡くスカートへ手を宛がうと音もなく地に足をつける。
西行寺の庭と同様、ここ博麗神社も木々が紅色に化粧し、春のときとはまた違った賑わいをみせていた。
しかしそれとは対照的に、目の前に建つ神社はあいかわらず閑散としており参拝客どころか、畜生の気配すらない。
妖夢は鳥居をくぐり、やたら念入りに掃除の行き届いている賽銭箱の脇を通り抜けて裏手へと回った。
「霊夢」
妖夢が名を呼ぶと、裏手の縁側に座していた少女が顔を向ける。
紅白の衣装を纏った少女…博麗霊夢は、主である幽々子と同じく縁側に足を伸ばして手に湯呑を持ち、彼女の一日の大半である営みを楽しんでいた。
「あら、妖夢じゃない。今日は一人?」
「…ああ。今日は、すこし聞きたいことがあって来た」
「そうなの?まあ、立ち話もなんだし」
霊夢は湯呑を置くと、妖夢に座すよう促した。
「いや、他にも寄らなければならないところがあるから、このままでいいわ。
で、その、聞きたいことなのだけれど…」
銀のおかっぱ頭を小さく揺らすと、妖夢は少し間をおき、口を開いた。
「ニンゲンとは、何ものかしら?」
「…少し聞く、にしてはあまりに少しでは終わらないような質問ね」
聞かれたことがあまりに唐突な内容であったのか、一瞬大きく目を見開いたあと、人差し指でこめかみの辺りをトントンと突きながらゆっくりと目を閉じる。
「そうね…ニンゲンって弱いもの、かしら」
やがて目を開くと、霊夢はポツリと呟き、ニコリと、笑った。
そこには、悲観だとか自虐だとか、そういった類の感情は一切含まれていない。
妖夢は、意外だ、と思った。
よもや、彼女から弱い、などという言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
「なぜ、そう思うの?」
「あら、じゃあ妖夢はそうは思わないかしら?
…ニンゲンはちっぽけよ。
だから、生まれてから自分に与えられた枠の中で精一杯やってんの。
…なんだってできる、なんて、おこがましいことこの上ないわ」
さも、当たり前のように返答し、霊夢は湯呑に手をかけた。
前言撤回。
そういった意味での、弱い、というならば非常に霊夢らしい、と妖夢は思った。
彼女にとってニンゲンとは、生まれ持って与えられた役目を果たすものでしかないのであろう。
ちょうど、博麗大結界を保守するのは霊夢の役目であるように。
ならばニンゲンはその弱さがゆえ、どこか歯車が狂ってしまうと脆く崩れてしまうのだろうか。
「なるほど。それでニンゲンは『弱い』か。
…ありがとう。時間を取らせた」
「わたしは別に構わないけど。
でも、あんたも大変ね。また、幽々子の気まぐれ?」
霊夢の問いに対してあいまいな表情を浮かべ、妖夢はタン、と地を蹴って空へと舞い上がった。
答えられるはずもない。
剣の稽古をすっぽかす方便、などといったらまた幽々子がボロくそに言われて悔しい思いをするのは目に見えている。
しかし、それに付き合う妖夢も、ただひたすらに生真面目なのであった。
「あー、なんか用か?」
魔法の森は霧雨邸。
昼間でも日の光が届かないこの森は、紅い館に住まう主にとってはうってつけのところではあろうが、半分幽霊であるのに幽霊を怖がる妖夢にとってはあまり立ち寄りたくはない場所であった。
別にこんなところに居を構えなくても、と思うが、魔理沙曰く、魔法使いは人里離れて住まわねばならない、ということらしい。
ニンゲンとは、まことにもってよくわからない。
「お前、今なんだかとても失礼なこと考えてなかったか?」
「か、考えてない考えてない」
魔理沙が妖夢の顔を訝しげに覗き込むと、ブンブンと両手を振って否定する。
忘れていたわけではないが、妖夢の傍らに浮遊している半霊も必死に右往左往している。
「…まあ、いいか。
で、改めて聞くが、なんか用なのか?
