No.37352

まっしろチャイム

約二年前の作品。
これもやっぱりなおしたいところがたくさん……。

2008-10-25 00:06:16 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:437   閲覧ユーザー数:415

 

『まっしろチャイム』

 

一日目『また明日ね』

 

 新雪を踏みしめると足首のあたりまで靴が沈んでいった。

 眼前には空まで伸びる真っ白い坂道。振り向くと僕の足跡だけが綺麗に残っていた。

 こっちに引っ越してきて二週間がたった。

 すぐ冬休みに入ってしまって、学校には五日間しか行っていない。

 手続きは済ませたものの、本当は区切りのいい新学期からの転校になるはずだった。

 だけど長い長い冬休みを一人で過ごすのは寂しくて、無理を言って引越ししてすぐに学校へ通わせてもらった。

 口下手な僕が、たった五日間で遊びに誘ってもらえるほどクラスメイトと仲良くなれるはずなんてなかったのに。

 僕の甘すぎる目論見は見事に砕け散った。

 足をとられないように、一歩一歩足場を確認しながら、ゆっくりと坂を登っていく。

 少しずつ町が小さくなっていった。

 まだまだ続く冬休み。

 やることがない僕は、新しい故郷を散策しつくすことに決めた。

 前を見ても後ろを見ても、右も左も雪景色。

 姉ちゃんはこの町を「つまらなさそう」と言った。

 母さんは「雪のせいで自転車で買い物にいけない」と腹を立てていた。

 父さんは雪道の運転に慣れていなくせに調子になんてのるから、ここに来て三日目に病院送りになった。

 病室で「ここは呪われた土地だ」なんてうわ言のように呟いてる。

 みんなこの町が好きじゃないみたいだった。

 でも僕にとって、この尋常じゃない雪の量は衝撃で、感動的で、美しくて。

 前に住んでいたところは雪が降ってもこんなに積もることはなかったから、靴越しに伝わる雪を踏む感触も、雪を纏うひりつくような風の冷たさも、全てが新鮮だった。

 だから今は、一人が苦じゃなかった。

 歩いてるだけで楽しかった。

「雪を見るだけでそんなにテンション上がるなんて、ガキね」

 昨日、姉ちゃんが呆れたように僕にこう言った。

 十四歳なんだからガキで当然だろって言い返したら履いていたスリッパで頭を叩かれた。

 大人ぶってないで僕みたいに楽しんだらいいじゃないか。これ以上ひどい目にあいたくはなかったから、その言葉は喉元で飲み込んだ。

 最後の一歩を踏み出す。

 なんとなく登り始めた小高い丘へと続く坂道。

 さして急でもなく長くもないその坂を、僕は十五分かけてようやく登りきった。

「あれ、なんだろう」

 丘の頂上には球と長方形が合体したような不思議な建物と、小さな鐘をぶら下げた白いアーチが建っていた。

 なにもないと思っていたから、これはうれしい誤算だ。

 ガラス張りになっている部分から建物を覗いてみる。

 中が暗くて、どういった施設なのかはわからなかった。

 アーチに近づいて見上げる。

 僕の二倍くらいの高さに鐘があって、そこから長い鎖が伸びていた。

 鐘のある街なんて、なんだかロマンチックだと思う。

 鳴らしてみようかな。

 そう思って手を伸ばしてみたけれど、小心者の僕はそのまま頭を掻いてポケットに手を突っ込んだ。

 視線を前に向ける。鐘の先は展望台になっていた。

 アーチをくぐってそっちの方へ行ってみる。

「うわぁ」

 町が一望できた。

 今まで見たこともない美しい白銀の世界。

 夜になったら町の明かりでもっと綺麗になるんだろうな。

 そうだ。

 今度、母さんと姉ちゃんと一緒に来てみよう。

 この景色を見たら少しは機嫌をなおしてくれるかもしれない。

 うん、きっと――

「わっ!」

 ぼんやりと景色を眺めていると背後で突然、甲高い鐘の音が鳴り響いた。

 その不意打ちに驚いた僕は足を滑らせて、背中から雪の上に落ちていった。

「痛――」

 ――くはなかった。ただ背中が冷たかった。

「ごめんなさい。大丈夫?」

 仰向けに倒れた僕の眼前に、唐突に女の子の顔が現われた。

 暖かそうなニットの帽子。そこから伸びるふわふわにウェーブした柔らかそうな髪。吸い込まれそうな青い瞳。言葉を失ってしまうほど、可愛い子だった。

「だ、大丈夫?」

「う、うん」

 不自然なほど素早い動きで立ち上がって、ぎこちない手つきで服についた雪を払った。

 なぜだか急に、ここにいることが恥ずかしくなった。

「よかった」

 女の子がニッコリと微笑む。

 たぶん、僕の顔はゆでダコみたいに真っ赤になっていると思う。

「前からあの鐘、鳴らしてみたかったの。あんなに大きい音でるんだね。私もびっくりしちゃった。ごめんね」

「ううん、僕も鳴らそうと思ってたから、聞けてよかった」

 女の子は驚いたように目を見開いて、手袋をはいた手を口に当てて声を出して笑った。

「変な人だねぇ」

「そ、そう?」

 照れくさくなって、後頭部を掻く。

 そんなにおかしいことを言ったつもりはなかった。

 横目でちらりと彼女を見ると、たまに苦しそうに息を吸いながら、まだ笑っていた。

 たぶん……同い年くらい。

 外国の人だと思うけど、それにしては日本語がすごく上手だと思う。

 ずっと日本に住んでいるのかな?

「どうかした?」

 じっと彼女を見つめていた自分に気付いて、慌てて目をそらす。

「ご、ごめん」

「なんで謝るの?」

 また、おかしそうに笑う。

 あんまり女の子と接したことのない僕は、こういうときどんな顔をすればいいのか、どういう話をすればいいのか、さっぱりわからなかった。

「あなたも鳴らしてみる?」

 女の子はアーチに駆け寄って鎖を握った。

 空いた手でおいでおいで、と僕に向かって手招きをする。

「でも、いいのかな」

「大丈夫だよ。私が鳴らしても怒られなかったし」

「それも、そっか」

 手渡された鎖をそっと引いてみる。

 小さく揺れて、控えめな鐘の音があたりに響いた。

「さっきより音小さいね」

「性格が出たのかも」

「それは私が乱暴ってこと?」

「え? いや……えっと」

「うそうそ。でも」

 ほうっと、息を吐く。

 彼女の口の周りを白い粒子がきらきらと舞った。

「綺麗な音だね」

「うん」

 二人で鐘を見上げながら、その音にじっと耳を傾ける。

 余韻を残しながら、鐘の音は消えていった。

 そして、沈黙が僕らを包んだ。

 何を、話せばいいんだろう。

 どこに住んでいるの?

