その十一、桃園の四姉妹?
河北省正定県。それが趙雲の生まれ故郷である常山の今の地名です。
そこには趙雲故里という地元が生んだ英雄をまつる(というか観光客目当ての)施設があり、そこに四義宮という場所があります。
他の三国志関連の施設にも似たような場所はあるのですが、それは三義宮とか三義廟といわれ、数字がひとつ足りません。
じつはこの三義とは、三人の義兄弟、劉備・関羽・張飛をまつっている宮のことで、つまり四義宮とは、地元の人が「趙雲さんこんだけ人気があるんだから、もう四番目の兄弟ってことでいんじゃね?」という理由(?)で、勝手に四兄弟にしてまつっていたのでした。
ちなみに趙雲は四兄弟の末弟ということになるらしいのですが、恋姫でいうと星が鈴々の妹になるわけで……。
いや、無理ありすぎでしょう(笑)。
その十二、鈴々は人気者!
現代で三国志の人気者といえば、蜀でいえば諸葛亮や、関羽、趙雲。魏では曹操、張遼。呉では孫策、周瑜あたりでしょうか。
しかし、三国志演義が成立する以前、講談などで中国の庶民に一番人気があったのは鈴々……張飛でした。
もちろん当時の人々がみんながロリだった、というわけではありません。
圧政や飢饉、戦乱などで抑圧されることの多かった庶民にとって、単純明快で自由奔放、そして(あくまでも講談などでの話ですが)時には自分達を抑圧している秩序すら平然と破壊してしまう張飛にあこがれに近い気持ちをもっていました。
そして同時に、ただの暴れん坊ではなく、どこかぬけていて二人の義兄には頭が上がらないという、豪快さの中に親しみやすさを兼ね備えたキャラクターも人気の理由で、当時は張飛を主人公にしたお芝居がいくつもあったそうです。
しかし、当時の知識人階級の基礎教養であった儒教の教えの影響を受けた『三国志演義』が世に広まると、基本的にはただの暴れん坊である張飛から、義にあつかったとされる関羽などに人気がうつり、だんだんと脇に追いやられるようになりってしまいました。
恋姫の世界ではロリというあらたな武器をえた張飛。どこまで人気を盛り返していけるのでしょうか。
その十三、翠はクォーター
西涼一の脳筋……じゃなかった名門、馬氏一族。
実際馬超(翠)のご先祖は、後漢王朝(つまり恋姫の時代の王朝)をきずきあげた名将のひとり馬援(『井の中の蛙』や『矍鑠(かくしゃく)』などの語源になったことでも有名)で、その娘が皇后にもなっている本当の名門の一族でした(ちなみに劉備が王になったときも、その血統ゆえか関羽や諸葛亮を差し置いて、家臣団の筆頭として推挙人に名を連ねています)。
しかし天水というところで役人をしていた馬超の祖父が何らかの理由で官位を失い、その地域に住んでいた羌族(きょうぞく)というチベット系の異民族にまじって困窮した生活を送ることになりました。
そのときに羌族の女性と結婚し、生まれたのが馬超のお父さん(恋姫的にはお母さん?)、馬騰でした。
つまり馬騰は羌族とのハーフ、その子である馬超(翠)はクォーターだったのです。
そのためか羌族や同じチベット系のテイ(漢字では「低」の「イ(にんべん)」のないやつ)族は馬超達によくなつき、馬一族の貴重な戦力となっていました。
ちなみに羌もテイもゲーム版の真・恋姫の蜀編に出てきたラスボス・五胡(五つの異民族)の中のひとつです。
つまり翠には敵の血が混じっていたわけで……。もし次回作があれば、こういう話もできそうですよね。
その十四、紫苑をババアと呼んだのは誰だ?
文庫にしておよそ十八行。それが三国志に書かれている黄忠(紫苑)の伝(エピソード)のすべてです。
このみじかさですから、そのほとんどが武功を並べたもので、黄忠の性格はおろか、年齢すら書かれていません。
ではなぜ黄忠といえば老将ということになったのでしょうか?
