『シスター』
序『いつも通りの』
僕が八歳の時、妹が生まれた。
その数日後、母さんが亡くなった。
こいつのせいで母さんが死んだんだ。
そんな風に妹を恨んだこともあった。
そのせいで、僕はしばらく妹につらくあたっていた。今思えば、それが僕の人生で最大の過ちだった。
僕が十七歳の時、父さんが過労で倒れ、そのまま亡くなった。
父さんは子供が金の心配をするな、と言って僕に絶対バイトをさせなかった。
僕もそれに甘え、父さんを追い込んでしまった。それが、僕の人生で最大の後悔。
父さんが死んだ後、僕は高校を中退して働き始めた。
あれから五年。
僕、篠村真治、二十三歳。
妹、篠村千佳、十五歳。
たった二人だけの家族。
千佳が大学を出て、独り立ちするそのときまで支え続けること。
それが僕の使命だと信じて生きてきた。
不思議と青春をふいにしたことへの悔いはなかった。
もともと何かしたいことがあったわけでもない。
むしろ、自分以外の誰かのために生きることが心地いいとさえ思えた。
僕たちのために死ぬまで働き続けた父さんも、こんな気持ちだったのかもしれない。
生活は決して豊かではないけれど、僕は自分のことを不幸だとは思わない。
千佳がどう思っているかはわからないけど、同じ気持ちだったらうれしい。
これからも兄妹二人でうまくやっていけるだろうと、そう信じていた。
一ヶ月ほど前から、奇妙な事件が話題になっていた。
体が少しずつ他人のように変化していくという、信じられない事件。
朝起きたら髪が変色していたり、伸びていたり、逆に短くなっていた人。
目の色が外国人のように青くなっていた人。
背が伸びたり、縮んだりした人。
変化の仕方は様々だったが、最終的には誰しも別人のようになってしまうという話だった。
その変化の様子を追っていく番組もできた。
お世辞にも細いとも美しいとは言えない女性が、少しずつモデルのような体型になって、女優のような顔立ちに変わっていく様はとても奇妙で、千佳と二人で笑いながら見ていたのを覚えている。
でも番組開始から五日後、僕たちの笑顔は凍りついた。
人形のようにかわいらしく変化した女性は、カメラに向かってポーズをとったり、投げキッスをしてみせたり、その美貌を視聴者に存分に披露していた。
でも彼女がカメラに向かってブイサインをしたその時、その手が、腕が、粉砂糖のように崩れた。
何が起こったかわからないという顔で、彼女はカメラと自分の無くなった腕を交互に見ていた。
次に左腕が肩から落ちた。
悲鳴があがった。
映像が、カメラマンの動揺を代弁するかのように左右にぶれた。
それから数秒後、彼女は完全に崩れて消えてしまった。
CGか何かだろう、視聴者を驚かせるための演出だろう、そう思った。
だけど崩れていく彼女の歪んだ表情や、感情をむき出しにした悲鳴が凄くリアルで、どうにも落ち着かなかった。
そしてその翌日のニュースで、僕はあの映像が真実であったと、信じざるを得なくなった。
消えたのは彼女一人じゃなかった。
体が別人のように変化して、完全に変化した五日後、崩れて消えてしまう。
その奇病は多くの人間の背筋をゾッとさせた。
けれど、数日後に発表された奇病の原因を聞いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
遺伝子治療の副作用。
それが原因だった。
確か千佳が生まれたくらいに流行り出した治療法で、遺伝子自体に手を入れることでどんな病気も治してしまうという、なんとも胡散臭い治療法だった。
でも実際に効果はあるようで、病弱な人が全くの健康体になったとか、視力が回復したとか、脳に異常がある人が他の健常な人と遜色ないほど回復したとか。
どこまで本当かは知らないけれど、確かな治療法ではあるようだった。
その治療法によっていじった遺伝子が、何らかの原因で異常をきたし、まったく別の状態へ変異していく。
そしてどんどん変異していった結果、人の形を保てなくなって崩れて消ええてしまう。
それが副作用の全容らしかった。
学のない僕にはあまり理解できなかったが、それ以上詳しく知ろうとは思わなかった。
僕と千佳は、遺伝子治療なんて受けていなかったから。
これから消えるかもしれない人のことも、変化の恐怖に怯える人も、全ては他人事だった。
関係ないと、そう思っていた。
その日は、いつも通りの朝になるはずだった。
千佳よりも三十分はやく起きて、顔を洗って朝食の準備をする。
準備が終わったら、千佳が起きてくるまでコーヒーを飲みながら新聞を読む。
コーヒーを半分ほど飲んだ頃に、騒々しく階段を駆け下りて、
「おはよう!」
と千佳が元気よくリビングに入ってくるだろう。
一緒に朝食をとって、千佳の嫌いな牛乳を飲ませて、寝癖が残ってないかチェックしてやって、学校へと送り出す。
そうなるはずだった。
でもその日は、どれだけ待っても千佳は一階へと降りてこなかった。
コーヒーを飲み終えてしまった僕は、このままでは学校に遅刻してしまうだらしない妹を起こすために二階へとあがった。
千佳の部屋の扉を軽くノックして声をかける。
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
返事がなかったから、もう一度ノックをした。
「千佳?」
ドアノブに手をかける。
以前、同じようにいつまでも下に降りてこない千佳を起こすために部屋に入ったことがあったが、過去覚えがないほどへそを曲げられた。
難しい年頃らしい。
許せよ。
心の中でそう呟いて、ドアノブを回した。
部屋に入ると、千佳は掛け布団を頭からかぶって、ベッドの上にうずくまるように座っていた。
すでに起きているみたいだった。
「おい、起きているならさっさと……」
千佳の普通じゃない空気に気付き、言葉をとめる。
千佳は、泣いていた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
弱々しく首を振って、小さく、口を開いた。
「どうしよう……お兄ちゃん……私……」
「おい、大丈夫か?」
小刻みに震える千佳の肩に触れたとき、気付いた。
肩から胸のラインに沿ってしなやかに流れる千佳の綺麗な髪。
「お兄ちゃん……私死んじゃうよ……っ!」
潤んだ瞳で、僕を見上げた。
掛け布団がほどけるように、するりと落ちる。
千佳の自慢の黒髪は、鮮やかな金髪に変色していた。
「うそ……だろ……」
妹が消えるまで、
あと、五日。
一『当たり前のことを』
千佳が朝食をとっている間、僕は父さんの部屋で探し物をしていた。
確か父さんは千佳の成長記録のようなものをつけていた。
父さんが亡くなるまで、ずっと。
千佳が結婚したときに渡して、お前もこんな風に自分の子供を見守っていけと言ってやるんだ、と酔っ払った父さんがもらしたのをかすかに覚えている。
片親でずっと寂しい思いをさせていることに罪悪感を感じていた父さんの、精一杯の愛情表現だったのだと思う。
だから父さんが渡すつもりだったその時がくるまで僕も中を覗くようなことはしまいと、そう思っていた。
でも、僕はその禁を破る。
父さんの机の引き出しの奥に仕舞われていたノートを取り出す。
ごめん、父さん。
最初のページから順にめくっていく。
今日初めて喋った、立った。
寡黙だった父さんからは想像できないような感情豊かな文章で、そんなことがページ一杯に書かれていた。
気になる文を見つけて、僕はページをめくる手を止めた。
千佳が五歳の頃の記録だった。
『千佳のアトピーがひどい。皮膚科に何度も通っているが回復の兆しすら見えない。千佳は女の子だからなんとしても治してあげたい』
そのまま読み進めていく。
『医者に遺伝子治療を進められた。金銭的な問題もあるが、あのような得体のしれない治療を千佳にさせていいものか。悩む』
『結局、遺伝子治療を千佳に受けさせることにした。体に負担はかからないから安心だと言った医者の言葉を信じる。これで千佳のアトピーが治る事を祈る』
そこで、ノートを閉じた。
そういえば、幼い頃の千佳は皮膚がボロボロでひどい状態だった。
でもある日を境に嘘のようにそれが治っていた。
受けていたんだ。
千佳は遺伝子治療を受けていたんだ。
「父さん……」
ノートを元にあった場所にもどして、机の引き出しを乱暴に閉じた。
「千佳が死んじゃうよ……」
