No.393215

河童の徳利

あしたばさん

昔話の二次創作小説です。
河童が持っているいくらでもお酒が入る徳利(とっくり)の話しです。
文字数は9000字くらいです。
もしよろしければご覧下さい。

2012-03-17 18:27:18 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:401   閲覧ユーザー数:401

 

 

 河童の徳利

 

 これは、少し昔の日本のお話です。

 沢山の鎧武者たちが活躍した戦国時代は終わり、歴史の担い手が武器を持った人からなにも持たない庶民へと移り変わった時代のお話です。

 もう、ずっと大きな争いもなく天候にも恵まれて飢饉もない。

 人は目の前にある小さな楽しいことを大きく楽しみ、それだけで十分に満足して生きていた時代のお話です。

 その、その少し昔の日本のあるところに、一人の男が住んでいました。

 名前は弥平といって、お酒を売る仕事をしていました。

 この弥平という男の作るお酒はとてもうまいと評判で、人々の語り草になっていました。

 この男が住む場所は、大きな川が近くにある小さな村で、村の男達はみんな弥平の作るお酒をうまいうまいといって飲んでいます。

それどころか、評判を聞きつけた人たちがわざわざ隣の村から川を超えて、あるいは隣の隣の村から山を超えて、男のところに買い物に来るくらい評判でした。

 そして、この男本人も、たいそうひょうきんな性格で、男自身もお酒が大好きな人間でした。

 丸い赤ら顔に丸いお腹。

 顔にはいつもニコニコ愛嬌ある笑顔が浮かんでいます。

 弥平は自分の酒をうまいといってくれる人たちが大好きで、また、店に酒を買いに来る人たちもこの男のことが大好きでした。

 店番をしていたかと思えば、いつの間にかお客さんと一緒に大笑いしながら酒盛りをしていたなんてこともしょっちゅうです。

 そんな弥平のところに、今日も一人お客さんが訪ねてきました。

「おう、弥平、もう終わりかい?」

 訪ねてきた男は開口一番にそう訪ねました。

 それもそのはず、お空の色はもうとっくに真っ黒に染められて、お日様はとっくに沈んでいます。

 暖簾の向こうではおつきさまが煌々と輝いていて、風にたなびく枯れ尾花にくっきりと影を作っていました。

 そんな時間ですから、弥平ももう今日はお客さんは来ないだろうと思って、そろそろのれんをしまおうかなと思っていた時間でした。

 そこに、先の男の声がかけられたのでした。

「やあ、これは善吉ではないか!」

 弥平はとても嬉しそうに相好を崩します。

「うむ。いかにも善吉である」

 善吉と呼ばれた男は遠慮なく弥平の前に座りました。

 歳は二人共同じくらいに見えます。

 弥平は大きなお腹と丸い顔をした人好きする明るい男でしたが、こちらの男も負けていません。やはり大きなお腹に丸い顔をしていて、とても楽しそうな顔をしています。

 強いて違いを挙げる言うなら、善吉のほうが若干頭の方が薄くなっている気がしました。

「やあ、善吉よ。久しぶりではないか。今度は一体どこに行っていたのだ?」

 弥平が善吉に問いかけます。

 それというのもこの善吉という男、家は農家などをやっているのですがちょっとした放浪癖がありまして、昨日まで真面目に畑仕事をしていたと思ったら次の日には陰も形もなくなっていて、二、三日後に土産話を手に戻ってくる、というようなことを何度も繰り返しているのでした。

 その土産話が大変面白く、時には海まで行って釣りをしてきた話や、足を伸ばして大きな町まで行ってきた話、果ては、荒寺に行って一晩肝試しをしてきた話など、面白おかしく語ってくれるのです。

 そんな放浪癖に家族はほとほと迷惑していましたが、村人たちは善吉の話をとても楽しみにしていました。

 そんな男がこれまた二、三日前にふと姿を消したので、村人の間では今度はどこに行ったのだろうか、そろそろ戻る頃ではないかと噂し合って善吉が戻るのを楽しみにしていたのです。

