No.373495

【ヤンデレ】姉神

takesumiさん

姉がヤンデレっぽい小説です。

2012-02-05 20:03:00 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1896   閲覧ユーザー数:1881

 

 暗い部屋で終わるのだと思っていた。例えば雨の日の昼下がり、犬を散歩させていた主婦がいて、彼女が気まぐれで立ち止まり、僕の部屋を見上げたとしよう。洗濯物が干しっぱなしになったベランダにどんな感想を抱くのか。見ず知らずの部屋の主に同情する優しい心の持ち主であれば、眉をひそめて「こんな雨の日に洗濯物を取り込まないなんて、きっとのっぴきならない用事があるに違いないわ!」と叫ぶことだろう。僕は閉じた窓の隙間からその声を聞いて微笑むだけでいい。最後の力を振り絞ればそれも可能だ。人の体はそれほどやわには出来ていないと婆さんに言い聞かされたものだった。だが、腹痛の子供はすぐに病院に連れて行くべきだ。一週間の間嘔吐と下痢が続いた僕を見かねた姉が救急車を呼び、黒縁眼鏡の似合わないあの医者は事務的な口調で「食中毒です」と言った。婆さんの神話はそこで崩れた。一事が万事。傍から見た婆さんは年端もいかない孫を医者に診せなかった世間知らずだった。それまで町内会のご意見番だった彼女の言葉に誰も耳を貸さなくなると、六十を過ぎてからの三年で急に元気をなくしそのまま僕ら姉弟二人を残して逝ってしまった。僕の立ち位置はかわいそうな孫でしかなく、あれこれ口を出す婆さんを疎んでいた人間にとっては絶好の舞台装置だった。まだ幼かった頃の僕は同情を優しさと勘違いしていて、愛するが故の厳しさというものを理解できていなかった。いや、年のせいにしても仕方ない。言ってしまえば僕は頭が悪い、もっと言うなら甘ったれた子供だった。文字通り飴をくれる人たちのほうが僕を愛してくれていると思っていたし、いたずらをしでかす度に泣いても説教をやめなかった婆さんは僕を嫌っているのだと思っていた。今思えば婆さんの失敗は後にも先にも一度きりで、その一回が彼女の命取りになったのだった。僕は町の人たちに唆されるまま婆さんの言うことを聞かなくなっていった。何か言われたなら、食中毒の一件をちらつかせれば婆さんは黙る。愚かしいことに、その単語が彼女の表情に及ぼす効果に僕は痛快さすら覚えていた。彼女の神話は終わっていた。婆さんはもう僕の神ではなかった。

 右手に柔らかなものが当たっている。正確には、柔らかなものが硬くなったものが当たっている。瑞々しい弾力はもうないが、硬直した筋肉にも柔らかさは備わっているようだった。僕がそこで思い出したのは犬についてだ。雨の日に犬を散歩させたりはしない。僕が想像した主婦は結局想像の産物でしかないのだから雨の日に犬を散歩させたりするかもしれないが、普通は雨の日に犬を散歩させたりはしない。雨の日に散歩させた僕を待っていたのは婆さんの叱責だった。僕は聞き耳を持たなかった。食中毒の一言でその場を済まし、塗り絵をしに子供部屋へ向かった。勉強机で教科書を開いていた姉さんに犬の話をすると、不機嫌そうな顔でちらりとこちらを見た。姉さんは犬が嫌いだ。僕が犬の話ばかりするのも嫌いなようだった。しかしそれ以外に話題もない僕は犬の話をし続け、姉さんからまた嫌そうな目で見られる。そんなことを繰り返している内に僕は慣れていって、不機嫌な姉さんに犬の話をし続けるようになっていた。その日は雨の中でも犬が元気だったことを話していたが、犬でも風邪をひくのかとたずねると、姉さんはひくに決まっている、と答えた。姉さんの声を聞くのは久しぶりだった。それから一週間ほどして犬は死んでしまった。雨の日から三日もすると散歩に行く元気もなくなり、一日中犬小屋でけだるそうに寝そべっていた。姉さんは風邪をこじらせたのだと言った。姉さんが言うからそうなのだろう。婆さんはしきりに病院へと連れて行くべきだと言い、それはどう見ても僕と同じ徹を踏ませないための必死さだったが、その頃の僕にはもう彼女の言葉の全てが信じられなかった。そして犬は死に、僕は婆さんの言うことを聞けばよかったと少しだけ後悔した。だが幼い心の頑なさはその三倍の反発を婆さんに覚えてしまう。姉さんがしたように救急車を呼べばよかったのだ。結局犬を殺したのは婆さんなのだ。そう結論付けることに必死だった僕は犬の死を嘆くことさえ忘れていた。婆さんにそう言い放ちさえした。今となっては、犬の名前さえ思い出せない。