 趣味は?

 好きな食べ物は?

「よいしょっと」

 上を見たまま硬直していると、彼女は足元の雪を手で払って、アーチの土台に腰をおろした。

「少し、話そうよ。いいですか?」

 座ったまま手を動かして、自分の隣の雪も払っていく。

「うん」

「どうぞ」

 言われるまま、彼女が作ってくれたスペースに僕も腰かける。

 お尻にひんやりとした冷たさが伝わってくる。

 彼女が座りなおしたとき少しだけ肩と肩が触れ合って、僕の心臓がドキリと跳ねた。

「ここにはよく来るの?」

「初めて。引っ越してきたばかりだから」

「わー、そうなんだ! 前はどこに住んでたの?」

「名古屋」

「名古屋? んー。エビフリャアの街?」

「当たってるけど……実は誰もエビフライのことエビフリャアなんて言わないんだ」

「えー! ショック……」

 とりとめもない会話が続いた。

 もっとも僕は緊張であまり喋れなくて、ほとんど彼女が喋っていた。

 自分の人見知りを、これほど情けないと思ったのは初めてだった。

「この町、つまらないでしょ?」

「そんなことないよ」

「うそっ」

 信じられないといった表情で僕を見る。

「田んぼだらけだし、何にもないよ。服買いにいくのだって、電車で一時間だし。ありえないよ」

「でも、ここからの景色は綺麗だよ」

「うぅん」

 僕から視線を外して、まっすぐ前を見る。

「うん。私もそう思う」

 小さく、微笑む。

 全身が金縛りにあったような、そんな感覚。

 彼女のその顔が本当に可愛くて、きれいで、魅力的で、とても直視できなくて、僕は慌てて首を百八十度捻ってそっぽを向いた。

 このまま見ていたら、口から心臓が飛び出して死んでしまいそうだった。

「あれ」

 そらした視線の先に、男の人が立っていた。

 こっちをじっと見ている。

 スーツ姿で眼鏡をかけていて、知的そうな人だった。

「あー」

 彼女も気付いて、声をあげる。

「お父さん?」

「うん」

 立ち上がりながら僕の問いに頷いた。

「私もういかなきゃ」

 お尻についた雪を両手で払って、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね。つき合わせちゃって」

「ううん。楽しかった」

「じゃあ、ね」

 胸元でゆっくりと手を振る。

 僕も無言で振り返した。

 どこに住んでいるの?

 趣味は?

 好きな食べ物は?

 結局、なにも聞けなかった。

 手を振りながら見つめる。

 少しずつ、彼女の背中が小さくなっていった。

「あ、あの!」

 気付くと僕は立ち上がって、彼女を呼び止めていた。

「あの! 僕まだ友達いなくて……その、ずっと暇で! また明日もここに来ると思うから……えっと、その……」

 どんどん声が小さくなっていく。

 たぶん僕の顔は日本代表のユニフォームみたいに真っ青になってると思う。

 勢いに任せてとんでもないことをしてしまった。

 今すぐ逃げ出したくなるくらい恥ずかしかった。

 あんな可愛い子が、僕なんかに興味持ってくれるわけないのに。

 でも彼女はニッコリと笑って、こう言ってくれたんだ。 

「また明日ね!」

 手袋をはいた手を大きく振ってくれた。

 僕もそれにこたえるように精一杯に手を振った。

 姿が見えなくなるまで振り続けた。

 たまに振り返って、彼女も手を振ってくれた。

 また明日ね。 

 なんでもない言葉なのに、なにか強力な魔法がかかったみたいに頭の中をグルグルとまわって、僕を幸せな気分にしてくれた。

 

「ただいまー」

 家に戻ると、ちょうど二階から降りてきた姉ちゃんと玄関で鉢合わせた。

「なによあんた」

 じとっと僕を見つめる。

「ニヤニヤして、気持ちワルッ」

「うるさいな」

 口を手で隠して、居間へ逃げ込んだ。

 そんなつもりはなかった。

 唇をギュッと引き締める。

 ……気をつけよう。

 ソファに座って、リモコンでテレビをつける。

『あんちゃん! ……俺、コユ――』

『発症後五日間で死に至ると言う』

『いけー! マグナーム!!』

 チャンネルを回していく。

 再放送のドラマ。

 ワイドショー。

 子供向けのアニメ。

 おもしろそうな番組はやっていなかった。

 テレビを消してソファに寝転がる。

 可愛い子だった。

 本当に。

 ぼうっと頭に彼女の顔を思い描いていく。

 それだけで、僕の胸は高鳴った。

「そういえば……名前聞いていなかったな……」

 ポツリと呟く。

「誰の?」

 予想外の返事に、僕は飛び起きた。

 ……姉ちゃんがいた。

「誰でもいいだろ!」

 居間を飛び出して、騒々しい音を立てながら階段を上がっていく。

 会いたい。

 早く会いたい。

 まだ日も暮れていないのに、そんなことばかり考えていた。

 こんなにも明日が楽しみなのは、初めてだった。

二日目『好き』

 