居間に戻ると、千佳は椅子に座って、テーブルの上に置かれた食事をじっと見つめていた。
食事には全く手をつけていないようだった。
「食べないのか?」
「うん……」
目玉焼きの黄身をぐちゃぐちゃに潰して、箸を置いた。
「食欲ない」
「そうか」
食器を下げて、流し台に置く。
「スープでも作ってやろうか?」
「いらない」
「じゃあ牛乳だけでも飲んでおけ」
食器棚からガラス製のコップを取り出した。
「いい」
「野菜ジュースは?」
「……飲む」
冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップになみなみと注ぎ、千佳の目の前に置いた。
千佳はコップを手にとって、ゆっくりとジュースを飲み干していく。
僕は千佳の正面に座って、その様子を眺めていた。
なんて言葉をかけていいか、わからなかった。
「うまい?」
「黄色のジュースの方がおいしかった」
「そっか。次からそうする」
飲み終わったコップを机において、千佳は俯いた。
底にドロリとしたジュースがたまったコップをとって、立ち上がる。
流し台まで運んで蛇口を捻ったが、すぐに水を止めた。
洗い物をする気にはなれなかった。
少しだけぬれた手をタオルで拭って、再び椅子に腰かける。
「とりあえず、病院にいこう」
僕の言葉に、千佳が顔を上げる。
「病院?」
「ちゃんと検査してもらって、治療してもらおう」
「……うん」
また、俯いてしまった。
「行きたくないか?」
「……うん」
「どうして」
「どうしても」
手を伸ばして、下を向く千佳の頭を優しく撫でた。
「行くだけ、行ってみようよ」
しばらくの沈黙の後、千佳はゆっくりと立ち上がった。
「着替えてくる」
そして、おぼつかない足取りで二階へと上がっていった。
ニュースでもワイドショーでも新聞でも、治療法が見つかったなんて話は聞かなかった。
病院にいってもなんにもならないかもしれない。
でも何もしないことだけは、耐えられなかった。
十分ほどして千佳は一階へと降りてきた。
髪の毛を隠すようにニット帽を深くかぶっていた。
「いこうか」
「うん……」
渋る千佳を半ば無理やり車に乗せて、僕はエンジンをかけた。
助手席に座る千佳は終始無言で、ぼうっと外の景色を眺めていた。
僕も、口を開かなかった。
いつもはお喋りな千佳が僕に話しかけて、僕がそれに答えて、そうやって僕たちのコミュニケーションは成立していた。
だから黙り込む千佳を目の前にして、情けないことに僕は何を話せばいいのかわからなかった。
慰めればいいのか、励ませばいいのか、普段どおりに話せばいいのか。
それすらもわからず、ただただ、運転に集中しているふりをすることしかできなかった。
病院についてエントランスをくぐると、待合室は老人達でごったがえしていた。
あまり病院にはお世話になったことがなかったから、平日の午前中にこうも人が多いのか、と少し驚いた。
そしてその人ごみが、どうしようもなく煩わしかった。
受付を済ませ、二人並んで長いすに座った。
やっぱり千佳は、何も喋ろうとはしなかった。
千佳が今どんな気持ちなのか、どれほど不安なのか、推し量ることしか僕にはできない。
どんな言葉をかけて欲しいのか、どんな態度で接して欲しいのか、どれだけ考えても答えはでなかった。
随分と長い時間、そうしていた。
ようやく千佳の名前が呼ばれて立ち上がろうとすると、千佳が僕を制した。
「一人でいってくるから。お兄ちゃんはここで待ってて」
そう言って、僕の返事も待たず千佳は診察室へ入っていった。
そして驚くほどの早さで、千佳は僕のもとへ戻ってきた。
「おい、ちゃんと検査してもらえたのか?」
僕のその問いに答えず、千佳は震える唇でなんとか言葉をつむいだ。
「ダメだった」
このときの千佳の表情を、僕は一生忘れないと思う。
目にうっすらと涙をためて、絶望とか恐怖とか不安とか、そういうものを全部必死に押し殺して、精一杯笑顔を作っていた。
僕は千佳が病院に来たくなかった理由を、ここでようやく気がつくことができた。
「帰ろうか」
「うん」
会計を済ませて、病院を出た。
千佳は自分から助手席に乗った。
僕も車に乗り込んで、エンジンをかけた。
動き出した車の中で、千佳はニット帽をさらに深くかぶって目を隠し、唇を強くかみしめていた。
僕は、千佳に死刑宣告を聞かせてしまったんだ。
自然とアクセルペダルを踏む足に力が入った。
なんとかしなければ。
じっとしていられない。
そんなエゴで千佳を傷つけた。
お前は絶対死ぬんだぞ助からないんだぞって、そんなことわざわざ聞かせなくてもよかったんだ……よかったんだ!
僕は……なんて馬鹿な兄貴なんだ。
家に戻ると、疲れたからと千佳はすぐに自室へ引き篭もってしまった。
昼時を過ぎても、千佳は部屋から出てこなかった。
今更ではあったが、千佳の学校に連絡をしていないことに気付き、今日は休むと連絡を入れた。
千佳の部屋のドアを叩き、何か食べにいかないかと声をかけたが、返事はもらえなかった。
僕は冷蔵庫に入っているヨーグルトを口の中に流し込んで、家を出た。
つい先ほど車で通った道を、今度は歩いて進んだ。
あの狭い車内にたった一人でいたらやけを起こしてしまいそうで、それがひどく怖かった。
病院の待合室は、午前中よりも幾分か空いている様に見えた。
それでも混雑していることにはかわらず、隣の女性が読んでいる雑誌を横目で見ながら、自分の名前が呼ばれるのをじっと待っていた。
その女性が席を立ってから数分後に僕の名前も呼ばれ、千佳が入ったと同じ診察室に通された。
中には柔和な笑みを浮かべた中年の看護師と、目つきの悪い若い医師がいた。
「遺伝子治療の副作用なんですが……」
医師の目の前に腰掛け口を開くと、僕の言葉を終わるのを待たずに医師が溜息をついた。
「最近多いんだよね。その話。でも私たちではなんともできんのですよ」
さも面倒そうに顔をしかめながら、医師は続けた。
「こんな話してもわからないかもしれないけどね。遺伝子がもの凄いスピードで変異していってるわけですよ。時間があればもとに戻すこともできるでしょうが、たった五日じゃ無理ですわ」
僕から机に体の向きを変えて、別の患者のカルテに何かを書き込む。
医師は事務的な口調を崩さなかった。
「まぁ、大人しく五日間有意義に過ごしてもらって、悔いが残らないようにしてください。としか言えませんわ」
気付けば僕は立ち上がって、強い目線で医者を見下ろしていた。
「な、なんです?」
「相談に来た人全員に、そう言ってるんですか?」
「はぁ、まぁそうですね」
「何様だよ」
再びカルテに視線をおとした医師の胸倉を掴んで、力づくで立ち上がらせた。
医師の背後に控えていた看護師が、小さく悲鳴をあげた。
「もとはと言えばあんたらのせいだろ! 悔いが残らないようにしてくださいだって? 何様だ!」
「な、なんだ君は!」
医師は狼狽し、離せと僕の腕を両手で強く掴んだ。
構わず、僕は右手にさらに力をこめた。
誰が呼んだのか診察室に大勢の看護師が入ってきて、僕を引き剥がしにかかった。
「無理ってなんだよ! 助けてくれよ! 治してくれよ! 妹はまだ十五なんだ! 頼むよ! 治してよ!」
わめき続ける僕を、看護師達が引きずって診察室から追い出した。
その後、僕はナースセンターに連れていかれた。
たくさんの看護師達に囲まれて、なだめられた。
ほとんどが冷たい視線だったが、いくつか混ざった同情の目が、逆に僕をつらくさせた。
落ち着きを取り戻した僕は看護師達に頭を下げて、病院を出た。
なんて惨めなんだろう。
千佳にどんな言葉をかけていいかもわからず、なにをしていいのかもわからず、自分の無能を棚にあげて感情的になり、医者に掴みかかった。
浅はかだ。
警察沙汰にはしないと言ってもらえたからよかったものの、そうではなかったら千佳にどんな思いをさせていたか。
暮れかかった日の光が眩しくて、目尻を拭った。
こんな兄貴だから、千佳も僕に頼れないのかもしれない。
あの医師が言ったように、千佳に有意義な時間を与えてやれるのか、僕には自信がなかった。
家に戻ると、その気配を感じたのか千佳が二階から降りてきた。
千佳の瞳は真っ赤に腫れあがっていた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、買い物」