 死ぬということは一体どういうものなのか、想像し始めたのは婆さんが寝たきりになった頃からだった。その頃の婆さんは元気な頃と比べると別人のようで、僕からすればそれは骨と皮というよりもう別の生き物だった。骨と皮という表現では昔の婆さんと同じものに思えてしまう。変化ではなく劣化でしかない。それでも婆さんは僕を愛していて、世話係を命じられたから渋々と面倒を見る僕に何事か言葉をかける。口の中で消えて僕まで届かない言葉には聞いてすぐにそれとわかる優しさが含まれていたが、僕は気づかない振りを、聞かない振りをしてその場をやり過ごしていた。婆さんが頑として病院に行こうとしない理由を痛いほどわかっていたのに、それが当然だろうなんて子供らしい残酷さで日々を浪費していた。小学生の時間と老婆の時間は明らかに流れ方が違う。一瞬や一秒が、一日や一週間が婆さんにどれだけ貴重なものだったかわからなかった僕は婆さんが緩やかに死へと近づくのさえ感づけないままだった。今となればとても自明なことで、彼女は僕に対して罪を贖っていたのだ。たった八歳の子供に、支離滅裂な論理しか使えない子供に、食中毒の罪を。犬が死んだ罪を。婆さんを馬鹿だと嘲れるならその人は僕の敵だ。何故ならそれは婆さんから僕への愛に他ならなかった。愛は無償ではない。どんなものにも通じるように、支払うものが、通貨が必要だった。借金は帳消しにする必要がある。それが例え餓鬼のこしらえた架空の借金でも二人の間ではどうしても有効だった。彼女は僕への借金を返済するためだけに自らの命を投げ出すような真似をし続け、結果死んでしまったのだ。日のあたらない部屋。部屋に漂っているのは酸性の匂い。白髪の綺麗さだけがどうしても目に焼きついている。表情からは険が抜け、代わりに呆けにも似たなにかが満たされていく。思考の鈍化が見て取れる。それは動物だった。感性で生きていく人間以外の動物でしかなかった。僕は悲しいとさえ思うこともなく、ただひたすら姉さんが作った食事を婆さんの口に流し込み、汚物を処理し、体を拭いていた。僕の行為に愛はなかった。そこに横たわっていたものは機械の作業となんら変わりのないものだった。それなのに婆さんは礼を言い続ける。耳まで届かない声さえ理解してしまうのはそれまで共に過ごした時間ゆえだろう。その時間のお陰で婆さんと僕の間に流れていたものを愛と名づけたところで、その頃の僕にはむず痒さを超えて嫌悪さえ覚えていたろうから、気づかなかったことはむしろ幸いなのかもしれない。それほどの鈍さでも、四六時中婆さんと顔を突き合わせていたせいか、ある日僕は怖くなって泣き出してしまった。僕は想像したのだ。僕が婆さんくらいの年になったとき、同じように劣化し果てた姿を。眠る婆さんの枕元で僕は泣きながら囁いた。死にたくない、という言葉を底で一生分使い切ってしまったように思う。手に広がり暖かさで気がつくと、婆さんが僕の手を握って微笑んでいた。それが死ということについて考えた始まりの記憶で、恐らくは終わりの記憶だ。

 姉さんが僕の部屋に入ってくる。硬くなった僕の体を触り、よくわからない言葉をつぶやいた。僕はまだ死んでいないよ。そう指摘しようとして口が動かないことに気づく。これは参った。姉さんに間違いを教えてあげられないのは苦痛だった。指が僕の体を這って、心臓の位置に手が伸びる。鼓動を確かめているのだろうか。うなずいた姉さんはまた部屋から出て行ってしまった。