 昨日も登った坂道をゆっくりと登っていく。

 白いじゅうたんの上には、僕のものよりも少し小さい足跡が、空まで続いていた。

 あの子がもうきてるんだ。

 はやる気持ちを抑えながら転ばないように慎重に、でもできるだけ急いで、僕は坂を駆け上がった。

 頂上について、あたりを見渡してみる。

 彼女は見つけられなかったけど、鐘の真下に大きな雪だるまが作られていた。

 僕の背丈くらいありそうな雪だるま。

 近づいてよく見てみると、まだ出来てそんなに時間がたってないみたいだった。

「わっ!」

「うわぁ!」

 突然、雪だるまの影から何かが飛び出してきて、僕はびっくりして尻餅をついてしまった。

「あははっ。そんなにびっくりすると思わなかった」

 彼女だった。

「中々こないからこんな力作ができてしまいました」

「ご、ごめん」

 彼女の手を借りながら立ち上がる。

 彼女はすねたように口を尖らせたあと、すぐにニコッと笑った。

「うそうそ。私が早く着いちゃっただけ」

 ふと、違和感を覚えた。

 昨日会った女の子。

 そのはずなに、なぜか別人のような、昨日とは違う雰囲気を感じた。

「よくぼーっとするよねぇ」

「あ、う、ごめん」

「すぐ謝るよねぇ」

 おかしそうに、ケラケラと笑う。

 その笑顔と笑い声は、昨日の彼女となんにも違うところはなかった。

 考えてみればまだ会うのは二回目なんだから、昨日と雰囲気が違っても別に不自然なことじゃないのかもしれない。

「名前、なんていうの?」

「へ?」

「名前。昨日聞けなかったから」

 雪だるまの頭の形を整えながら、彼女が言った。

「ユキト」

「ユキトくん? どんな字書くの?」

 しゃがんで雪を掴んで、ぎゅっと握り固めた。

「この雪に、人間の人で、雪人」

「かっこいい名前だね」

「……ありがとう」

 顔から火が出そうなくらい、火照っていた。

 名前を褒められたのは初めてだった。

「私はね、マシロって言うの」

「どんな字?」

「真実の真に、白色の白で、真白」

 可愛い名前だね。

 そう言おうと思ったけど、照れてしまって言えなかった。

「真白ちゃんは、日本人なの?」

「そうだよ? 純粋な日本人です」

 お父さんが日本人みたいだったから、お母さんが外国人のハーフなのかなって思ってたけど、意外だった。 

「もっと洋風な名前を想像してた」

「あはは。お母さんがね、この雪みたいに真っ白いまま、まっすぐ育って欲しいって意味でつけたんだって」

「へー」

「なんかクサいよねぇ」

 雪だるまの頭の横から顔だけ出して、照れくさそうに笑った。 

「でも、親がそういう風にちゃんと名前考えてくれたのは、うらやましいよ」

「どうして?」

 さっき固めた雪を、下手で投げる。

 下り坂をコロコロと転がっていった。

「僕は単純に冬に生まれたから。姉ちゃんも秋生まれで紅葉って名前だし、捻りがないんだ」

「雪人くんが秋に生まれたらどんな名前だったんだろう」

「確か、楓。夏だったら海って書いてカイだったかな」

「春は?」

「なんだと思う?」

 真白ちゃんは雪だるまの頭の上に自分の顔を乗っけて、首をかしげた。

「桜だと女の子の名前だし、梅? はないよねぇ……うーん、わかんない」

「僕の苗字、ミナミなんだ」

 もう一度、雪を丸く固めて上から思いっきり投げた。

 今度は転がることなく、雪の中にずっぽりと埋もれてしまった。

「ハルオってつけるつもりだったんだって」

「なんか、ショーワな名前だね」

 思ったより真白ちゃんの反応が薄かった。

「ミナミハルオって人、知ってる?」

「誰それ?」

 きょとんとした目で、僕を見る。

 とっておきの話題だったのに……。

 若い子にはわからないだろうなって父さんが言っていた意味が、今はじめてわかった。

「あれ? 拗ねてる?」

「別に……」

「もしかして笑うところだった?」

「……」

 途端に惨めになってくる。

 うまく話せない僕。

 うまく切り返せない僕。

 こんな些細なことでへこむ僕。

 全てが情けなかった。

「あはは! ごめんねぇ」

 雪だるまに覆いかぶさるように体重を預けて、真白ちゃんは本当におかしそうに笑っていた。

 その時、ぐらりと雪だるまの頭が傾いた。

「わっ! わっ!」

 真白ちゃんと一緒に、雪だるまの頭がごろりと地面に落ちた。

「いったーい」

「大丈夫?」

「うー」

 恨めしそうに、雪だるまの頭を見つめる。

「がんばって作ったのに……」

 大きく丸かった頭は、真白ちゃんの体重と落ちた衝撃で、すっかりひしゃげてしまっていた。

「また、作ろうよ」

「……そだね」

 雪だるまを作りながら、僕たちは色々な話をした。

 最初はしどろもどろだった僕も徐々に普通に話せるようになっていった。

 趣味の話。

 好きな食べ物の話。

 よく聞く音楽の話。

 まるで好みの違う僕らだったけど、その分、真白ちゃんの話は新鮮で飽きることはなかった。

 真白ちゃんも、僕が前に住んでいた街や学校の話を、興味深げに聞いてくれた。

「完成!」

「うん」

 永遠に続けばいいと思っていた時間は、雪だるまの完成であっさりと終わってしまった。

 さっきよりも小さいけれど、さっきよりも形のいい雪だるまの新しい頭を、真白ちゃんは満足そうに撫でていた。

「完成記念」

 そう言って、鐘の鎖を力強く引っ張った。

 元気な音色が、あたりに響き渡った。

「この音、好き」

 揺れる鐘を見つめながら、ポツリと呟く。

 僕も、うん、と頷いた。

「私、そろそろいかなきゃ」

 鐘の音が終わる頃、真白ちゃんが手袋についた雪を払いながら別れを告げた。

 もう少し一緒にいたかったけれど、それを言葉にする勇気も図々しさも、僕は持ち合わせていなかった。

「じゃあ……」

 胸の辺りまで手を持ち上げて、小さく振る。

「またね」

「うん、また」

 僕も同じように手を振った。

 昨日のように、お互い笑顔で別れ、真白ちゃんの姿が見えなくなるまで見送った。

 でも、別れ際に一瞬だけ見せたためらいの表情が、気がかりだった。 

 

