ぼんやりと、宙空を眺めていた。
見慣れない天井。
いや、久しく見なかった天井。
まだ、靄のかかった様な意識のままに、首を横へと向ける。
テーブル、テレビ、雑誌や漫画が収められた棚。
どこにでもありふれた日用品が、懐かしさを感じさせた。
―戻って来てしまったか……。
重い頭を持ち上げ、ベットから体を起こす。
学生寮だ。
そして、俺の部屋だ。
夜の帳の中で、ひっそりと佇んでいる家具たちが、何故かもの悲しかった。
夜が明けて、何時もの様に教室へと向かう。
扉を開くと、ざわざわと騒がしかった室内が水を打ったような静けさに包まれた。
その変化を疑問に思いながらも自分の席へと歩みを進める。
そんな俺の動向を、クラスメートたちは遠巻きに見詰め、ひそひそと何事かを囁き合っている。
酷く、居心地が悪かった。
辿り着いた机が、自分のものでは無いかのように思える。
ゆっくりと触れた感触が、木の匂いが、俺の胸へと懐かしさを呼び覚ますのに。
下ろした腰は、しっくりこなかった。
始業を知らせる鐘と同時に、担任は室内へと入ってきた。
教壇に出席簿を置き、教室をゆっくりと眺め回す。
これが彼の癖だった。
室内に空席を見つけると、眉を微かに落とす。逆に、全員が登校をしている時は、口元が小さく上がる。
寡黙で、あまり感情を表に出すことがなく、どこか近寄り難さを感じさせる教師だ。
それは他の生徒も同じで、あまり彼には寄り付かない。
そんな担任の、小さな癖を見つけた時に、自分は少し彼の事が好きになった。
今日の欠席者はいない。
きっと、誰にも分からない様な微かな笑みを浮かべるのだろう。
そう、教師の顔を見ていると、彼の視線とぶつかる。
わずかに、それも注視していなければ見逃してしまう程に小さく、担任は瞠目した。
「北郷、先生に着いてきなさい。」
そう厳かに告げると、出席簿を手に取り再び扉を開いた。
腑に落ちないままに後へと続くと、狭い部屋へと連れて行かれた。
所謂、生徒指導室である。主に、問題を起こした学生などが教師との話し合いを行うために設けられた部屋だ。
ただ、自分が何故、連れてこられたかまでは分からなかった。
「そこに座って、少し待っていなさい。」
それだけを言い残し、彼は去って行った。
まだ、真新しいパイプ椅子に腰掛ける。
机、椅子、置かれた棚に至るまで、室内はグレーに染められていた。
何処までも機械的で、事務的な色合い。そこに、人の温かみは欠片もない。
―こんな部屋で、思いを吐き出す生徒などいるのだろうか。
無機質な室内から目を背けて、視線を窓へと向ける。
鈍色の雲が、空を覆っていた。
暫くして、教師は戻ってきた。
椅子には座らず、立ったままに言う。
「とにかく、無事で良かった。話は後で聞くから、今日はもう寮へと戻りなさい。連絡をしたから、親御さんも迎えに来るだろう。」
荷物は及川にでも届けさせるから気にせずとも良い。
そう言い残して彼は部屋を後にする。
何が何だか分からないまま、俺は一人寮へと帰ることとなった。
誰もいない寮は静かだった。
自分の足音が大きく響く。その度にコンクリートの感触が、靴の裏へと返ってくる。
固く、ただ平らなだけの道。
そこを、一歩、また一歩と踏みしめる度に、乾いた大地や、整然と並びながらもどこか温かみを感じさせる石畳、雨や土の匂い、
そうした感触が、彼女たちとの記憶が塗り潰されていくようで、どんどん足取りは重くなっていった。
正午を少し回った頃。
叩かれた扉を開くと、そこには、もう見ることは叶わないだろうと思っていた母の顔があった。
そのまま連れられて新幹線、船へと乗り継ぎ、空が茜色に染まる頃には、故郷、鹿児島の土を踏んでいた。
懐かしい我が家の敷居を跨ぎ居間へと進む。
室内には、父、祖父に祖母、そして隣の母親と、家族全員が揃っていた。
行方不明。
三日ほど消息を絶っていたと聞かされ、ようやくの理解をした。
級友たちのよそよそしい態度や、教師の動き、半ば強制的に実家へと連れ帰った母。
「何をしていんだ?」
重苦しく放たれた父の言葉に、俺は答えることが出来なかった。
