「ようこそトウキョウへ」
色彩のない街で、白と黒の少女は言った。
影のような長い黒髪がかすかに揺れる。
瞳も服も、髪と同じ黒い色。
何者にも染められない黒い色。
一方で、その頬は雪のように白い。
袖のないワンピースから伸びる腕も病的に細く、白い。
ただ、少女のつぶらなくちびるだけが、鮮やかな真紅の色を見せていた。
「私はひなこ。暇つぶしにこの街の案内をしているわ」
少女は続ける。その姿には現実味がなく、どこか幻のようですらある。
「ねえ、あなたはここがどこかわかってるかしら?」
問に答える声はない。
小さな少女は瞳を伏せた。
「ここはトウキョウ。誰も認識できない街。歪んでしまった一つの街。みんな確かにここは東京だったと知ってるのに、みんなが気がついたら、もう世界の法則は奪われていて、いつの間にかトウキョウになっていた歪みの街。ここにいるものも、ここにあるものもすべてが歪んでる。ここは歪んだ人たちが生きる歪みの街」
少女の顔に表情はない。
しゃべるたびにかすかに頬が動くだけで、そこにはなんの感情も乗っていない。
「歓迎するわ。ようこそトウキョウへ。あなたのお名前は何かしら?」
その問いにも答える声はなかった。
質量を持つような無音が、空間に満ちる。
「ああ、あなた、喋れなくなってしまったのね」
少女はかすかに首をかしげた。
夜の滝のような黒髪が流れる。
「そうね、ここではそれほど珍しいことじゃないわ。だからあなたも安心しなさい。そんなふうに口をパクパク動かしても意味はないわ。だってあなたは、もう発音する能力を失ってしまったんだから」
少女の声は淡々と。
「言ったでしょう。ここにいる人達はみんな大なり小なり歪んでる。歪曲、欠落、過剰、喪失。あなたの歪みは発音障害? それとも心の喪失かしら? まあいいけど」
少女はくるりと背を向ける。
膝丈のスカートがふわりと踊る。
「ついてきたければ勝手にどうぞ。私は暇つぶしでこの街を案内してるだけだから」
無理数通り ~ The square Route of ×× ~
その道は永遠と続いていた。
どこまでも単調につまらなく、その道は続く。
まるで人の認識を拒むように、形を変え姿を変え連綿と。
少女は、コツ、コツ、と両の靴音を響かせていた。
耳に聞こえる音はただそれだけ。
灰色の世界に音はなかった。
そして、少女はそっと口を開く。
「ここは国道の一つ。たまにあなたみたいに迷いこんでくる人がいるわ」
少女の影が道路の真中に黒い影を落としていた。
「むかしはこの広い道路も沢山の車であふれていたはずだけど、今はこのとおり。私達以外に往く人はいない」
コツ、コツ、と音が響く。
そこはどこまでも静かな場所だった。
少女はそっと街並みに目を向ける。
「あなたはあまり見ないほうがいいわ。この道の左右に並ぶビル、まるで定規で引かれたみたいな特徴のないビルの群れ。そのひとつひとつを見れば確かにすべて違う形をしていてくべつできるのに、そのひとつひとつは明確に区別できないこの街の景色」
少女はかすかに後ろを振り返る。
「不安かしら? でも、そんな風に早足にならなくても大丈夫よ。いくら足を早く進めても目の前の景色には変化はないから」
そこで少女は自分の言葉を否定して首を振る。
「いいえ。実際には確かに変化してるわ。この道の上にはひとつとして同じ形のビルはない。でも、そのひとつひとつのビルの変化は膨大な数の前に飲み込まれて意味をなくす。それは茫漠と続く砂丘みたいに人の脳を狂わせる」
少女は、歩幅に合わせてゆっくりと後ろに流れていく景色に目を向ける。
「どこか……」
等間隔に並ぶ灰色の町並みはどこまでも静かにそこにあった。
「どこか、πや√がもつ無理数の世界みたいね」
音のない街に、コツ、コツ、と音がする。
白い地面には小さな影が揺れていた。
「ここでは目を頼ることはできない。どれも同じようなビルばっかりで目印にすることもできないから。自分がどこにいてどのくらい進んだのかも分からないから。だからここでは自分が歩いた数を数えるのよ」
少女の目は、先ほど自分が言った言葉、どこまでも続く砂漠の姿を幻視する。
「砂漠に住む民なら、日々風に吹かれて刻々と姿を変える砂丘の中にあっても、そこに道を見つけることができるかもしれないけど、素人ではどこまでも続く砂の波に飲まれて、大海に落ちた一滴の涙の妄想にとらわれてしまう」
少女の声は涼やかに広がる。
