―――その人が同じ学校の人だと気づいたのは、五月の半ばの事だった。
幼い頃から私は目が悪く、しかし外で遊ぶ事の多かった私には眼鏡をかける事を両親は憚った。というのも、その頃の私は……というより、あの頃の年代だと別に男女の別はなかったのだが、それでも周囲の女の子よりも遥かに、ひょっとしたら男の子よりもよっぽど泥だらけになるまで遊び呆ける事が多かった私の事だ、眼鏡なんてかけてレンズを割ってしまい、もしその破片で怪我でもしてしまったら…………という、両親の親切心からだったのだろう。
だから私は、眼鏡をかける事無く小学校を過ごし、中学へと進んだ。
だが、中学でも精力的に学外活動で汗を流していた私は、徐々に視力の悪さに悩まされる事が多くなった。
学校では一番目の座席に座って、それでも眼を必死に細めて黒板の字を読んで、書き写していたし、陸上競技ならまだしもボール等の道具を使ったスポーツとなると中々に苦労した。バドミントンなんてもってのほかだ。
そして何よりも、平時の目つきの悪さがたたってしまったのだろう。徐々に会話をする女友達が減り、昼食を独りで食べる事が多くなった。
所謂“ぼっち”という奴である。
昔の事ながら、思い返してみると少し凹む。
中学生活も半ばを過ぎる頃になると私の視力低下は致命的なものとなり、眼鏡を着用する事を余儀なくされた。
――――――が、着用してから凡そ五回、私は事あるごとに眼鏡を壊し続けた。
ちなみにこの五回というのは、着用開始時点から一ヶ月間で五回、である。
理由は主に、激しい運動の時に誤って眼鏡を落としてしまった事が三回。授業中に眼鏡の位置を直そうとして、誤って力を入れ過ぎてしまいレンズを歪ませたのが一回(尚、この後何故かみんなが私の事を畏怖する様な眼差しでみていた)。体育でサッカーをしていた時に豪快なヘディングシュートを叩き込んだ折、眼鏡を粉砕してしまった事が一回、である。
まぁそんな事をしている内に両親からも『もう少し勉強に励みなさい』というお達しを頂き、高校受験を控えていただけに堪えたその言葉に従って私は勉強を続け、どうにか第一志望の私立校に入学する事が出来た―――――――冒頭の五月というのは、その年の五月の事である。
五月の半ばごろ、私は市立の図書館に来ていた。
その図書館には古今東西の様々なジャンルの書籍があり、全国ネットでのお取り寄せサービスを始めとした様々な設備が充実している、凡そ市立とは思えぬ程の備えのなされた図書館で、私のお気に入りの場所であった。
一説によるとその図書館の地下に附設されている個展染みた博物館の所有者がウチの学校の学長で、この図書館の蔵書の一部も彼の寄付によるものだとかいう話だが「本の出所なんてものは瑣末なものでしかないんだよぉ~」とのたまう穏先輩の言もあるので世界の貧富の格差是正について切実に考えるのは止めておく事にした。
閑話休題。
で、その図書館では貸出時に利用者向けに最初に発行されるICカードを提示しなければならない、のだが………………
『……あ……れ? 嘘? 何で!?』
お気に入りの作家さんのシリーズ文庫の最新刊が漸く借りられると思い嬉々としてカウンターに向かいかけた矢先、私は自分のICカードがない事に気づいたのだ。
その作品はずっと前から貸し出し中の状態が続いていただけに、この機会を逃したらまた当分読めなくなってしまう。かといってカードを取りに戻ろうにも、自宅には電車とバスを乗り継いで帰らなければならず、そんな事をしている内に借り出されてしまう事は自明の理。
―――どうしよう……!?
そうして、カウンター近くを無意味にうろうろしていた私の前に―――その人は、現れた。
『……あの、どうかしたんですか?』
『はひゃいっ!?』
……うん、あの素っ頓狂極まりない第一声はこの際記憶から抹消しておこう。
―――と、ともかく!