黄忠の年齢をばらした犯人、それは関羽〈愛紗)でした。
劉備が王(漢中王)に即位したときに大幅な組織替え(それまでの漢王朝の官職から、漢中王の官職への変更)があり、そのときに黄忠を関羽と同等の地位(関羽が前将軍、黄忠が後将軍)につけることになったのですが、その話を聞いた関羽が、なぜ自分があんな老兵(老いぼれ)と同列なのだ! と不満を言ったのです。
このとき関羽、推定で年齢五十八歳前後。
さすがに自分と二、三歳しかちがわない人を老兵とは呼ばないでしょうから、黄忠は最低でも六十歳以上、おそらく七十歳近かったのではないでしょうか。
結局この一言が黄忠=老将というイメージを定着させ、現在にいたるのですが、愛紗さん、今ごろ紫苑さんに矢を射掛けられているかもしれません。
その十五、愛紗の嫉妬伝説
これまで五虎将軍のうち、関羽(愛紗)のことだけ書いていないのですが、正直有名すぎて書くことがあまりないので、愛紗の嫉妬神キャラの元になった関羽の嫉妬についていくつかあげておきたいと思います。
諸葛亮への嫉妬……孔明が劉備の部下になった直後、日に日に親密になっていくふたりに関羽と張飛が嫉妬。劉備のとりなし(『水魚の交わり』発言)でおさまる。
馬超への嫉妬……馬超が劉備の配下になったとき、別の場所に駐屯していた関羽は、孔明に馬超の人物才能は誰に匹敵するか? という手紙を出しました。そのとき孔明が「張飛には匹敵しますが、髯どの(関羽のこと)には及びません」と返事を書いたところ、大喜びしてその返事を来客に見せびらかしていました。
黄忠への嫉妬……黄忠が自分と同格の地位についたとき不満をもらしたことは以前に書きました(実はこのとき任官拒否寸前までいっています)。しかもこの人事を決めるときに、関羽の性格をよく知る孔明と劉備のあいだで、「これって、関羽さん納得しないんじゃないですか?」「うん、あとで自分の口から説明しておくよ」という気のつかわれ方をしていたことが記録に残っています。
これって、嫉妬というよりただの負けず嫌いだったんじゃあ?
その十六、ホントに仲良し? 朱里と雛里
恋姫の中では、大の親友で八百一仲間でもある(?)朱里と雛里。
では史実では、このふたりは本当に仲が良かったのでしょうか?
史実では、このふたりは血のつながらない親戚(諸葛亮の姉がホウ統のいとこと結婚している)でほぼ同門。諸葛亮が「自分の功業(劉備のではない)を補佐できる人物」という、かなり上から目線気味にホウ統の才能を認めていたのも事実なようです(ちなみに実際の年齢はホウ統のほうが少し上でした)。
しかし実際にどのような個人的な交流があったかは書かれていませんし、それぞれ正史にはそれぞれ仲が良かった人物の名前も載っているのですが、そこにおたがいの名前はありませんでした。
現代風にたとえるなら、同じ学校の成績トップ同士。力も認めているし話もするけどとくに仲が良いわけではない。というぐらいでしょうか。
……まあ、それでは話としてはつまらないんですけどね(笑)。
その十七、ホントはあっちがよかった? 雛里ちゃん
おおよそ五年。それが実際のホウ統が劉備に仕えていた期間です。
非常に短いのですが、実はそれ以前にある有名な人物の配下にいたことがありました。
その人物とは冥琳。すなわち周瑜です。
ホウ統は元々南郡というところで役人をしていたのですが、そこが呉に占領され、そのままそこの太守となった周瑜の部下となったのです。
史実の周瑜はその後一年で病死してしまうのですが、ホウ統がその遺骸を呉まで送って帰す役目をまかされているところをみると、かなりの信頼を得ていたと思われます。
そのときホウ統は呉の人々に歓迎され、とくに陸績(陸遜=穏の親戚。恋姫登場せず)とは、その後も親友として付き合うようになりました。
その後南郡が劉備の支配下にうつり、その配下(県令)となることになったのですが、人見知りしすぎたのか、思ったように職務成績が上がらず、クビになってしまいました。
しかしそのとき、周瑜亡きあと呉の軍の責任者となっていた魯粛という人物(恋姫登場せず)がその話を聞きつけ、ホウ統をかばう手紙を劉備に送り、その才能をほめてもっと大きな役職につけるようにと逆に推薦してくれました。
その後諸葛亮のとりなしもあり、ようやく蜀の軍師になることができたのですが……。
先に仕えていたのも呉。親友がいたのも呉。最初にその才能を認めてくれたのも呉のトップ達……。
正直、呉に仕えてたほうが幸せだったんじゃない、雛里ちゃん?
