第五話
ブルーの照明に照らされたグラスは冷たく輝いている。氷はサファイアのようだ。
ルパンは、それに目を眇めて眺め、酒を呷った。
次元が吸っている煙草の煙が、横から流れて香ってくる。
ルパンの煙草は、ちょうどさっき吸ったのが最後の一本だった。
「しっかし、不二子のやつ遅くねえか?」
ふぅ……と煙を静かに吐き出して、次元が呟いた。
「うん。ちょっと連絡してみる」
不二子が来るはずの時間は三十分越えている。何かあったのか。しかし、ルパンはのんびりと構えている。
「あ、ふーちゃん」
いつ聞いてもこの愛称で力が抜ける。ふにゃふにゃと。
「え? ルパンの偽者?」
「ああ?」
次元が眉を寄せた。偽者というのなら、フェイクだろう。車の後部座席にいるはずだ。次元はちらりとルパンを見ると、無表情で頬杖をついて茜の表情を眺めている。それが不思議だった。ルパンはこうなることをわかっていたのでは。そんなことが、次元の脳裏に過る。
「茜、代わってくれ」
次元がそう思った矢先、ルパンが動いた。
「え、うん。ふーちゃん、ルパンに代わるね」
きょとんと瞼を瞬いて、茜はルパンに電話を変わった。
「不二子?」
「は~い、ルパン」
通話越しから不二子の艶やかな声が聞こえる。いつ聞いても良い声だ。ルパンは唇を笑みの形に象らせる
「俺の偽者が現れたって聞いたんだけどもな」
「そうなのよ。本当にそっくり。しかも、アルフォンソを殺しに来たっていうのよ」
不二子は怖がるどころか、嬉しそうだ。
「俺の偽者は?」
「別室で監視されてるわ。でも、アルフォンソが偽者だという証拠が欲しいって言ってるの。ルパン、来てくれる?」
甘える子猫のような声を出す不二子に、ルパンは鼻の下を伸ばして大きく頷いた。不二子のおねだりは絶品だ。例えそれに鋭い刺が混じっていても、ルパンはそれすら楽しんでしまう。
「行っちゃう行っちゃう、それはもう喜んで!」
「ありがとう、ルパン。好きよ」
チュッと電話越しから聞こえてくるリップ音。ルパンも返事の代わりに、チュッと電話機にキスをする。
ルパンは受話器を置いて、通話を切った。
「ってわけでな、茜、案内頼んでもいいか」
くるん、と体を反転して、ルパンはにこやかに茜の方を向いた。
「ええ、喜んで。ちょっと待ってて。着替えてくるから」
茜はドレスの裾を翻して、カウンターの奥へと入っていった。茜のドレスの裾にはラメが入っていて、ブルーの照明に照らされ、夜空の星のように煌めく。
「はーい、ゆっくりお化粧しておいで~」
ひらひらと手を振って、茜を見送るルパンに次元は距離を詰めて顔を近づけた。
「お前、あいつがこうなることわかってたんじゃねえか?」
不審気な声音を出す次元に、ルパンは肩を竦める。長年相棒を勤めているだけあって、次元は鋭い。
「いやあね、あいつもよ、俺達に仕掛けてたみたいだからよ」
ほら。
スラックスのポケットから掌に収まるサイズの端末を取り出して、次元に見せる。次元は、ひょいとその端末を手に取った。
「これで、あいつの動向を聞いてたのか」
次元の視線は、ルパンの左耳についているイヤフォンに集中する。
「そういうこと」
ルパンは耳からイヤフォンを外し、端末のスイッチも切った。
「もういいのか?」
「ああ」
ルパンは目を伏せた。
「あいつをどうするのか決めたってことか」
ルパンはグラスを掴み、からんころんと氷をグラスの中で転がす。
「俺は、どうもあいつを知っている気がするんだ」
「なんだそりゃあ」
次元は煙草を灰皿に押し付けて、新しい煙草を銜えた。ルパンは次元に右手を差し出すと、マルボロの箱を向ける。ルパンはそこから一本取り出した。
しばらくの無言。
ライターから火を出す音。煙草に火をつける音。二人がゆっくりと煙を吐き出す。煙は天井に昇り、ブルーの照明を曇らせた。
「だから、調べてみようと思って」
「お宝はないのにか」
確かに、今回はお宝の匂いはしない。むしろ、血だ。それでも、何かルパンは引っ掛かっている。ここで見過ごせば、後悔してしまいそうな何か。