 そして、それを楽しみにしていたのはこの酒屋の主人もおんなじです。

 実は善吉と弥七は幼なじみで、昔から一緒に悪さをしたり悪戯をした仲で、気心の知れた友達だったのです。

 ですから、弥七は善吉が戻ってきたのを心から喜びましたし、また、善吉も戻ってきて一番に弥七の家に来たのでした。

「おう、弥平や。今回は川の上流に行ってきたのだがな。まずは酒をもらおうか。この徳利一杯量っておくれ」

「心得た。とっくり一杯量ってやろう」

 弥七は善吉の徳利を受け取ると、その口に漏斗をさして升を右手に取りました。

 この時代、お酒は量り売りが一般的で、現代のように定量で買うのではなく、お客さんは好きな量をお店に求めることができたのです。

 弥平は一合二合とお酒の量を量ります。

 そうして、お酒を量りながら、弥平は善吉に話しかけます。

「しかし善吉よ。川とはそこの大川のことだな一体そんな所でなにをしていた? 珍しいものなどないだろうに」

「うむ。よくぞ聞いてくれた。お主は大川に住む河童の噂を耳にしたことはあるか?」

「河童か? あの頭に皿を載せていて背中には亀の甲羅を背負った相撲好きの河童か?」

「いかにも」

 善吉が頷いた所で、善吉の徳利がいっぱいになりました。

 そこで弥平は、升を二つ取り出すと、これはおごりだと言ってその二つの升に弥平自慢の酒を注ぎました。

「おお、これはかたじけない」

 どこまでも透き通った透明なお酒が、升の中にはなみなみと注がれています。

 善吉は礼を言うと、蝋燭の光が映り込むその綺麗なお酒に口をつけました。

 舌の上に、芳醇な香りとまろやかな甘味、そしてスっとするお酒の熱が感じられます。

 それを味わって、善吉はしきりにうまいと連呼して上機嫌になりました。

 それを聞いて、弥平も嬉しくなりました。

「それで善吉よ、河童がどうしたのだ?」

「うむ。実はその河童を探しに行っていたのだ」

「なんと!」

 弥平も、大川に河童が出るという話しは知っています。

 と言うよりも、日本全国どこの川でも河童が出るという噂はあるのです。

 ですから子供たちはみんな川に近づいてはいけない。川に近づくと河童に襲われると言われて育つのです。

 弥平も善吉もそのように河童が出ると言われて育った子供でした。

 いくら悪ガキの弥平と善吉でも流石に河童は恐ろしくて、子供の頃はいくら好奇心が強くても、探しになど行けませんでした。

 それがどうでしょう。

 大人になった善吉は、その恐ろしい河童を探しに行ったというではないですか。

 弥平は嫌がおうにも好奇心をそそられます。

「どうやらこうして話ができるところを見ると、尻子玉は抜かれていないようだな。よかったよかった」

「うむ。お陰様でピンピンしておるわい。何なら、俺の尻をあらためてみるかい!」

「そんな汚ぇもんを見せられたぁ、俺の目がそれこそ河童の皿みたいになっちまうわい!」

 そう言って、二人は一緒に大笑いします。

 ひとしきり笑い終えると、善吉が話し始めます。

「俺はそのまだ見たことない河童ってやつを確かめてみようと思ってな。まず河童がいるっていう川の上流に行ってみたんだ」

 そこから善吉の冒険譚が始まります。

 野山を越え、藪を進み、崖を降りて、川を渡る。

 途中、蛇にあったり鹿にあったり、そんな話を面白おかしく聞かせてくれます。

「…………それで、結局川で見つけたのはでっけえナマズに食われる間抜けなカワウソくらいのものだったぜ!」

「そいつはひでえ! 河童の川流れじゃなくて、カワウソの川流れってかい!」

 二人はお酒を一緒に飲んで、大笑いをしていました。

「そうそう、その河童を探してる二、三日の間、上流の村に世話になっていたのだがな。なんとそこでもお前な名前が知られていたぞ」

「なんと!」

「うむ。実にうまい酒を作ると評判だった。俺はその評判を聞いて急にまたお前の酒が飲みたくなって、こうして夜中だというのに帰ってきたのだ!」

「ははぁ、そいつはうれしいねぇ。それじゃあ、ここは俺のおごりでもう一杯いこうではないか」

「うむ。ありがたく頂戴しよう」

 そうして、二人はしばらくお酒を酌み交わしました。

 二人の話は尽きず、この前の善吉の冒険譚から、二人の少年時代の思い出まで、話に花を咲かせました。

「では、そろそろお暇しよう」

「おう、帰るかい? 気をつけてな」

 二人はすっかり出来上がっていましたが、それでも善吉は立ち上がると、ふらふらと頼りない足取りでのれんをくぐって出て行きました。

そうして弥平が一人残されると、なんだか急に眠気が襲ってきて、弥平はそのまま眠ってしまったのでした。

 

 

