「いやあ本当にありがたい! 足が棒みたいになってておなかもすくし雨も降るでしょ? 野宿したら死ぬんじゃあないかと思いましたよ全く。地獄に仏というやつですね。仏ってご存じですか?僕が好きな神様なんですけどね。あれ、神様じゃなかったかな?」
一息にしゃべり終えた男は首をひねる。薄汚れた燕尾服と潰れてボロボロになったシルクハット。その下にはボリュームのある白髪が伸び放題になっており、まるで社交場で踊っていた紳士がそのまま時を過ごしたような、ちぐはぐな格好をしている。その癖背筋はぴんと伸びており、片眼鏡が邪魔をしてよくは見えないものの、まだ青年と言えそうでもあった。ところどころ動きが芝居くさいせいもあり、なんだか何かの役を演じている大根役者のようでもある。
「いえいえ、こちらこそありがたい」
縦長のテーブルの向かい側に座った老夫婦は、にこにことうなずいた。いかにも農夫でございと主張する襤褸をまとっている割りに、食堂の調度や食器はきちんと手入れされている。まるで宿屋の仕事だった。
「私たちがこんな辺鄙な森の中に住んでいるのは、あなた方のような旅の方にお話を聞かせていただく為というのもありますから」
なるほど、老夫婦の背後の窓には鬱蒼と森が広がっている。およそ人が住むには適さない場所。
なにしろ街道から逸れに逸れた森のど真ん中にこの家はある。町と町を結ぶ街道は森を迂回するように敷かれている為、確かに森を突っ切れば近道にはなるが、野党や獣が出るルートを通る物好きは多くない。
とはいえ、旅費や食料に不安のあるものはやむを得ず、また腕に自信のある者は好んで森を通ることもあり、行き交う人は決して少なくもない。その内の半分程度が帰らぬ人となっていても。
男もまたにこにこ笑い、先ほどまで食事の乗っていた皿を手で示す。
「私たちの旅のお話ならいくらでも聞かせてさしあげますよ! この食事の対価にはそれじゃ少なすぎるくらいですけどね。ほら、ルクス、君もお礼を言いなさい」
男の隣でぼんやり座っていた小さな女の子が、ほんの少しだけ首を縦に動かした。礼のつもりらしい。
まだ十にも満たない年に見える。男とは対照的な真っ黒い髪を首のあたりで短く刈り揃え、前髪はきれいに直線を描いている。真っ黒な飾り気のないワンピースは、しかしよく見れば仕立ての良いものであることがわかった。
「やれやれ。申し訳ありません。どうやら反抗期らしくてね。なかなか言うことを聞いてくれないんですよ」
「いえいえ。そのくらいの年の子にはよくあることですから。お嬢ちゃん、飴好きかね? あげようか?」
老婆がしわがれた声で女の子に話しかける。うつむいていた女の子が顔をあげ、老婆と目を合わせる。じっとりと闇を含んだ目。睨むわけでもなくただ見つめているだけなのに、老婆は思わずといった感じで目を反らした。取り繕うように手をすりあわせる。
「飴は嫌いみたいだねえ」
「あはは。この子は甘いものが苦手なんですよ。子供らしくないでしょう?」
言って、男は女の子の頭を撫でる。女の子はうれしがるでもいやがるでもなくただ撫でられるがまま。
「ああでも、もちろん子供らしいところもありますよ。この森には悪魔が出るという噂を町で聞いたんですが、その話にすごく興味を持ったようでね」
それを聞くと、老夫婦は顔を見合わせて笑った。
「悪魔、悪魔かあ。確かにこの森では時々ひどい傷の死体を見つけることがあるよ。あれは悪魔の仕業かもねえ」
夫は両手で角の形を作って頭の上で揺らしてみせた。少女はそれを見てうつむく。夫婦はまたくすくす笑い声をあげた。
「ははは、大丈夫だよお嬢ちゃん。悪魔といえばねえ、私たちも三、四年前までいろんな場所を回っていて―――王都なんかもいったんですが、悪魔を作ってるとかいう場所を噂で聞いてね。いってみましたけど、なにもないところでしたよ」
だから大丈夫だ、と言わんばかりに少女を見る。やはり少女は顔をあげなかったが。
「やあやあそれはいいことですね。悪魔なんていないに越したことはないですから」
人なつこい笑みを浮かべる男と無愛想に床を眺める女の子。ふたりそれぞれちぐはぐな格好をしているせいで、並ぶと違和感がさらに強まる。