口実のために購入したスーパーの袋を、軽く持ち上げて見せた。
何を買ったのかはもう覚えていない。
「お兄ちゃん」
台所へ行こうとした僕の背中を、千佳が呼び止めた。
振り向くと、照れくさそうに俯いて、上目遣いに僕を窺っていた。
「お腹すいた」
そういって、頬を染めながらはにかむ。
思わず僕にも笑みがこぼれた。
「どこか食べにいくか?」
僕の問いに少し迷ったそぶりをみせた後、答えた。
「お兄ちゃんの料理がいい」
「わかった。なにがいい?」
「えっと、どうしよう。あ、ハンバーグ。ハンバーグがいい」
「よしきた」
小走りで台所へと向かった。
千佳も僕についてきた。
冷蔵庫を開けて、食材を取り出していく。
ひき肉がなかったが、先ほどスーパーで購入していたことを思い出し、事なきを得た。
「お兄ちゃん、私も手伝う」
「それじゃあ、玉ねぎ。みじん切り」
「うん」
千佳と玉ねぎを渡して、僕は米を研ぎ始めた。
鼻をすすりながら、千佳は一生懸命に包丁を動かしていた。
「できた」
「よし」
炊飯器のスイッチを入れて、千佳の隣に並んだ。
若干荒かったが、構わずひき肉と卵、パン粉と一緒にボールに放り込み、調味料を振りかけた。
「私が混ぜていい?」
「いいよ」
千佳にボールを渡して、僕はスープ作りに取り掛かった。
じゃがいもとアスパラとにんじんを大きめにきざんで、水を張った鍋に入れる。
沸騰しかけたころに固形コンソメを入れて、かき回した。
味見をしながら千佳の様子を窺うと、まだひき肉をこねていた。
まるで粘土で遊ぶ子供のように、鼻歌を交えて楽しそうに。
その姿がなんだか、ひどく愛らしかった。
「もう大丈夫?」
「じゅうぶん。焼こうか」
「うん」
適当な量をとり、楕円を形どった。
両手で空気を抜いて、熱したフライパンの上にそれを並べていく。
「おいしそう」
うっとりした目で、千佳はパチパチと音を立てるフライパンを眺めていた。
程なくして焼きあがったハンバーグと、それを焼いている間に作ったサラダを皿に盛り付けて、沸騰させたスープを底の深い器によそって居間へと運んだ。
食卓に向かい合わせに座って、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
元気よく箸を手にとって、ハンバーグを口に運んで頬を膨らませながら咀嚼する。
「どう?」
「絶品!」
幸せそうに顔をほころばせた。
普通でいいようと無理をしているのがありありと感じられて、それが僕の胸を締めつけた。
「食べないの?」
「ん? 食べるよ?」
僕もハンバーグを口に入れた。
確かにおいしかった。
「お兄ちゃんのハンバーグはやっぱりおいしいね」
「また作るよ」
千佳に何をしてあげるのが一番なのか、やっぱり僕にはわからない。
結局、僕にはこうやって普段通りに振舞うことしかできない。
だからせめて、千佳にとっての当たり前のことをできる限りしてあげようと、心から思った。
妹が消えるまで、
後、四日。
二『撮らせてくれよ』
カーテンを開けると、外は憎たらしいほど晴れ渡っていた。
頭が重い。
どれだけ眠られただろうか。
疲れが全く取れていなかった。
一階に降りて洗面所に入り、鏡の前にたった。
目の下にひどいクマができていた。
冷たい水で顔を洗っても、頭にかかる靄を払うことはできなかった。
台所へ行き、朝食の準備をしようとしてふと気付く。
昨日の夕飯で使った皿を片付けていなかった。
時計を見ると、まだ千佳が起きてくるまでに十分な時間があった。
袖をまくって洗い物に取り掛かる。
二枚目の皿を洗い終えたとところで、背後から声をかけられた。
「おはよー!」
振り向くと、千佳がそこに立っていた。
寝癖で所々、髪の毛がはねている。
「ああ、おはよう」
僕の返事を待ってから、千佳はいつもの席についた。
千佳は学校の制服を着ていた。
「学校いくのか?」
「うん」
大きな欠伸をして、答えた。
千佳もあまり眠れなかったのかもしれない。
蛇口を捻って水を止め、トースターに食パンを二枚つっこんだ。
冷蔵庫から卵とレタス、ソーセージを取り出す。
「あんまり変わらないうちにみんなに挨拶しておこうと思って。今なら髪を染めたって言えばごまかせると思うから」
弱々しく笑う千佳の顔は、少しだけ肌が白くなっていた。
「そうか」
「それとなくね、お別れいいたいんだ」
僕の手の中でぐしゃりと卵がつぶれた。
「大丈夫?」
「ちょっと、力入れすぎた」
卵白でベタベタになった手を拭う。
「待ってろ。すぐ朝食つくるから」
「うん。お腹空いちゃった」
再度冷蔵庫をあけて、新しい卵を取り出す。
「あ、お兄ちゃん。ついでにジュースとって」
「ん」
紙パックを取り出して、千佳の目の前に置いた。
「これ、牛乳だよ」
「牛乳だな」
「ジュースがいい」
「一日一杯」
「もう」
「コップは自分で取れ」
「うん」
食器棚からコップを取り出して、そこに牛乳を注ぐ。
鼻を近づけて顔をしかめた後、嫌そうに一気に飲み干した。
その千佳の様子を見届けてからフライパンを火にかけて油を引き、卵をおとした。
あと何回、こうやって千佳のために食事をつくってあげられるだろう。
千佳はもう普段通りのように見える。
でもちょっとした仕草がどこかぎこちなかった。
無理をしている。
当然、僕も。
どうか、千佳のクラスメイトがいつも通り接してやってくれることを願ってやまない。
そうすれば、千佳も幾分か救われると思うから。
小皿を取り出してレタスを敷き、その上に目玉焼きとソーセージを乗せた。
もう一枚皿を出して、焼きあがったトーストを置く。
「運ぶの手伝え」
「うん」
食卓に四枚の皿が並ぶ。
いつの間に持ってきたのか、千佳の前にはオレンジジュースのペットボトルが置かれていた。
「いただきまーす」
トーストにイチゴジャムをたっぷり塗って、口いっぱいに頬張る。
おいしいそうに顔を緩ませた。
「今日は兄ちゃんも仕事いってくるからさ。家の鍵もっていくの忘れるなよ」
「うん。わかった」
昨日僕は、仕事を無断で休んでしまった。
携帯に何件も職場からの着信履歴が残っていたことに気付いたのが、夜の十一時だった。
そんな時間に電話をかけるわけにもいかず、結局まだ連絡はとっていない。
いくら気が動転していたとはいえ、随分と迷惑をかけてしまった。
「ごちそうさま」
僕がトーストを半分かじったあたりで、千佳は食事をすべて平らげてしまった。
食器を流しへ持っていき、居間を出て行った。
遠くから水の流れる音が聞こえる。
僕が食事を終えた頃、千佳は居間へと戻ってきた。
「もう行くのか?」
「うん。このくらい早く出れば電車も空いてると思うから。寝癖、大丈夫かな」
「ばっちり」
「よかった。あ、でも帽子かぶっちゃうから関係なかったかな」
ニット帽を手にとって、はにかんだ。
昨日と同じように顔が半分隠れるほど深く、帽子をかぶった。
「行ってくるね」
鞄を持って、玄関へと向かう。
「気をつけろよ。ハンカチ持ったか?」
「うん、もった。行ってきます」
「いってらっしゃい」
僕に手を振って、千佳は家を出た。
これが最後の見送りになるんだろうか。
嫌な考えを頭を振って追い出し、僕も身支度を整えた。
できるだけ早めに行ったほうがいいだろう。
しっかりと戸締りをして、玄関の扉を開けた。
徒歩で十分ほどすると見える小さな工場が、僕の職場だった。
今にもつぶれそうに見えるが、いくつか特許を取得しているためしばらくその心配はないらしい。
工場の前を通り過ぎて、隣にある事務所の中へと入る。
社長が一人、机に向かって書類と格闘していた。
扉を閉めると、その音に気付いた社長が顔を上げた。
「おお、真治くん!」
ボールペンを机の上に放り投げて、僕へと駆け寄る。
社長が立ち止まるのを待って、頭を下げた。
「あの、昨日はすみませんでした」
「いいよいいよ。それよりなんかあったのかい? 千佳ちゃん大丈夫?」
父の親友だった社長は、うちの家庭事情を少なからず知っている。
今まで僕が仕事を休んだときは必ず千佳が体調を崩したときだったから、昨日の無断欠勤は千佳に何かあったと察してくれたんだろう。
頭を上げると、少し僕より背の低い社長が、不安げに僕を見上げていた。
「もう心配で心配でねえ。電話も出ないし……事故とかじゃないよね? 入院とかしちゃったのかい?」