「イテっ!」

 弥平は頭に何かの衝撃を受けて目を覚ましました。

 ぼやける目をこすって辺りを見回すと、まず目に入ってきたのは、昨日の夜からかけっぱなしののれんと、その隙間から差し込んでくる早朝の白っぽい朝日でした。

 弥平は寒さを覚えて身震いをします。

 秋の入口で、昼間は残暑厳しい日々ですが、この早朝ともなればさすがに肌寒さも感じる季節です。

 まして、今の弥平の格好のように薄着一枚では体を冷やしても仕方ありません。

 そして、弥平が寒さの次に感じたのは、頭の奥から響いてくるような頭痛です。

 それは先ほど頭に感じた衝撃とはまるで別物で、弥平もよく知る痛みでした。

「イテテテテ」

 弥平は顔をしかめます。

 それは酒飲みにお馴染みの二日酔いでした。

 目眩がして気持ち悪さが胸につっかえています。

 弥平はもう何度も深酒はしないと心に誓っているのですが、それでもこうしてやっぱり深酒をしてしまって、こうして二日酔いのお世話になるのでした。

「痛いじゃないよまったく!」

 そんな弥平の頭の上から声が聞こえてきます。

 なんだと思って弥平がそちらの方を振り向くと、見知った顔が見えました。

「げげ、お菊!」

「あんたの女房を捕まえて、げげ、とはなんだい!」

 そこ立っていたのは、一人の女性です。

 その人は無地で質素な着物を纏った細面の美人さんでした。

 事実、村ではちょっとした有名人で、この女房を目当てにこの酒屋に通ってくる男もいるくらいです。

 もっとも、その美人な顔も今は怒りに歪められて地獄の悪鬼羅刹もかくやという形相を有していましたが。

 弥平の目の端には真っ白な足袋を履いた足が見えています。

 どうやら、最初の衝撃はその小さな足で蹴られたもののようでした。

「さてバカ亭主、これはどういうことなのか、説明してもらおうじゃないか!」

 そう言われて、弥平は初めて店の惨状を認識しました。

 弥平が今まで眠っていた店先は、強いお酒の匂いが漂っていました。

 これでは、秋の朝の冷たい空気に交じる冬の気配を遠くに孕んだ風の匂いも嗅ぎ分けられません。

 そして、弥平は目にします。

 酒樽の一つが、昨日までは自慢のお酒がなみなみと注がれていたはずのその樽の中身が、カラっぽになっていたのです。

 樽の底はまるで蒸発したみたいに一滴残らずなくなっていて、カラカラに乾いてしまっています。

 それを見た弥平は、昨夜、善吉と飲み明かしたことを思い出しました。

 弥平の冷えていた体が、また一段と冷たくなりました。

 震えの種類が、寒さから怒られる恐怖に取って代わります。

「あんた、店の酒に手をつけたね! それだけはするなって何度も何度も言っていたのに!」

「ち、違うんだ母ちゃん、ほら、これはそのだな……」

 弥平は口を濁します。

 素直に昨日のことを言ってしまったら、怒られるのは目に見えています。

 弥平は怒られるのは嫌です。

「これは、そう、売ったんだ!」

「売ったァ?」

 お菊は怪しげに弥平の顔を睨みつけます。

「そうそう。売ったんだ。客が買っていったんであって決して俺が飲んだわけじゃない。いやあ、俺もびっくりした! 急にこんなに売れるなんてな!」

 そう言って、弥平はたたみかけようと言葉を続けます。

 しかし、そこでお菊は冷たい一言を言い放ちました。

「じゃあ、お代はどこだい?」

「……お代?」

「そう、お代だよ。売ったんならちゃんとお代をもらっているだろう?」

