その二十一、覇王? 奸雄? 華琳様
戦においては圧倒的不利な戦況でも平然と勝ってみせ、個人でも一人で数十人を倒せるほどの武勇を持ち、政治においてはムダな贅沢をやめさせて有能な人材を見つけるとそれを招いて適切な官職につけ、きちんとした法をつくって世の中を安定させた。
また詩を書けばすべて音曲となり(そういえばアニメでは作詞・作曲をしていましたね)、草書・音楽・囲碁でも当時五本の指に入り、さらに医学の知識も持ち薬の処方まで心得ていた。
これが三国志に出てくる曹操(華琳)の覇王たる一面です。
一方、軽佻浮薄で威厳がなく、若いころから勝手放題、敵は容赦なく殺しつくし、法を厳しくして自分よりもすぐれたものやうらみを持つものはそれを利用して殺害し、それでいて自分が法を犯したときはうまく言いつくろってごまかしてしまう……。
これが三国志に出てくる曹操の奸雄(というか悪人)の一面です。
この評価の差がのちの三国志を元にした作品に大きな影響をあたえるのですが、同じ三国志の中で、なぜこのような二つの評価が生まれてしまったのでしょうか。
実は三国志の中には、陳寿の書いた『正史』と呼ばれるものの他に、『注』と呼ばれる『正史』以外の史書から引用した話(エピソード)が大量に附記されています(以前出てきた『趙雲別伝』もこの中に入ります)。
この『注』というのは、作者である陳寿の死から約130年後に裴松之(はいしょうし)という人物がつけたもので、多くの異説・異論を引用したために、とくに曹操の場合、史実としてきちんとしたものから曹操を持ち上げるために事実を誇張して書いたと思われるもの、また逆に呉などで意図的に曹操を貶めるために書かれたものや、さらには珍説・奇説やただの創作ではないかと疑われるものまで大量に後世にのこり、このような差が生まれてしまいました(ただし裴松之自身は、明らかに間違っている話やうたがわしいものには、きちんと「これはおかしい」というただし書きをつけていました)。
とはいえ、この『注』のおかげで、簡略に書かれている『正史』には出てこない武将達のこまかい事蹟や性格の陰影が載せられ、それを元に『演義』やさまざまな作品がつくられていきました。
つまりこの『恋姫』ができたのも、裴松之さんの『注』のおかげなんです。
その二十二、華琳様が嫌われた理由。
前回『注』について書いたので、今回はついでに曹操(華琳)がなぜほとんどの作品で悪役になってしまったかについて書いてみたいと思います(『恋姫』と関係のない話ばかりですみません)。
曹操が嫌われた理由。それは徹底した法家だったことが一番大きいのではないかと思います。
法家とは、『徳』や『礼』といったあいまいなものを政治から遠ざけ、明確な法律や刑罰を制定して富国強兵をはかるという考えの一派で、曹操の徹底した能力主義や合理主義も、この思想からきているとされています。
しかし三国時代以後の中国では、基本その『徳』や『礼』を重視する儒家といわれる人達が政治や学問の主流(というか科挙以降全員儒家)となり、法家=法で民衆をしばりつける冷酷な悪人ということにされてしまいました(今の感覚でいえば、きちんとした法律があったほうがいいと思うんですけどね)。
ちなみに三国志には曹操のほかにも法家らしき人物が何人かいて(賈ク・程昱・于禁など)、そのほとんどがのちに書かれた小説などで悪役にされているのですが、一人だけ法家でありながら常にイイ役でありつづけた人がいます。
それが諸葛亮(朱里)です。
諸葛亮も政治や軍事では厳罰主義でのぞんだバリバリの法家だったのですが、うまいこと一番の嫌われ役であった曹操の敵に回り、ついでに主君への忠義をアピールすることで、悪役になるのをまぬがれました。
これも孔明の罠……なのでしょうか?
その二十三、曹家と夏侯家、そのルーツと血縁関係
恋姫ではいとこの関係にある華琳様と夏侯姉妹。
ではその大本である曹家と夏侯家とは、どのような関係だったのでしょうか?