少女が答えず、男ばかり笑っていることにとまどったような視線を向けられていると気づいたのだろう。男は笑いの質を少し変えてみせた。どこか憂いを含んだ、他に仕様のないから仕方なく笑っているとでも言いたげな笑み。
「ああそうだ、僕たちの話をするんでしたね……そうだな、何から話そうかな。冒険らしい冒険をしてきたわけでもないんでね。退屈な話にならなければいいんですが。ああそうだ、この子の生い立ちをお話ししましょう」
そう前置きし、男は話し始めた。
少女はある村に住んでいた。とても狭い、五十人にも満たない村。
その町で少女は暮らしていた。気がついたときには親はいなかったが、村の皆が親代わりになってくれた。同じくらいの年の子供もたくさんいて、何不自由なくすくすくと育っていた。
村のみんなは少女にいつもこういった。お前の元に王子様がきっと来てくれるから、その日のためにしっかり勉強するんだよ。
少女はその話を信じて毎日勉強し、村のみんなの話をよく聞いてお利口に暮らしていた。
あるとき村に噂が流れた。隣の町に殺人鬼が現れたと言う。何人もの人間が犠牲になったらしい。まだ逮捕されておらず、逃げ延びた可能性が高い。この村に来るかもしれない、というものである。
村は色めきだち、自衛の為に徒党が組まれた。男たちはそれぞれ刃物を、女たちは棒を構えた。子供たちも護身用にナイフを持たされた。少女もまたナイフを持たされ、夜はもちろん昼も外に出ないように言われた。
しかし次の日、少女は村はずれの森に出かける。殺人鬼なんて馬鹿げた噂を信じているなんて大人の方が子供みたいだ。そんなことを思いながら。せっかく手に入れたナイフで少女は果物を取り兎を狩った。見つかれば大目玉に違いないが、獲物を見ればきっと褒めてくれるだろう。
村に帰ると辺りが血の海だった。隣の家の男の子がその親が死んでいた。はらわたをちらかしてばらばらになって死んでいた。誰かわかる死体はまだ良い方でほとんどの死体が原型をとどめていなかった。人の死体なのか獣の死体なのかすらわからなかった。
少女は生きている人間を求めて村をさまよった。しかし行き着く先にあるのは死体だけだった。死体死体死体。死体の山と血の海が村を様変わりさせていた。まるで知らない場所に迷いこんだようだった。悪夢に浸かっているようだった。少女はふらふらさまよった。そして、たったひとり立っている人間を見つける。
「犯人を見つけたわけで?」
老夫婦は沈痛な面持ちで話を聞いている。男はうなずき、少女の頭を撫でた。
「この子はその殺人鬼を殺すために旅をしているわけです」
「ははあ……こんな小さな子供がねえ、気の毒なことで」
それから男にうろんげな視線を向けてくる。
「ああ、私ですか。私も幼い頃この子と同じ村で暮らしてましてね。同郷のよしみというやつですよ」
やれやれとばかりに両手を振ってみせる男を、少女は見もしない。
「長い旅になるとは思いますが、ね」
にこやかな顔に似つかわしくない血なまぐさい話が終わり、老夫婦は顔を見合わせた。
「いやあ、大変興味深い話でした。最近聞いた話の中では一番でしたよ。なんと可哀想な運命だ」
「そうですか? だったらこの子も報われるでしょう」
そういわれてもやはり少女は微動だにしない。夫の方がちらりと彼女を見る。
「そうだばあさん、奥に何かあったろう。甘くないやつが」
「ああそうですね、ちょっとお待ちください」
妻が太った身体をふりふり、台所の方に消えていく。
「しかし、ひどいことをする人間がいたものだ。悪魔のようだ」
夫は無念とばかりに首を振る。少女に気遣わしげな視線を向け、ため息をついた。
「死んで良い人間なんていない。そうは思いませんか。私たちはここでたくさんの人たちの話を聞いてきた。幸せな話、悲しい話、様々だった。人が生きれば生きるだけ同じ数の物語が生まれる。それを潰すなどと。それこそ悪魔ならばともかく……悪魔など、いなかったのですからね」
「仰るとおりです。人の世は愛憎渦巻くことが常ではありますが、いかなる場合にも人殺しは許されざる罪です」
「ええ、ええ」
「そこに快楽を覚える類の人間もいるようですが、すぐに死をもって購われるでしょう」
男と夫はうなずきあう。
「ところで……あなたはどのような物語をお持ちなんで?」
少しばかり芝居がかった口調で夫が言うと、男はとんでもなく芝居がかった口調で返した。