長い沈黙の後、父は諦めたのかのような溜息をつく。
「無事だったんなら、それで良い。お前が話したくないと言うなら、もう聞かん。こんなことは二度とするな。」
そう言い残し仕事へと戻って行った。
俺は頭を下げたまま父を見送る。
俺の無事を聞き、途中で会社から抜けてきたそうだ。
「一刀、道場へと来い。」
齢八十に差し掛かろうかという祖父は、その年齢を感じさせない、巌が揺れたかなのように低い声音で言う。
そして、本来なら、曲っていてもおかしくないほど、長い間祖父を支え続けた背筋をぴんと伸ばし、部屋を出て行った。
言いつけを守り道場へと赴く。
祖父は、姿勢を正し、道場の中心で精神の統一を図っていた。
この静かで、張り詰めた空気が自分は好きだった。
体の、隅々まで神経がゆき渡り、感覚が研ぎ澄まされていく。
「来たか。」
低く発せられた祖父の言葉が、道場に響く。
立ち上がった彼の手には二本の木刀が握られていた。
そして、そのうち一本を投げて寄越す。
「構えろ。」
正面には既に正眼の構えを取る祖父がいる。
俺は、剣先を対峙する男の胸へと合わせた。
「そんな顔も出来るようになったか……。」
重心を一切ずらさずに祖父は言う。
その言葉に答える余裕も、俺には無い。
―出鱈目に強い。
そんな印象を、長年、俺は祖父に抱いていた。
今なら分かる。
自国の戦を、その身と、命を賭して支え続けた名も無き兵卒と互角に渡り合うだけの力を、彼は持っている。
将軍には届かないものの、歴戦の勇者と呼ぶ相応しい、風格と、実力を備えた先兵たちを思い返す。
気を抜けば、やられる。
俺の実力は彼らに、一歩も、二歩も及ばないのだ。
俺の思考はそこで途切れた。
「集中しろ。いくぞ。」
男の口から、低く言葉が零れる。
― 瞬間
鋭い斬撃が、袈裟がけに肩口を襲う。
呻き声を上げながら、木刀を合わせる。
甲高い音が響く。金属同士を打ち合わせたような音。
ずしり、と体が沈む。
重い。
そのまま、じりじりと男は間合いを詰めてくる。
それに合わせ、大きく一歩を踏み出して、相手の姿勢を崩そうと動くも、
男は静かに身を引く。
―誘われた
木刀の支えが消え、前のめりになる。
そこへ、横薙ぎに木刀が振るわれた。
「くそっ!」
崩れた体勢に任せ、そのまま右前方へと身を投げる。
背中が熱くなった。
避け切れず僅かに掠めたらしい。
じんじんと痛むが動けない程ではない。
再び対峙する祖父の顔は何処か不機嫌そうであった。
「打ち込んでこい。」
泰然と構えた儘、男は口を開いた。
それに誘われるまま、木刀を振りかぶる。
渾身の力を込め、振るわれた木刀はいとも容易く受け止められる。
「もう、良い。」
ぽつりと祖父は言葉を漏らした。
「え?」
既に祖父からの気勢は感じられない。
俺は剣を引いた。
ふん、と小さく鼻を鳴らすと、
「あんな動きも、太刀筋も、俺は教えた覚えはない。」
そう、言い残して、祖父は立ち去っていった。
何だったのだ、一体。
夕食を終え、自室で祖父との立ち合いを思い返すも何を目的としたのか、てんで想像がつかない。
ただ、教えた覚えはない、との言葉だけが強く心に残った。
「一刀、開けろ。」
考え事をしていると、丁度、渦中の人物の声が扉の外から聞こえた。
ガラス戸を開ければ、片手に酒瓶を、残された手には二つのグラスを持って祖父が室内へと入る。
部屋の中心にある卓袱台に、俺と祖父は向かい合って座った。
手元の酒の入ったコップを一つを此方に押し出すと、自分は手酌でグラスへと酒を注いでいく。
「まだ、未成年なんだけど……。」
やんわりと断りを入れるのだが、
「俺と、お前しかおらん。気にするな。」
そう、一言返すと、祖父は口を噤んだ。
仕方なく、グラスの中の液体をちびりと嘗める。
米の、仄かな甘みが口中に広がり、体の底から熱を帯びる。
度数は高く感じられるものの、口当たりは良く、上品な味わいであった。
高い酒だと分かる。
そんな酒を、祖父は一息に呷った。
卓に置かれた酒瓶を手に取る。
祖父はそれを黙って受けた。