「えっと、あ……」

「言っておくけど後金とは言わせないよ。後金だったらこれだけの量なんだ。手形のひとつくらい切ってるだろ」

 そう言われて弥平は黙ってしまいます。

 弥平は怒られないために必死で頭を働かせます。

 二日酔いで頭が痛いなんて言ってられません。

 なにか助けはないものかと、懐をまさぐりました。

 すると、その中から一枚のお札が出てきました。

 そのお札はお札の中でも一番価値の低いものでした。

 これではせいぜい徳利一杯分しかありません。

「……なんだいそれは? まさかそれがお代だとでも言うなかい!」

「ち、違うんだお菊。そう、これは……」

 弥平の二日酔いで痛む頭は、昨日善吉が話していた内容をよく考えるまでもなく口に出してしまっていました。

「河童だ!」

「はァ?」

 お菊が訝しげに眉をしかめました。

「昨日、河童が俺の酒を買いに来たんだ!」

 

 

 あれはそう、日もとっぷり暮れて秋の虫たちが鳴き始めた頃だった。

 俺はろうそくに火をつけてその音に聞き入ってたんだ。

 昨日は月が綺麗だったからな。思わず風流だと思って鈴虫や松虫やコオロギの声に耳を済ませてたんだ。

 そうしたら、いつの間にか真夜中になちまっててな。

 俺はもう今日は客は来ないだろうと思って、そろそろのれんをしまおうと腰を上げかけた。

 するとその時だな、不意にお月さんが遮られて店の前に影ができた。

 そしたら俺はこんな夜中に客かと思って、びっくりしながらその客に声をかけるわけだ。

「へい、らっしゃい。いい夜でさぁな!」

 その時、いつの間にか鳴き虫たちの声が消えてたんだが、それはあとから気づいたことだ。まあ、ともかく俺はそいつに声をかけた。

 それでだな、暗いからと思ってロウソクを掲げてみた。するってぇと、そいつは人間じゃなかったんだ!

 河童だったんだ!

 目の前のそいつは話に聞くとおり、頭の上に月明かりを受けて白っぽく輝く皿なんか乗っけてた。

 肌の色はそうだな、えーと、濃い茶色と言うか緑と言うか、そうだな古い苔みたいな色をしていて、濡れたみたいに蝋燭の光を浴びてぬらぬら光った。

 背中に甲羅があるのも分かったな。

 それから顔はカエルと鳥を足して二で割ったみたいな変な顔でくすんだ黄色っぽいくちばしが顔の真ん中にでかでかと突き出てたぜ。

 俺が肝を潰していると、その河童はおもむろにこう言ったんだ。

「わしは大川の上流に住む河童。名は龍之介という。ここは弥平という人間がやってる酒屋で間違いないか?」

 俺が驚きながらも頷くと、その河童は店の前のそこいらへんに腰を下ろした。

「うむ。そうか」

「そ、それで、河童の旦那が、こんな人間の酒屋に何のようで?」

 俺は驚きながらも思わず聞いていたね。

 まず言葉が通じたのと、態度が友好的だったのと、それからやっぱりもう一つは、その河童の顔だな。

 その河童、龍之介の顔は確かに人間から見ると不気味な顔だったが、不思議と愛嬌のある顔でな、話が通じると分かるとそんなに怖くなくなっちまったんだよ。

 それで、その龍之介は俺の質問にこう答えてくれた。

「うむ。実はだな、お前のところの酒がうまいと上流の村まで評判でな。河童たちの間で話題になっていたのだ。はてさて、人間が作る酒はどれほどのものか、我らは一度味わってみたくなってな。それならばどんなものであろうかとわしが買いに来たという次第だなのだ」