それが私、犬山亞莎(いぬやまあーしぇ)と彼、北郷一刀(ほんごうかずと)の、出会いなのでした。
私立聖フランチェスカ学園。
凡そ人種の宝庫と思しき程に東西南北世界各地、ありとあらゆる人種が集う人種魔境では、今日も今日とて賑やかな声が絶えなかった。
この学園の特色を上げていくとキリがないが、最近導入された新しい目玉の一つを上げるとすれば、やはり“高等部からのゼミ制の導入”があるだろう。
これはまだ試験的なものだが、高等部の二年生から大学部のゼミナールの様な選択授業を選ぶ事が出来、少人数指導による知識の確かな定着を狙ったものらしい。とは言え、そんな年齢無視した様な形式がとれるのも、一重にこの学校が近隣はおろか或いはこの国でも有数のマンモス校で、広大な敷地の中に初等部から大学院までの各学部を初めとした快適なアクセスが約束されているからだろう。
「北郷……貴様ァァァ!!」
「だからあれは誤解なんだってばぁ!! ししゅーん!!」
「―――ッ!? わ、私の名前を大声で叫ぶなぁーッ!!!」
そう。
でなければこの平和な時勢、真昼間から鈴の音響かせながら模造刀携えた女生徒に追いかけられるなんて事、有る筈がないのだ。
「おー、かずぴー! まーた朝から美少女フラグ建設中かー!? もげてまえーっ!!」
「及川ァァァああぁぁあアァ!?」
「北郷ォォおぉおぉぉぉおおお!!」
…………まぁ一般的な第三者から見た場合、ドップラー効果響かせながら広大な敷地を爆走する生徒がいる時点で目を疑いたくなる様な光景なのだが、此処“聖フランチェスカ学園”においてはこの程度、日常茶飯事だったりする。
例えば所構わずゲリラライブを決行して観客に奇妙な声を上げさせる美少女三姉妹がいたり。
例えば初等部から大学院までと、何千名を数える生徒達の胃袋を満たす食堂をたった一人で喰い尽くす子犬を連れた赤毛の美少女がいたり。
例えば登校に堂々リムジンを使う様な金髪ツインドリルのガチ百合な美少女がいたり。
例えばそんな美少女に張り合って従者二人に人力車を引かせて登校する見た目以外色々と残念系な高飛車お嬢様がいたり。
例えば夏と冬の祭典では壁際サークルとしてその道の者に崇め奉られる二人の中等部の美少女がいたり。
そんな妙な世界が“日常”と認識される様な場所。
それが“聖フランチェスカ学園”である。
「うーむ…………うん、北郷。これ、再提出せい」
「うへっ!? マジですか……」
「マジもマジ、大マジじゃ。ほれ、行った行った」
提出したレポートの表紙にでかでかと“リテイク”の文字を書きこまれて突っ返され、一刀はげんなりした様な表情を見せた。
そんな様子を見ながら妙齢の美女、江夏祭(えなつまつり)は実に愉快そうに口元に弧を描いた。
ちなみに彼女、普段は名前を音読みして祭(さい)先生と呼び慕われている。
「ほれほれ、さっさとせんと明後日のクリスマスを研究室で過ごす羽目になるぞ?」
「勘弁して下さいよ祭先生……」
「はっはっは、何だったら“アレ”でも構わんぞ? お主秘蔵の“アレ”を儂に寄こせば、提出物の一つや二つ―――」
「さ、祭先生ッ!! 不謹慎ですっ!!」
実にエロ親父臭い表情を浮かべた祭の言葉に、耳まで真っ赤にした少女、泰平明命(やすひらあけみ)が声を張り上げた。
江夏ゼミの中でも一際純情ロマンチカな彼女は、時折祭が繰り出す猥談染みた話の数々に素晴らしいまでの反応を返す事から祭のお気に入りな生徒であった。
「あ、“アレ”って何ですか!? ま、まま、まさか一刀さんの――――――!!」
「応よ、こやつの“アレ”は実に猛々しい逸品でな? この前も儂が呑まれそうに―――」
「変に曲解した様な物言いはよして下さい祭先生!! 明命ちゃんも! 俺の事変態みる様な目で見るの止めてくれません!? ガチで傷つくよ!?」
「不潔ですーッ!! そ、そんなだだだ男女の契りで単位を稼ごうなんて不謹慎極まりないですッ!!! だだ男女のちちち契りというのは、も、もっと神聖でなければならないんですッ!!」