 夕飯時、テレビを見ながら母さんがたいして興味なさそうにこう言った。

「最近こればっかね」

 テレビに映るニュース番組では、最近話題になっている病気に関する報道がされていた。

『遺伝子治療を行った一部の患者の体に変化が現われ、変化が生じてから約五日後に忽然と姿を消す、と言う奇怪な現象が――』

 キャスターが深刻そうな顔でこちらを見ながら喋っている。

 僕が小学校低学年くらいの頃に、どんな病気でも治せるなんていう治療法が発表された。

 遺伝子をどうにかしてっていう話だったけど、具体的にどんな方法なのかは僕には理解できなかった。

 その遺伝子治療を行った人達の中で副作用が現われた人が最近になって出てきたみたいで、耳にしない日はないくらい話題になっていた。

 徐々に体が他人のように変化していって、最後には消えてしまうなんていう漫画みたいな副作用。

 遺伝子の一部分ををいじったせいで遺伝子全体が異常をきたして、なんて一応科学的に説明できるみたいなんだけど、やっぱり嘘みたいで僕の中ではあまり現実感のある話じゃなかった。

「別に関係ないじゃん。うちは誰も遺伝子治療なんて受けてないし」

 サラダを口に運びながら、姉ちゃんが言った。

 テレビ画面では、発症した人の体がどのように変化していったか、その様子を追った映像が流れ出した。

 体格のいい男性だった。

 二日目の写真はどこに変化があるのかよくわからなかったけど、少しだけ細くなったように見えた。

 三日目になると、明らかに背が縮んでいた。

 四日目は、ほとんど別人だった。

 筋肉質な体はすっかり華奢になって、細かった目がぱっちりとして、褐色だった肌の色が若干白くなっていた。

 五日目になると最初の面影なんて、どこにもなかった。

 中年の男性だったはずなのに、少年のようになっていた。

 映像はそこで終わった。

 この姿になった後、男性は消えてしまった、とキャスターが付け加えた。

「怖いわねぇ」

 母さんが不安げに溜息をもらした。

 姉ちゃんは完全に興味を失って、勝手にチャンネルを変えてしまった。

 僕も別に、続きが見たいとは思わなかった。 

三日目『ごめんね』

 

 今日の真白ちゃんも、昨日とは少し雰囲気が違っていた。

 どこが違うんだろうと彼女の顔をじっと見て、気付いた。

「化粧してる?」

 真白ちゃんが一瞬だけバツの悪そうな顔をした。

「ちょっとだけ」

 そういって笑って、恥ずかしそうに手で顔を隠した。

 これ以上触れちゃいけない気がして、僕は黙り込んだ。

 化粧だけじゃなくて、他の様子も少しいつもと違っていたから、しつこく聞くことはできなかった。 

 楽しそうに笑っていたかと思えば、急に黙ってしまったり、そうかと思えば突然元気になったり。

 僕の頭の中で、昨日の別れ際がちらついた。

 またねって言葉をためらったあの表情が、僕を不安にさせた。

 僕が何か悪いことしてしまった?

 僕の話がつまらないから飽きられてしまった?

 小心者の僕はそんなことばかり考えてしまって、雪合戦しているときも、二人並んで座って話している今も、なんとかこれ以上嫌われないようにって必死だった。

 でも、真白ちゃんの不自然さの原因は他の所にあったんだって、すぐにわかった。

「私ね、明日引っ越しちゃうの」

 ショックだった。

 こっちにきて初めてできた友達だから。

 初めて普通に喋ることができるようになった女の子だから。

 そういう理由もあるけど、これからのことを楽観的に妄想してた自分とか、真白ちゃんと会うたびに感じていた、胸の奥のふわふわして気持ちよくて、たまにずっしりと不快なこの気持ちが、真白ちゃんが僕の目の前からいなくなってしまうことを拒否していた。

 でもだからって、どうしろっていうのか。

 行って欲しくないなんて言ったところで一体何が変わるんだろう。

 彼女を引き止められるほど僕たちは親密では無いし、ドラマみたいに彼女の腕を掴んでどこかに逃げ出す行動力も、僕には無い。

「そうなんだ」

 結局僕は、こんなどうでもいい言葉しか口にすることができなかった。

 真白ちゃんは体育座りをして、膝に顔をうずめながら、町の景色を眺めていた。

 蒼い瞳は悲しげなようで、でもいつもと同じようにも見えて、そこから真白ちゃんの感情を読み取ることはできなかった。

 いつもと違って、なにも喋ってはくれなかった。

 僕も何を喋ったらいいのかわからなくて、真白ちゃんの横顔と町の景色を、ただ交互に見ていた。

「あのね」

 真白ちゃんが体を反転して、言った。

 シャンプーのいい香りを纏った風が、僕の鼻をくすぐった。

「あの建物、結婚式場だったんだって」

 僕も体の向きを真白ちゃんと同じにする。

「そうだったんだ」

「お父さんが言ってた。お父さんが子供の頃はここでよく結婚式あげてたって。でも、今はやってないんだって。なんでだろう」

「わからない」

「景色もいいし、ここで結婚式できたらすっごく素敵だと思う」

「うん」

「あーあ」

 ぐっと背伸びして大きく息を吐く。

 「ここで結婚式したかったなぁ」

 残念そうに、目の前の建物を見つめた。

「もう帰ってこれないの?」

「うん」

  僕の問いに、小さく首を振って答える。

「そんなに遠いところなの?」

「うん」

「外国?」

「そんなところ、かな?」

「そっか……」

 そのまま、二人で押し黙る。

 考えた。

 去ってしまう彼女に僕ができること。

 僕ができる精一杯のこと。

 たぶん普段の僕ならこんなことは言えなかったと思う。

 でもなぜかこのときは、照れることも恥ずかしがることも無く、本当に自然に、こう言えた。

「じゃああげようよ」

「え?」

「結婚式」

 彼女が僕をどう思っているかわからない。

 何を言ってるんだって、気持ち悪いヤツだって思われるかもしれない。

 でも彼女を喜ばせてあげられる可能性があるのなら、言ってみる価値はあると思ったんだ。

「私たちで?」

「う、うん。って言っても本当の結婚式じゃなくて、ごっこ遊びみたいなものだけど……」

 他人が見たら馬鹿馬鹿しいっていうような、そんな提案だった。

「うん!」

 でも真白ちゃんはそんな僕の幼稚な精一杯に、頬を赤く染めながら頷いてくれた。

「なんか照れるね」

 鐘の前で向かい合う。

 はにかんだ真白ちゃんの顔がすごく可愛くって、僕の頭の中は真っ白になってしまった。

 