その十八、魏延に足りなかったもの
ゲームやアニメでは当初一匹狼に近いキャラだった焔耶。
史実の魏延もプライドが高く、他人と相容れない性格をしていたのですが、現実の世界ではそれが原因で残念な結末になってしまいました。
史実の魏延は元々趙雲と同じ牙門(近衛隊)の人間で、その能力を買っていた劉備が王になったときに突如五虎将軍に次ぐ地位(正確には趙雲より少し上の地位)に大抜擢したのですが、その後五虎将軍が次々と亡くなったことによって、彼らほどの信頼を得る前に、いきなり武将としては蜀軍のトップになってしまいました。
しかもそのとき唯一の後ろ盾と言ってもいい劉備も亡くなり、その性格とプライドの高さが災いして他の家臣達ともうまくいかず、いつしか蜀の中でも孤立した存在になっていました。
そして諸葛亮が亡くなると、魏延と諸葛亮の長史(次官)だった楊儀という人物(恋姫登場せず)との間で後継者争いがおき、他の家臣から支持を得られなかった魏延は謀反の罪を着せられて殺されてしまいました。
もちろん本人にはまったく謀反の意思はなかったのですが、元々の信望がなかったためにこのような結果になってしまったのです。
せめてお館か蒲公英みたいな人がいれば、もっと丸くなれたのでしょうが……。
その十九、三国最弱は誰だ?
あまたの英雄・豪傑が登場する三国志。それを元にした恋姫にも、多くの武人・軍師が登場します。
では逆に、恋姫に登場する中で三国志最弱だったのは誰でしょうか?
最弱、といって真っ先に思いうかぶのは、やはり何といってもハチミツこと美羽(袁術)でしょう。
袁術も三国志の中に伝(生涯のエピソード集)を持っているのですが、自分の伝にもかかわらず、戦闘に関してはほぼ負け戦しか載っていません(唯一例外として、軍を率いていったら戦う前に相手が逃げてしまった。という話が載っています)。
他の人の伝には、いくつか袁術軍が勝った記述が載っているのですが、それらはほぼ孫家(孫堅・孫策)が袁術の配下にいたときの話で、それ以外はほぼ全敗。曹操との戦い(封丘の戦い)にいたっては、一度の戦いで五回敗走するという珍記録まで樹立しています。
では、最弱は袁術で決まりかというとそうはいきません。恋姫の登場人物の中で一人だけ、そんな袁術とほぼ互角の勝負をしていた人がいます。
その人物とは……、もちろん桃香様、つまり劉備です(笑)。
劉備と袁術は一時期領地が隣接していたことがあったのですが、そこで戦闘となり、一ヶ月かかっても勝負がつかず、最後は流浪していた呂布の乱入でノーコンテスト(呂布に領土をとられたので実質劉備の負け)というわけのわからない結果になってしまいました。
どちらがとはいえませんが、おそらくこの二人が最弱のツートップと言えるのではないでしょうか。
その二十、伝の立てられなかった人達
桔梗・蒲公英・璃々・シャオ・大喬・小喬・ねね、斗詩・猪々子・七乃、張三姉妹に南蛮、漢女……。これらが三国志の中に伝(エピソード集)がない人達です(あれ?誰か一人抜けてるような……。華……雄……?)。
三国志はその名の通り魏・呉・蜀の三国の歴史を書いた書物なので、三国の君主や家臣ではない人物は、太守クラス(袁家や公孫サンなど)でないと伝は立てられず、また同じような理由で、反乱を起こした張三姉妹や三国の外にある猛獲や卑弥呼も伝にはなりませんでした(有名な卑弥呼の記事は、あくまでも「倭伝(もしくは倭人伝)」の一部にすぎません)。
そして恋姫でこう言うのは変ですが、女性は后妃以外はほぼ伝は立てられず、貂蝉にいたっては元々が架空の人物なので、当然伝が立てられるはずがありません。