「けれど、自分の足取りの一歩一歩を数えていれば、たとえ自分の後ろに続く足跡が無限に見えても、その始まりは間違いなく【1】なのだと分かる。その認識は揺るぎないしるべになって心が壊れてしまうのを少しだけ遅らせてくれる」
少女の黒い瞳が静かに止まり、くちびるが一瞬だけ結ばれる。
「だから大丈夫。進んでいないように見えてもちゃんと私たちはちゃんと進んでいる。πも√も堂々巡りじゃない。ただ果てがないだけよ」
太陽のない白く塗り込められた空の話
「あなた、この空がそんなに珍しい?」
少女はゆっくりと視線を上げた。
瞳に映るのは一面の白色。
そこには影も揺らぎも存在しない。
白い紙のように抑揚のない白い色が漠然と広がっている。
「この空も今私たちがいる灰色の道の一部よ」
少女の声は、どこか独り言を呟くようにささやかれる。
「雲のない真っ白な空。太陽も見えないただの白色。もしも太陽も見えないくらい雲が厚く重なっているのなら、ここはこんなにも明るくはないはず。それなのに空は白く明るい。あなたに言われてみれば、確かに変かもしれないわね……」
少女は空から視線を下ろし、感情の乗らない黒曜石の瞳を後ろに向ける。
「光源がないのに世界が見える。まるで空間そのものが適度に光を持ってるみたい。それとも目に見えるものが自分から可視光を発してるのかしら? あなたはどう思う? まあいいけど」
少女は小さく息をついて、止めていた足を一歩踏み出す。
「でも、それほど心配することないわ」
歩き出した少女は口にする。
「確かに外とは違う法則でこの東京という町は成り立っているけど、なれてしまえばそれはもうそう言うものに過ぎないから。強力な歪み持ちも互いに殺し合ったか、歪の果てにどこかへ行ってしまった……。だから、ここで生きている人たちも神でもなければ鬼でもない、向こう三件両隣にチラチラするただの人よ」
足並みに合わせて、少女の黒いスカートが揺れる。
「さあ、これからどこに行きましょうか」
涙を流す女
その女は絶叫していた。
天を仰ぎ、地を這いつくばり、両の眼から滝のように涙をこぼしながら。
女は叫ぶ。
喉が潰れることなどお構いなしで、己の感情を表現する。
その絶叫はとても人の出せる音とは思えない音質で。
その絶叫はとても人の出せる音とは思えない程の音質で。
女は一人、力のかぎり絶叫していた。
少女はかすかに首を上げる。
「この声……あの子がいるわ。あなたも聞こえるでしょう? この泣き声が。胸をつまらせるようなこの泣き声が」
少女のつぶやきが落ちる。
音のない街に、風に運ばれて音が届けられていた。
「怪訝そうな顔ね。あなたはこの音が泣き声だなんて信じられないかしら? あなたはこの慟哭の絶叫が人の声だなんて信じられないかしら?」
少女は後ろを振り向かずに口にする。
そこにあるは街が持つ圧迫されるような無音と、そして少女が指す何かの音。
「この声、幼い子供が母を呼ぶために力の限りに泣くような、死期迫った老人が床の上で静々とこぼす涙のような、そんな無数の感情が込められた不思議な声。音はまるで風が梢を揺らすよう、波が立てる潮騒のよう、時雨が降る雨音のよう、とても人の喉で作れる音には聞こえない。けれどこの音は間違いなく人の声。そこに込められた感情のうねりは、絶対に自然には真似できない。この音を、この声を出すことを許されているのは人間以外に他にない。だからこれは誰かが悲しみにくれて落とす涙の音。ねえ、あなたも会ってみたいと思わない?」
少女の足取りは変わらない。
少女の足は靴音を立てる。
「泣き声は嗚咽することもなく、咽ぶこともなく、すすり上げることもなく、ただ時折肺いっぱいに空気と取り込むだけで途切れることなく続く。それは嬰児が起こす、泣く、という何の感情も入らない純粋な行為のよう。少しでもそこに感情が混じれば途切れてしまうのに、この声はこんなにも長く続き、渦巻くような言葉に出来ない混沌とした感情のうねりが目にみえるように聞こえてる。ねえ、あなたはどう? この声になにが聞こえる? この声になにが見える? この声にどんなふうに心揺さぶられる?」
少女はかすかに振り向き、その感情のない目をこちらに向ける。
「この街で初めて会うにはちょうどいい人よ。あの子はこの街を象徴するような子だから。だからあなたは運がいいわ」
少女は瞳を伏せて足を止めた。
音を伴わないかすかな風が、少女の黒髪とスカートを揺らす。
「この先の通りね。そんな風に不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。危険な子じゃないわ。さあ、行きましょう」