「いえ、事故とか……入院もしてないです」
「そうかそうか。よかったよかった」
父が亡くなってから、社長はよく僕達の世話を焼いてくれた。
千佳を自分の娘のように可愛がってくれていた。
そして、僕達が路頭に迷うことなく生活できているのも、社長が僕をここに拾ってくれたおかげだ。
この人に、千佳のことを話さないわけにはいかなかった。
「あの、社長」
「ん? なんだい?」
でも、なんて言えばいいのか、わからなかった。
「いえ……無茶を言っているのはわかってるんですが、すみませんが後五日……四日ほど休ませていただけないでしょうか」
「五日?」
社長の顔色が変わった。
「もしかして、千佳ちゃん……」
押し黙りうつむく僕を見て、社長は口をつぐんだ。その気遣いが、嬉しかった。
「そうか。千佳ちゃんがねえ……」
腕を組んで、大きな溜息をついた。
「うん。仕事のことは気にしなくていいから。ずっと千佳ちゃんの側にいてあげなさい」
「ありがとうございます」
もう一度深く、頭を下げた。
「ほんとに……理不尽だねえ。沢田くんも今日でやめちゃうし」
「沢田さんが?」
特別親しいというわけではなかったけれど、小さな職場だ。
顔を合わせば、よく立ち話なんかをしていた。
でも沢田さんがやめてしまうなんて話は初耳だった。
「どうしてやめるんですか?」
「それがね、うーん」
ちらりと僕の顔を見る。そこで、僕は理解した。
そうか、沢田さんも……
「とりあえず、仕事は大丈夫だからね。今日はもう帰りなさい」
「いえ、今日は千佳は学校いってるんで、仕事していきます」
「ダメダメ。そんなことしてる場合じゃないでしょう。帰りなさい」
「……はい」
押し切られる形で、僕は事務所を後にした。
扉が閉まる間際、三度頭を垂れた。
千佳に、沢田さん。
あのわけのわからない病は、確実に僕の周りを蝕んでいた。
この憤りをどこにぶつけていいのかわからず、ポケットの中で強く、拳を握り締めた。
「あ、篠村くんじゃない」
振り向くと、見知らぬ女性が僕に手を振っていた。
「無断欠勤なんて勇気あるよね。社長オロオロしてたわよ。面白かったんだから」
じっくりと声を聞いて、気付いた。
聞き覚えがあった。
「沢田さん?」
「あ、ごめん。わからなかった?」
にこやかに微笑んだその顔には、僕の知っている沢田さんの面影は全く残っていなかった。
「どう? 結構、美人になったと思うんだけど」
腰をくねらせて、不自然なほど整ったボディラインを強調した。
無理を、しているんだと思う。
明るい人ではあったけど、こんなことをするような人ではなかった。
「何日目ですか?」
「え?」
唐突に投げかけられた僕の質問に、沢田さんは目を丸くした。
「変わって、何日目ですが?」
沢田さんはしばらく地面に視線を落とした後、躊躇いがちに口を開いた。
「四日……かな」
「そう、ですか」
予想はしていたけれど、とても受け止め切れなかった。
「そんな顔しないでよ。私も気が滅入っちゃう」
「今日でやめるって聞きました」
「うん。今日中に仕事を片付けられるだけ片付けちゃって、明日は家でゆっくりするつもり。いつ消えるかわからないから」
「そう……ですか」
「家族にはなんて言ったらいいかわからないから知らせてないし、彼氏もいないから寂しいもんよね」
頭を掻きながら、笑って見せた。
その姿がなんだか痛々しくて、思わず僕は目を伏せてしまった。
「篠村くん、もう帰っちゃうの?」
「はい……しばらく仕事を休むんです」
「そうなんだ。じゃあこれでお別れだね」
「はい……」
俯く僕の額を、沢田さんが軽くこづいた。
「笑ってよ。最後なんだからさ」
「すみません」
精一杯、笑顔を作った。
でもたぶん、ひきつっていたと思う。
「うん。まあいっか。じゃあ、ね」
「……はい。それじゃあ」
沢田さんは僕に手を振って、事務所へと入っていった。
こんな最後でよかったんだろうか。
もっと何かできたのなら……でも、沢田さんに不安を取りのぞけるほどの言葉も余裕も、今の僕にはなかった。
家に戻って、居間のソファに寝そべった。
千佳がしっかりと授業を受けてくるのなら、帰ってくるまでまだ六時間ほどある。
それまでどうしてろっていうのか。
本心を言えば、仕事で気を紛らわしたかった。
体を起こしてテレビをつけた。
普段こんな時間にテレビを見ることはないから、しばらくは新鮮な気持ちで見ていられたけれど、一時間ももたなかった。
テレビを消して、またソファに身を投げ出す。
一人は、たまらない。
目を瞑って、千佳のことを考えた。
学校の友達とちゃんと話せているだろうか。
友達は千佳を避けずにちゃんと受け止めてくれているだろうか。
笑っているだろうか、なにか困っていないだろうか。
情けない願いだと思う。
でもどうか、何もできない僕の代わりに千佳の心の隙間を少しでも埋めてあげて欲しいと。
切に、そう願う。
目を開けると、部屋が薄暗くなっていた。
窓から夕日の淡い光が差し込んでいる。
視線を彷徨わせてなんとか時計を視野におさめる。
もう五時をまわっていた。
いつの間にか眠ってしまったみたいだった。
体を起こすと、毛布がふわりと床に落ちた。
「あ、起きた?」
台所から千佳が顔を出す。
「帰ってたのか」
「うん」
ジュースの入ったコップを持って、ソファの空いた部分に腰かける。
「学校、どうだった?」
「……うん」
コップに口をつけて、こくりと喉を鳴らす。
「学校、行かなかった」
テーブルにコップを置いて、バツが悪そうに笑った。
「すぐ近くまで行ったんだけど、急に怖くなって行けなかった」
「そっか。今までどうしてたんだ?」
「漫画喫茶で漫画読んだりしてた」
「すぐ帰ってくればよかったのに」
「……うん」
千佳がそうできなかった理由なんてわかりきっているのに、そんなことを口にした。
万が一僕が早く家に帰って来たときのことを考えて、心配かけまいと学校が終わる時間まで暇を潰していたんだろう。
でも嘘がつける性格ではないから、正直に話してしまったんだ。
「お兄ちゃんはどうしたの?」
今度は千佳が僕に質問をした。
「仕事さ、しばらく休むことにした」
「……そうなんだ」
「明日も仕事にはいかない。千佳はどうする? 学校に行くか?」
千佳はジュースを飲みながらしばらく考えた後、呟くように言った。
「友達には手紙書くよ。やっぱり、ちょっと怖い」
「そうか、じゃあうちにいろ」
「うん」
ぎこちなくはにかむ千佳の顔を見つめる。
千佳も沢田さんのように、あと何日もしないうちに別人になってしまうんだろうか。
「どうしたの?」
「いや、別に」
たぶん、なってしまうんだろう。
治してあげることは、僕には出来ない。
じゃあ何ができるのか。
「あ、そうだ」
「なに?」
いいことを思いついた。
「ちょっと待ってろ」
居間を出て、階段を駆け上がった。
自分の部屋に入って、机の一番上の引き出しを開ける。
たしかこの中に……あった。
千佳の高校の入学式の時に買ったばかりのデジカメを持って、居間へと戻った。
「そのままじっとしてろ。写真とろう」
「写真? いいよそんなの」
飲みかけのジュースを置き去りにして、千佳は台所へと逃げ出した。
千佳はあまり写真を撮られる事が好きじゃない。
だから千佳が写った写真はあまり家に残っていなかった。
「いいから、座れ」
「でも……」
台所から顔を半分だけ出して、小動物のような目で僕を見つめる。
「座れって」
「……」
「撮らせてくれよ」
「……うん」
観念したのか、僕が指定した場所に腰かける。
そして、カメラに向かって柔らかく微笑んだ。
母さんに、よく似ていた。
「こんな感じでいい?」
「ばっちり」
何度もカメラのシャッターを切った。
その度に、千佳は恥ずかしそうに頬を染めた。
せめて、千佳が千佳がなくなってしまうその前に、この愛らしい姿を一枚でも多く残して置いてやりたかった。
妹が消えるまで、
後、三日。
三『せめて消えるまで』
目を覚ますと、やけに部屋の中が明るかった。
ベッドの傍らに置かれた時計に目を向ける。
「しまった」
随分と寝坊してしまった。
一分一秒が惜しい時だっていうのに、なんて間抜け。
急いで寝巻きを脱ぎ捨てて、箪笥から適当にシャツを取り出して着替えた。
一階へと駆け下りて、顔を洗いながら千佳に声をかけた。