そのまま、重苦しい雰囲気の中、二人で飲む。
道場のことがある俺は、気不味さからグラスを空ける速度が徐々に速まっていった。
不意に、祖父が口を開く。
「お前が、この三日間、何をしていたかは聞くつもりはない。」
コップを乾かし、右手をこちらへと突き出す。そこに俺は酒を注いだ。
「さっきも言ったが、あんな動きも、剣筋も、俺が教えた覚えのないものだ。」
グラスを傾け、祖父は口を湿らせる。
「剣術の基礎を無視するような飛び込みは、早々身につくようなものではない。」
あれは、命のやり取りで出来るようなものだ。一太刀貰っても大事にはならん道場剣術で得るような動きじゃあ、ない。
苦々しい顔で言葉を続けた。
「お前の打ち込みも、見た目以上に重かった。気持ちの、気迫の乗った良い一撃だった。」
教えたものとは、違うのが腹立たしいが。ふん、と祖父は鼻を鳴らす。
「お前は、小手先を使うのが上手かった。だけど、それじゃあ本物には勝てん。剣術とは、相手と対峙する前に、己と向きあってこそ真価を発揮するもの。」
それを、お前は出来ていなかった。形だけ倣っても、そこに道はない。
目を閉じて、重々しく言葉にした。
「だが、それを今日、お前はやってのけた。」
酷く、不格好だったがな。
半ば、我流と言っていい俺の剣は祖父の気には召さなかったのか、やけに毒を利かせる。
「何がお前を変えたかは、さっきも言った通り詮索はしない。だが……、」
少し言い淀むと、祖父はグラスの酒を一気に流し込んだ。
「強くなったな。」
ぶっきらぼうに、言い捨てる。
それが、不器用で、気難しいこの祖父の、最大限の賛辞であると知った俺は耳を疑った。
祖父に褒められたことなど、数える程にしかなかった。
それもまだ、四つ、五つの頃の話である。
小学校に上がる頃には、今の、厳格で、近寄り難い祖父となっていた。
「あの人も、孫にはもう少し甘くしてやってもいいのにねぇ。」
一日中、一刀の話をしてばかりなのに。
そう、困ったような、それでいてどこか温かな笑みを浮かべながら祖母が言っていたのを思い出す。
その時だ。祖父が不器用な人だと知ったのは。
出来れば、俺の剣でここまで育ててやりたがったんだがな……
小さく、寂しそうに呟いた言葉を、俺は聞こえないふりをした。
それからの時間は静かに過ぎて行った。
先程までの重苦しさは、もう無い。
互いに手酌を繰り返しながら、酒瓶を軽くしてゆく。
「酒まで強くなりやがって……。」
悔しそうに顔を歪ませ、卓へとその身を預けた祖父は、静に寝息を立て始めた。
あっちにも、飲兵衛はいたからな。
苦笑いを浮かべ、祖父の体を背負う。
思ったよりも小さく、軽い祖父に僅かな寂しさを覚えた。
―この人に、敵う日は来るのだろうか……。
自分の剣が届く頃には、もう、祖父は剣を握れないのではないか。そんな危機感を持つ。
人は老い、死んでゆくものだ。
彼女たちと過ごした時間で、嫌というほどに思い知った。
祖父もいずれ、土に還る。残された時間は余りにも短かった。
離れへと向かい、縁側を歩く。
ひんやりとした空気が、熱を持った体に心地よい。
庭では虫たちが鳴き、楽しそうに騒いでいる。
月見でもしているのだろう。
高く、澄んだ夜空には、新円の月が柔らかな明かりを落としている。
いつか、君たちの横にも立てるのかな。
精一杯、その瞬間瞬間を生きれば、あるいは―
次に会う時には驚いて貰おう。
何時の時も変わらない月に、そっと微笑みかける。
優しく吹きかけた風が、早く帰って来なさい、と、そう答えたように思え、俺は苦笑いを作った。
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今回はアダルティーで渋いお話に挑戦してみました。
自分で書いといてあれですが、私はこんな感じの
あっさり風味のお話が大好きです。
少しでも、表現したいものが皆さんに伝わってくれれば
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