なびく木々と揺れる水面。
空は虚空のように青く澄み、ひび割れていた。
「同情はしないわ。憐憫も、哀惜もない。だって、貴女は底抜けに莫迦だもの。自らを疑わず自らの周囲を疑わずに居たということは、莫迦なのよ。……けれど、無垢だわ。純粋で、純血で、清楚で、真っ白よ」
長い銀色の髪をはためかせる少女の声は。風に乗って消えて行く。
「愛おしいわね、貴女のそういうところ。莫迦だけれど。だからこそ。貴女は芸術品よ。褪せず穢れない絵画の登場人物。相応しいと思わない? だってあなたは英雄だもの、絵の題材に選ばれる価値がある」
銀の少女に背を預けて座る黒髪の少女は膝を抱く。黒の少女の宇宙は瓦解の寸前だった。それを止める術はなく、また本人も望んでいなかった。
「私はエゴイズムを蹴っ飛ばしたけど、エゴイズムを内在宇宙に持たない者なんて……愛してしまいそう、貴女を」
銀の少女が熱い溜め息を漏らす。高揚した気分。第二次性徴さえ迎えていそうにない身体を持ちながら、性行為により上り詰める最中のような表情を、少女は見せる。銀の少女の大人の気質は、黒の少女を既に飲み込んでいた。
悲しそうな無表情を湛える黒の少女が、独りごちるかのように口を開く。
「でも、私は本来の役目も使命も、全て放棄してここに居る。あなたの後ろ、或いは隣。救世の英雄が、破滅の魔王を引っさげて、勝利の凱旋を行おうとしている。後悔はしないけど。気持ちが悪いの。口から体の臓物全てを吐き出してしまいそうなの。――私を侵した責任を取ってよ、私を染めた責任を取ってよ」
青い空を、僅かな雲が侵略し出す。陽を呑み込んで吐き出した。
「取れないわよ。貴女が無辜であるなら、私は全てと全てが無い事の全てを、この身としているんだもの。――ねえ姫様、貴女は優し過ぎるわ。優しさしか持って産まれなかったのよ。だから貴女は全ての人の業と責任を背負って、今まで生き延びていたのでしょう。……私は、その責任を代わりに持つことは出来ないわ。粉々に砕くその手伝いをすることしか出来ない」
「悪夢よ、こんなの。私が世界の救世主なら、私を救ってくれる人はどこに居るの……?」
寒いかのように、否、事実としてその心は極寒の下にあり、それから少しでも身を守るように、黒の少女は自身の腕で身体を抱く。崩れ落ちそうな頬に、しかし涙は流れなかった。涙を流すことを許されない出生が、それを拒否していた。――だからこそ、黒の少女の崩壊は早まったの、だが。
「そんなの居ないのよ。私にも居なかった。この身が穢れても穢れても、神も人も助けてくれはしなかった。だから私は、私を守るために、魔王になったのだから」
「それじゃ、世界は絶望しかないじゃない!」
「違うわ。私達の絶望は世界の希望なのよ」
珍しく昂った感情を露わにしかけた黒の少女は、銀の少女の言葉に世界の呪いを見て取った。世界は霞み、霧となり、水滴となり、その水滴の一つ一つが、希望であり絶望の種であり呪いだった。最早そこに一欠片の救いすらない。自身を救う切っ掛けすらない。彼らは遥か高みの空から少女達を見下ろし、自身がそこに居ないことに安堵して、穢れた希望と絶望と呪いの唾を少女達に吐き棄てるのだった。
銀の少女が抱く黒の少女への愛は、故に苛烈に燃え上がり寂寥を湛えていた。同情も憐憫も哀惜もないが、同調はあったのかも知れない。それは、銀の少女にすら分からなかった。
「だから私は、人の血肉を泡として弾けさせるよう、貴女に勧めたのよ」
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Cadenza.