「ごめん寝坊した。朝飯どうした?」
返事はなかった。
「千佳?」
千佳の部屋の扉が少し開いていたから一階にいると思ったんだけれど。
タオルで顔を拭きながら、居間へと進む。
食卓の上にメモが置かれていた。
『少し出かけてくるね。夕方には帰ると思います。千佳』
出かけてくる……か。
ソファに腰かけて、なんとなしにメモを読み返す。
僕と違って、読みやすい綺麗な字だ。
母さんの字も、こんな風に綺麗だった。
『字にはその人の性格がでてくるんだよ。シンちゃんの字は元気がいいわね』
字が汚い僕を慰めるためか、よくそういってコロコロと笑っていた。
母さん、千佳は優しい子に育ったよ。
僕の胸に、じわじわと痛みが広がった。
千佳といられるのは、今日を含めてあと三日。
ぐるりと居間の中を見渡した。
今、家にいるのは僕一人。
千佳が友達の家に泊まりにいったり、部活帰りに遊んできて帰りが遅くなったり、一人だけの時間なんて今までにもしょっちゅうあった。
でも、今日はやけに寂しく感じた。
落ち着かなくて、家中を歩き回った。
父さんが遺してくれた家。
一人で住むには……広すぎるよ。
また居間に戻って、ソファにどっかりと腰をおろす。
溜息をつくと、ふと、沢田さんの顔が思い出された。
あの人も今、こうやって一人でいるんだろうか。
――笑ってよ。最後なんだからさ。
立ち上がって、チェストボードの上においてある財布をジーンズのポケットに突っ込んだ。
玄関に向かって自転車の鍵を手にとって、家を出た。
前に酔いつぶれた沢田さんを送っていったことがあるから、マンションの場所は知っている。
自転車にまたがって、勢いよく漕いでいく。
ゆっくりするつもりだと行っていたから家にはいると思う。
でも追い返されるかもしれない。
それでも、いいや。
行くだけいってみよう。
途中見かけた店で、ケーキをいくつか買った。
沢田さんの好みはわからなかったから適当に。
家を出てから大体十五分くらいで着くことができた。
小綺麗だけど、オートロックもついていないマンション。
確か、ニ一五号室だっただろうか。
郵便受けで名前を確認してから、階段を昇った。
沢田さんの部屋の扉の前で立ち止まって、インターホンのボタンに手を伸ばす。
最後の瞬間を邪魔してしまうんじゃないだろうか。
彼氏もいないと言っていたけど、それは本当だろうか。
急な弱気が僕を襲ったが、それらを振り切ってボタンを押した。
甲高い音が響くと同時に、部屋の中で物音がした。
はいはい、と部屋の中から沢田さんの声が聞こえて、扉が少しだけ開いた。
「どなたですかって、篠村くん?」
チェーン越しに顔を覗かせた沢田さんが、ぱちくりと目を瞬かせた。
「どうも」
軽く会釈する。
「ちょ、ちょっと待ってね」
扉が閉まり、チェーンを外す音が聞こえた。
その数秒後、今度は大きく扉が開かれた。
ようやく見えた沢田さんの全身はいつもの印象とは違って、いかにも部屋着といったよれよれのシャツを着て、真っ白なジャージのズボンを穿いていた。
「どうしたの? 急に」
「あ、いや」
沢田さんの当然といえば当然の問いに言葉を詰まらせる。
何も考えずにここまで来てしまった。
理由を強いて言うなら、会いたかったから。
そんなこと言えるわけなくて、僕は視線を空中でうろうろさせながら、なんとか口実を探した。
「あ、なに? その袋。もしかして差し入れ?」
いつまでたっても答えようとしない僕に業を煮やしたのか、沢田さんは話題を切り替えた。
「あ、はい。そこのケーキ屋で買ってきたんです」
「おー、気が利くじゃない。あがって。一緒に食べようよ」
一歩下がって、僕を部屋の中へ招き入れる。
「お邪魔します」
中央に小さなテーブルと、部屋の隅っこには畳まれた布団とダンボールがいくつか置かれていた。
たったそれだけ。
部屋の中は、女性の部屋とは思えないほど閑散としていた。
「ごめんね。座布団でも出してあげたいんだけど昨日のうちに家具片付けちゃったのよ。あ、お皿はあるよ。ちょっと待って」
僕を座らせて、沢田さんはダンボールの中身をあさりだした。
自分が消えた後のために……か。
一人で荷物を片付けていた沢田さんの気持ちを考えると居た堪れなくなって、僕は意味もなく頭をかきむしった。
「ごめん。フォークが見つからなかったから割り箸」
申し訳なさそうに笑いながら、割り箸を乗せた皿を二つ、テーブルの上に並べた。
「連絡くれたらちゃんと準備もできたんだけどな。ちゃんと服も着替えられたし」
怒ったような顔をして、テーブルを挟んで僕の向かい側に座った。
「すみません」
「冗談だって。さ、食べよっか。わお、四つもあるじゃない。二つずつ?」
「いえ、僕は一つでいいです」
「じゃあ三つ食べちゃうよ。好きなの選んでいい?」
「どうぞ」
「これと、これと……」
真剣な顔で、ケーキを選んでいる。
喜んでくれたみたいで、よかった。
「そういえばさ、社長に聞いたよ」
ケーキを取り出しながら、呟いた。
「篠村くんの妹さんも私と同じなんだってね」
僕とは視線を合わせず、沢田さんは続けた。
「今日来てくれたのは、私と妹さんを重ねて同情したから?」
「いえ……」
咄嗟に否定しようとして、また僕は言葉を詰まらせた。
「そう……かもしれません」
もし千佳に何事もなかったら。
たぶん僕はここには来なかったかもしれない。
大変だな、程度にしか思わなかったかもしれない。
「篠村くんは真面目だね」
沢田さん上目遣いで僕を見た後、すぐに視線を手元へと落とした。
「嘘ついてくれた方が、うれしいときもあるよ」
「すみません」
うつむき謝ると、沢田さんはクスクスと笑みをもらした。
「ほんと、真面目。冗談だってば。食べようか」
「……はい」
沢田さんは箸を手にとって、ケーキを大きく開けた口へと運ぶ。
「おいしっ。知ってた? ここのケーキ、結構評判なんだよ」
他愛もない話をしながらもう一口、頬張る。
「ほんとおいし……」
そして急に、うつむいてしまった。
その瞳に光るなにかがちらりと見えた。
明るく振舞っていても、この五日間、いろんなものに耐えながら過ごしてきたんだろう。
僕の無責任な言葉で沢田さんをひどく傷つけてしまった気がした。
目をこすりながらケーキを食べる沢田さんに僕は何も言えず、ただ黙々と、同じようにケーキを口へと運んだ。
「ごちそうさま」
僕がケーキを一つ平らげるのと同時に、沢田さんは三つ全て食べ終えた。
「ごめんね」
「いえ」
「誰かきてくれるなんて思ってなかったから……どんな理由でもうれしかった。ありがとう」
そう言って、いつも通りの笑顔を僕に見せた。
何か言おうと思った。
だけど昨日みたいに、結局なにも言葉は出てこなかった。
「それで、悪いんだけど……そろそろ帰ってもらっていいかな」
言いにくそうにして、沢田さんは目を伏せた。
「はい」
対応の変化に多少驚きながら、立ち上がる。
「もう、そろそろだと思うから」
その沢田さんの言葉に、僕の動きが止まる。
「消えるところなんて、見られたくないから」
ひどく喉が渇いた。
沢田さんが僕の背に手を置いて、玄関まで押しやっていく。
何か一言でも残せたら。
必死に考えた。
でも何も思いつかないまま、さっき来た時のように、僕と沢田さんは玄関の前で向かい合っていた。
「本当にありがとう」
「いえ」
「篠村くんもつらいと思うけど……できるだけ妹さんの側にいてあげてね」
「……はい」
「それじゃあ、ね」
ゆっくりと扉が閉まって、鍵のかかる音が聞こえた。
結局、僕は何をしにきたのか。
ポケットに手をつっこんで、階段を降りていく。
不用意な言葉で、沢田さんを泣かせた。
自転車にまたがって、力なくこぎだす。
でも、ありがとうって言ってもらえた。
それだけで、僕がここに来た意味はあったのかもしれない。
――誰かきてくれるなんて思ってなかったから
沢田さんの言葉が脳裏をよぎった。
――うれしかった。ありがとう。
自転車を反転させて、力強くペダルをこいだ。
このままでいいもんか。
せめて……せめて消えるまで……
自己満足と言われてもいいから……せめて!
自転車を捨てるように飛び降り、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
間に合って……どうか!
インターホンを押す。
でない。
もう一度押す。
でない!