「えーと」

 そもそも結婚式ってどういうことをすればいいんだろう。

 僕の一世一代の思いつきは早くも追い込まれてしまって、僕は空を仰ぐことしか出来なかった。

「新郎、雪人くんは新婦、真白に永遠の愛を誓いますか?」

 こんな感じ? と真白ちゃんが微笑む。

 胸に手を当てて、宣誓した。

「誓います」

 満足そうに真白ちゃんは目を細めた。

「新婦、真白ちゃんは新郎、雪人に永遠の愛を誓いますか?」

 真白ちゃんが言ったように、僕も勇気を出して問いかけた。

「誓いまーす」

 顔の横に手を掲げて、真白ちゃんも誓った。

 そしてすっと眼を閉じて、僕を見上げるように顔を傾けた。

「え?」

 片目を開けて、戸惑う僕に笑いかける。

「誓いのキス」

「ええー!」

 全身からぶわっと汗が噴き出した。

 こんなことになるなんて、予想もしてなかった。

「だって、結婚式なんでしょ?」

 悪戯っぽく笑って真白ちゃんは再び目を閉じた。

 僕なんかでいいの?

 ただの気まぐれ?

 後ろ向きな思考がグルグルと回った。

 膝がガクガクと震えた。

 真白ちゃんは目を閉じたまま、じっと僕を待っていた。

 覚悟を決めなきゃ、いけないみたいだった。

 華奢な肩にそっと手を置いて、唇を近づけた。

 心臓がバクバクと自己主張して、今にも倒れてしまいそうだった。

「……」

「ん……」

 一瞬だけ、触れ合った。

 キスと呼ぶにはあまりにも短く、つたない接触。

 真白ちゃんの体温を感じた瞬間、僕の全身に電流が走ったような、体がふわふわと空中に浮いているような、そんな不思議な感覚に襲われた。

 真白ちゃんにとって良い思い出になったんだろうか、かけがいの無い思い出になったんだろうか。

 そんな自信なんて、ない。

 でも僕は、初めて感じた真白ちゃんの柔らかさと、照れくさそうにはにかんだこの笑顔を、一生忘れないと思う。

「誓いの鐘……なんてあるのかな? まあいっか」

 二人で聞く、三度目の鐘の音。

 そして最後の鐘の音。

「ごめんね」

 鐘の音に消されてしまうほどの小さな声で、真白ちゃんがそう言った。

 その意味も、なんて答えていいのかもわからなくて、僕は聞こえないふりをした。

「じゃあ、行くね」

「うん」

 鐘が鳴り終わって、僕たちが一緒にいられる時間も、終わった。

「バイバイ」

 今日の別れの挨拶は、またね。じゃなかった。

 

 まっすぐ家に帰る気がしなくて、僕はブラブラとあても無く町を歩いていた。

 そんなに長い時間一緒にいたわけじゃない。

 涙を流すほどの思い出も、ない。

 悲しいのか寂しいのか、それすらもよくわからない。

 でも僕の胸には確かに、大きな穴があいてしまったんだ。

 僕の足を絡めとる雪の深さが、今は鬱陶しかった。

 雪を避けていると、自然と足が町の中心部へ向いた。

 徐々に人通りが多くなっていく。

 無意識に真白ちゃんの姿を探す自分が、惨めだった。

 駅前について、足を止める。

 体格のいい外国人が、路上でシルバーアクセサリーを売っていた。

 財布を開いて、千円札の枚数を数えた。

「これください」

 たいした装飾もない、地味な指輪。

「ありがとネー」

 お釣りと指輪を乱暴にポケットにつっこんで、僕はそこを立ち去った。

四日目『帰らないよ』

 

 つい、今日も僕はあの丘へ行ってしまった。

 もしかしたら、なんて淡い期待を持って。

 どれだけ待っても、真白ちゃんは来なかった。

 もうこの町にはいないんだろうか。

 今頃は飛行機の中……かな。

 もう少しちゃんとしたお別れを言えればよかった。

 いまさら、そんなことを僕は後悔していた。

「ただいま」

 家に帰って、ソファの上に寝転ぶ。

 何もする気は起きなかった。

 町の散策も、もう興味はなかった。

 テレビをつけても、よくわからないサスペンスドラマとか、芸能人カップルが破局したとか、五日間で死ぬあの病気を徹底解明だとか、どうでもいい番組ばかりで全然おもしろくなかった。

「ちょっと雪ちゃん」

 台所から母さんが出てきた。

「暇ならお父さんのお見舞い行ってきてよ」

「今日は姉ちゃんの番でしょ?」

「お腹いたいって部屋から出てこないの」

 絶対嘘だ。

 でも、

「わかった」

 家でじっとしているよりはマシだと思ったから、母さんから父さんの着替えの入った鞄を受け取って、僕は家を出た。

 病院は家からそんなに遠くない。

 でも歩いていくにはちょっとだけ疲れる距離だった。

 だから姉ちゃんは父さんのお見舞いに行きたがらない。

 ダイエットしなきゃとか言ってるくせに、外に出ずに食っちゃ寝してる姉ちゃんの思考回路が僕にはよくわからない。

 病院の自動ドアをくぐると、独特なピリピリした空気が僕を包んだ。

 何度きても、これには慣れないと思う。

 難しそうな顔して走り回ってる看護師の人とか、醒めた目で歩いてる医者とか、嫌な感じがした。

 階段を昇って、父さんの病室があるフロアに出た。

 角を曲がろうとしたとき、僕は出会いがしらに女の子とぶつかってしまった。

「ご、ごめんなさい」

 バサバサと女の子がお菓子の袋を落とした。

 慌ててかがんで、僕はそれを拾っていく。

「えっ?」

 女の子が小さく声をあげた。

 見上げると、惚けたように虚ろな目で僕を見下ろしていた。

 僕もたぶん、同じような顔をしていたと思う。

 僕と目があった瞬間、女の子は顔を隠すように、かぶっていたニット帽を両手で引っ張った。

 見たことがない子だった。

 でもたぶん僕は……この子を知っていた。

「真白……ちゃん?」

 名前を呼ばれてビクリと体を震わせて、真白ちゃんは僕に背を向けて逃げ出した。

「待って……待ってよ!」

 咄嗟に追いかけた。

 僕から逃げた理由なんて考えもしなかった。

 なんでここにいるの?

 引っ越すんじゃなかったの?