 そいつを聞いて俺は嬉しくなっちまってね。

 うちの酒は隣り村からも買いに来る奴らもいるくらいだし、時には町からも買いに来てくれる奴もいる。

 その上、河童にまでうまいと伝わったとなれば、俺はもう本当に嬉しくてね。

 その時俺は上機嫌になったぜ。

「おお、嬉しいな。河童の旦那にまで買いに来てもらえるたぁ、酒屋冥利につきるわぃ。それで、いかほどお求めで?」

「うむ。ならば、この徳利一杯もらおうか」

「お安い御用で。すぐに量ってやりましょう」

 俺がそう言うと、その龍之介の旦那はそこでちょっと口を挟んできた。

「待て、その徳利、どうせそれほど入らぬのだ。わざわざ店主殿が量る必要はない。その徳利一杯、いくら入っても入らなくてもこいつでどうだ?」

 そう言うと河童の旦那は懐から札を一枚取り出してよ、俺に渡してきたわけよ。

「こいつですかい?」

 俺はその札と預かった徳利を比べてみたんだけどよ、そいつは上から見ても下から見ても、中をのぞき込んでみても、どう見ても普通の徳利にしか見えやしねぇ。

 色は白っぽくて表面は少しざらついてたな。それから表面には見たこともない文字も書いてあった。それでもやっぱり普通の徳利だ。なんにも怪しいところは見られねぇ。

 大きさはそうだな、見た感じだと一升は入らないだろうってくらいだったな。

「旦那、それだとちょいと多いくらいですぜ」

「うむ。構わぬ。われら河童は人間の金など滅多に使わぬからな。釣りなど返されても邪魔になるだけなのだ。取っておいてくれ」

「そうですかい? それじゃあ面倒もないし、そうさせて頂きましょう!」

「うむ。そうしてくれ」

 その時、その河童の竜之介は嗤いやがった。

 笑ったんじゃねぇ、嗤ったんだ。

 河童の不気味な顔だったがすぐにそれはわかったぜ。なにせ悪意ってもんが目に見えるみてぇだったからな。

 俺はちょいとおかしく思ったがよ、まあ特には気にしなかった。

 それがまずかったんだな。

 俺は枡を片手にその徳利に酒をつぎ始めたんだけどよ、まあ一杯目は全部入るわな。これは全然おかしくない。

 それで、二杯目だ。

 俺は溢れないように枡をこぼしたんだがよ、これが二杯目も入っちまった。

 俺は見た目よりもよく入る徳利だと想いながら、もう一杯酒を枡に汲んだんだけどよ、なんと、その三杯目まで全部徳利の中に入っちまったんだよ!

 それで、その徳利は酒を入れる度に四杯目も五杯目もどんどん中に入っちまう。

 それで、気付いたら樽いっぱいの酒が、こぉんな小せぇ徳利の中に入っちまったんだ!

「うむ。それで一杯だな。それでは約束の千円だ」

 俺が驚いてると、竜之介は徳利を持ってそのまま何事もなく帰っちまったんだ。

 それで、気がついたら俺は、樽いっぱいの酒を千円で売って取り残されてたってわけだ。

 俺はこう言ったね。

「こいつは一杯食わされた!」

 

 