用がないなら、わたしは研究に戻るぜ」
そういって、魔理沙はひらひらと片手を振る。
「待って。…用なら、あるわ
魔理沙に少し聞きたいことがあるの」
「あー、今度は別に悪いことはしてないぜ」
「今度、ってことは今までは悪いことしてたのね。
ならば、妖怪が鍛えたこの楼観剣であなたの悪行の数々を…って、違う!
ニンゲンとは何ものなのかって聞きに来たのよ」
「あいかわらずおもしろいヤツだな。
で、ニンゲンとは何ものか、か?そうだな…」
妖夢が頬をふくらませているのを尻目に、魔理沙は片手を顎にかけて考えに耽る。
「ニンゲン、それ即ち強いもの、だぜ」
そして、人差し指でトレードマークのとんがり帽子をクイ、と上に押し上げるたかと思うと悪戯っぽく口を吊り上げた。
「強い、もの?」
先ほど霊夢が言ったこととは逆の答えであることに、妖夢は小さく首を傾げた。
「なぜ、そう思うの?」
「…ニンゲンってのはな、どんなことがあってもそれを解決できる知恵と勇気がある。
ほれ、紅い霧が出たときも、誰かさんとこが春をかっさらったときも、月がすりかえられちまったときも、ニンゲンが解決したのがその証拠だぜ」
「こらこら、最後の。さりげなくニンゲンだけの手柄にするな」
「まあまあ、細かいこと気にしたら負けだぜ。
…と、月で思い出したんだが。
聞いた話じゃ、魔法も何ももたない、空も飛べない外のニンゲンだって、その月にまで行ったっていうぜ。
そんときはあの永遠亭の連中はさぞかしびっくりしただろうな」
魔理沙はさらに釣り上がった口に手を宛がうと、くつくつと笑った。
いろいろと怪しいところはあるが、と妖夢は一つ、息を吐いた。
今は昔の話だが、妖怪と人間の歴史は言わば戦いの歴史だ。
初めの両者は戦いとは言えない、一方的な殺戮だったという。
しかしニンゲンは徐々に力と知恵をつけ、ついには目の前のこいつのように妖怪を圧倒するニンゲンさえ現れてしまった。
それを考えるならば、確かにそれはニンゲンが強いものだという証明なのだろう。
ではニンゲンは、その強さがやがて自身の手に余るようになってしまったのだろうか。
「まあ、ニンゲンは強いもの、か。
…ありがとう。研究の途中、すまなかった」
「あー、お前もしかして、同じ質問をニンゲンに聞いて回ってたりしてるのか?
だったら次は霊夢か咲夜か、それともニンゲンの里か?