「よくぞ聞いてくださいました。聞くも涙語るも涙―――といきたいんですが、何せ今やケチな手品師でしてね。見たらわかるでしょう?」
と、ボロボロのシルクハットをひっぱってみせる。
「ははあ。手品師ですか」
予想もしない答えだったのだろう、とまどった様子の夫に、しかし男は構わず続ける。
「ええ、ええ。ここで一つばかり手品を見せてさしあげたいのですが、まあそれは後に回しましょう。たいしたものじゃあないんでね。昔は最高傑作などと呼ばれていたんですが、全く過去の栄光というやつですよ、ええ」
「はあ」
男は頷く。頷いてはいるが、さして面白い話は出てこないと判断したのか、少女の時と比べるとぞんざいな対応だ。
「傑作でしょう?」
「ええ」
「笑うところですよ」
「はは」
「アハハ」
男がひとりで楽しそうに笑っていると、台所の方から声がした。
男と同じくらいに楽しそうな声。これから見せられることが楽しくてたまらないといった風な。
「ありましたありました。飴玉の代わりといっちゃあなんですけどね」
妻は顔だけ出していたずらっぽく言う。少女が顔を上げた。
「きっと驚くと思いますよ」
現れたのは銃口。
激鉄は既に起きている。
「鉛玉っていうんだけどね」
引き金が絞られる。
その、一瞬手前。
照準していたはずの少女が妻の視界から消えていた。
先ほどまで石像もかくやと動かなかったというのに。
哀れ銃弾は空を切り壁に着弾する。
二度目の激鉄が起きる前、妻が驚いた顔になるよりも早く。
銃弾を真似るように、銃そのものが吹き飛んだ。
ようやく妻の顔が驚きを表す。
それは目の前に現れた少女への驚きだったか。
それとも銃と共に吹き飛んだ自分の手首から先への驚きだったか。
「あああああああああああああッ!?!?!?」
更に一拍遅れて叫び声と鮮血が吹き出す。
テーブルの下に潜った少女が常軌を逸した速度で距離を詰め、手を切断したのだと、本人はわかっているかどうか。
夫は立ち上がり胸元からナイフを取り出している。しかし近づけない。なぜなら見えなかったから。隣にいても見えない速度だった。近づけば斬られる。
少女の手にはナイフと言うにはあまりに大きな、鉈に近い大きさの、蛾と蜘蛛と蛇がのたくって一つなったような禍々しい意匠が施された短刀が握られている。刀身を汚す血液がなければ、彼女のぼうっとした表情のどこにも惨劇の要素はない。
男は座ったままにこにこしている。
「ルクス、今回は殺していい」
声とほぼ同時、妻の叫び声がかき消えた。
目にもとまらぬ速さで少女のナイフが喉を切ったのだ。夫がそれを確信する前にさらにもう一振り。今度は刺突。寝かせられた刃が肋骨の隙間から左胸に潜った。先ほどまでこの世のものとは思えない叫びをあげていた人間は、人間ではなくなりどさりと床に転がった。
「……指示より先に切ったろ」
咎める声。子供の悪戯を叱るような。
「うるさかった」
ルクスは男の方を見ない。憤怒の表情で睨み付けてくる夫の方を先ほどと同じ表情で眺めている。
「何なんだ貴様ら!」
夫の叫び。ルクスは構えるでもなくだらりと短刀を下げて立っている。男は「何と言われてもねえ」と足を組んだ。
「わ、私たちは幸せに暮らしていたのに! 何の恨みがあって! こんなことを!」
目を血走らせて泡を吹く夫。先ほどまでの好々爺然とした雰囲気はみじんも残っていない。
「それは申し訳なかった。悪気はないんですよ」
男の答えは、まるで飼い犬が通行人に噛みついたような、庭の木の枝が隣の家の敷地に入ってしまったことを謝るような、軽い調子だった。
「ひひひ、人を殺すことはなァ! かかかか軽い気持ちでやっていいことじゃねえんだよォ……人の織りなす物語を! 否定するのなら! それ相応のなァ!」
「あなたはどうか知らないが」
叫ぶ夫を低い声で遮って、男。
「私は今この瞬間に死んでも良い」
笑う。
「死ねるのならね」
「あああああッ!! 殺す殺す殺す! 殺すッ! ああああああああッ!!!」
夫は男の言質を取ったとでも言わんばかりに走り出した。飛び上がってテーブルを乗り越えようとして、
「うぇひっ」
足を滑らせたようにテーブルの上でバランスを崩し、肩と頭を打ち付けて床に転がった。
「ああああああッ!あああああああッ!」