 聞きたいことが一杯あった。

 だから僕は、彼女の気持ちを思いやりもせず、ただ追いかけた。

 階段を昇って、廊下を走って、真白ちゃんはある病室に飛び込んだ。

 その病室の扉に、僕は手をかけた。

「入るよ?」

 返事はなかったけど、僕は扉に力をこめた。

 鍵はかかっていなかった。

 そんなに広くはない部屋に、ベッドが一つだけ置かれていた。

 真白ちゃんはそのベッドの上で毛布をかぶって、うずくまっていた。

「父さんのお見舞いにきたんだけど……真白ちゃんがいてびっくりした」

 喋りかけても、答えてはくれなかった。

 どうしていいかわからなくて、僕は病室の入り口で立ち尽くしていた。

「これ……さっき落としたお菓子」

 近くにあった棚に、それを置いた。

 何が真白ちゃんを傷つけたのか、僕にはさっぱりわからなかった。

 それでもなんとか話そうとして、必死に話題を探してやっと出た言葉は、あまりにも無神経だったと思う。

「病気……なの?」

 真白ちゃんがゆっくりと身を起こして、僕を見た。

 いや、見たというよりは、睨むような強い目線で。

 そして、いつもかぶっていたニット帽をゆっくりと脱いだ。

「……見られたくなかったのに」

 言葉が出なかった。

 真白ちゃんの髪の毛が、すっかり抜け落ちていた。

「今日で四日目なんだ」

 そこで僕はようやく理解した。

 真白ちゃんの瞳が青い理由。

 会うたびに雰囲気が変わっていた理由。

 僕が初めて真白ちゃんに会ったあの日。

 真白ちゃんは、あの時すでに発症してたんだ。

 考えもしなかった。

 毎日の真白ちゃんの変化に気付いていたのに、適当な理由をつけてごまかしていた。

 たまに見せた沈んだ顔の理由も、嫌われたんじゃないかって、僕は自分のことしか考えていなかった。

『真白ちゃんは日本人なの?』

『もっと洋風な名前想像してた』

 あの時、僕は無神経に、何も考えず、僕は……。

「なんできちゃったの……?」

 瞳がかすかに潤んだ。

 きれいな真白ちゃんの顔。

 でも初めて会った時とも、二回目も、昨日とも、その顔はどこか違っていた。

 僕の知ってる真白ちゃんじゃなかった。

 四日目?

 じゃあ、じゃあ明日……真白ちゃんは?

「帰って」

 今にも涙がこぼれそうな目で僕を睨みながら、真白ちゃんがそう言った。

 僕の頭の中はグラグラと揺れて、足が震えて、手が痺れるように痛くて、本当はそうしたかった。

 でも、しちゃいけないと思った。

「帰らないよ」

「帰って!」

 ヒステリックに、叫んだ。

 ボロボロと涙をこぼして、ギュッと毛布を握って。

「見られたくなかったのに! だから昨日バイバイって言ったのに! なんで来たの!? 帰って! 帰ってよ!」

 握った手の甲で涙を拭きながら、真白ちゃんは鬱積したものを吐き出すように叫び続けた。

「帰ってって言ってるじゃない! 一回キスしたくらいでいい気にならないでよ! 帰れ! 帰ってぇ!」

 枕を僕に投げた。

 避けることもできたはずなのに、僕はそこから動けなかった。

「こんなの……私じゃない。……お願い見ないで……帰ってぇ……!」

 毛布に顔をうずめて、真白ちゃんは声をあげながら泣き出した。

 真白ちゃんの気持ちとか、ここでとるべき最善の行動とか、僕にはわからない。

 だから僕は、自分の感情に従うことしかできなかった。

「いい気になって悪いか」

 拾い上げた枕を、僕は床に叩き付けた。

「いい気になって悪いか! 初めてだったんだ! 昨日だってそのことばっかり考えてて中々眠れなかった!」

 思えば、こんな風に誰かに怒鳴り散らしたことなんて、生まれて初めてだったと思う。

「ごっこ遊びだけど結婚式もあげた! 僕は真白ちゃんの旦那さんで! 真白ちゃんは僕のお嫁さんなんだ! お嫁さんの側にいたいと思って悪いか!」

 自分でも何を言っているかはわからなかった。

 言い終わるころにはすっかり息が切れて、肩が上下に揺れていた。

「手だして」

「え?」

 驚いたように目を見開いて僕を見ていた真白ちゃんに、近づく。

「手!」

「う、うん」

 ビクッと体を痙攣させて、恐る恐る小さな手を僕へと差し出した。

 手袋をはいてない手をみるのは、初めてだった。

 僕はポケットに手を突っ込んで、ずっとそこに入ったままだったあれを取り出して、真白ちゃんの手のひらにそっと乗せた。

「昨日、買ったんだ」

 薬指にはめるなんてキザなことは、できなかった。

「別に渡せるなんて思ってなかったけど、なんとなく買っちゃったんだ」

 千円札三枚でお釣りがくる、安物の指輪。

「あげる」

「で、でも」

 プレゼントだなんていうにはおこがましい、ちゃちな指輪。

 でも、僕の精一杯の気持ちがこもっていた。

「あげるから」

 真白ちゃんはじっとそれを見つめて、胸元で大事そうに両手で包み込んだ。

「うん」

 それから少しだけ、話をした。

 朝起きて自分の目が青くなっていたとき、どれだけ絶望したか。

 お医者さんのお父さんが絶対治してみせると入院させたけど、手の施しようがなくて、朝起きるたびに顔が変わって、体型も少しずつ変わっていって、それがどれほど怖かったか。