「おーおー、本当に主は最近のガキとは思えんくらいに純情じゃのぉ? 江戸時代の生まれでもなかろうに、其処まで貞操観念の強い奴も珍しいぞ?」
「祭先生も余計な発言禁止!!」
ぎゃいぎゃいと喧しい声が、今日も今日とて江夏ゼミの研究室から響き渡る。
これも、聖フランチェスカでは割と日常的な風景である。
で、後日。
「「「「「かんぱーいっ!!」」」」」
無事に年内の課題を片付け、一刀は再三強請られた“アレ”を祭に独り占めさせる事なく、同じクラスで同じゼミの中学時代からの付き合いのある及川や、明命の親友である亞莎、それに留学生で明命達と同じクラスの友人である穏と共に分かち合っていた。
「いやーっ、それにしてもホンマかずぴーのじっちゃん秘蔵の酒は上手いな!」
「あはは~、なんらかせかぃがまふぁってまふぅ~……?」
一刀の祖父が遥々鹿児島から持ってくる秘蔵の銘酒は、打ち上げ開始ものの数分で絡み上戸と酔っ払いを生産していた。
尚、言うまでもないが全員未成年である。
「あぅ……お父さん、お母さん。明命は悪い子になってしまいました…………」
懺悔の言葉を洩らしつつも、携帯の記憶媒体の99%を占める猫画像の中でも一際お気に入りな軽妙にランバダを踊る猫を見てニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべている明命は既に酔っ払いに分類されて然るべきだろう。
「なんやなんや~? かぁずぅぴぃー?」
「ええい及川顔が近いっ!! つぅか臭いから寄るなっ!!」
諸悪の権現……というより、及川と穏が無理やりに酒蔵から酒を引きずり出させたのだからある意味被害者である一刀は酔っ払いをあしらうのに苦慮しつつ、
「あ~しぇちゃ~ん? 飲んでまふかぁ?」
「の、穏さん……臭い」
「あ~!? くちゃいって言ったぁ! まら処女の乙女にくちゃいって言ったぁ!!」
「の、穏さんっ!! そんな、うら若い乙女が処女なんて大声で言っちゃいけませんっ!! 不潔ですっ!」
「明命ちゃんも声でかいからってうぼッ!?」
暴走気味になりつつあった女子を止めようと立ち上がった勇者(一刀)は、しかし全体石化魔法を連発する雑魚敵(穏)のバックアタックによって動きを封じられた。
尚、どうして彼の声が突如としてくぐもったのかは推して知るべし。一言及川が素の声で「爆発しろ」とぼやいたそれが全てを物語っている。
「ぬぅふぅふぅ~? かぁじゅとしゃ~ん? そぉいぇばぁ? あしたふぁクリスマスでしゅよねぇ~?」
もがき苦しむカナヅチの弟を恍惚の表情で見つめるサド気質に目覚めた姉の如き瞳を浮かべた穏が何だかアブナイ目つきで一刀を見た。
迫り来る壁に押しつぶされそうになりながら呼吸困難に苦しむ中、一刀は腰を引いた瞬間以上におぞましい様な寒気が背筋を駆け抜けるのを感じた。
これはアレだ。河で水を飲んでいた鹿が顔を上げた瞬間にそこには口をあんぐり開けて今まさに襲いかかろうとしていたワニを見つけた時の様な、アレ。
「わふぁし~、プレゼントが欲しいな~っておもふんれすょ~? だ・か・ら・~・?」
要するに――――――“喰われる”
「―――頂いちゃいますよぉぉぉ!!!」
「お前酔っぱらってねぇだろぉぉぉ!?」
「きゃーっ!! ふっけつーっ!!」
「くぅ……やっぱリア充爆発せぇかずぴぃぃぃいいいぃいいぃ!!!」
目が一瞬で捕食者になった穏に部活で鍛えた足さばきで対抗しながら、まるで通学路の曲がり角で憧れのアイドルに抱きとめられた女子の様な黄色い悲鳴を上げる明命の隣で世の男どもを代表する様な怨嗟の声を上げた及川の怒号を聞きつつ―――
「…………(ゴク、ゴク)」
何だか据わった目つきの少女が独り、酒“瓶”を傾けていた。
時刻は夜の十二時になろうかという時分。
良い子だろうと悪い子だろうと、酒の入った人間の大体半分は問答無用で眠気に襲われる時間帯になり、漸く部屋からは騒ぎの声が消えた。