曹家の先祖は曹参(そうしん)といい、三国志の時代からおよそ四百年前の秦末漢初、いわゆる項羽と劉邦の時代。漢王朝をつくった劉邦に挙兵した直後からつきしたがい、のちに漢王朝の相国(丞相)となった人物でした。
一方夏侯家も、夏侯嬰(かこうえい)という人物が挙兵当初から劉邦の御者(馬車や戦車を操る人物)として活躍し、一番そば近くに仕えるものとして何度も劉邦やその家族の危難を救い、劉邦から一番の信頼を得た人物でした。
二人は同じ沛(はい)という町の出身で、当然交流はあったと思いますが、そう考えると曹家と夏侯家は四百年もの間、深い交際を続けていたことになります。
そして宦官であった曹操の祖父、曹騰の跡継ぎに夏侯惇の叔父にあたる夏侯嵩(かこうすう)という人物が養子に入り、曹嵩となったその人物から曹操が生まれました。
ちなみに、桃香様の先祖にあたる劉邦も沛の出身ですから、そう考えるとずいぶんと長い因縁ですよね。
その二十四、逆じゃね? 夏侯姉妹
軍中にあっても先生(学者)を呼んで講義を受け、性格は清潔でつつましやか。余分な財貨があれば人々に分け与え、財産づくりにつとめなかった。
これが三国志に書かれている夏侯惇(春蘭)です。
急襲を得意とし、しばしば勝利をおさめたが、武勇を頼りにして知略を用いないためよく曹操に注意され、敵の劉備からも猪呼ばわりされていた。
これが三国志に書かれている夏侯淵(秋蘭)です。
……えっと、これって逆じゃね?(ちなみに夏侯惇と夏侯淵は『正史』では兄弟ではなく族兄弟、同世代の親戚ということになります)
ついでにもう二人。
長らく夏侯惇配下として活躍し、のちに親衛隊を率い、飲み食いの量は人の二倍あった。
これが三国志に書かれている典韋(流琉)です。
人柄が慎み深く、質朴で重々しく言葉すくなであった。
これが三国志に書かれている許緒(季衣)です。
……えっと、それもちがくね?
その二十五、春蘭のあだ名の原因は秋蘭?
『盲夏侯』……。『恋姫』にも出てきたと思いますが、これが夏侯惇(春蘭)のあだ名です。
名前の由来はもちろん左目を負傷していたからですが、本人はそれを嫌い、鏡を見るたびに腹を立てて鏡を地面に投げつけていたそうです(当時鏡は貴重品でした)。
ではなぜそのようなあだ名をつけられてしまったのでしょうか?
このあだ名が使われたのは軍中、つまり兵士や武将達のあいだででした。
もちろんいやがらせやからかうために言っていたのではありません。
同じ軍中にいた夏侯淵と区別するために、意図的につけられた呼び名でした(『夏侯将軍』が二人いたら、いざというときに混乱してしまうかもしれませんからね)。
だからこそ夏侯惇もイヤでも我慢して呼ばれていたのでしょうが、春蘭に言ったらやっぱり大剣で追いかけられて、ついでに秋蘭に弓矢で射られたりするんでしょうね。
その二十六、見参! 魏の五大将軍……の中の三人
蜀のほこる五虎大将軍。それが『正史』の作者である陳寿が蜀の勇名のある武将五人の伝を一巻にまとめたことが元になっていると以前書きました。
それと同じように、魏軍にも代表となるような五人の将がいました。その五人というのが、張遼(霞)、楽進(凪)、于禁(沙和)、張コウ、徐晃です。
*夏侯姉妹は曹操の親族ということで皇族の巻に収録され、李典(真桜)は史実では若くして亡くなってしまったために五人の将には入らず、そのほかの武将の巻の一番トップ、つまり六番目の武将に入れられています。
では恋姫に出てこない二人は置いておいて、あとの三人(張遼・楽進・于禁)について書かれていることを紹介すると、張遼は五人の中でも別格で、義理にも情にもあつく、計略も巧みなら個人的武勇も高いという完璧超人2号(1号はもちろん曹操)で、対呉の最前線の司令官として、李典とともにわずか八百人の兵で十万の呉軍を打ち破る功績まで立てています。
楽進は軍の記録係というめずらしい部署の出身で、小柄ながら気性(肝っ玉)がはげしく、驍勇果断(強くて勇ましく、思い切った行動が出来る)をもって知られ、于禁はもっとも剛毅で威厳をもっていたが、法をもって厳しく下のものを統御したため、兵士や民衆には人気がなかったとされています(そりゃかわいいメガネッ娘ならともかく、ヒゲ面のおっさんに海兵式調練やられてもねえ……)。
……とまあここまで三人まとめて書いてしまいましたが、実は張遼はともかく、楽進や于禁については三国志の著者である陳寿自身が評に、『(三国時代の)記録に遺漏があるようで、その評判を裏付けることができない』と書かれてしまっているように、その実際の人となりについてはくわしいことがわかっていません(そのため三人まとめてあげるしかありませんでした)。
だから後世の作品では、どちらかというと目立たない位置に置かれてしまうことが多いんですよね(とくに楽進)。
その二十七、真桜ちゃんはインテリヤ○ザ?