「特に今日の朝、髪の毛が全部抜けちゃったのはショックだったなぁ」 

 惜しむように、笑った。

 それと、一番怖かったことを話してくれた。

 僕に病気のことを知られてしまうことだと、真白ちゃんは言った。

「本当はね。昨日会うつもりはなかったんだ」

 三日目の朝、真白ちゃんの顔に明らかな変化が現われた。

 でもどうしてもお別れだけは言いたくて、お母さんに生まれて初めての化粧をしてもらって、なんとかごまかして、僕に会いに来てくれた。

「化粧してる? って聞かれたとき、気付いちゃったかなってドキドキしてた」

 そういって、ちょっとだけはにかんだ。

 僕を想ってくれていることがわかって、うれしかった。

 もう少し僕の勘がするどかったら、僕に思いやりがあれば。

 そう考えてしまうのは今となっては無意味だけど、もしそうだったなら、もっと早く、こんな風にお互い素直な気持ちで接することができたかもしれないのに。

 真白ちゃんの不安を知ってようやく、僕は真白ちゃんそのものに触れることができた気がした。

 でもそれは、あまりにも遅すぎた。

「お父さんのお見舞いにいかなくていいの?」

「あ、そっか」

「お父さん、きっと待ってるよ」

「うん」

 ゆっくりと、真白ちゃんが用意してくれた椅子から腰をあげた。

「また明日も来ていい?」

「いいよ」

 ニッコリと笑ってくれた。

「またね」

 僕は病室から出て行った。

 僕たちの最後の明日の約束をして。 

 

 父さんは、退屈そうにベッドの上で横になっていた。

 病室に入ってきた僕を見て、その顔を輝かせる。

「どうした?」

 そして、僕の様子をみて首をかしげた。

「これ、着替え」

 父さんに鞄を渡して、僕は背を向けた。

「おいおいおい、もう帰るのか? 少しゆっくりしていけ」

 腕を掴まれて仕方なく、僕はベッドの脇にあった椅子に腰かけた。

「元気ないな」

「別に」

 何も話す気にはならなかった。

「なにかあったか?」

 それでも父さんは、しつこく僕から話を聞きだそうとした。

 観念して、話すことにした。

「遺伝子治療の副作用、知ってる?」

「ああ、最近よく聞くな。お前は遺伝子治療なんて受けてないから安心しろ。うちにそんなお金ないからな」

 何がおかしいのか、大声で笑う。

「僕じゃないよ」

「友達か?」

 頷く。

「この前知り合って毎日一緒にいたのに、今日知ったんだ。もう四日目だって、明日で消えちゃうんだって。明日もお見舞いにいくって約束したけど、どうしていいのかわからない」

「そうか」

 父さんが小さく、息を吐いた。

「女の子か?」

「なんで」

「なんとなくだ」

 父さんが得意げに笑った。

「好きなのか?」

「わからない」

「そうか」

 父さんのゴツゴツした手が、僕の頭を乱暴に撫でた。

「つらいな」

「……うん」

 いつもなら鬱陶しいって思うのに、父さんの大きな手が、今は何故か不快じゃなかった。

五日目『聞かせてあげたかったんだ』

 