真っ先に酔い潰れた穏の最終兵器(リーサル・ウェポン)を奪わんと抑えたはいいもののその余りの柔らかさと心地よさにあっさりと白旗を上げて寝入ってしまった明命と、部屋を別にしたお陰で今頃盛大に鼾を掻いているであろう親友の姿を想像しつつ、一刀はお手洗いを済ませて木目が音を立てない様に廊下を歩いていた。
「ふぅ…………っと、寒ぃ」
ブルリ、と震えた身体を抱きしめる様にして、一刀はやや早足に自室へと帰路を急ぐ。
と、曲がり角を曲がった所で、
「――――――一刀さん」
「ッッッ!!??」
冬の夜、真っ暗な廊下でいきなり後ろから響いた声に悲鳴を上げなかったのは賞讃ものだろう。
慌てて振り返り―――然る後一刀はぎょっとした。
其処にいたのは亞莎だった。それはまだ良しとしよう。
問題はその格好だ。
ワイシャツ一枚。
ワイシャツ一枚だけである。
大事な事なので脳内で二回繰り返した一刀は、先程の穏とは違う意味で“食われる”のかと一瞬身構えたが、月明かりに映えて眩しいくらいに美しい足先から太もものラインをなぞりつつなだらかな隆線を描く身体から顔へと視線を映した瞬間、思わず絶句した。
「一刀さん?」
「―――!?」
直ぐ目の前に、紅潮した頬と潤んだ瞳が実に艶めかしい亞莎の顔があった。
もし僅かでも身動ぎしてしまえば何処からともなく“ズキュゥゥゥン!!”という効果音が響き渡りそうな程に、近く。
ぷっくりと柔らかそうな小さな唇が、何度も自分の名前を紡ぐ。
首の後ろに回された腕が妙に冷たく、このままじゃ寝冷えして風邪ひいちゃうよ、と現実的な一言を言えればどれだけ楽なものだろうかと、やや現実逃避気味になっていた思考を放りだして一刀は亞莎に向き合った。
「あ……亞莎? もしかしなくても、酔ってるよね?」
「ふふふ……一刀さんて、胸板が凄く厚いんですね」
どうしてそんなに上機嫌なんですかシャツ一枚しか着てない胸元に白魚の様な指を這わせないで下さいそもそもワイシャツ一枚ってなんだどうしてそんな格好なんだええいこれはアレか据え膳食わぬは男というより漢の恥という奴かなんだこれなんだこれ夢かああそうか夢なのかだから亞莎がこんなに大胆なんだなはっはっは仕方のない奴だなぁ――――――と、要するにこの状況の打破を諦めかけていた一刀の目の前で、不意に亞莎が胸元に自分の指を持って行き、
「……(―――パチン)」
弾く様な音を立てて、ボタンを一つ外した。
只でさえボタンの掛け間違いだったりそもそもつけていなかったりしていたワイシャツはそれだけであっさりと肌蹴てしまい、慎ましくも其処に詰められた浪漫は漢の希望だと云わんばかりに美しい肌を一刀の視界に曝け出した。
途端、それまでも結構引き気味だった一刀の腰が思いっきり亞莎から離れた。次いでにそのまま距離を取りたかったというのにどうして片手でそんな力があるんですか貴女ああそう言えば元体育会系でしたっけ貴女、と、首の後ろに回された万力の様な力で離れる事が叶わず、一刀は腰を必死に引きながら堪えた。
具体的にナニをと言わないのは優しさである。但し傷口に塩を塗る様な優しさである。
「ふふ……ねぇ? 一刀さん」
「ナ、ナンデショウカアーシェサマ」
砂上の楼閣程に脆い思春期男子高校生の理性を保とうと片言になった一刀の首元に巻きつく様に、再び亞莎の腕が絡みつく。
その時、幾ら不可抗力だと叫ぼうが傍から見ればそれはラブコメ主人公が「俺は恋愛が出来ない」とのたまう程に説得力皆無な目つきで一刀は雄の本能のままにワイシャツの中に隠された漢の桃源郷を垣間見ようとして――――――
「…………え?」
“紐”を見つけた。
肌蹴たワイシャツの隙間を掻い潜る様によくよく見ればそれは亞莎の身体の大事な部分、所謂乙女の領域、要するに雄が求めて止まない理想郷を覆い隠す様に巻かれていた。
それに気づいたのか、亞莎は普段なら絶対に見せない様な小悪魔チックな妖艶な笑みを浮かべつつ、最早殆ど意味を為していなかった外套(ワイシャツ)を脱いだ。
パサッ、と乾いた音を立てて床に落ちるワイシャツ。
