深い森の中を割ってひっそりと流れる小さな川。そのほとりに腰を下ろし、頑強な体格を持つ巨大な男が釣りをしていた。男の全身は獣の体毛で覆われている。顔貌は狼、額には三日月の印があるこの者は、十六夜 伏丸と呼ばれる、土の属性を持つ獣神である。
傍らには魚を入れるための篭があり、先ほどまで川瀬を泳いでいたのであろう魚が、数匹中に入っていた。
ふと、神の片耳がひく、と動く。枝葉とせせらぎの囀りの中に足音を捉えたのだ。そちらに意識を投じると、神の脳裏に一人の娘の姿が浮かぶ。
赤い色の髪を後ろで束ねた娘だ。髪に良く合う藤色の着物を纏い、両手に風呂敷を持っている。
神が釣りの用具を神通力で消し、立ち上がってそちらへ身体を向けて程なく、娘は神の前に至る。
「お待たせ致しまして申し分訳ございません」
常にまろい笑みの影が顔貌のどこかにある、小柄な娘だ。
「初めまして。十六夜 伏丸様。私(わたくし)、そよ香と申します。この度はよろしくお願い致します」
深々とお辞儀をした後、顔を上げると娘は、柔らかい笑顔を見せた。
この娘は今回、交神の儀と呼ばれる儀式のために神の元へと遣ってきた。
彼女たちは宿敵である鬼に、短命と種絶という二つの呪いを掛けられている。後者の種絶というのは、人と交わり子供を残すことが出来ないという呪いで、彼らが子孫を残すためには、神々と交わる必要がある。その為の儀式が、交神の儀と呼ばれるものであり、この森、否この空間は交神の儀の為に用意された異界であった。
神が彼女の一族と出会ったのは十年近く前の事になる。神にとっては時間など意味のない事だが、最大で僅か二年しか生きることの出来ない彼女たち一族にとっては、遠い昔ともいってよい時間だった。
「以前、貴方様と儀式に臨んだ者から感謝と御礼の言葉を言付かっております」
彼女の代でも一族の娘が神より子供を授かっている。
「子は壮健か」
「はい。伏丸様もお元気そうで何よりでございます」
にこやかに返すと、娘は思い出したといった様子で神の目を見遣った。
「その、貴方様と儀式に臨んだ者の中には、ずいぶんと破天荒な者が多かったとお聞きしております。ご迷惑だったのではございませんか?」
伺うような娘の目線に、否と神は頭を振る。
一番最初に交神の儀へ望んだ娘は、髪を二つに分けて編んだ背の高い娘だった。挑むように睨み付けて来るきつい眼差しと、はきはきとした言葉遣いが印象的だった。それまで伏丸は変化という物が薄い神々の世界に浸食され、日々をどこか醒めた瞳で眺めつつ過ごしていた。ところが娘は、倦怠感に満ちた彼の心に挑み掛かり、微睡んでいた己が野生を呼び起こしたのだ。
以来彼は、交神の儀にて彼女の属する一族の娘達と逢うのを、密かな楽しみとするようになった。次の娘も、その次の娘も、彼を化け物と怖がる事も、畏怖する事もなく、彼女たちと過ごす間の彼は鬱屈を忘れて時を過ごすことが出来た。
よかった、とほっとした様子になった娘は、目の前に聳え立つ巨神の様子を見つつも、ちらちらと周囲に目線を巡らせている。
「どうした?」
神が尋ねると、己の目線が移ろっていた事に今気付いた様子で、娘は恥ずかしそうに顔を伏せる。
「この森が、とても素敵だと思いまして。……貴方様の守護する場所、でございましょうか?」
頬に手を遣りながら問いかける娘に、神は顎を引く。
「その一つ。正確に言えば複製だがな。俺の記憶を基に作られたのであろう」
頬を擦って娘が顔を上げる。夕暮れ近いのか、青穹の片端は赤く彩られている。時折よぎる影達は、住処を目指して飛ぶ鳥たちであろうか。
娘は深く息を吸い込むと、にっこりと笑って獣神を見遣った。
「お願いがございます」
目線で先を促すと、娘は振り返り森に生える木々の内の一本を見遣った。
「よろしければ、あの樹の上に登らせて頂いても宜しいですか?」
「構わぬ。が何故」
一族にとって大切な儀式の場で、少々変わった願い事を口にする娘に、神は小さく笑う。
「ここは、とても広々としておりますもの。さぞや良き景観でございましょう」
木登りは得意なのですと恥ずかしそうに笑って、娘は裾を帯に挟み身支度を調える。袖をたすきにすると、両腕に、肩近くまである長い手甲をしているのが見えた。
荷物を置くと娘は手慣れた様子で樹を登っていく。俊敏な身のこなしで少し上の方へとゆくと、枝葉の中二人くらいなら十分に腰を下ろせそうな所があり、そこに身体をおろす。程なくして神も現れ、二人は枝の上に並んで座った。
今は少し肌寒いが、その分空気が澄んでいるように思える。遠くで鳥達の鳴き声が聞こえる。緑の葉が微風に、視界をくすぐるように揺らめく。
「私は、……恥ずかしながら、こういう場所で日に当たりながら微睡むのが好きなのです」