前半と中半のはそうでもないが、後半のは慧音のやつがうるさいぜ?」
その場を立ち去ろうとしてた妖夢の背に、魔理沙がニヤニヤとしながら言葉を投げかける。
「…いや、霊夢にはさっき聞いてきた。次は…って、そういえば次に聞く相手のことは考えてなかった、かもしれない」
言葉の端のわずかな間ではあったが、咲夜、という名前を耳にすると妖夢は眉を顰めた。
十六夜咲夜。
レミリアという吸血鬼を主とする紅い館、通称紅魔館の清掃係兼メイド長を勤めるニンゲンである。
ニンゲンならば次の相手として候補にあがっても、否、むしろ妥当だともいえたが妖夢には足を運べない理由があった。
それは、ひと季節前の初夏に起こった不可思議な宴会…伊吹翠香という鬼の懐旧が起こした…事件以来、白玉楼と紅魔館とは断絶状態になっているためである。
原因は、なんてことはない、と妖夢は言う。
事の初めは、幽々子が西行寺の庭にある西行妖という桜を満開にしてみようよ、といういつもの気まぐれからだった。
そのために、妖夢が白玉楼に春を集めたことによって幻想郷はいつまでたっても春が来ない、という状態になってしまった。
このことに憂慮した咲夜は一日の暇をもらい、白玉楼に向かうと妖夢と幽々子を倒して、みごと春を取り戻すことに成功する。
しかし、倒されはしたものの、幽々子は咲夜を散々弄ったらしく、何をしたのかは聞き…たくはなかったのだが、みょんに幽々子が興奮状態にあったことを、妖夢は記憶している。
それからすぐあとに起こった翠香の事件で、レミリアは解決を口実に、単身、白玉楼へ乗り込んできた。
おそらく、彼女は春の訪れを遅らされた、すなわち自分のナワバリに踏み込まれたことがよほど気に入らなかったのであろう。たぶん。
結果、妖夢は意味もわからず、レミリアに弄られ、幽々子もその軍門に降った。
そのあとで、妖夢は幽々子に敗戦の責について問い詰められたとき、状況説明をすると、幽々子はこの世の終わりと見紛う表情を浮かべ、背を向けて百四通りの呪詛を並べた後、紅魔館との交流断絶を宣言したのだった。
どっとはらい。
「だったら、永遠亭にでも行ってみたらどうだ?
もしかしたら、月に行ったって外のニンゲンのヤツのことが聞けるかもしれないぜ」
そんな、両者の関係を知ってか知らずか、魔理沙は笑みを張り付かせたまま再び永遠亭の名前を出した。
永遠亭。
永遠と須臾の罪人、蓬莱山輝夜を筆頭とする月の民と兎集団の住まう屋敷のことである。
ちなみに、こことの関係はなぜかすこぶる良好であった。
「…そうね。もともとは外のニンゲンのことについて知りたかったことだし。
相手がニンゲンじゃないのは主観性に欠けるかもしれないけれど、外のニンゲンについて客観的に聞けるのは貴重だわ」
次も目的地も決まったことだし、と妖夢は再び魔理沙に背を向けた。
「おう。礼は幻の大吟醸『水道水』でいいぜ」
魔理沙の謙虚さのかけらもない言葉に、あの裁判長が笏でキャベツの千切りしながら腹踊りでもするようなことがあったら考えとくわ、と答え、妖夢は魔法の森から飛び立った。
妖夢の生真面目は、まだまだ、続く。
魔法の森を飛び立ってから数刻。
妖夢は竹林を歩いていた。
永遠亭は輝夜の事情のためか、月の頭脳である八意永琳によって空から見えないよ
う、その竹林に巧妙に隠れるような場所に位置していた。
かといって地上に降りてやすやすと行けるものかと思えばそうでもなく、うっかり迷い込んでしまったら最後、幸運を運ぶといわれる白い因幡を見つけでもしなければ出られないという、まさに竹林の樹海であった。
おまけに、ここに住まう妖怪は、多い。
だが、月のなくなった夜の事件以来、幾度となく足を運んでいる妖夢にとっては、すでに第二の庭のようなもので、幾重に続く竹林の風景を楽しむ余裕すらあった。
それからしばらく歩を進めると、やがて寝殿造の大きな屋敷が姿を現した。
妖夢はその総門の前に立つと、大きく息を吸い込み、口を開く。
「我は白玉楼が使い、魂魄妖夢である。