月明かりに照らされ、何処か背徳的な神秘を感じさせる少女の身体は―――赤く彩られた紐で上下の桃源郷を覆っていた。
下着すら着用せず、正しく紐“のみ”である。
膨らみとか付け根とかのラインはハッキリと分かるのに、肝心要の箇所が包まれているそれは健全な男子高校生には刺激が強すぎる。
未成熟? それが何だと云うのだ、という心持の元、一刀は今なら断言出来る。
―――あの浪漫の丘も素晴らしいが、理想の平野も悪くない。
何て考えている場合じゃないだろう俺、と一刀は思わずそのまま本能に従いそうになった自分自身を理性と云う名の最終防御壁で懸命にガードした。
そう、自分と彼女は世間一般で云う所の所謂“彼氏彼女”ではないのだ。
祭に言わせれば大正ロマンス、江戸時代的貞操観念をそれなりに持ち合わせている一刀にしてみれば、このまま流れに身を任せる事は到底出来ない。というか許されない。
剣道を修め続けてきただけあって、その辺りの分別をしっかりとつけなければ、という一刀の気概はどっかの世界の同姓同名の種馬さんとはえらい違いである。
亞莎が読書好きな文学少女で恋愛処女であるというのなら、一刀は健全且つ純情な恋愛童貞なのだ。素晴らしい。
――――――そう、そうして一刀は漸く思い至った。
「亞莎」
肩を掴み、距離を近づけた一刀の行為をどう受け取ったのか、亞莎は頬を一層赤らめながらもゆっくりと瞳を閉じて“その時”を待った。
それはそれで大変魅力的過ぎていっそもうこのまま「俺様、お前、ポリポリ」と食べてしまいたい衝動にかられたが、一刀は全力でそれを阻止して僅かに息を吐いて、吸って、告げた。
「―――風邪をひいちゃうから、今日はもう寝よう?」
及川は手洗いに向かおうとしていた。
盛大に欠伸をしながら、ああこれは明日は二日酔いで苦しむだろうなぁとぼんやりと考えながら曲がり角へとさしかかろうとしたその時、唐突に乾いた音が響いた。
(……?)
不思議に思い、近づいてみると、
「―――――し、て」
くぐもった様な少女の声が、
「―――どう、して……ッ、気づいて、くれないんで、すかぁ……!?」
静寂の世界に、嗚咽と共に響いた。
「わ、たしっ……ずっと、ずっと好きだったのに……! け、ど……明命ちゃんとか、穏さん、とか……! 一刀さんは、ずっと、ずっと他の女の子の、こ、とばかり……!! きょ、ぉだって……私、ずっと独りで…………だか、ら……プレゼント、わた、渡そうと思って……なの、にぃっ!」
声の主は、亞莎だ。
そして、彼女と向かい合っているのは、一刀だ。
実を云えば、このクリスマスパーティは及川と穏が企画したものだった。
副題はズバリ、“一刀と亞莎をくっつけよう”大作戦。
自分達の恋人すら満足に出来ない癖に他人の色恋沙汰に首を突っ込みたがるのは十代の健全な証左だろう。
だから態々一刀の祖父だったり両親に根回ししたりしてあれやこれやと奮闘し、親友の恋路を応援しようと及川は張り切っていた。
要するにそういう事だ。亞莎が一刀に惹かれている様に、一刀もまた亞莎に惹かれている。
傍目から見ればお前らもう恋人じゃん、と云いたくなる様な二人だというのに、巡り合わせというか運命石の選択的な何かが事あるごとにその邪魔をする。だったらもう人為的に既成事実を作ってしまえ―――というのが、計画の全貌だった。
当人達に言わせれば「余計なお世話」なのだろうが、及川も穏も、そして今回の計画に賛同してくれた明命や祭先生も、みんな二人の事が好きなのだ。
大切な人には、幸せになって貰いたい。
「この人が好きだ」と、声を大にして言える様な仲になって貰いたい。
言葉こそ違えど、考えている事は結局それだった。
途中、穏の酒癖の悪さとか色々とアクシデントはあったが、概ね計画は予定通り進行、後は穏が色んな本を介して亞莎に吹き込んだ“私をプレゼント”作戦が完遂されれば、明日の酔いも心地よいものになる――――――筈、だったのだが。
(かずぴぃぃぃ!! おま、そこはギュっとしてチューやろ!?)