照れた様子で、娘は片袖で頬を隠す仕草をした。
娘の一族は鬼と呼ばれる異形の征伐を生業としている。戦いの中で生を紡ぐ者達の趣味としては、あまりにも平和なものだった。
「時間が空くと、こうやって樹に登り、周囲の景色を眺めながら、うとうととしております。一族の者には笑われますが、こういう場所の日差しは格別な気が致しまして」
子供の様に足を軽く揺らすと、娘は軽く微笑んだ。
少しの間景色を楽しんだ後で、娘は肩を抱いて小さく震えた。どうやら少し身体を冷やしてしまったらしい。娘が天空を見上げると、すっかり紅く色づいている。
「寒いか」
「少し……見入ってしまいました。申し訳ございません」
「帰るか」
「はい」
何処に、と聞けなかったのは、目の前の神が己のなにもかもを受け止めてくれる気がしたからか。
お先に失礼しますと言って樹を降りようと幹に手を掛けた娘は、唐突に近づく神の両腕に動きを止めた。瞬間、娘は抵抗しようとしたが、優しく両のかいなが身体を包み込むのにほっとした様子で力を抜く。
神が娘の身体に触れたとき、少しひんやりとしるのが感じられた。触れた感触はしなやかで、先ほど見せた木登りの技もかくやと思わせる、無駄のない筋肉が付いているのが分かる。鬼と戦う暮らしの中で、鍛えられたものだろう。刹那振り払おうと指先に籠もった力もかなりのものだった。
「背に乗れ」
「え……」
「その方が早い」
息を詰め狼狽えて視線を左右させる娘に唸って見せて、神は娘を背中に移動させる。深く頷いて娘が背中に捕まると、獣神は身体を撓め、樹の上より駆け下りた。
娘の荷物を回収し、森の奥深くにある小屋に娘を連れて行くと、まず獣神は娘に風呂を使わせた。娘が冷えてしまった身体を温めている間に、先ほど穫った魚を出し食事の用意を調える。
娘が風呂を終え板の間に上がった時には、米を炊き、魚を串に刺しいろりで焼き始めていた。
「食事の支度までさせてしまって申し訳ございません」
身体を温め、身なりを整えた娘は、風呂の礼もその後に付け加えて部屋に入ってくる。
「ここが俺の記憶の場所である以上、お前は客人だからな」
「しかし神様に手ずから何かして頂くばかりでは申し訳ございません。私も手伝います」
神が構わないと言っても娘は自分も手伝いたいのだと言い張ったので、汁の用意を頼むことにした。早速腕をまくって土間へと向かう娘の様子に、神の口から唸るような笑みが零れる。
魚が香ばしい匂いを立て始めた頃。娘の準備の具合を確かめに獣神は土間へと向かった。
土間には米の炊ける匂いが充満していた。娘は水場にて野菜を手にして、丁寧な手先の動きで洗っている。神の気配にはすぐ気付いた様子で、視線を投げかけて目礼し、「お待ちくださいませ」と言った後、背を向けたまま作業に取り組んでいる。見ると、娘は腕に何かが触れたり濡らしたりするのを避けている様子だった。恐らく腕を無意識にかばっているのだろう。
それを見て興味を抱いた神は、そっと娘の背後に近づくと、片手の手首を唐突に掴み持ち上げようとした。
神の存在には気付いていたが動きまでは読み切れなかったのだろう。娘の頬に朱が差した。野菜から手を離し、身体を翻しながら腕を隠そうと後ろへと廻すのを、咄嗟に手を伸ばし手のひらを握って止める。娘の着物の袖が大きくめくれる。水仕事の邪魔にならないように、手甲は外している様子で、色白な娘の腕が両方肘まで露わになる。
神の片眉が上がる。
娘の腕は両方とも、手首の周囲から内側に糜爛の傷跡が出来ていた。どうやら酷い火傷をしたらしい。皮膚の内側は治癒しているのだが、外側が完全に治りきっておらず、変色し、ただれた跡が腕全体に広がっている。傷跡周囲は、先ほどの風呂で温められたのか、赤く色づいていた。
「――あ、あの、あの。みっともなくて申し訳ございません」
手のひらから力を抜くと、娘は距離を取り、小さく頭を下げる。
「酷い傷だ。痛みはないのか」
「は、はい。今は痕だけでございますから」
男が手を離すと、娘は腕をそろそろ前に出し、袖口で隠しながら軽く両腕をさすった。
「こちらに伺う前に、隊を率いて討伐に出たのですが、鬼と戦った時にしくじってしまいました」
やんわりと笑って、娘は腕をさすった。
「焔熱き祠の奥にて彼らと対峙致しました。たかが数匹の鬼、と油断していたのでしょう。彼らは融合して見る間に一つの生き物になり、鳳凰を呼びました」
凰招来。紅蓮の火炎纏う巨大な鳥を召還する強力な呪文に、娘の率いる討伐隊は襲われたのだ。
「何とかその場より逃げ仰せました。幸いなことに皆、死には致しませんでしたが、私以外は重傷を負ってしまい、暫しの間は立ち上がることも出来ない様子でした」