「何かな、引っ掛かるんだよ。ここがな」
親指で心臓を示せば、次元の怪訝な色は深くなった。
「引っ掛かるといやぁ、俺も引っ掛かってる」
次元は、間を置いた。思考を整理するように。煙を吸い込んで、口を窄め、紫煙を細く紡ぐ。
「ルパン。ドゥランテに行くのは止したほうがいいんじゃねえか」
「そらまたどうして」
次元は顔をルパンのほうに向けた。鋭い眼光が、帽子の鍔から見え隠れする。
「あいつはお前を殺すと言ったんだろ」
「言ってたけど、あいつはしねえんじゃねえかなあ」
「しねえんじゃねえかなあ、じゃねえ。全部演技っていう可能性もあるだろう」
苛立たしげに声を尖らせる次元の肩に、ルパンは手を置いた。
「そんなカリカリしちゃーやーよー。それにな、次元」
茶化しながらも、ルパンは表情を真剣なものに切り替える。
「あいつは、誰かのために泣ける人間だ」
氷が溶けて崩れる。からんと空虚な音が響いた。
「お前の前で、泣いたのか」
「泣いたなぁ」
ルパンは、薄い微笑を唇に刷いた。優しい顔だった。次元は腹の裡で舌を打つ。
「それで信じるって?」
「さすがクールなガンマン」
ハハッと軽快な笑い声をあげてルパンは立ち上がり、出入り口に向かう。カウンターの奥から足音が聞こえる。茜の準備が終わったのだろう。
先に行くルパンの後を追って、肩を並べる。
「茶化すな。一日のうち五分だけでいいから真面目になれよ」
「今のが、五分間」
次元は盛大に溜息をつく。
こういう奴だ。
「何の話をしてたの?」
追いついた茜が、二人に尋ねる。
肩越しに振りかえる次元とルパンが顔を見合わせる。首を傾げる茜は、スーツに着替えている。ヒールの低いパンプス。黒のスラックスから見える足首がセクシーだ。
一瞬ルパンと次元の視線が交錯する。
ルパンが茜のほうに視線を戻して、甘く微笑んだ。
「いや、なに、茜の作る酒はうまいねっていう話」
「そうそう」
次元も頷く。
何かわざとらしさを感じた茜だったが、きっと尋ねても答えてくれないことは分かっていたので、それ以上追及することはなかった。
階段を昇って、地上に出る。
次元は、天を仰いだ。
「車、ねえぞ」
フェイクがなぜ車を乗って行ってしまったのか。その経緯を知らない次元は、ルパンに詰め寄る。
「だーかーらー、あいつが持っていったんだってば」
「なんで」
「人助けして」
「どういうことだ、ルパン」
「はいはいはーい、話は後でな。茜、悪いが茜の車出してくれるか?」
「いいわよ」
男二人の掛け合いに微笑ましさを感じているのか。微笑を絶やさずに、茜は頷いた。
三人を乗せた車は、ドゥランテの本拠地を目指す。
アルフォンソ・ドゥランテは、フェイクが殺すターゲットではない。だが、もしも、フェイクがルパン達の始末に成功すれば、次の仕事はドゥランテファミリーの壊滅だろう。ヴィッラーニ財閥とドゥランテファミリーには因縁がある。
と、言っても。
椅子に縛られ、身じろぎ一つ出来ない。
フェイクは、深い溜息を零した。
ルパン達を殺すつもりはさらさらないのだから、フェイクがドゥランテファミリーを壊滅する未来はやって来ない。
アルフォンソを殺すと言ったのは、自分の背後にいる「ヴィッラーニ財閥」をほのめかすことが目的だった。今のドゥランテファミリーは周囲と協定を結び、和平を崩さないようにしている。そんなドゥランテと対立しているのはヴィッラーニ財閥だけ。
その思惑通り、ドゥランテファミリーのボスであるアルフォンソは、フェイクを拘束するように指示した。
拘束されるのは慣れている。がっちりと鉄の手錠で拘束され、身動き出来ないように拘束着を被せられ、目隠しをされ、猿轡をされているわけでもない。縄抜けならお茶のこさいさいだが、そういう気も起きない。
むしろ。
「このまま殺されたって文句言わないって顔してるな、レッドフェイカー」
聞き覚えのある声が、フェイクの心情を言葉にした。