この昭和的朴念仁は、と頭を抱えたくなった及川。
(あかん、もうダメや。これやと二人をくっつけるどころかこれまでみたいに一緒に居させる事も――――――)
計画の崩壊に歪みかけた顔は新世界の神的な何かになりつつあった及川の鼓膜を、一刀の声が揺らした。
「―――――亞莎」
一番最初に会ったのは、四月の入学式だった。
…………まぁ、“会った”と云っても、遠巻きに見ている事しか出来なかったのだけど。
新入生のクラス分けが張られた掲示板の前に居た俺はふと、本当にふと、隣の掲示板の方を見た。
其処に居たのは、一人の少女だった。
長い髪をお団子みたいに二つに纏めて、何処か物憂げに掲示板を見つめていたその姿に―――多分、俺は一目で惚れたんだと思う。
付き合いたい、というか、そんな気持ちじゃなくて……ただ彼女、犬山亞莎を見ているだけで、その日が少しだけ、マシになる様な気がしていた。
「亞莎、初めて会った時の事、憶えてる?」
そんな気持ちを抱いたまま迎えた二度目の春先、俺は彼女と再会した。
選択したゼミで、顔合わせと称した祭先生主催の飲み会の席で、黒髪の……何だか忠犬ハチ公みたいな印象の女の子の隣に、亞莎はいた。
楽しそうに笑っているその笑顔を見て、俺は自分の気持ちを再確認して、そして改めた。
――――――この気持ちは、恋なんかじゃない。
「あの時からずっと……俺は君の事が好きなんだ。誰にも渡したくない程に、俺はずっと君の事が好きで好きで堪らないんだ」
頬を伝う涙を掬う。
触れた肌は冬の夜だけあって冷えていて、とても冷たい。
「君に呆れられない様な格好良い告白の仕方とか全然思いつかなくて……ホント、どうしようもないくらい情けない俺だけど」
――――――この気持ちは、きっと、
「―――俺は、北郷一刀は、犬山亞莎の事を、誰よりも愛しています」
――――――きっと、“愛”と呼ぶのだろう。
「か、ずと、さん……」
震えていた唇を、優しく、啄ばむ様に重ねる。
触れた其処はとても冷たくて……けれど、何処か優しい温もりに溢れている。
「成り行きで、とか……そんな惰性のままじゃ嫌だったから、その…………ゴメン。泣かせちゃって」
「………………も、ぅ……ぃい、です」
腕の中で涙を零す亞莎は、けれど笑っていた。
不器用な彼を笑う様に。
不器用な自分を笑う様に。
幾つも、幾つも零れ落ちる涙は―――もう、悲しみに溢れてはいなかった。
「……一刀、さん」
「何? 亞莎」
「―――ッ」
奪う様に重ねられた二度目のキス。
甘くて、柔らかくて、温かくて。
そして、そこには沢山の想いが込められていて。
それだけで、二人は幸せになれてしまう。
「……フフッ、一刀さん」
嘗て、フランスのある哲学者は哲学史に有名な命題を残した。
「――――――受け取って下さい、私の全てを」
“我想う 故に愛あり”と
オマケ
その後の二人の事は、あえて話すまでもない事だと思われる。
ただ、少女の花も恥じらう様な笑顔が増えたことや、どこか気恥ずかしそうな少年の面持ちや、
「爆発せぇリア充め」
二日酔いの頭痛に悩まされながら恨みっぽく、しかし心からの笑顔の絶えない表情で関西弁混じりの青年が呟いたそれが、全てを物語っている。
更にオマケ
「あーしぇちゃーん?(ニヤニヤ)」
「な、何ですか……穏さん?」
「きのうは おたのしみ でしたね」
「ブッ!?」
首筋とか胸元とかにあった“虫さされ”を見て、満面の笑みを浮かべる浪漫の丘の所有者がいたとかいないとか。
【後書き的な何か】
ただ一念を籠めて書き上げました。
余計な事は言いません。ええ言いませんとも。
但し皆さん、お酒は二十歳になってからです。それだけは守りましょう。
それでは、皆さん御一緒に。
爆発せぇリア充め
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恋姫同人祭り、二つ目の参加作品です。
昨日はクリスマスイブ、という事で色々と思う所がある次第ですが、そんな事は置いといてまぁのんびり楽しんで頂ければ幸いです。
おススメするクリエイターさんですが、Siriusさんです。
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