やんごとなき所用で参りたれば、この門を開門されたもうー」
叫びにも近い声が竹林に響いた。
しばらくすると、その門が仰々しく開き、永遠亭の兎が列を成して客人を迎え…ることはなく、総門の隣にある潜り戸が軽い音を立てて開くと、そこからヨレヨレのウサギ耳を頭にのせた少女が姿を見せた。
「妖夢、あなたもクソ真面目ねぇ。
ここから勝手に出入りしても良いって言ってるのに」
少女はそのウサギ耳を小さく左右に揺らすと、手をちょいちょいと動かして妖夢を
招いた。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
ヨレヨレウサギ耳の少女の名前である。
本名はただの「レイセン」であったが、弄られ仲間にふさわしい名前を優曇華院、は鈴仙が師匠と仰ぐ永琳から、イナバ、は主である輝夜よりつけられた。
と妖夢は思っている。
「何こっちを憐れむような目で見ながらぼーっとしてんのよ。
で、今日はどんなやんごとなき用事なの?」
「あ…ああ、ごめんなさい。じつは」
そんな目をしていたのか、と妖夢は両手をグリグリと押し付けると、招かれた潜り
戸をくぐり、鈴仙の背へと言葉を発した。
「外の、ニンゲンについて聞きに来たのだけれど」
なんのことはない。
妖夢はただ霊夢や魔理沙にしてきた質問を、同じように口の先にのせただけだっ
た。
だが、その瞬間。
どこか別の空間へ、一瞬にして飛ばされてしまったかのように、感じた。
胸を押さえつけられたかのように空気が息苦しく、感じた。
そして…目の前の鈴仙が何か別のモノと入れ替わってしまったかのように、感じた。
そんなことはない。
なんのことはない。
しかし。
それを証明するかのように、彼女から一言も、声が返ってこない。
「………しらない」
「…え?」
言葉が、返ってきた。
「しらないって、言ってるの」
抑揚のない、何も入っていない、空っぽの言葉が。
妖夢はそこで初めて、己の全身が見えない誰かに揺さぶられているかのようにガタガタと震えていることを知った。
この先は、聞いてはいけない。
感情よりも先に、本能がそう告げていた。
「でも」
鈴仙はくるりと体を妖夢へと向けた。
「しりたい?」
言っている意味が、よく、わからない。
「あ…な、だって、さっきしらないって」
「うん。しらないよ。
だけどね、しってることだけ教えてあげようと思って、ね」
妖夢にはカクンと頭を垂れている鈴仙の表情を伺い知ることはできない。
ただ、両腕をブラリと下げて、小刻みに身体を震わせている姿以外は。
「う…あ、い、いいよ!聞きたくない!」
「どうして?あなたが先に聞きたがってたことでしょ?
ああ、そうかー。遠慮してるのね。そんな必要はないんだよ。
だから」
鈴仙はビクン、と身体を硬直させると、ゆっくりと垂れ下がった頭を上げていく。
最初は、前髪が見えた。
薄色の、きれいな前髪が。
次は、口が見えた。
赤色の、醜く歪んだ口が。
そして。
「…ホラ」
最後は、目が見えた。
それは月兎の狂気。
紅の狂気の瞳!
「う…あ…あああ」
瞳を見つめた途端、何かの映像が妖夢の脳内に流れ込んできた。
累々と築かれた屍の山。
見るも無残な瓦礫の山。
そこに、ドチャリ、という音を立てて何かが転がった。
誰かの、腕。
胴体から離されたことを知らないそれは、ギチギチとぎこちなく動くと、それきり
動かなくなる。
爆音が、響いた。
つんざくような悲鳴が上がる。
助けてと泣き叫ぶ声が聞こえる。痛い、痛いよと呻く声が聞こえる。ケタケタと恐怖に憑かれて笑う声が聞こえる。誰かの名前を必死に叫ぶ声が聞こえる。震える言葉で祈る声が聞こえる。聞こえる。聞こえる。きこえる。
キコエル。
ビチャリ。
顔に、何か生暖かい液体がかかった。
震える手で拭ってみると、それは鈴仙の瞳と同じ紅。
「ひぃ」
妖夢は慌ててその手を振り、紅を払った。
すると、まるでそこから這い出てきたかのように、目の前に黒い影が伸び上がる。
それは、顔にギラギラと光る二つのモノを宿して妖夢を見る…
ニンゲン!