 姉さんが間違うことは珍しくはあったが皆無ではない。だが本当に極まれにしか間違えない人でもあった。犬が死に、婆さんが死に、姉さんが僕の神になった頃のことを僕は思い出し始める。年が十近くも違えばそれだけ理性の差が出る。理性の差は世間への正しさとなって現れる。僕はあまり頭がいいほうではなかったけれど、正しい人間の下につけるくらいの分別はあった。何より姉さんは間違うことがなかった。いや、僕ごときに失敗を悟らせなかったというべきなのだろう。間違わない人間はいないし、先ほども姉さんは間違えていたからきっとそうなんだろう。婆さんの葬式で、婆さんを嫌っていたはずのその頃の僕が何故か泣いてしまったとき、姉さんは僕を泣き止むまで抱きしめてくれた。それを見ていた僕らの親類だという人たちは涙を流し、何人かが僕らを引き取るといい始めてくれたのだった。それは姉さんが子供という利で勝ち取った手柄でしかなく、僕を抱きしめながら冷ややかな目で葬式に集った全てを眺めていた彼女がいっそ清々しいまでの計算高さを備えていたことを僕は知っていた。僕には姉さんが僕なんかを愛していないことはわかっていたがそれでも僕は姉さんを愛した。彼女は間違えなかったから。そして僕を見捨てなかったからだ。僕らは結局ほとんどを二人で過ごしていた。引き取ったのは自分なのに愚痴愚痴文句をたれていた叔父は一年を待たずに事故で死んでしまい、結局僕らはまた二人きりに戻る。人生二度目の葬式で僕は泣かなかった。そのお陰で周りをよく見ることができ、周りの大人たちが僕らをどこか気味悪そうに眺めているのを悟ることができた。この短期間で養い手が二人も死ぬというのは冷静に考えれば妙なことではあった。「私たちは孤独ね」と姉さんは二人きりになった家で笑ったことがある。葬式が終わり、親類の皆が帰り、まだ慣れない家の風呂に二人で漬かっていたときのことだ。二人は孤独ではないと僕は言いたかったけれど、笑う姉さんが余りにも綺麗で喋ることができなかった。だけど僕は気づいていた。姉さんは僕を愛してはいない。だから僕はそうだね、と笑って同意しても、二人が孤独だとは思っていなかった。孤独なのは姉さんだ。僕には姉さんがいるから孤独ではないけれど、姉さんには誰もいないから孤独だった。もしその頃の僕にそういえるだけの勇気や覚悟があったのなら、未来で僕らは幸せになれたのだろうか。今でも時々そんなことを考える。でも、そのときの僕には彼女を支えるだけの力も心も持っていなかった。姉さんが先に風呂場から上がったのを見届けて、僕は湯船に頭を沈めて少し泣いた。それが精一杯だった。

 次に僕らを引き取った人たちは僕らと一緒に住まなかった。僕らを叔父の家に住まわせ、自分たちは婆さんの家に住んだ。姉さんはそれで満足しているようで特に文句を言うことはなかった。それからは誰も死んでいない。この家で人が死ぬことはなく、犬も飼うこともなく、僕らは二人きりで過ごした。姉さんは婆さんの遺産で大学へ進学し、大学院へ進み、そのまま大学で勉強を続けていた。僕も頭が悪いなりに勉強した成果かなんとか高校へ進むことができ、野球部に入ったりもしてそれなりの青春を送っていた。そしてそれが間違いだと気づくのにそう時間はかからなかった。仲のいい女子マネージャーを家に連れて帰ることがあり、姉さんが帰ってくるまで僕らはジュースを飲みながらレンタルしてきた映画を見ていた。玄関から聞きなれた音がしたので振り向くと、やはりそこには姉さんが立っていた。おかえりを言う間はなかった。それは控えめに言ってみても狂乱で、僕姉さんは出て行け出て行けと叫びながら持っていたバッグで少女を殴打して出て行け出て行け出て行けと繰り返した。僕の友人だった少女は次の日から僕を避けるようになった。私たちは二人きりでしょうといって僕の腕の中で子供のように泣く姉さんを見てから僕が友人を作ることはなかった。高校もその事件があってすぐにやめてしまった。姉さんは僕の神なのだから世界は神の思うとおりにあるべきだ。二人の養い手の遺産のおかげでお金に困ることもない。姉さんの給料も少しずつ増えていく。姉さんの言うとおり、この家には二人きりでいい。