さて、五人の名将の中から外されてしまった李典(真桜)ですが、そのおかげか(?)きちんとした伝がのこっています。
それによると最初に曹操に仕えたのは李典ではなく、おじの李乾(りけん)という人物でした。
問題は、このおじの説明に「雄雄しい気性の持ち主で、食客数千家を集めて住んでいた」とある点です。
おそらく、この書かれ方は李乾が遊侠者(侠客)、それもかなりの大侠客であった可能性が高いです(実際曹操につき従うとき、武将や役人でもないのにかかわらず、自前の軍勢=舎弟達?を引きつれていました)。
その後李乾が戦乱の中に殺害されると息子の李整が後を継ぎ、その李整も早くに亡くなると、いとこである李典が後を継ぎ、三代目(?)を襲名しました。
ただ李典本人は元々学問が好きで軍事を好まず、将となってからも学問をつづけていたそうです。
侠の三代目で学問好き……、まさかそのイメージをふくらませた結果が関西弁のからくりマニア、なのでしょうか?
その二十八、ねんがんの○○をてにいれたぞ!
唐突ですが、桃香の武器といえば、代々劉家に伝わる、中山靖王の末裔の証である宝剣、靖王伝家ですよね。
しかしアニメ版の真・恋姫ではただ宝剣といわれ、男(通称ニセ劉備)にだまされて奪い取られ、ようやく取り返したかと思うと、李典・楽進・于禁が守る村を賊から救うために使われ、そのまま行方不明になってしまいました(かなりうろ覚えなのですみません……)。
……ところで、李典の生まれ故郷である山東省巨野県には、『李典の試剣石』といわれる遺跡があります。
それは李典が同僚の武将の満寵(恋姫登場せず)に「メッチャエエ斬れ味の宝剣手に入れてん」と自慢し、ためしに斬った岩が真っ二つになって転がっているという場所です。
まさかとは思うけど……行方不明ってことにして、桃香様の宝剣ガメてないよね? 真桜ちゃん?
その二十九、三軍師の役割
桂花・稟・風。
恋姫の中でも三人の軍師が並立しているのは魏だけです(蜀ははわわとあわわ。呉は冥琳・穏・亞莎の三人がいますがそれぞれ立場が違いますし、史実でも軍師として活躍した時期が異なります)。
ではこの三人には、どのような違いがあったのでしょうか?
荀彧(桂花)の場合、元々高級官僚の家系の生まれで、軍事だけでなく政治的な意見の具申や立案もするまさに女房役、今で言えば官房長官のような立場でした。
郭嘉(稟)の場合はより軍事的な立場、今で言えば幕僚長のような立場で曹操のそば近くに仕え、鼻血を出しすぎたわけではないでしょうが若くして亡くなった後、曹操に「天下の事がすめば(天下を統一すれば)、後事を彼に託そうと思っていたのに」と惜しまれるほどの活躍をしました。
程昱(風)の場合はもっと特殊で、政務に携わりながら諌臣(主君が間違った判断をしそうになったときにいさめる家臣)としての役割も果たし、またその臨機応変さからか武将としても活躍、そのほか将兵のとりまとめ役としても、実務派の官僚のトップとして政治・軍事の両面においてオールマイティに活動していました。
おもについていた役職から見ても、荀彧が侍中や守尚書令といった政府の要職、郭嘉が司空軍祭酒(もしくは軍師祭酒)という、当時司空という役職についていた曹操直属の筆頭軍師で、程昱は実際の政治を見る尚書。現場の仕事である将軍や曹操の本拠地であるエン州の都督(将兵のとりまとめ役)、それに郡の太守など政・軍の実務職をいくつも兼任しており、三人の役割がまったく違っていたことがわかります。
このようにまったくポジションの違っていた三人ですが、ひとつ共通していることがあります。
それは三人とも、自分の意志で曹操を主君に選んだということです。
曹操に仕える以前、荀彧と郭嘉は袁紹、程昱は劉岱という人物に仕官する機会がありましたが、皆それを蹴って、曹操に仕官をしていました。
さすが軍師、主君を見抜く目は同じだったということでしょうか。
その三十、季衣と流琉の怪力伝説
魏の中でも怪力で知られる季衣(許緒)と流琉(典韋)。
では三国志での許緒と典韋はどのくらいの力を持っていたのでしょうか。
史実では許緒と典韋は、親衛隊として曹操の侍衛……つまり警護役をつとめた人物で、将としての統率力より、個人の筋力や武勇を認められていた人達でした。
実際許緒には、曹操に仕官する前、故郷を襲った一万の賊を相手に、矢や武器が尽き、最後は大きな石を投げつけて敵を倒していたという話や(恋姫ではたしか岩を投げていたと思います)、牛の尻尾を片手でつかんで百歩以上引きずりまわしたという話が残されています。
一方典韋も誰も持ち上げることができなかった巨大な牙門旗(大将旗)を片手であげて見せたり、八十斤(約17.7キロ)もある双戟(そうげき)という武器を手に、一突きで十数本の敵の武器を砕いてしまったりと、どちらもゲームほどではないにせよ(まあゲームですからね)すぐれた筋力の持ち主として書かれています。
しかしこうして見比べてみると、典韋は武人っぽい逸話が多いですが、許緒は本当に『怪力』という話が多いですね。
その三十一、漢ルート……みんなの医者王! 華佗
ゴットヴェイドー!! な針医師・華佗ですが、彼の伝も『魏志』に残されています。
それによると華佗はやはり針を得意とした医師で年齢はなんとおよそ百歳!