「うああああああああああ!」
悲鳴を上げると同時に、プツン、と意識が途切れて目の前が真っ暗になった。
「あら、ようやく気がついたみたいね」
その声がぼぅ、としていた妖夢の意識を覚醒させた。
ぼやけていた視界が次第に鮮明になっていく。
妖夢は屋敷の中の一室に横になっていた。
傍らには屋敷の主である輝夜と永琳、それに同じく横になって寝息を立てる鈴仙が
いる。
日はすでに傾きかけ、夕暮れが室内を茜色に染めていた。
「驚いたわ。
ウドンゲが客人を迎えにいったきり戻って来なくて、おかしいと思って様子を見に行ったら、狂気を操る程度の能力を持つウドンゲが狂気に取り憑かれてて、あなたはあなたで廃人の一歩手前のところまでいってるんですもの」
この子もまだまだ修行が足りないわね、と呟きながら永琳が小さく銀色の長髪を揺
らした。
「ともあれ、あなたが無事でよかった。
うちのイナバの不始末で、妖夢を一人前の幽霊にしました、なんて言ったら、あの死人嬢がどんな報復をしてくるかわかったものじゃあないし。
…あなたが何用でここに来たのか知らないけど、今日はこのまま白玉楼に帰った方が良いわよ」
少々不機嫌そうな口調で輝夜が呟くと、隣の永琳に何やら目配せをして立ち上が
った。
「待って!…ください」
そのまま部屋を引き上げようとする輝夜へ、妖夢は布団を跳ね上げて上体を起こ
す。
拍子にズキリ、と頭が痛み今にも卒倒しかけたが、歯を食いしばって持ち直すと言
葉を続けた。
「ニンゲンとは…一体なんなのでしょうか?
今日わたしはそのことについて聞いて回っていました。
その中でニンゲンは、弱いものだと、強いものだと。そして…輝夜さんもニンゲンにお会いになったことがあるのでしょう?でしたら私に…」
「愚問」
妖夢の激昂は、氷のように冷たい、輝夜の一言によって遮られる。
静まり返った室内には、鈴仙の寝息だけが時の刻みを伝えるかのように規則正しく
響いた。
「答えるまでもないわ。
すべては鈴仙があなたに語ってくれたんじゃなくて?」
言葉を続けない主に代わり、永琳が口を開く。
輝夜のそれとは違い、幾ばくか抑揚のある言葉ではあったが、夕暮れが妖夢からは逆光となり、その表情を伺い知ることはできなかった。
再び辺りを静寂が支配すると、着物が畳に擦れる音がして、輝夜が部屋を坐す。
穢き所に いかでか久しく おはせん
部屋の戸が閉まる直前、そんな、詠うような声が聞こえた気がした。
「…幽々子様」
「あら。起きてたの、妖夢?」
惚けた言葉と同時に灯台に火が点り、そこに幽々子の顔が浮かぶ。
あれから。
妖夢は永琳に送られて白玉楼へと戻ってきた。
すでに辺りは暗い闇に包まれ、百鬼夜行は逢魔ヶ刻となっていたが、体調のすぐれない彼女は幽々子に申し訳ないと思いつつも早々に床に付いていた。
そのときからずっと、この半人半霊の幼い従者の傍に白玉楼の主は、いる。
妖夢も気配で察してはいた。
だがそれだからこそ、今になってようやく口を開く決心ができたのだ。
「今日は、ご苦労様だったわね。
永琳に連れられて戻ってきたときは、また何処かで刀を振り回してたんじゃないかと思ったけれど……
まあ、いいわ。詳しい話はお茶を飲みながらにでも聞くとして。今夜はゆっくりとお休みなさいな」
「…はい。幽々子様より先にお休みをいただくのは誠に恐縮の限りですが、そうさせ
てもらいます。
…ですが、その前に、少しだけ、私の話を聞いていただけませんか?」
妖夢は布団を小さく握りしめる。
胸の高鳴りが徐々に大きくなっていくのを感じた。
そして一つ、息を呑む。
「明日、冥界中の幽霊と幻想郷の妖怪を率いて、出陣します。
外の…ニンゲンの、世界に」
灯台の火がわずかに、揺れる。
幽々子は、何も答えなかった。
じりじりと、火が油を焦がす音だけが響く。
「仮に」
部屋を照らす光に、影ができる。
「数が集められたとして。
博麗の巫女と、白黒の魔法使いが黙っちゃいないわよ?