 五年が経つ。ベランダで干し物をする僕を見て、心優しい主婦はなにをどう思ったのだろう。最初ドアを開けたときにその人が誰か僕は気づかなかった。彼女が名乗っても一時は思い出せなかったくらいだ。それも当然ではある。うちにあったテレビは姉さんがバットで壊してしまったし、家に電話もない。買い物に必要な会話なんてほとんど皆無に近いし、だから姉さん以外の人間と話すのは本当に久しぶりだった。元マネージャーの彼女にそう言い訳をすると、彼女は口に手を当てて信じられないというジェスチャーを見せたあとにそれはおかしい、異常だ、とまくしたてた。僕がそうかなというと彼女は我が意を得たりとばかりにさらにまくしたてた。警察に、いえ、これは裁判にもちこんだほうがいい、あの女は精神病院へ、そして貴方は普通の人生を送るの。まずは同意をして、ちょっと話しがしたいなに姉さんは最近は夜遅くまで帰ってこないんだと家へと招き入れ、すっかり上機嫌でにっこりと笑う彼女にバットを一振り。赤と黒の中間色が油のような感触で身に染みた。彼女の優しさと姉さんを侮辱したことについて相関関係はあまりない。感謝と憤怒が同居することは僕にとって特に問題のない心理だ。脱力した人間の体は重かった。引きずって部屋に放り込んでそのままにしようかと思ったが、思い直して壁に立てかけ、僕自身も部屋に入り扉を背中で押して彼女の隣に座った。使っていない部屋だったこともあり部屋は薄暗い。カーテンを閉め切って物がほとんど無い部屋で、姉さんが趣味で置いている窓辺の黄色い花だけが鮮やかだった。姉さんの帰りを待たなくてはいけないがそれまでかなり時間がある。その間、彼女と思い出話でもしよう。

 彼女はお世辞にも美人とはいえなかったがよく気がつく人で、周りの人間からは姉や母に例えられ慕われていた。姉はともかく、母に関していうなら僕にもそんな風に感じられたことがあった。僕に母の記憶はないが、時折大事に感じられ、それ以外の大半にうっとうしく感じるものだ、という知識に合致する人だったように思う。とはいえ十年も前のことだしそれほど鮮明な記憶があるわけでもない。ただ、野球部に入ったのも彼女に原因があったことはよく覚えている。僕は高校に入っても、中学の頃と同じようにクラスで孤立していた。自覚はしていたもののそれに関して不満も問題もなかったので積極的にクラスの輪に溶け込もうとしたりはしなかったのだが、そこに彼女が口を出してきた。だって寂しいじゃない、が彼女の口癖だった。クラスで孤立するというのは彼女からすれば寂しいことで、だから私が面倒を見てあげるということだった。僕は寂しいと思わなかったのでその旨を伝えると、へんな人、といって彼女は笑った。いいからこっちに来なさいと手を引かれて連れて行かれたのが野球部で、なんだかんだと理由を付けられ入部する羽目になった。在籍したのは退学するまでだったので半年ほどだっただろうか。彼女はよく働いて、先輩や同級生からも評判のマネージャーだったように思う。後ろで結った長い髪を揺らして走る彼女の姿はクラスや学年を通しても有名で、成績が優秀だったせいもあるのか、投票で学年代表に推薦されたりもしていたはずだ。彼女は例の事件があって以来僕を避けていたが、退学の話をどこかで聞きつけると僕を問い詰めた。曰く、私がされたことが原因ならそれはお門違いだからやめないでほしい、だっただろうか。僕は首を振った。手続きは済んでいたし、僕が高校を辞めることにした理由は彼女にあるのではなく姉さんにあったからだ。それ以来僕は彼女と会ったことはなかった。そもそも連絡の手段もなければぼくにその意思も無かった。彼女が玄関先で話したことによると、今は二児の母で専業主婦をしているらしい。この子、といって連れていた犬を指し、この子まで入れたら五人家族ね、と昔と同じ笑顔を見せてくれたのが印象的だった。彼女の子供たちはこんな母親と過ごせて幸福だろう。出来ることなら僕と姉さんもこんな親に恵まれたかったと思う。姉さんは否定するに違いないけれど。犬を思い出し、玄関まで戻って犬が繋がれた紐を解いてやった。ミニチュアダックスフントといっただろうか。足の短さが愛嬌に繋がっているその犬は、僕が構ってくれるとでもおもったのか息を荒くしながらじゃれてきた。犬は懐かしいが、もう既にどうでもいい存在でもある。家に入ってこないように気をつけて戸を閉めると、外で何度か吼えていたが、すぐにその声もしなくなった。誰かいい人に拾われればいいが。僕は家に入れてあげてもいいしつないだままでもいいのだが、姉さんは子供の頃から犬が嫌いなので仕様が無い。僕は彼女がいる部屋に戻るとまた隣に腰を下ろした。もう思い出せるものは無かった。目を瞑る。