開かないと承知で扉のノブに手をかけた。
でもあっさりと、それは回った。
扉を開き、そっと部屋の中へと入る。
沢田さんの姿は……もうそこにはなかった。
ケーキのクリームがこびり付いた皿が、テーブルの上にそのままになっている。
テーブルの脇に、沢田さんが着ていた衣服が落ちていた。
拾い上げる。
まだ、暖かい。
「消えちゃったんだ……」
僕の呟きが、むなしく部屋の壁に吸い込まれていった。
確かにあの時、沢田さんは部屋の鍵をかけていた。
どんな思いで消えていったんだろう。
どんな思いで鍵をあけたんだろう。
どんな思いで……僕が来るのを待っていたんだろう。
職場だけの付き合いだった。
特別に仲がいいわけでもなかった。
でも、最後まで一緒にいてあげられたのは僕だけだったのに……
「馬鹿だな……僕は」
拾い上げた衣服をハンガーにかけて、僕は主のいなくなった部屋を後にした。
玄関の扉を開けると、千佳の靴がだらしなく脱ぎ捨てられていた。
二足の靴をきちんと整えて家へあがり、居間を覗く。
千佳はテレビを見ていた。
「あ、おかえり」
僕に気付いて、振り向く。
ちらりと見えたその顔は、まぎれもなく千佳だった。
でもたまに千佳を通して感じる母の面影が、消えてしまったように思えた。
「ただいま」
そのまま居間を通り抜けて台所へ行き、手を洗う。
タオルで水滴を拭いながら、千佳に声をかけた。
「夕飯、何がいい?」
しばらく間をおいて、テレビの音と共に「からあげー」という声が聞こえてきた。
冷蔵庫の中身を確認する。
野菜はたくさんあったが、鶏肉は見当たらなかった。
「兄ちゃん、スーパーいってくる」
「あ、私も行く」
靴を履きながら行き先を告げると、千佳も慌しく玄関へとやってきた。
「なにか欲しいものあるなら、買ってきてやるぞ」
「ううん、私も行く」
「テレビ消したか?」
「うん」
てきぱきと靴を履いて、僕よりも先に家を出る。
靴紐を結んで、僕も後に続いた。
「お兄ちゃん、夕日が綺麗だよ」
「うん」
二人並んで歩く。
そういえばこんなこと、最近はなかったかもしれない。
「今日どこいってたんだ?」
見当はついていたけど、あえて聞いた。
「お父さんとお母さんのお墓に行ってきた」
前を見ながら、そう答えた。
千佳は何か嫌なことや、落ち込むことがあるとよく両親の墓参りに行く。
別にそこに二人がいないことはわかっている。
だけどそこにいけば、お父さんとお母さんが色々アドバイスしてくれるんだ。
そう、千佳は言っていた。
「父さんと母さんはなんて?」
「うん。しゃきっとしろって」
「そっか」
いかにも二人が言いそうなことだった。
千佳には母さんと過ごした思い出がない。
だけど母さんの言葉を本能的に理解しているようで、それが僕にはうれしかった。
「なに笑ってるの?」
「いや、なんでもない」
しゃきっとしろ、か。
消えゆく千佳に僕ができること。
沢田さんにはしてあげられなかったこと。
僕の精一杯の力で、叶えてあげなくちゃいけない。
「千佳」
「なに?」
「なんか欲しいものあるか?」
「欲しいもの?」
難しそうな顔をして、しばらくうなる。
「別にないかなあ」
「じゃあ、どこか行きたい所は?」
「うーん」
腕を組んで、またうなる。
「あ、あそこ行きたいな。なんとか池」
「それじゃわからないな」
「なんだっけなぁ。神……神様の……」
「神の子池か?」
「そうそれ! そこ行きたい!」
「随分マニアックなところついたな。いいよ、明日行こうか。たぶん車で二時間もあればつくだろ」
「ほんとに? やったー!」
今の僕に、唯一できること。
それは、千佳の望むものを与えてやること、幸せな想い出を作ってやること。
一つでも……一つでも多く。
僕にはもう、それしかできない。
妹が消えるまで、
後、二日。
四『神様なんて、いないだろ』
「ピクニック、ピクニック!」
「ヘイッ」
「ピクニックー、ピクニックー」
「イエアッ」
歌とも言えないような千佳のでたらめなリズムに、僕が合いの手を入れる。
「うれしいなーうれしいなー」
助手席に座ると千佳は、本当にうれしそうに笑いながら頭を左右に揺らしていた。
千佳の顔は……かろうじて面影を残してはいるものの、もう別人と言っていいほどに変わってしまっていた。
「あっ!」
突然あがった素っ頓狂な声に、思わずハンドルを取られる。
「どうした?」
「今キツネがいた!」
「キツネか。いいな、気付かなかった」
「可愛かったぁ……」
窓の外に流れる景色をうっとりと見つめる。
このいきばくかの千佳の影も……明日には消えてしまうんだろうか。
「キツネもいいけどさ。ちゃんとナビしてくれよ」
「だいじょうぶ。ずっとまっすぐだから」
父さんが遺してくれた時代遅れの車には、カーナビなんてものはついていない。
地図を広げながら千佳がここまでナビをしてくれているんだけど……
「あ、そろそろ左……右?」
「どっちだよ」
ずっとこんな調子だった。
予定ではもうとっくについているはずなのに。
「どっちかわかんないけどそろそろわき道が……あっ! あれだ! お兄ちゃんあそこ左!」
「よしきた」
「ここまっすぐ行ったらもうつくよ」
「わかった」
言われたとおり、ハンドルを左に切る。
すると唐突にアスファルトの路面が途切れ、想像以上の悪路に変わった。
ガタガタと車体が上下に揺れる。
オンボロカーには不安な道だった。
「うう、気持ち悪い。ゆれすぎだよ……」
「喋るな。舌噛むぞ」
その上クネクネと曲がりくねる。
運転している僕でさえ酔ってしまいそうだった。
胃のあたりからわきあがってくる気持ち悪さと戦いながら車を走らせていると、ようやく視界がひらけた。
車が何台か停められそうな広場があった。
たぶんここが駐車場でいいんだろう。
他に車の姿はない。
観光シーズンからは外れているし、こんな場所にはよっぽど気合いの入った観光客しかこないだろうから、当然と言えば当然かもしれない。
ラインすら引かれていないその場所に無造作に車を停めエンジンをきると、千佳が待っていましたと言わんばかりに勢いよく扉をあけて、外に飛び出した。
「ついた!」
僕も外に出て、天に向かってうんと背伸びをする。
「三時間のナビ、ごくろうさん」
「お兄ちゃんも運転ごくろうさん! いこうっ! はやく! この奥でしょ?」
「ああ、ちょっと待て」
僕の制止も聞かず、千佳は池の方へ走っていってしまった。
内心呆れ半分、でもうれしさも半分。
あんなに喜んでいる千佳をみるのは、久しぶりだった。
今日は、きてよかった。
車の後部座席から弁当と水筒の入ったリュックサックとピクニックシートを取り出して、千佳を追った。
千佳は池の手前で、茫然と立ち尽くしていた。
「キレイ……」
目の前には、言葉では表現できないような幻想的な空間が広がっていた。
「ほんとだ」
吸い込まれてしまいそうな、深い青と緑の水面。
凡庸な感想だけれども、これほど美しいものを僕は見たことがなかった。
決して大きな池ではない。
だけど見る人すべての魂をつかむような、そんな力があると思った。
「すごーい……すごーい!」
今にも飛んでしまいそうな足取りで、千佳は池の周りを走り回った。
ゆっくりと、僕もその後ろ姿を追う。
たまに立ち止まって、千佳は僕が追いつくのを待った。
「お兄ちゃん! 写真! 写真撮って!」
「お、おう」
嫌いな写真をせがむほど、千佳は感動してるみたいだった。
「よし、撮るぞ」
「あ、待って。どうせなら一緒に写ろうよ」
「ん、そうだな」
カメラを段差の上において、角度を調整する。
よし、これならしっかりと写りそうだ。
タイマーをセットして、段差を飛び降りた。
「はやくはやく!」
急かす千佳の隣に立って、同じようにブイサインを作る。
それと同時に、カメラから電子音が響いた。
「どう? ちゃんと撮れた?」
「ほら、うまく撮れてる」
千佳にカメラを渡す。
「ほんとだ。お兄ちゃんがこういうポーズとるのレアじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ」
楽しそうに笑う。
その笑顔は、例え顔が違っても千佳の笑顔そのものだった。
それから、色々な角度で写真を撮った。
千佳の想いを受け止めるように、何枚も何枚も、何枚も。
「あー疲れた。写真はもういいや」
「そうだな。もうメモリーもほとんどないし」
「そんなことよりお兄ちゃん、お腹空きました」
「お、メシにするか?」
「うん、メシにします!」
「よし!」
池が一番綺麗に見える場所にシートを敷いて、弁当を並べた。
それをはさんで、二人向かい合って座る。
「でも、こんなところで食べちゃっていいのかな」
「誰もいないし、汚さなきゃいいさ」
「うん、うーん。そうだね。うん。」
「よし、手を合わせてください」
「はい!」
「いただきます!」
「いただきまーす!」
元気よく、食事開始の挨拶をした。
千佳はオニギリをつかんで、口いっぱいにそれを頬張った。
「ん、塩加減が絶品ですね!」
「おおげさだな。昨日の残りだけどからあげもあるぞ。あとお前の大好きなハンバーグも。食え」
「いただきますっ!」
おいしそうに次々と口の中に納めていく。
早起きをしたかいがあったってものだ。
僕もオニギリを掴み、一口かじった。
その時、千佳が大きな溜息をついた。
「どうした?」
「……溜息がでちゃうくらいほんとに綺麗だなって」
左手にオニギリを持ちながら、木漏れ日をきらきらと反射する水面を見つめる。
「ほんとに、神様でも住んでそうだよね」
「……神様ね」
その言葉で思い出す。
母さんはクリスチャンだった。