そのときは、どうするの?」
幽々子が灯台に風除を差し込みながら、言葉を発した。
「…斬ります。
いつもの弾幕ごっこじゃなく、純粋に、ニンゲンと人外の者として」
殺します。
風が、吹いた。
灯台の火が、消えた。
部屋が再び、暗闇に覆われる。
「…そんなことをして、どうなるの?」
わずかな間をおき、幽々子が惚けたような声で問う。
妖夢は握っていた手の力をゆっくりと緩めると天井を見つめた。
やがて、吐息のような声が漏れる。
「今日、私は下界に赴き、ニンゲンについて聞いて回りました。
そこでニンゲンについていろいろと、知る機会を得ることができました。
初めに、博麗神社に行って、霊夢に会いました。
霊夢はニンゲンについて、自分が与えられたことを自分の枠の中で精一杯やっている弱いもの、だと答えました。
次に、魔法の森に行って、魔理沙に会いました。
魔理沙はニンゲンについて、どんなことがあってもそれを解決できる知恵と勇気を持つ強いもの、だと答えました。
最後に、永遠亭に行って、鈴仙に会いました。
鈴仙はニンゲンについて、言葉では何も語ってくれなかったけれど、代わりにある映像で私に全てを語ってくれました。
地獄でした。
いいえ、四季映姫様に落とされたわけではないので、そう言っていいものかわかりませんが、そこはまさに地獄でした。
その地獄で、私はニンゲンに会いました。
ニンゲンは…
どんなに多弁に語ってはいても、酷く無口で。
どんなに喜怒哀楽を示してはいても、酷く無表情で。
でも不思議なことに、瞳だけは全てを答えていました。
私は、思いました。
産み落とされて、自分の枠の中で精一杯やるはずのニンゲンが、いつしかその枠に収まりきれなくなると、こうなってしまうのだな、と。
ニンゲンには、ここが、ふさわしい場所だと。
ですが、これは鈴仙が私に語ってくれた映像です。
実際には、ニンゲンは地獄にはいません。
なので、私がニンゲンにとってのふさわしい場所へ、客人として迎えに行こうと思いました」
泣いていた。
頬から伝わる涙は重力に従って、床に一つ、二つとシミを作っていく。
なぜ泣いているのか、妖夢自身にもわからなかった。
己の半身がいずれはそうなってしまうかもしれないことへの恐れなのか。
それとも。
そうなってしまったニンゲンへの憐れみなのか。
しばらく、妖夢のすすり泣く声だけが闇の中に溶けていく。
だが、やがて衣類の擦れる音がすると幽々子の息を呑む動作が重なった。
「妖夢、残念だけれども。
白玉楼の客人ですら満足に迎えられないあなたに、それができるとは思えないわ。
それに」
灯台に、灯りが、点った。
妖夢はすすり泣くのを止め、顔を灯りの方へと向けた。
「あなたの、その二振の刀はなんのためにあるの?」
そう言って、灯りの向こうの幽々子は妖夢の枕元にある双刀へと視線を移す。
一振は長刀「楼観剣」。
一振りで幽霊10匹分の殺傷力を持つ。
しかし、幽霊とは思念体の集まりであるから例え斬られたとしても、“死ぬ”ことはなく、殺傷することによって幽霊を断罪することができる。
思念体と肉体が繋がっているニンゲンに使えば、たちまち肉体も傷つけられ、死んでしまうだろう。
もう一振は短刀「白楼剣」。
ニンゲンの迷いを断ち斬る事が出来る。
ニンゲンそのものを傷つけることなく、ニンゲンの迷いを断つことのできるということは、すなわち、迷い、という思念を断ち斬るということ。
迷い、を存在意義としている幽霊は、たちまち霧散し、成仏できるであろう。
「あ」
妖夢が起き上がろうとすると、幽々子が傍に寄り、制する。
そこで初めて、白玉楼の主の微笑む顔が明かりに映った。
「そう。
あなたの剣は幽霊を活かすための剣であるはずじゃないかしら?