 衝撃で目を覚ます。気がつくと僕の頭から血が流れていた。どうやら殴られたようだ。起き上がろうして失敗し、上体のバランスを崩したまま床に倒れこむ。そのままもう一度頭を打った。痛みの感覚はほとんどなかったが意識がどうにもぼやけていた。先ほど目を覚ました瞬間の視界に見えたのは、隣に立てかけておいたはずの彼女だったような気がする。目を覚ました彼女に一撃を入れられたのだろうか。倒れた視界に見えるのは黄色い花と陶器の破片、そしてうつぶせに倒れた彼女だった。この部屋には確か花瓶が置いてあったはずなので、それが凶器なのだろう。それで僕を殴り、力尽きてまた倒れたという具合か。愛に通貨の交換が必要なように、怒りにも通貨の交換が必要だから、この結果は順当過ぎるほど順当だった。一撃には一撃。ああ、それにしてもこの黄色い花はなんという名前だったか。姉さんならわかるのに。早く帰ってこないだろうか。朦朧とする意識の中で、僕は有り余る時間を死について思い出すことにした。近いうちにそうなるであろう運命についてだ。あの時婆さんは寝たまま笑って僕の手を握り、口の中で消える言葉を何度も何度も囁いていた。その言葉を僕は思い出せないが、その意思は覚えている。あれが愛だ。僕を支えようとする声だ。僕は死にたくないと飽きるほど繰り返したが、死ぬということはそれほど恐ろしいことではない。愛しい人がいる人間は死ぬことが恐くない。愛する人がいない人間が恐怖を感じる部分に、まるごと悲しみが納まるからだ。愛する人と会えなくなるという悲しさが詰まるからだ。婆さんは悲しそうな目で、僕を愛する言葉を囁き続けていた。

 それがわかった僕は姉さんを愛した。だから僕は死ぬことが少しも怖くない。姉さんは神様で、行為のほとんどが正解だ。何故なら、神様は間違わないから。犬を殺した姉さんも婆さんを殺した姉さんも叔父さんを殺した姉さんも間違いではない。僕には理由は教えてくれなかったけれど、僕に彼らを殺したといったからには殺したのだろうし、そこには間違いもないはずだ。ただ姉さんも、神様とはいえ完璧ではないので時には間違うこともあったけれど。扉が開く音。姉さんが入ってくる。血を流して倒れる二人を見て、彼女がなにを思ったのかはわからない。ただ、間違いの少ない姉さんが、ここでとんでもない間違いを起したことを僕は悟った。二十年以上愛し続けてきた人だから、場に流れる空気で全てがわかってしまった。

「そう、そんなにその女がいいの」

 違うよ姉さん。僕が愛しているのは姉さんだけだ。そういいたいが口は動かない。姉さんは僕を愛していないから、僕のいいたいことをわかってくれない。そのまま部屋から出て行ってしまった。左手の感触に気づいたのはそのときだった。倒れた彼女の右手が当たっている。これが間違いの決め手になったのだろう。まったく、姉さんはそそっかしいんだから。家に女の子が来ているだけで何を勘違いしたのだろう。仕方ないなあ姉さんは。これで本当に一人きりになってしまうよ。僕がいなくなって、愛してくれる人がいなくなって、独占できる人間がいなくなって、それでどうするだい。姉さんのことだから後悔はきっとしないだろうけど、死ぬことが怖いまま生きていくことになってしまうのに。僕は僕が死んでしまうのが悲しかった。姉さんを残して死ぬのが悲しかった。だけど僕はもう死ぬしかないのだ。姉さんの孤独を生めることは一生をかけても結局叶わなかった。ああ、悲しいな。悲しいな。

 

 それから姉さんは何度か部屋を訪れて僕の鼓動を確かめる。姉さんに助ける気がない限り僕は死ぬしかない。視界の中の黄色い花は少しずつしおれていき、部屋はカーテンが閉められたまま薄暗いままだった。そのまま暗い部屋で終わるのだと思っていた。何度目だったかは数えていなかったかはわからないが、きっと百回以上開いたはずの扉の向こうから、小さな姉さんが出てきた。

「早く起きなさい、おばあちゃんが待ってるわよ」

 そして僕の布団をはがし、カーテンを思い切り開いた。

 光は目の奥を焼くように閃いた。思わず目をつぶる。

「はやく、はやく」

 左手に感触。姉さんの手だろう。目が見えない僕は姉さんの手を思い切り握る。

 二人で階段を下りていくと婆さんが作った朝ごはんが待っているだろう。手をつないだ僕らを見て婆さんが仲良しだね、といって笑い、顔を見合わせた僕らもお互いに笑いかけて、つないだ手にもう一度力を込める。

 そうして、僕らの幸せな日々が始まるのだ。

 

 
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