「眠っている間にね、体が変わってるんだって」

 僕は朝早くから、真白ちゃんの病室にいた。

 今日はずっと一緒にいるつもりだった。

 小さいときの思い出とか、忘れたい恥ずかしい話とか、初恋とか、普段誰にも話さないようなことを、僕たちはいっぱい話した。

 途中、検査で真白ちゃんがしばらく席を外した。

 その間も僕はずっと病室で、真白ちゃんが戻ってくるのをじっと待っていた。

 真白ちゃんのお父さんは、まだ諦めていないみたいだった。

 真白ちゃんのお母さんも、何度か病室に来た。

 少しだけ話をして出て行って、お菓子とか飲み物を持ってきてくれて、また少しだけ話してから出て行って。

 家族の時間を邪魔しているような気がして出て行こうとしたけれど、真白ちゃんのそばにずっといてあげてほしい、とお願いされた。

「じゃあ寝なかったらそのままでいられるの?」

「ううん」

 僕の問いを真白ちゃんは首を振って否定した。

 気付けば、意識的に避けていたこれからの話を僕たちはしていた。

「夜になるとね、すっごく眠くなっちゃうんだ。寝ないようにしようって毎日がんばってるんだけどねぇ」

 目を細めて、笑う。

 もうその顔には、真白ちゃんの面影なんてどこにも残っていなかった。

「寝てる間に消えちゃうから、苦しくないのがせめてもの救い……なのかなぁ」

 儚げに、窓の外に目線を移した。

 何を話せばいいのかわからなくて、僕も同じように窓の外を眺めた。

 元気出して。

 僕がついてる。

 きっとお父さんが治してくれるよ。

 どんな言葉も、たぶんそれは気休めにもならなくて、真白ちゃんには届かない気がした。

「今日は雪、降らないのかなぁ」

 真白ちゃんがポツリと呟いた。

 真っ赤な夕日が、降り積もった雪を眩しく照らしていた。

「雪人くんは雪、好き?」

 こくりと頷く。

「私も好き」

 うれしそうにはにかんだ。

 なんとなく、その笑顔に真白ちゃんの面影を見た。

「私の真白って名前は雪を連想してつけたってお母さん言ってたし、雪人くんの名前も雪って字が入ってるし、共通点あるよね」

「うん」

「運命的な出会いだったのかも」

 そうだったらいいなと、心から思った。

「私が消えちゃったら……どうなるんだろう」

 血の気がさっと引いて、指先にチリチリと痛みが走った。

 僕が考えたくなかったこと。

 考えようとしなかったこと。

 漫画や小説みたいにきっと奇跡的なことが起こるんだって、そう信じようとしていた。

 真白ちゃんがいなくなるなんて……想像できなかった。

 したくもなかった。

「消えるってよくわからないよねぇ。骨も残らないんだって」

「そう、なんだ」

 明日の天気を話すような、そんな調子で真白ちゃんは喋っていた。

 たぶん、僕に気を使ってくれているんだと思う。

 一番怖いんだと思う。

 すごく不安だと思う。

 泣いてしまいたいんだと思う。

 でも僕のために、普通でいようとしてくれている。

 それに比べて、震える声を隠すことも出来ない僕は、なんて弱いんだろう。

「消えちゃって別のものになるのかなぁ。だったら私は雪になりたいな」

 窓の外を見ながら、楽しそうにそう語った。

「雪になれたら、毎年冬になったらここに帰ってこれるもん」

「うん」

「空から降る雪が全部私なの。どこにだって行きたい所にいけるよ。それって素敵じゃない?」

「うん」

「雪人くんにも会いにくるよ」

 真白ちゃんの瞳から一滴、頬を伝った。

「だから――」

 それから僕たちはなにも話さず、ただじっと窓の外を眺めていた。

 日が落ちて、あたりが暗くなって、街灯がともって、そんな景色の移り変わりをじっと見ていた。

 話したいことはいっぱいあった。

 でも普通に話せる自信がなくて、口を開くことができなかった。

 真白ちゃんもそうだったのかもしれない。

 ただただ、時間だけが過ぎていった。

 その時間が無意味だったのか、ちゃんと意味があったのか、わからない。

 でも真白ちゃんといる一分一秒を、僕は大事にしたかった。

 そのまましばらくして、真白ちゃんが目をこすりだした。

「眠くなってきた」

 それは、二人の時間が終わる合図だった。

「これ……」

 真白ちゃんが毛布から左手を出した。

「返さなくていいよね?」

 薬指に、僕があげた指輪がはめられていた。

 サイズが合ってなくて、今にも抜けてしまいそうだった。

「うん」

 僕が頷くと、真白ちゃんは本当にうれしそうに笑ってくれた。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 目を閉じると、真白ちゃんはすぐに寝息をたてはじめた。

 安らかな寝顔だった。

 あとどれだけ時間があるんだろう。

 このままゆっくりと真白ちゃんの体が薄くなって、消えていくんだろうか。

 それとも急にマジシャンに消されたみたいにいなくなってしまうんだろうか。

 そんなことを考えただけで気持ち悪くなって、気が狂いそうだった。

 だから僕は、考えることをやめた。

 何も考えずじっと、真白ちゃんを見ていた。

 その瞬間を見逃さないように。

 じっと、見ていた。

 物音がして振り返ると、病室の入り口に真白ちゃんのお父さんとお母さんが立っていた。

 静かに病室に入ってきて、僕の隣の椅子に腰かけた。

「真白は眠ってしまったか」

 腰を浮かせて、寝顔を覗きこむ。

「結局、何もしてあげられなかったな」

 真白ちゃんのお母さんが、ハンカチで自分の口元を抑えた。

 最後の時間を僕が独占してしまったことに、いまさら罪悪感を覚えた。

「真白はひどい弱視でね。なかなか治してあげられなかった。レンズを通さない世界を見せてあげたくて、私が遺伝子治療を受けさせたんだ」

 真白ちゃんのお父さんが、ぽつりぽつりと喋り始めた。

「あの時はこれが最善だと思ったのだが、結局は私が真白を死に追いやってしまった。こんな副作用があるなんて考えもしなかったよ。どうにかならないかと入院させて、ずっとこんな狭い部屋に閉じ込めて、検査ばかりさせていた」

 真白ちゃんの頭を優しく撫でた。

「退屈だったろう。色々したいこともあっただろう。でもどうしても諦め切れなくてね。真白の側いてやることもせず、治療法を探していた」

 眼鏡を上げて、親指と人差し指で両目を押さえた。

「雪人くん」

 名を呼ばれて、顔を上げた。少しだけ赤くなった真剣な目で、お父さんは僕を見ていた。

「真白はね。君のことが好きだったんだろう。楽しそうに君の話をしていたよ」

 そして、僕に深々と頭を下げた。

「娘の側にずっといてくれて、ありがとう」

 お父さんの肩は、小刻みに震えていた。

 お母さんも堰を切ったように、声をあげて泣きだした。

 ありがとう?

 僕が真白ちゃんに何をしてあげたんだろう。

 一緒に雪だるまを作った。

 雪合戦をした。

 結婚式をあげた。

 キスをした。

 喧嘩をした。

 指輪をあげた。

 おやすみって言った。

 それが何だっていうんだろう。

 特別なことはなにもしてない。

 今だって、こうやって側にいることしか僕にはできない。

 今、僕にできることがなにかあるだろうか。

 家族でいるべき時間を奪ってしまった。

 だからせめて、一緒にいる以外になにかできることは、ないだろうか。

「雪人くん?」

 無意識に、立ち上がっていた。

 ああそうだ。

 一つだけ、あった。

 真白ちゃんにたった一つ、今の僕ができること。

「僕、出かけてきます」

「しかし……」

「どうしても、真白ちゃんにしてあげたいことがあるんです」

「雪人くん!」

 お父さんの制止も聞かず、僕は病室から飛び出した。

 階段を飛び降りて、廊下を駆け抜けて、病院を出た。

 走った。

 がむしゃらに走った。

 息が切れた。

 心臓が破裂しそうだった。

 それでも構わず走った。

 何度も登った坂道。

 凍りかけた雪に足を滑らせて、僕は数メートル転げ落ちた。

 体中に痛みが走った。

 でも、構うもんか。

 彼女が好きだったあの場所へ。

 息を切らして、肩を上下させながら、僕はたどり着いた。

 手の平から血が出ていた。

 その手で僕は、アーチから伸びる鎖を勢い良く引っ張った。

 大きな鐘の音が、夜の町に響き渡った。

 何度も何度も鎖を引いて、僕は鐘の音を鳴らし続けた。

 届け。

 届け。

 届け!

 一心不乱に僕は鐘を鳴らした。

 彼女が好きだといった鐘の音。

 僕らの誓いの鐘の音。

 聞かせてあげたかった。

 最後に、聞かせてあげたかったんだ。

 真白ちゃんが消えてしまうその際にあえなくても、どうしても聞かせてあげたかったんだ。

 何度、鐘を鳴らしただろう。

 鎖を握る手はずるりと抜けて、気付けば僕は雪の上にうつぶせに倒れこんでしまっていた。

「聞こえたかな……聞こえたかなぁ」

 僕の手の甲に、何かがふわりと舞い降りて、とけた。

 

 ――私は雪になりたいな。

 

 ――雪人くんにも会いにくるよ。

 

 だから――

 

 ――そんな顔しないで?

 

「無理だよ……そんなの……」

 真白ちゃんと一緒にいた、五日間。

 たった五日間。

 友達すら作れないような、短い時間だった。

「……だったんだ……」

 僕は真白ちゃんのことをほとんどしらない。

 真白ちゃんにも僕のすべてを見せてない。

 二人がどういう関係だったかなんて聞かれても、僕には答えられない。

 お互いの関係を深めるには、短すぎる時間だった。

 でもそれでも、それでも……!

「好きだったんだ!」

 ふわふわと舞う柔らかい真っ白な雪が、泣きじゃくる僕の体を優しくつ包み込んでいった。

 

 
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