それをニンゲンに使うのは秋桜を背にして、春の桜の詩を詠うようなものだわ」
幽々子は、床に付している小さな身体を制していた手を銀のおかっぱ頭に添えて、優しく撫でた。
そして、和歌の下の句を綴るように、言葉を紡ぐ。
「外のニンゲンのことは、外のニンゲンにしか解決できないのよ。
ニンゲンから忘れられ、必要とされなくなった幻想郷の住人には、どうすることもできないわ。
…ニンゲンは、いつか、死ぬ。
死んだら、その魂は裁かれ、然るべきところへと逝く。
もし、冥界に来たなら、そのときに妖夢が客人として迎えに行けば良いじゃないかしら?」
「ゆ……ゆこ…さま」
搾り出すような声を出すと、妖夢は頭を撫でるその手を頬に引き寄せて、泣いた。
…なんだってできる、なんて、おこがましいことこの上ないわ。
妖夢の脳裏には、ふと博麗の巫女の言葉が浮かんだ。
魂魄妖夢は、西行寺幽々子の従者にして、白玉楼の庭師。
であるはずなのに、幻想郷を飛び出して外の世界のニンゲンを打ち払おう、などと何を考えていたのだろうか。
他にやらねばならないことなど、いくらでもあるというのに。
庭師としての仕事に、幽々子様のお世話。
そして、冥界の客人を迎えるということ。
冥界へ来る幽霊たちは、生前に未練や迷いを残したまま現世を去ることになってしまったものたちである。
彼らはその迷いや未練がなくなると成仏し、再び現世へ転生する。
それならば。
自分の役目を精一杯果たして、冥界の客人たちを次の転生へと送り出すことができたならば。
その霊が転生したとき、ニンゲンを、あるべき場所へと導いてくれることになるかもしれない。
嗚呼、もう少しで私も、ニンゲンと同じことをしてしまうところだった…
幽々子は、もう片方の手を小さく震えるその肩に置くと、桜色の髪を左右に揺らした。
「本当に、妖夢は…頼りないんだから」
困った表情を見せながらも、冥界の主は優しく、妖夢を見ていた。
陽光が、部屋に朝がきたことを告げた。
その光を遮ろうとして布団を被ったとき、ふと昨夜のことを思い出して頬に手を当てる。
しかし頬にはついさっきまであったと思っていた温もりはなく、辺りは来たる冬化粧の仕度をするかのように一段と冷え込んでいた。
妖夢は布団から這い出ると、それをきれいにたたみ、いつもの萌黄色の服に袖を通し、鏡を前にして銀のおかっぱ頭にお気に入りの黒のリボンを付ける。
そして、二振の刀に視線を向けた。
我が愛刀、楼観剣・白楼剣。
それらをいつもより丁寧に身に着けると、妖夢はパシン、と頬を叩き、部屋を飛び出した。
今日も訪れるであろう、冥界の客人を迎えに行くために。
秋も終わり、巡って雪の粉の舞う冬が訪れるであろう。
その冬を越し、また春に生を息吹かせるために落ちた紅の葉が、どこからか迷い込んできた蝶と一抹、戯れて地へと落ちた。
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冥界にすむ西行寺家のお嬢様、西行寺 幽々子に「人間とはどんなものかしら?」と問われた庭師、魂魄 妖夢。その答えを求めに下界へと赴くが・・・