毎週日曜日には、熱心に教会へ通っていた。
僕も何回か連れて行かされたけど、あまりに退屈ですぐに行かなくなってしまった。
行きたくないと言った僕の頭を優しく撫でながら、母さんは困った顔をしていたっけ。
本当に熱心に……母さんは神様ってやつを信じていた。
「神様なんて、いないだろ」
だからこそ僕は、神様なんて信じる気にはなれなかった。
自分を信じてる人間を短命で終わらせるなんて、どんな神様なんだって。
吐き捨てるように呟いた僕の言葉が気に入らなかったのか、千佳が怖い目で僕を睨んでいた。
「駄目だよ! そんなこと言ったら!」
「ええ?」
「神様って絶対いるんだよ。うん」
矢継ぎ早に捲くし立てる。
「なんだそりゃあ」
「そんな気がする。神様はいっつも私達のこと見てるんだよ」
「いっつもね」
「それに私、毎朝お祈りしてるんだ。神様がいなかったら、そのお祈りどこにいっちゃうのさ!」
「知らないよ。何? お祈りって」
「今日も私とお兄ちゃんが笑顔ですごせますようにって」
「ははっ。そりゃ大事だ」
「笑うなよー!」
少なからず、驚いた。
千佳が神様を信じているなんて知らなかった。
それが母さんとは違って漠然とした神であっても、母さんと同じ考えを持っていることが僕には衝撃だった。
千佳の綺麗な字や、ちょっとした仕草や、考え方。
一緒にすごした想い出はなくても、千佳の中に母さんはしっかり息づいているように思えて、それがすごくうれしかった。
でもそれがもうすぐ失われてしまうと思うと、どうしようもなくやりきれなくなる。
気を抜くと暗くなってしまう気分をごまかすために、ひとしきり騒ぎながら弁当を平らげた。
その後は何か喋るわけでもなく、ずっと二人で池の水面を眺めていた。
時間の感覚がわからなかったけど、かなり長い時間そうしていた気がする。
でも、決して退屈ではなかった。
幻想的な空間が、帰りたくないと、そんな気分にさせた。
そしてこの空間なら、千佳とずっと一緒にいられるんじゃないか、そんな錯覚さえ抱かせた。
ここならずっと……それが可能であると、心の底からそう思えた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「そろそろ帰ろうか」
「ん、そうだな」
気付けば、あたりは暮れかけていた。
弁当を片付けて、シートを畳んで、車の後部座席に放り込んだ。
もう、ここを千佳と二人で来ることは二度とないんだろう。
車に乗り込んでエンジンをかけ、あの悪路をまた進む。
千佳ははしゃぎすぎて疲れたのか、車の振動が緩やかになるとすぐ、寝息をたて始めた。
残された時間は、少ない。
神を信じない僕が、今初めて、祈る。
どうか、どうか千佳が、父さんと母さんと同じところへ逝けますように。
妹が消えるまで、
後、一日。
五『ごめんなさいとありがとう』
いつも通りの時間に起きて、いつも通りに朝食をとった。
その後なにをするわけでもなく、居間のソファに腰かけていた。
つい先ほど昼食をすませて、また何か話すわけでもなく、ただじっと。
テレビがついているけれど、ほとんど頭には入ってこなかった。
時計をちらりと見る。
午後一時三十二分。
みぞおちのあたりに靄がかかったような、そんな気持ち悪さを感じる。
最後の日が、来てしまった。
沢田さんが消えたのが、確か夕方ごろだった。
千佳もそれくらいに消えてしまうのか、それとももっと長くいられるのか、短いのか。
そんなことを考えているとひどく喉が渇いて、気持ち悪さに拍車をかけた。
千佳はクッションをかかえて、ぼうっとテレビを見ていた。
もうその顔にも体にも、千佳らしさなんてどこにもなかった。
昨日の夜、眠れなくて色々なことを考えた。
夜が明けたら、千佳はいつも通りの姿で僕の目の前に現われるんじゃないか。
それから五日前のあの朝を、いつも通りにやりなおすんだ、と。
すべては悪い夢だったんだと。
そんな妄想を、繰り返した。
だから、千佳の顔を見たとき、僕は絶望してしまった。
そして、千佳の寂しそうな笑顔を見て気がついた。
最後の日、せめて笑って送ってやろうと、そう決めていたのに。
これほど自分を詰ったのは、初めてだった。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
今日何度目かの言葉をかわす。
「私、自分の部屋に行ってるね。その方が落ち着くから」
「ああ」
立ち上がって、居間を出て行く。
その背中を僕は呼び止めた。
「千佳」
「なに?」
「兄ちゃんも行っていいか?」
ずっと一緒にいたかった。
沢田さんのように、一人で逝かせたくはなかった。
千佳がそれを望んでも、絶対にそれだけはさせたくなかった。
「うん、いいよ」
千佳は笑顔で、首を縦に振った。
千佳の後ろに続いて、二階へとあがる。
そういえば、千佳の部屋で話をするなんて初めてのことかもしれない。
一度、勝手に部屋の掃除をして怒られてからは、あまり部屋に入ったこともない。
「どうぞどうぞ」
扉をあけて、仰々しく頭を下げて僕を部屋の中へと通した。
「相変わらず散らかってるな」
「普通だよ。どこに何があるがわかってるから、いいの」
あの日以、か。
千佳はここに座って泣いていたんだ。
「適当に座って」
「うん」
壁を背もたれにして、ベッドの上に腰を下ろす。
床に座ろうかと思ったけど、漫画やら教科書やらが散乱しててとても座れる場所なんかなかった。
千佳は部屋の隅でなにか探し物をしていた。
「あ、あったあった」
「なにしてんだ」
「いいから、ちょっと待ってて」
どこからか取り出した球体に足のついた奇妙な物を部屋の中央において、カーテンを閉めた。
「ちょっと明るすぎて見えにくいかもしれないけれど」
そう言って、球体の下腹部にあるスイッチをスライドさせた。
「なるほど」
「結構、綺麗でしょ?」
部屋の天井に瞬く、数え切れないほどの星達。
千佳は僕の隣に座ると、同じように天井を見上げた。
「去年の誕生日に買ってくれたやつ。よく寝る前に見てるんだ」
そういえば、こんなの買ってあげたな。
なかなか高かったのを覚えている。
当然そんな高いものを、千佳が買ってなんて言うわけがなくて、テレビで芸能人が紹介していたのをいいなあ、と呟いただけだった。
テレビの物よりは数段グレードは落ちてしまったけれど、プレゼントの箱をあけた時の千佳の笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。
黙って、二人で星を見つめる。
不思議と気分が落ち着いていくのがわかった。
神の子池で感じた、あの不思議な感覚。
篠村真治と篠村千佳。
二人がそのまま自然にいられる、そんな穏やかさがあった。
「昨日ね。寝れなくて色々なこと考えてたんだ」
ぽつりと呟く。
僕は黙って、それを聞く。
「消えちゃうって不思議だなって。消えちゃった人はどうなるのかなって。それでね。思ったんだ。消えちゃった人は死ぬんじゃなくて、どこか別の世界に行っちゃうんじゃないかって」
千佳の息遣いが聞こえる。
「こことは全然違う世界でね。漫画の世界みたいなところなんだ。きっと楽しいよ。こっちじゃ経験できないこと色々できるんだ。きっと……たのし……よ」
そっと、千佳の肩を抱き寄せた。
千佳は僕の胸に顔をうずめて、小刻みに肩を震わせて、嗚咽をもらした。
どれだけ不安だったろう。
よくがんばったな。
結局僕はなにもしてやれなかったな。
ごめんな。
千佳の柔らかい髪を、優しく撫でた。
これくらいしかしてあげられない。
どんな慰めも、優しい言葉も、全てがうそ臭くなる気がして、言えなかった。
こみ上げてくる情動を必死に殺して、千佳が泣き止むまで、僕は撫で続けた。
せめて、気丈な兄でいてやりたかった。
「ごめん……絶対泣かないぞって決めてたのに」
僕から身を離して、千佳は照れくさそうにはにかんだ。
「シャツ、汚しちゃったね」
「いいさ。すぐ乾く」
精一杯、僕も笑顔を作ってみせた。
予感があった。
「お兄ちゃん、お願いしていい?」
「なんでも」
ああ、もうすぐなんだ……と。
「もう一回、ぎゅっとしてもらっていい?」
「おう」
千佳を抱き寄せて、さっきよりも強く抱きしめた。
「もう一個、お願いいい?」
「いくつでも」
「私の机の引き出しにね。友達宛の手紙が入ってるから、代わりに出しておいてください」
「任せとけ」
「それとね。最後にもう一個いい?」
「どんどん来い」
「このまま離さないでほしい」
「おう」
少しだけ、腕に力をこめた。
胸のあたりに千佳の息がかかる。
千佳のあつさを、そこで感じることができた。
こんな風に千佳を抱きしめることなんて、もう二度とない。
気が、狂いそうだった。
「お兄ちゃん」
千佳が僕を呼んだ。
不意に、僕の体にかかる千佳の体重が軽くなった。
「こっち見ないでね」
「わかった」
少しずつ少しずつ、軽くなっていく。
上を向いて、唇をかみ締めた。
最後の時を、この目に焼き付けたかった。
でも千佳が見るなというなら、そうしよう。
僕に許されるのは、ただ抱きしめて、千佳の言葉に耳を傾けることだけだ。
この体で耳で、千佳の全てを覚えよう。
「怖いよ…怖いよ、お兄ちゃん」
千佳が僕のシャツを強く握り締めた。
「死にたくないよ……!」
あふれ出た滴がこぼれぬように、目を閉じた。
千佳が初めて洩らした心の叫びを、必死に受け止めた。
「ごめんなぁ……なにもしてやれなくてごめんなぁ……」
この理不尽な五日間をどんな想いで千佳が耐えてきたのか、それを思うと胸が張り裂けそうだった。
ああ、神様……神様……!