ただしグォットヴェイドー!!! の力なのか、養生術にたけていて、いつまでも若々しいままだったそうです(つまり璃々ちゃんが華佗のことを「おじちゃん」と呼ぶのもあながちまちがいではないわけです)。
ただグゥォットヴェイドーーッ!!!! は別にして、明確にちがうところがひとつあります。
それは華佗が医者あつかいされることがあまり好きではなかったということです。
華佗は以前書いたように、元々『推挙』を受けたこともある士大夫階級(武士や貴族のようなもの)の人間です。
一方、当時の医師というのはまじない師や呪術医のようなうさんくさい人物も多く、けっして身分は高くありませんでした。
華佗も元々は士大夫として遇されていたのでしょうが、医師としての名が高まるにつれて、そんな『医師』達と同列に見られるようになってしまったようです(『魏志』の中でも、華佗の伝では占い師や方術師と同じ『方伎伝』という巻の中に入れられています)。
まあ『恋姫』の華佗なら、「医術とグゥォットヴゥェイドーーッッ!!!!! を一緒にするな!」ということなのでしょうが。
*ちなみに、お正月につきものなお屠蘇というのは、華陀の作った『屠蘇散』という漢方薬(精力剤)が起源で、それを酒に浸して飲んだことがはじまりとされています。
ただその中にはトリカブトといった猛毒がふくまれていたそうで、今で言えばハブ酒のような感覚だったんでしょうね。
その三十二、漢ルート……そのころ日本では
えー、卑弥呼のことも『魏志』には出ているのですが、さすがにアレと実物を比較する気にはなれないので、『魏志』に書かれている当時の日本人について紹介してみたいと思います。
そのころの日本人は酒好きで、会合などでは男女親子の区別がなく(よくいえば平等だったということ)、そして当時から長生きで百歳や八、九十歳の人もいたと書かれています。
そのほか淫乱を知らず、女性は身持ちがしっかりとしていて、盗みもなく、下の者は上の者の言いつけをよく守り、訴訟沙汰も少なかった。と結構辛辣なことを書かれている国も多いなか、遠くから朝貢していた効果なのか、真偽のほどは別にしてかなりいいことが書かれていました。
それともうひとつ、おどろくべきことに、身分の低い者が身分の高い者に話をしたりするときには、うずくまったり、ひざをついたりして両手を地面につき、恭敬の念をあらわした、とも書いてあります。
ひざまずいて両手をつく……これは今の土下座に他なりません。
つまり土下座は千八百年前から続く、日本の伝統芸(?)だったわけです。
その三十三、漢ルート……おいでませ貂蝉村!?