書き文字ならばほとんど同じ叫び声は、しかし先ほどと大きく意味を違える。
憤怒が暴発した裂帛の気合いと、
「おおおおおおれの! 俺の!」
痛覚の奔流を歌った悲痛な叫び。
「俺の足がァァァッ!」
叫び声通り。
夫の右足から先が、妻の手首から先と同じく、きれいさっぱりなくなっていた。
元々そこにあったはずの足は、靴と一緒に力なく横たわっている。
どくどくどくどく吹き出す血をすくい集めるように手でかばうが、当然血が止まるわけもない。
その様をここを訪れたときから寸分変わらない顔で見つめる少女。下手人は当然彼女だった。
「ほら、やっぱり死ねなかった」
いつの間にか立ち上がった男がテーブルを回り込み、男の前に片膝を立てた。
「ヒィ……ヒィ……」
「なあ、殺すんだろう? 殺してくれるんだろう? なあ」
男は変わらずにこやかだった。公園で遊ぶ親子を眺めるように、足がなくなった夫を眺めている。
「なあ、答えてくれよ」
「ヒッ」
耳元でささやかれた夫は、反射的にだろう、持っていたナイフを振り上げた。
そして刺す。
男の首元に、深々とナイフが突き刺さった。
「アッ! ヒャ!」
思わぬ成果に顔をほころばせる夫だったが、その表情はみるみる曇ってゆく。恐る恐るナイフを引き抜くと、引き抜いた刀身には何も付いていなかった。肉も、脂肪も、血液さえも。
傷ついていたはずの肩は元通り。刃の痕跡は破れた服にしか残っていない。
「なあ」
男が笑う。
「殺してくれよ」
「ああああああああああああ、悪魔、悪魔、悪魔アアアアア」
夫はがたがた震えてじたばたともがく。逃げようとしているが手足がうまく動かないらしい。血を失いすぎていることもあるだろう。ばたばたじたばたと死にかけた虫を想起させる動きで必死に男から遠ざかろうとする。
男は立ち上がり、少女と同じようにその動きをただ眺める。男は少しずつ、少しずつ前へ進み、仰向けに寝ころぶ妻の元へ寄り添った。
彼女の傍には、壁に跳ね返った銃がある。
少女がそれに気づき構えようとしたが、男が制する。
「お、お前ら……お前ら、あの村の……チャイルドプレイの……生き残り……かッ……」
男と少女は答えない。男が笑い、少女が見下ろすだけ。
「悪魔、め」
夫が銃を手に取る。
構える。
撃った。
乾いた火薬の音がした。
自分の口の中へ放った銃弾で、夫は愛する妻の元へ旅立った。
男と少女は一時折り重なるふたりを眺めていたが、しばらくして部屋から出て行った。
次の日。
案内された通りの部屋で一晩を過ごした男と少女は、雨上がりの道を歩いていた。
「なあルクス、どうだったあいつらは? 歯ごたえあったか?」
少女は首を振る。
「そうだろうなあ。たいしたことなかったな。結構殺してるはずなんだがな」
森に出る行方不明者の一部、もしくは大部分を殺している殺人夫婦。その筋では有名な連続殺人の犯人が森で隠居している……その噂を聞いて駆けつけたのだが、男にも少女にも期待はずれだったらしい。
「でも生の殺意は貴重だからな。浴びといて殺しといて損はない」
少女は聞いているのかいないのか、ただ歩いている。あの状態なら無理心中として処理されるだろ、という言葉にも反応しない。
男は思い出したように言う。
「なあルクス、死体のことを仏というって知ってるかい?」
少女は首を振る。
「神だの悪魔だの鬼だの仏だの……恐ろしいこったな。ルクスは信じてるか?」
少女は首を振る。そして答える。
「見たことない」
少女は男の顔を見る。
「だって、人間が一番恐い」
その言葉を聞いて、一時男はきょとんとしていたが、すぐに笑いだした。
「まったく、優しいなあ、お前は」
けらけら笑ったあと、上を見上げる。木々に隠され空は見えない。朝のはずだがただただ暗い。しばらく眺めて、諦めたように前を向く。
それから、また、思い出したように言う。
「なあルクス」
笑っている。自嘲するように。
「はやく、俺を殺せるようになってくれよ」
少女はうなずく。
それきり言葉を交わさず、かつて村の最高傑作と呼ばれた男と、男を仇とする少女は歩く。
ふたり並んで、足並みを揃えて。
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とある企画で書いたものです。殺人鬼」「心中」「愛憎」で書いた三題話。