「お兄ちゃん……」
千佳の体温が、少しずつ消えていく。
息遣いが、遠くなる。
「あのね」
僕の頬に、千佳がそっと手を触れた。
その手がぽろぽろと崩れて、僕ははっとして、千佳に目を向けた。
見るなと言われたのに、この瞬間だけはそうしなきゃいけない気がした。
「今までありがとう」
千佳が笑った。
その瞬間、千佳の輪郭がぶれて、消えた。
はじめから千佳という人間なんていなかったかのように、忽然と姿を消した。
「千佳……」
腕の中に抱いているはずの妹はいなくなっていて、千佳のお気に入りの服だけがそこにあった。
僕は、千佳の香りを色濃く残す衣服をずっと抱きしめていた。
母を知らずに育った。
父も早くに亡くした。
受けられるはずの愛情の半分も与えられないまま、十五年間生きた。
もうすぐ十六歳だった。
欲しいものもいっぱいあったろう。
おしゃれもしたかったろう。
これから恋愛もして、結婚して幸せな家庭を築いたはずだ。
千佳ならいい母親になっただろう。
千佳の子供を抱きかかえることが僕の夢だった。
千佳にも何か夢があっただろう。
僕は……僕は何一つ叶えてやれなかった。
もし本当に神様がいるのなら、なんでこんなひどいことをするんだろう。
あまりにも……あまりにも千佳がかわいそうだ。
千佳を幸せにしてあげたかった。
なんにも恵まれなかったから世界一幸せにしてあげたかったのに、僕にはできなかった。
できなかった……。
どれだけ呆けていただろう。
数分だった気がするし、何時間もそうしていた気もする。
千佳の衣服は、すっかり冷たくなっていた。
「そうだ……」
千佳に頼まれたことをやらなくちゃいけない。
立ち上がって千佳の机の引き出しをあけると、封筒の束がそこにあった。
宛名が書かれていて、既に切手も貼ってあった。
もう出すだけの状態みたいだった。
その中で一通だけ、切手のない封筒があった。
束から取り出して、宛名を確認する。
『お兄ちゃんへ』
僕宛だ……
震える手で封筒をあけると、可愛い便箋がおさめられていた。
最初から最後の行までびっしりと、綺麗な字で綴られている。
『お兄ちゃんがこれを読んでいる時には、私はもうお兄ちゃんの側にいないんだと思います。
私の最後はどうでしたか? 怒ってましたか? 泣いていましたか?
たぶんお兄ちゃんがいてくれたら、笑っていられたと思います。
ほんとはちゃんとお話したかったんだけど、たぶん照れくさくて言えないから手紙にしました。
私はお兄ちゃんから色々なものを奪いました。最初はお母さん。それにいっぱいの時間。
私がいなかったらお父さんとお母さんは生きてて、お兄ちゃんは好きなこと出来たんじゃないかなって何度も思いました。
お父さんが死んでからお兄ちゃんは嫌な顔一つせず、私のために時間を使ってくれました。
それがとってもつらくて、とってもうれしかったです。ごめんなさい。ありがとう。
覚えてますか? 私が小学校五年生のとき、授業参観があってお兄ちゃんは仕事休んで来てくれましたね。
お兄ちゃんはお父さんのスーツ着てたね。そのサイズが全然合ってなくて、きつそうにしてるお兄ちゃんみたらなんだか恥ずかしくなっちゃって、
あの時は知らんぷりしちゃってごめんなさい。
ほんとはすっごくうれしかったです。ありがとう。
それから小学校六年生の時、覚えてるかな。私が――』
僕でも忘れてしまっていたような思い出が、そこにいっぱい書かれていた。
謝るなよ千佳。
お礼もいらない。
僕はお前と一緒にいて嫌な思いなんてしたことないんだから。
『それから最後にお願いがあります。
どうか私がいなくなっても悲しまないでください。泣かないでください。
もうこれ以上私のために時間を使わないでください。
これからはどうか自分のために生きてください。
やさしい彼女見つけて、結婚して、子供をたくさん作って、やさしいお父さんになってください。
孫ができて、そのまたひ孫ができるまで生きてください。
それが私からのお願いです。
本当はもっと話したいこといっぱいあったけど、もっと一緒にいたかったけど、私はお兄ちゃんの側からいなくなります。
ごめんなさい。ありがとう。
千佳より
PS.でも私のことは忘れないでね。これは私の最後のわがまま』
手紙はそこで終わっていた。
胸をじわりじわりと広がる何かがあったが、歯を食いしばって必死で堪えた。
千佳の最後の願いをきいてやりたかった。
それから文字を指でなぞりながら、何度も何度も読み返した。
千佳の言葉をかみ締めるように一字一句丁寧に、何度も何度も。
そこで、気づく。
便箋の中央に文字が透けて見えた。
裏に何か書いてあるみたいだった。
ひっくり返す。
とびきり綺麗な字で、一行だけ。
『PS2.私は幸せでした』
心臓がトクリと脈打った。
千佳の最後の言葉。
ごめんなさいとありがとうで埋め尽くされた手紙。
そこには、僕にとっての救いがあった。
幸せだったと、千佳は幸せだったと。
「ち……か……」
必死で押さえつけていた衝動はすでに僕の心を支配して、今にも溢れ出しそうだった。
千佳、約束するよ。
いい彼女見つけて、結婚して、子供いっぱい作るよ。
約束する。
幸せになるよ。
お前のことだって、絶対に忘れない。
だけど今だけはこうすることを許して欲しい。
今だけ……今だけだから。
「おお……おぉぉぉぉぉ!!」
今日、
妹が消えた。
結『どうか』
ベッドからやっとの思いで這い出てカーテンを開ける。
いい天気だ。
時計を見るとすでに十二時を回っていた。
千佳が消えてから、三日。
僕の生活は堕落しきっていた。
すぐに仕事に復帰するつもりだったけど、社長にもうちょっと休んでいなさいと仕事禁止令をだされてしまった。
やることもないものだから、答えも出ないようなことを、ずっと考えていた。
そのおかげかはわからないけど、少しは前向きになれたと思う。
立ち直れたか? といわれれば、うんなんてとても言えないけれど、少なくとも悲しむのは止めた。
僕は千佳が言ったように、千佳は別の世界で生きていると信じることにした。
千佳が言うんだから間違いないだろう。
だから父さん母さん、悪いけど千佳はまだそっちにはいかない。
とはいってもやはり寂しい気持ちは隠せない。
本棚からアルバムを取り出して、ぱらぱらとめくる。
たくさんの笑顔がそこにあった。
昨日夜遅くまでかけて整理したかいがあったな。
例え顔が違っても、間違いなく千佳の笑顔だ。
どこかはわからないけれど、こことは違う別の場所でこの笑顔をふりまいてるに違いない。
そう思うと、少しは寂しさが紛れた。
さぁ今日は家の掃除をしよう。
ずっとしてなかったから、相当埃がたまっていることだろう。
それに明日からは仕事だ。
生活リズムをなおさなければ。
部屋から出ようとノブに手をかけたところで気づく。
しまった、今日はまだあれをやっていなかった。
あわてて引き返して、部屋の中央に移動する。
その場に跪いて胸の前で両手を結び、そっと、呟いた。
「どうか、今日も千佳が笑顔で過ごせますように」
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これもおよそ三年前の作品。
なおしたいところがいっぱいありますが、過去を振り返る材料としてそのまま投稿です。