幸運だったのです、と締めくくって、娘はほっと息をつく。
「あのような化生が存在するとは予想出来ず、大事な儀式にこのような醜い傷跡を付けた侭望んでしまい、不甲斐ない限りにございます。」
娘の一族は秀でた治癒能力を持っていたが、いくら呪文の力を借りたとしても、昨日今日負った傷が完全に治癒する訳ではなかった。恐らく娘は討伐から戻ってすぐに交神の儀に臨んだのだろう。
「が、生き延びたのだろう?」
「幸いにも」
「ならば良かろう」
「はい。大切な家族の命を失う事なく、宿敵を倒す悲願への道をまた一つ歩みました」
娘は深く頷く。
経験は知識となり、彼女たちに流れる神々の血と同じく、強大な力を持つ宿敵を倒す力となる。神々の力籠もる術を集め、今は失われている戦闘の職業の指南書を集め、鬼達が隠し持つ武具を集め彼女たちの一族は少しずつ力を蓄えていた。
後は二人とも口を噤んでしまい、食事を終えるまで言葉を交わすことをせずにいた。
ささやかな食事を終え腹が満たされると二人は並んで腰を下ろした。
「……で、どうする」
唐突に獣神が言葉を発する。儀式を進行させるかどうかと尋ねているのだ。
交神の儀は神と人との魂を和合させる儀式である。その為には肉体的、精神的にお互いを知る必要があった。人間と同様に交合をするというのも一つの手だったが、一月の間共に過ごしお互いを知るのも、共に精神集中をして祈祷を行うのも手段としてあり得た。
「貴方様のお好きなように。私は……」
ただ貴方様のそばに居られればそれで良いのです、と瞳を伏せて言う姿が可愛らしく、獣神は娘を近くへと来るように手招いた。
娘はそっと、獣神の膝の間へと座り込んだ。獣の独特の体臭が一瞬鼻をつく。
「失礼致します」
獣神の腕が背中に廻ると、小さな娘の身体は狼神の身体に埋もれたようになってしまう。抱き寄せられ、娘はおそるおそる獣神の身体に触れた。娘は小さく息をつくと、獣神の顔を見上げる。
「どうした」
「こうしておりますと、落ち着くのです。可笑しいですよね」
微笑して娘は、神の着衣から覗く獣の毛に身を寄せる。
「私ども一族は貴方様から、多くの子を授かっております。私にもまた、貴方様の血が流れております。……貴方様に触れますと、帰ってきたと、そう思えるのです」
頬に触れた感触にくすぐったそうに笑って、娘は頬を擦り寄せる。
彼ら一族の者は生まれ出て一月の間、神々の世界にて過ごす決まりになっている。かつてこの神の子供として過ごした祖先の記憶が、血の中に混ぜられて残っているのかも知れないと娘は思った。そうでなくては、胸の中にじんわりと広がる、懐かしさを説明できない。
「貴方様の知る一族の者達は、皆見目麗しいものばかりでございましたでしょう?」
話題を変えようとして、娘は小さく「あ、」と呟いた。しかし、神の目線を受けて諦めたように話を続ける。
「あ、あの……情けない話で申し訳ないのですが」
恥ずかしそうに娘は言葉を紡ぐ。
「……自分ではどうしようもない事ではございますが、口惜しゅうございました」
獣神の顔貌を見上げ、娘は一度瞳を細めた。
「かつて貴方様と儀式に臨みし者達の姿絵を見ると、私などが貴方様に交神などお願いして良いのかと悩みました。私は……」
珍しく、娘の表情から微笑が影を潜める。青いつぶらな瞳には必死さと悲哀が混じり合い、獣神の顔貌を映している。
人と神との子供達である半神である彼らの一族の多くは、通常の者達よりも秀でた容貌をしている。娘の顔立ちは線が柔らかく可愛らしいのだが、美貌とは言い難いものだった。
「それでも、私は貴方様にお逢いしたかった。貴方様の事を知ったときから、私は貴方様を慕っておりました」
幼少の頃に見た獣神の姿絵と、かの神と交神の儀をした者が十六夜伏丸について話した事は、娘の中に深く刻まれた。以来娘は、この時が来るのを待ちこがれていたのだ。
獣神は娘に顔を近づける。唇がふれあうほど近く。強い眼光を放つ神と神に焦がれる娘と、二つの眸子が、お互いの底を吸い出すかの如くに強く絡み合う。それは、刹那だったのか、永遠だったのか。
顔を近づけ目線を外すと、獣の顔貌持つ神は小柄な娘の耳元に呟く。
「お前は、俺の獲物だ」
見る間に娘は真っ赤になった。俯いて眼をゆっくりと閉ざすと、今まで控え目に相手の胸に触れていた手を後ろに滑らせ、腕で相手の身体を抱く。
「はい。……だからどうか私を、離さないで下さいませ」
了
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俺の屍を越えてゆけの二時創作小説です。
十六夜伏丸と一族の娘のお話。
ゲーム内で分からない設定は捏造しています。