扉が開いている。
音もなく、気配もなく現れたのは、リュンとソンの脱走に協力してくれたドクターだった。
いつも通りに白衣を纏っている姿は医者のようだが、白衣の下は鍛え抜かれた肉体がある。フェイクに体術を教えた張本人でもあり、ドゥランテファミリーの幹部でもある。
「よお。意外に元気そうだ」
親しげに手をひらひらと振って近づいてくる。精悍な顔立ち。金髪の髪を刈りあげて、短い前髪が額に掛かっている。白衣を脱げば、医者だと思われない容貌をしている。
フェイクは険を込めて、ドクターを睨む。
ドクターの足が止まる。もう一歩踏み出せば、フェイクの間合だ。ドクターはそれを知っている。
「聞きたいことがある」
フェイクは淡々と言葉を切りだした。ドクターは悠々とした微笑みを浮かべる。
「ソンは、どこだ」
「リュンからは聞いてないのか?」
「ソンは?」
やれやれと溜息混じりに、ドクターは髪を掻いた。
フェイクにとって、ソンとリュンの二人が絶対なのだ。わかっている。ヴィッラーニの下にいても、それだけは変わらない。
「ソンは負傷したよ」
フェイクの纏う雰囲気が冷えた。
ドクターは、頬を引きつらせる。
「命に別状はない。傷に障らないよう安静にしていれば大丈夫だ」
「意識は、あるんだな?」
フェイクが言葉を発する度に、殺気の篭った刃がドクターの首筋を撫でて行くように錯覚した。フェイクは拘束されて、襲いかかることも出来ない。
「ある」
「面会は?」
「出来るよ。安心してくれ、起き上がるくらいには回復している」
「……っ」
詰めていた息を、フェイクはようやく解放した。肩に入れていた力が抜けて行く。ドクターの顔を見て、フェイクの頭はソンとリュンのことで一杯だった。
祈るように目を閉じるフェイクを、ドクターは黙って見据える。
「君はこれからどうするつもりだい?」
一番聞きたかったことだ。
フェイクの望みであるソンとリュンの組織からの脱走は叶えられた。後は、ヴィッラーニ財閥の壊滅。それをフェイクは実行するだろう。だが、それとは別のところでフェイクは迷っている。だから、ドクターは聞きたいのだ。
フェイクは無表情に、口を開いた。
「バルナバ・ヴィッラーニを殺す」
時間が止まったような目をする。凍りついている。
ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「君は、」
ドクターの言葉は途切れた。
「お邪魔だったかしら」
扉を開けて姿を現したのは、アルフォンソの助手をしている峰不二子だ。
豊満な肉体をシックな造りのスーツで包んでいる。栗色の艶やかな髪は頭の上でまとめて結っている。露わになった白い項が目を引く。
「いや。どうしました?」
「ボスがお話をしたい、と。彼を連れてきてもらえるかしら?」
官能的な赤色のルージュを引いた唇が微笑みを浮かべる。
ドクターは、フェイクに近づいて縄を解いた。両手首は後ろ手に拘束されたまま。
フェイクはドクターの手を借りて立ち上がる。
「こちらへ」
不二子の案内の下、アルフォンソが待つ部屋と向かった。
部屋で待っていたのは、ドゥランテファミリーのボスであるアルフォンソ。幹部数人。
そして。
「ルパン」
「よぉ、フェイク」
手をひらひらとフェイクに振って、ルパンはアルフォンソの方に体を向いた。
「どうだい。これでわかったか。あいつは偽者。俺が本物だ」
「ふん」
不敵に笑みを浮かべるルパンを見やって、アルフォンソは鼻を鳴らした。
アルフォンソはくすんだ金髪を長く伸ばし、豪奢な造りの髪留めをしていた。細い線の端正な顔をしている男だった。しかし、冷徹な雰囲気で女受けはしなさそうだ。
「アル」
窘める女の声が、フェイクの耳朶を打つ。視線を声の方に向けた。
「彼は協力者よ」
「わかっているさ、アカネ」
茜。
フェイクは声に出さず、舌の上だけでその名を呼ぶ。
茜が、フェイクのほうに顔を向ける。ぬばたまと言ってもいいほど黒い髪は、アルフォンソの金髪とは対照的だった。黒目がちの眼差しは勝気な性格を表している。