残るは桔梗さん(厳顔)と蒲公英(馬岱)ですが、考えられる理由がふたつあります。
ひとつは、正史の作者陳寿(蜀出身)が当時仕えていた晋(魏から禅譲をうけて建国。魏を正当な中国の王朝としていた)に遠慮してか、蜀についてはかなり簡略に書いていること。
そしてもうひとつは、蜀ではいつからか史官が置かれなくなってしまったため、正式な史料が残っておらず、かなりの事実の遺漏があるということです。
つまり本当は大活躍していたのに、正確な細かい史料がなくて伝からもれてしまった、という可能性もあるわけです(実際馬岱は次の時代の歴史書『晋書』にも敵将として出てくるので、それなりの活躍をしていたのはまちがいないでしょう)。
ちなみに厳顔さん、正史にはもちろん年齢は書かれていませんし、黄忠と組んだこともありません。おそらく羅貫中(『演義』の作者とされるが、諸説あり)あたりに、黄忠とペアを組ませるために勝手に熟……な年齢にされてしまったのでしょう。
やっぱり羅貫中も、今ごろ桔梗さんに豪天砲で撃たれているんじゃないでしょうか(笑)。
番外……酸棗大会議、その内容
*この話は恋姫とはまったく関係のないものなので番外とさせていただきました。
コメント欄で、反董卓連合のとき、曹操以外の諸侯達は酒ばかり飲んでいた、という話が出ましたが、実際諸侯達は酸棗(さんそう)というところで毎日酒盛りの大会議を開いていた、という記事が正史に残っています。
では彼らは酒を飲みながらどのようなことを話し合っていたのでしょうか?
会議の内容についてはくわしい記録は残っていませんが、ひとつ明確に議題にのぼったとおもわれる事柄が正史の中に出てきます。
それは陳留王劉協(のちの献帝)の処遇についてでした。
献帝といえば、今なら三国志を読んだ方なら誰でもご存知の後漢最後の皇帝ですが、当時の反董卓連合のメンバーからすれば、董卓が献帝の兄である少帝を殺害して擁立した傀儡(あやつり人形)と見ることができました。
そこで袁紹は献帝を『偽帝』であるとみなし、皇族で人望の厚い劉虞(りゅうぐ)という人物を皇帝にしようと画策しはじめました。
その理由としてはいくつかの説があるのですが、ひとつには董卓に対抗して皇帝を立て、自分達のほうに義があるという大義名分をつくるためという説。
そしてもうひとつは、これがもっとも有力な説なのですが、董卓と同じように劉虞を自分の傀儡として即位させ、政治の実権を握ろうとしていたという説。
また劉虞から禅譲を受けて自分が皇帝になるために、彼を皇帝にしようとしていたという説もあります。
実際袁紹はかなり熱心にこの運動をしていたらしく、『呉書』によると袁術にも何度かこの話を持ちかけており、その書状の中で、「幼帝(献帝)と皇室には血統的なつながりはない」、と献帝の存在を完全に否定しています(もちろんそんなことはないのですが)。
しかしその計画は曹操、袁術、張バク(コメント欄にも出てきた反董卓連合のひとり。曹操、袁紹とは昔からの友人だった)などの反対にあい、また劉虞本人が強く固辞したため(というか、本人の承諾も得ずによく即位運動なんてしますよね)この話は立ち消えになってしまいました。
ところで、その後献帝は変遷を繰り返し、最後は曹操の元に迎え入れられるのですが、袁紹はその機会がありながら、献帝を受け入れようとはしませんでした。
その遠因のひとつに、このとき献帝のことをハッキリと否定してしまったことがあるような気がします。
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長かったので二つに分けました。
2月23日 番外を加筆しました。