少女は無音の街の灰色の道を一つ折れた。
その瞬間、世界に音が戻った。
遠雷のような泣き声しか聞こえなかった世界に音が戻った。
先程まで耳に痛いほど感じていた無音が消える。
風の吹く音、街路樹が揺れる音、遠くから聞こえてくる何かの低い音。
それはものが発する自然なノイズで、耳に優しく滑りこんでくる。
「あなた、驚いた顔をしているわね。そんなに辺りを見回してしまって。まあ、無理も無いけど。……ほら、よくご覧なさい。音の有無だけじゃないわ。今はきちんと建物ひとつひとつを目にできるでしょ? 理由は簡単よ。あの国道を抜けたから。トウキョウの町が全部さっきみたいな歪み方をしてるわけじゃないの。場所それぞれで色んな歪み方をしてるわ。まあ、そこも今度案内してあげましょう。でも、今はこっちよ。泣き声が大きくなってきたわ」
少女は街を進む。
道の左右に広がる景色は先ほどと変わり映えのない灰色のビルの群れだったが、その街並みからはもう灰色という印象はなくなっていた。
「ほら、見つけたわ。あそこ」
少女の赤い唇が開く。
「今、奥の横断歩道を渡ってる髪が長くてボサボサで足首まである血と泥とで汚れ茶色くなったワンピースを着てうなだれ顔を手で覆っている女性が、この泣き声の主」
その女性は、横断歩道の真ん中で恥も外聞もなく大声を上げて泣いていた。
口を大きく開き、口元に目元に鼻筋に、大きくシワを作って己の感情を搾り出すように慟哭している。
「近くで聞いても、まだあなたはこの声が人のものだって信じられない? あなたは今そんな風な顔をしているわ」
女性の声は唸るように響く。
少女は歩み寄り、声をかける。
「こんにちは。ひさしぶりね。あらあら、顔中涙と鼻水とよだれでぐしょぐしょね。今拭いてあげるから、じっとしてなさい」
「あ、ああ、あ、ありがとう、う、う、うう、……ひ、ひなこちゃん……」
少女はスカートの中から純白のハンカチを手に取った。
三角形に折ったハンカチの先で女性の頬にそっと触れる。
ハンカチは途端に汚れを吸って黒く染まり、少女の手の中で燃え上がった。
赤い炎が少女の細く白く小さな手を包み込む。
少女は振り返り、その黒い瞳に赤い炎の色が映っていた。
「あなたがそんな顔をしなくても平気よ。熱くはないから。単にハンカチが汚れを浄化するためにその身に浄火を灯しただけ。ハンカチが汚れを肩代わりしてくれただけだから」
ハンカチは燃え尽きて、灰になって消えた。
「ひ、ひなこちゃん……」
「ああ、紹介するわ。この人は新人さん。喋れないみたい。それじゃあ、あなたにも改めて紹介するわ。この子は名前のない涙をこぼす女。泣き女とか、西洋の妖精になぞらえてバンシーなんて呼ばれたりすることもあるわ。まあいいけど」
髪の長い女性が少女の後ろに目を向ける。
「よ、よろしく………………ああ、あああああああああああうあああああああああ……」
女性は軽く頭を下げたまま思い出したかのように泣き始めた。
その声は、まるで伸び上がる歌声のような声だった。
「ああ、そんなに泣いてしまって、あなたはなにがそんなに悲しいの?」
「ひ、ひなこちゃん……つ、月と火星が、月と火星が見ているわ。火星は私達を焼き尽くそうと、全身を逆巻く炎に包んでそのすべてを焼き尽くす熱を私たちの肉に届ける機会を狙ってる。月と共謀して月の目で私たちを見て、私たちを焼き殺そうと見ている! ああ、たくさんの人が死ぬ。命が尽きる。月が私たちのことを見ているわ! 怖い怖い怖い! ああ、ああ! あの道路標識…………わ、私が! 私が!」
「そう、大変ね。そろそろ私たちは行くわ。それじゃあ、元気でね」
少女は泣き崩れる女性の横を通り過ぎる。
「ほら、あなたも。立ち尽くしてないで行きましょう」
少女の声がかけられる。
「何かしようとなんてしないほうがいいわよ。歪み持ち相手にそれは妄想だとか、歪みを解決する提案をするとかしたらダメ。せいぜい殺されるか歪みをもっと大きくするのが落ちよ」
少女の後ろでは、跪いた女性がまだ泣き声を上げている。
「うう、うう、ひなこちゃん、ひなこちゃん、あなたの前で近く人が死ぬわ」
「ありがとう。覚えておくわ」
女性の慟哭はいつまでも続く。
止め処なくこぼれ落ちる涙が白い大地に染みを作っていた。
「ほら、いつまでも立ち尽くしてないで…………ああ、あなたはこの子と心を共にしてしまったのね。言葉の意味はわからなくても、なにを言っているのか分からなくても、泣いてることだけはわかるから。だからそうやってその子の背中を抱いているのね? まあいいけど」