『演義』では絶世の美女、そして恋姫ではガチムチ魔人として書かれている貂蝉ですが、もちろん実在の人物ではありません。
しかし民間伝承では貂蝉は実在の人物で、最後は故郷に葬られたともいわれています。
そして実際、山西省忻州市木芝村というところには貂蝉の墓が建てられ、観光客目的の貂蝉像や記念館もありました。
それから、また聞きの話なので確証はありませんが、かつて河北省に『貂蝉里(貂蝉村)』という村があったそうです。
年代(唐から宋にかけて)からして貂蝉とは直接関係はなさそうですが、三国志のではなく、恋姫の貂蝉みたいなのが大量にいる村だったとしたら……。
こんなに恐ろしいことはないですね。
おまけ……曹操と袁家、その政治の違い
*長いうえにつまらない話なので、興味のない方はとばしてください。
以前書き込みで、「内政は曹操より袁家(袁紹)のほうがよかったのでは?」という質問をいただいたとき、「実際に内政をみていたのは軍師の沮授であり、袁紹自身は組織運営が苦手だったのではないか」という答えを書きました。
しかしこれはあくまでも曹操と袁紹の違いであり、曹操と袁家となると、また違う見方もできるので、それを書いてみたいと思います。
袁家が後漢王朝の一大名門となったのは、袁紹の高祖父(ひいひいおじいさん)の袁安が司徒になったのがはじまりですが、この袁安という人物は当時非常に有名な儒家(儒学者)で、その学問は代々袁家に受け継がれていったとされています。
となると当然袁家の領地は、儒教を基本とした、君主が自分の徳をもって領地を治める『徳治主義』と呼ばれる政治手法をとっていたと思われます。
一方曹操は法家の人ですから、当然法律を基本とした『法治主義』の政治でした。
徳治主義の場合、あくまで君主の徳(人格)が基本ですので、君主がすぐれていれば問題ないのですが、凡庸な君主ややる気のない君主が続くとどんどん政治が弛緩していきますし、さらに史実に出てくる董卓や袁術のような私利私欲に走るような人物が君主となると、大変な被害が民衆に及びました。
法治主義の場合、法という厳然たるものがあるので、法を曲げたりしないかぎりはどんな君主だろうとそれほど影響はありませんが、法に厳密に施行しすぎると監視社会のようになり、非常に息苦しい生活を送らねばならなくなりました(たとえば自動車には制限速度がありますが、それをオーバーしていないか、24時間徹底的に監視されるようになったら、非常に運転しづらくなりますよね)。
曹操が施行した法がどこまで厳しいものだったかわわかりませんが、袁家が政治をみていた後漢末というのは、徳治主義が弛緩しきってユルユルになっていた時代ですから、そこに良し悪しは別として、多少なりとも自分達を締めつける『法』というものを持ち込んだ曹操の政治手法を民衆が嫌ったのではないか、という見方もできるのです。
おまけその2 牙門旗の大きさについて。
*今から出てくる試算は、仮定や推測だらけのひどいものです。間違っている可能性も高いので、参考程度に流し読みしてください。
牙門旗とは、そこに将軍(指揮官)がいることをあらわすための旗で、その大きさについては正史には出てきません(というか、おそらく人や身分、時代によってまちまちだったと思われます)。
ただ黄蓋をモデルに試算を出してみると……。
正史によると黄蓋は赤壁の戦いのときに、船に牙旗(牙門旗)を立てて曹操軍に偽りの降服をしたと書かれてあり、また『江表伝』という本によると、曹操の陣営から二里(約870メートル)あまりのところで船に火をつけた、とされているので、この二つの記述が事実ならば、870メートルより前にその旗が降服してくる黄蓋の旗印であることが確認できたことになります。
そこで黄蓋の旗印を『黄』の文字、そして当時の兵士達の平均視力を2.0(10メートル先から7.5ミリのランドルト環=視力検査にでてくる『C』のような形の記号、が確認できる程度の視力)として試算すると、
870÷10×7.5=652.5
で、視力2.0の人が870メートル先で見るのに必要なランドルト環の大きさが652.5ミリ(=65.25センチ)。
しかし『C』と『黄』では文字の複雑さが全くちがいますから、『黄』の字を無理なく読むのに『C』の字の2.5倍から3倍くらいの大きさが必要だと仮定すると、中の旗印だけで163.125センチから195.75センチはいるということになります。
そこにまわりの色や縁の飾りが加わるわけですから、黄蓋の場合、最低でも一辺2.5メートルぐらいはあったのではないでしょうか。
そこに通常の場合、より遠くから見えるように(配下の兵士達によく見えなくてはいけませんから)、そして絶対に折れないように(牙門旗が折れるのは通常負けを意味しました)、長くて頑丈な竿につけてあるのですから、当然重さもすごいものになったのだ思われます。
Tweet |
|
|
17
|
3
|
追加するフォルダを選択
ゲームWeb恋姫†夢想内で書いていたものを、加筆・修正したものです。
なかなか恋姫に合うネタがなかったので、漢ルートと一緒にしました。
続きを表示