 そう言って弥平は大笑いしました。

「何が一杯食わされた、よ! 全然面白くないわよバカ亭主!」

「イテェ!」

 弥平はお菊に頭をはたかれて大袈裟に声を上げました。

 お菊の目は怒りに真っ赤に燃えています。

「あたしがそんな与太話を信じるとでも思ったのかい!」

「よ、与太話じゃねえよ!」

 言いながら、お菊に千円札を突きつけます。

「ほら、これがその時もらった千円だ!」

 それは、昨日の晩に善吉が置いていった千円札でした。

 お菊はそのお札を受け取ると、ためつすがめつ眺めます。

 少なくとも、偽札ではなさそうでした。

 お菊は口を開きます。

「それじゃあ、百歩譲って実話だとしようじゃないか。それじゃあ聞くけど、なんでお前さんは三杯目が入った時点で酒を入れるのを止めないのかね!」

「それは……」

 弥平は少し言いよどみます。

「そっ、そうだ! その河童がだな、いや、その河童の目がだな、俺が酒を注いでると怪しく光り出したんだ。そんで、俺がその目の光を見ていたらいつの間にか俺の腕は動かなくなっててよ、俺の意志を離れて勝手に動いて酒を注いだんだよ!」

「ほぉう?」

 お菊の目はどこまでも冷たい光を湛えています。

「それじゃあこの酒の匂いはなんだい? いくらうちが酒屋でも、普段からこんなに店先が酒臭くっちゃお隣さんから苦情が来るよ。一体どうして今日はこんなにも酒臭いんだろうね? まるでここで誰かが酒盛りしたみたいじゃないか」

「そ、それは……」

 弥平はまた言いよどみました。

「そ、そうだ、これはあれだ。河童のヤツがこぼしたんだよ。そりゃあもうすごい量の酒をこぼしやがった。なにせ樽一杯分入った徳利だったからな。それで辺り一面酒浸しになってそれで河童は悪いと思ったのかさっさとどっか行っちまった。俺は朝までここの掃除をしてたわけだな。うんそうだ、そう、だから俺はここで寝てたんだよ!」

 弥平は自分で言った言葉にしきりに頷いています。

 腕を組んでうんうんと、何度も首を上下に振ります。

「アンタはなんでその時、その竜之介って河童を追わなかったんだい?」

「えっと、それはだな……」

 弥平はまた少し言いよどみます。

「えー、あっ、そうだ。アレだ。追っかけたぞ! 酒が徳利に一杯になると俺の腕はまた自由に動くようになったからな。俺はこう言いながら竜之介のヤツにつかみかかったんだ『やい、薄汚え河童ァ、こいつはインチキだ!』ってな。そしたらアイツはなんて言ったと思う?」

「知らないわよ」

「アイツはこう言いやがったんだ『おぬしは先ほど徳利一杯を千円でよいと言っただろう』すましやがってこの野郎、俺は頭に血が上ってそいつの頭の皿を叩き割ってやろうと思ったんだけどよ、さすが河童だな、相撲が強くて強くて、俺はつかみかかったままあっと言う間に投げ飛ばされちまったんだよ。そう、そうだよ。その時の拍子に徳利が倒れて中身がこぼれたんだ。それでだな。俺は思いっきり背中を打って息ができなくなっちまったんだ。それでもなんとか河童を追いかけようとしたら、その河童のヤツはまるで煙が消えるみたいにスゥって消えちまったんだよ。俺が起き上がって店の外を見に行っても、もう辺りには人っ子一人いなくなっててよ、それで仕方なく俺は朝までこぼれた酒を掃除してたって寸法だ。どうだ!」

「どうだじゃないよ、バカ亭主!」

「イタァ!」

「だったら、その酒臭え息はなんだって言うんだい!」

「うぐっ……」

 弥平はとうとう言葉を詰まらせました。

 目の前のお菊の目はまるで虫けらを見るようです。

「…………………………」

 もう、弥平の口から言葉は出てきません。

 しばらくそうして、弥平とお菊は見つめ合っていました。

 早朝の空気はいつの間にか薄まり、代わりに秋の気持ちのよい風が店先を吹き抜けていきました。

 今日も、これから一日が始まります。

 魚屋八百屋が店を開け、農家はすでに畑に出ていることでしょう。

「ごめんなさい! 呑みましたっ!」

「はじめっからそう言いなっ!」

 お菊の平手が、弥平を容赦なく襲いました。

 

 やがてこのお話は、この村でまぬけな笑い話として伝わり、隣村には細部が落とされて実話として伝わり、今では昔話として伝わっています。

 

終わり

 

 

 

 
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