その時、急に辺りに人影が立ち上がった。
少女はそっと目を向ける。
灰色の街の道の端、目についたのは斜めに突き立つ道路標識。
そして、標識の下にいる二人の男。
「ああ、あああ! 来た! 来てしまった! 月と火星が! ああ、逃げて、早くあなただけでも逃げて! 私はもう足が動かない。恐怖で足が動かない。月と火星に呼び込まれた恐怖で足が動かない! このままみんな焼き尽くされてしまう!」
「そう、あの漆黒のスーツを着て頭に山高帽を乗せた男と、あの明るいブラウンのスーツを着て山高帽を頭に乗せた男がアナタの言う月と火星なのね」
少女の声がくちびるから漏れる。
そして、男たちが語りだす。
「月よ、見ているか?」
「ああ、火星よ、見ているぞ。一方、お前様は燃やせるか」
「ああ、燃やせるぞ」
男たちの会話が聞こえてくる。
その表情は帽子のつばに隠れて読み取れない。
「ああ、みんなみんな焼き尽くされてしまう!」
「火星にそんな力があるのかしらね。あなたは知ってるかしら? 火星の神は一度も勝利の美酒を飲んだことはないってことを」
「月よ、お前の目があれば我は今こそこの目に映るものすべてを燃やし尽くそう」
「火星よ。今こそその目に映るものすべてを燃やし尽くせ」
火星は黒い虚のような目を実に楽しそうに見開いた。
「ああ、ああ、みんな逃げて!」
女性はうずくまり体を震わせて鳴き始める。
「あなたは信じられない? この二人が本当に世界を燃やせるということを。それとも、わかっていながらそうやってぎゅっと守るように慈しむように慰めるようにその子の体を抱いているのかしら?」
少女は瞳を伏せると、その二人の男に向かって歩き出した。
「こんにちは。二人の紳士さん」
「ああ、こんにちは可愛いお嬢さん。私は月です」
「ああ、こんにちは可憐なお嬢さん。私は火星です」
「はじめまして。私はひなこよ」
そう言うと、少女は月をポケットに入れた。
「あっ」
月を失った火星はその場で自らの身体を燃え上がらせ、すすも残さずに空気の中に溶けて消えた。
後にはなにも残らない。
姿も形も、影も匂いも、一瞬だけ輝く炎を見せたかと思うと、そこに男がいたと言う事実はなくなった。
「ひなこちゃん?」
女性の泣き声が一瞬止まる。
「これはニッケルメッキのブリキの月。白く輝く鉄の葉っぱ。小さな手に握られて、いつでも暖かな熱を持つ、小さな子供の愉快なおもちゃ。さあさ、この月が欲しければ、どうぞどうぞ手を伸ばせ」
摘んだ月を差し出すと、女性はそれに手を伸ばす。
二人の手がブリキの月を挟んで結ばれると、月は二人の間でふたつに割れた。
少女は手に残った月を再びポケットの中に落とした。
「ああああああうあああああ……」
そして女性はまた泣き始める。
そこに、変わらず抑揚のない声がかけられる。
「どうしたの?」
「ああ、ああ、ひなこちゃん……りゅ、竜が……竜が来るの。竜はあなたたちを食い殺そうとその巨体を天空に呻らせてる! 空をかけてあなたたちを食い尽くそうとその巨大なアギトの隙間から汚らしい涎を垂らしている! ああ、たくさんの人が喰われてしまう! 逆鱗があんなにも鋭く尖っている。あんなにも、あんなにも……ああ、ああ、あああああ! 太陽が…………わ、私も! 私も!」
「そう、大変ね。そろそろ私たちは行くわ。それじゃあ、元気でね」
少女は泣き崩れる女性の横を通り過ぎる。
「ほら、あなたも。立ち尽くしてないで行きましょう」
少女の声が響く。
少女の後ろでは、跪いた女性がまだ泣き声を上げていた。
「あの人はね、泣くことが好きなのよ。恐怖で自分の体を縛られている方が安心するの。それはこの不安定な世界の中で自分の存在を立脚させる基盤になってくれる。だから、あんな風に一つの問題を解決しても、自分から次の問題を探し出して、自分の存在を大地に縛り付けるために恐怖する」
少女の後ろでは、跪いた女性がまだ泣き声を上げていた。
「ここはトウキョウ。なにもかもが失われて、なにもかもが不安定で、なにもかもが歪んでしまった閉鎖空間。人も物も歪んでる歪の街。あらためてようこそ。ここがトウキョウよ」
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歪んだ街に迷い込み、女の子に街を案内されるファンタジー小説です。
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文字数は7500字程度です。