「ようやく会えた」
茜の瞳が憎しみで燃えあがる。
フェイクは、その瞳を真っ直ぐに見返した。
「あなたにも、協力してもらうわ」
「協力?」
「そう。ヴィッラーニ財閥の壊滅」
くっ。くぐもった声が、緊張で張り詰めた空間に響く。
フェイクの肩が震える。
茜は怪訝に眉を寄せた。
「ふっ、くくくっはははっ、はははははははっはーっはっはっはっはっはっはっ!」
「何が可笑しい?」
哄笑しだしたフェイクに、アルフォンソは一瞥する。
「ふふっ、いやぁ……とんだ茶番じゃないのと思っただけさ」
ルパンは、笑い混じりに話すフェイクに視線を向ける。斜に構えているルパンを、フェイクも見る。
視線が交錯した。
「茶番って、何が茶番なんだ、フェイク」
ルパンがフェイクに問いかける。
「だって、そうだろ。一度は愛し合った男と女が殺し合うんだ。なぁ、二ノ宮茜さん?」
茜の頬に朱が混じる。
唇を噛みしめて睨む茜を、フェイクは愉快そうに目を細めた。
「私は一度としてあの男を愛した覚えはない」
「でも、子どもは出来ただろ」
怒りを露わにする茜に対して、フェイクは冷めた顔をしている。むしろ、フェイクが茜の怒りを煽っているようにしか見えない。
「な、なんで……」
呆然とする茜。
「慶介だっけ? あんたの子ども」
茜は、言葉を失った。
「それ以上口を開くと、鼻の穴を三つにしてやるが?」
音もなく拳銃を抜いた次元が、フェイクとの距離を詰めていた。
「二ノ宮茜さん。良いことを教えてやるよ」
「口を開くな」
次元のコンバットマグナムの銃口が、フェイクの額に押し付けられる。
フェイクはそれでも口を開いた。
「聞いといた方がいい」
「次元」
声を振り絞って、茜は次元の名前を呼ぶ。次元は舌打ちをして銃を下ろした。
「話して」
一拍の間を置いて、フェイクは言った。
「あんたの息子は生きてるよ」
「え……」
茜の瞳が揺らぐ。今にも涙があふれてきそうだった。
「生きてる。姿を変えて、名前を変えて。それでも、生きてる」
フェイクは今までのことが嘘のように、穏やかな顔をして、茜に言葉を紡ぐ。
「い、いまどこに」
「何だ。気付いてなかったのか」
「え」
「ソン・ドゥランテ。あいつが、あんたの息子だよ」
茜の目尻から透明な雫が、頬を伝う。
「そ、そんな、だって、ソンは……」
「記憶を失ってるんだ。だから、あんたのことは覚えてない。それでも、あの男はあんたに優しかっただろ?」
「ソンが……」
顔を両手で覆ってしまった茜を、席から立ち上がったアルフォンソが寄りそう。茜の細い方に腕を回し抱きしめる姿は、初めの印象からは予想できない。
「ドクター。面会はできるんだろ?」
フェイクが後ろにいるドクターに尋ねる。
「あ、ああ」
ドクターは、いきなり言葉を向けられ言葉に詰まったが、はっきりと頷いた。
「会ってやれよ。感動の再会だろ」
「っ、あなたに言われるまでも」
涙を手の甲で拭った茜は、アルフォンソを強く抱きしめた。
「行っておいで」
決して誰にも見せないような優しい微笑みを、アルフォンソは茜に向ける。
「ありがとう、アル」
頬を撫でるアルフォンソの手に、茜は自分の手を重ねて、また涙を流した。
アルフォンソは茜の手を離して、彼女の背中を軽く叩いた。
茜は何も言わず部屋を出て行った。
恐らくソンに会いに行くために。
「さて、仕事の話をしよう。レッドフェイカー」
「お手柔らかに」
不敵に微笑むその顔は、ルパン三世そのものだった。
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ルパンは、盗聴器でフェイクがドゥランテファミリーの根城に向かったことを知る。タイミング良く不二子に連絡を入れると、ドゥランテファミリーのホテルに来てほしい、と言われたルパン。
ホテルで再会するフェイクとルパン。
フェイクが語る言葉は真実か、それとも偽りか……。