葉擦れの音にも混じろうかという僅かな物音。無駄に長い訳ではないキャスターの耳が、それを敏感に感じ取る。常人の耳では聞き取れぬ超高音域でさえ、聞き取ることなど造作もないことだ。
天上の青に染まった瞳が細まり、音の位置から敵の居場所を素早く探る。夫から留守を預かっている以上、妻たる自分がしっかりしなくてはいけない。
これはサーヴァントの気配ではない。アサシンならば気配遮断のスキルを使用すれば、容易く侵入を果たすことだろう。
だが、アサシンは彼女の手の内にある。謀反など起こそうとも、裏切りの魔女には痛くも痒くもない。あれはただの生意気な番犬に過ぎないのだから。よしんばアサシンが入ってきたとしても、内部に幾重にも張り巡らせた蜘蛛の巣の如き結界が知らせてくれるはずだ。
但し、やはりキャスターにとって敵であることに疑いの余地は無い。黒い光沢の、俊敏な動きを見せる大きな染み……否、それは。
「……ゴキブリ!」
神代の魔術によって一瞬で蒸発させた。飛んで逃げる暇も与えぬ、見事な攻撃だ。まだ煙を上げている、新たに仲間入りした畳の黒い焦げを見据えて、小さくキャスターは舌打ちした。
「……また、やってしまったわ。本当に忌々しい。一昨日も増えた焦げが見つかってしまって、宗一郎様に叱られてしまったのに。ああ、宗一郎様に何と言えば……」
暖かくなってきたせいか、柳洞寺にはゴキブリが大量発生し始めている。好い加減キャスターの頭も宗一郎一色で、常春だと誰しも思ってはいるが、ここでは誰も口にしないのが上策である。だって彼女は腐っても魔女だから。
キャスターにとっては新居、二人の愛の巣も同然の我家に、そんな汚らわしい異界の魔蟲が跋扈しているなど耐えられない。世界は二人の為にある。故に二人の世界の範疇外にあるものは異界の異物、即ちエイリアンなのだ。
僧たちが別段、清掃をサボっている訳ではないことをキャスターは知っている。彼らはむしろ、勤勉と言って差し支えない。
日の昇らぬ内から起きだして、指先が赤くなるような冷たい水で雑巾がけをして、あの味気なくて質素な味付けの精進料理(彼女の料理と比べるのも失礼なくらい出来が良いもの。勿論、味は遠く及ばない)を食み、長時間同じ姿勢を強制される座禅を組み、気が遠くなるほどの間、うたた寝も許されない瞑想に耽り、服に付いて取れない墨汁を使って経を写す。
敬愛する夫の宗一郎も同じような生活をしているが、とてもキャスターには真似できない……。
彼女は僧たる者の生活の実態を知ったことにより、それに準じる生活を営む葛木宗一郎という男に、より深く傾倒していった。要は惚れ直して心酔しちゃった、ということであろう。
そんな彼に仮に、一時とは言え、伴侶として傍にいられるというのは、キャスターにとって至上の幸福と言えた。先の人生は悲惨かつ暗澹たるものであったため、もうここで彼と一緒に人生やり直したい、とさえ思っていた。
「嗚呼、聖杯戦争がず~~~~っと続けば良いのに。そうすれば私はいつまでも宗一郎様のお傍に……」
己が生み出した妄想に頬を染めて、一人で恍惚の表情を浮かべる人妻。怪し過ぎて誰一人声をかけられない。柳洞寺では既にこれが日常茶飯事だ.
ここに運悪くアサシンが居合わせたならば、『妄想を抱いて溺死しろ』と嫌悪と皮肉の入り混じった笑みを浮かべるであろう。
さて話は大いに脱線したが、ゴキブリ談議に話を戻そう。無駄に広くて、古の香り漂う旧建築故の味が、ゴキブリたちの温床となっているのかもしれない。
自分の家ぐらい自分で護る。そんなこんなでキャスターは聖杯戦争そっちのけで、自らの住処を護るべくして立ち上がった。
日々ゴキブリに奮闘し、殲滅するべく退治記録を更新していた。その戦跡及び戦績を物語るように、点々と黒い焦げが部屋中に、いつしか墓標のように広がっていた。
然ながら、それは無限に続く剣の丘のようでもあった。アンリミテッド・コックローチ・ワークス……嫌すぎる。
「……このままいけば、一日当たりのゴキブリ退治数がギネス記録を樹立してしまうかもしれないわ」
そんな自分が怖いのか、ちょっと誇らしいのか最近分からなくなってきたキャスターだった。
何も虫如きに魔術など使用せずとも、現代の技術をもってすればゴキブリ退治程度、十分にできるだろう。それは太古の文明人キャスターとて承知している。
便利な世の中になったもので、家の中からゴキブリを一掃する武器も存在する。しかしながら、文明の利器は人体に有害であるため、駆除の間は寺から出てもらわなくてはならない。それでは修行僧たちの邪魔になってしまう。――却下。
殺虫剤。これも人体に有害なので却下。
ゴキブリホ●ホ●。一分一秒でも同じ空気、同じ空間にいることが耐えられない彼女にとって、これは時間がかかり過ぎる。そもそも捕獲成功率もあまり高くはない。見ていてストレスが溜まるので却下。
スリッパ。確かに速いが、成功率は低い。それにカウンター攻撃が怖い。丸めた新聞紙も同様である。……却下。
「ふっ……虫如きに使うために、無駄な魔力なんて持ち合わせていないけど仕方ないわね」
やはり魔術で焼いた方が被害が少ない。自分の精神と相談しても、まだ及第点を与えられる。
畳に焦げをこさえることも、僧たちの迷惑ではないのだろうか。勿論そんな瑣末事などキャスターの頭には毛頭無い。
今日は何とか一匹を魔術で仕留めてみせたが、怪しい隙間は柳洞寺にまだまだ散在している。ゴキブリ蔓延る魔窟は一つに留まっているはずがない。
「ああん、鬱陶しい。太古の昔より姿形習性が変わらないだなどと、業が深すぎるわよっ」
発見・燼滅、発見・燼滅、発見・燼滅、発見・じんめつ…はっけ……じん……エンドレス。同じような場所、同じ敵、同じ方法で殺しているせいか、既視感が付きまとう。まるでビデオを繰り返し見せられているような気さえする。
倒しても倒しても本当にキリがない。後から後から湧いて出て来て、敵勢の全貌が杳として掴めない。
まるで終わらない悪夢を見ているようだ。あの黒いエイリアンが本当に夢に出そうなのだから、始末に負えない。
聖杯戦争が終わらないのは良いが、古代の魔女っ子キャスターVS漆黒の侵略者ゴキブリ大決戦に終止符が打てないことは、真に遺憾である。
「実は知らない内に時間がループしているんじゃないでしょうね」
挫けそうなキャスターの心の暗雲に、一条の光明が差す。鋭く光る眼鏡を指先で押し上げる、葛木宗一郎。彼の教えが頭をかすめる。
「……キャスター。一匹見たら、その三十倍はいると思へ」
何の慰めにも励ましにもならないその言葉はしかし、キャスターの萎みかけた意志をこの上もなく奮い立たせた。実際、どういう意図で彼が妻に告げたかは正確には分かっていない。諦めが肝心なのか、数に臆するなと諭しているのか。
その低い声音にキャスターの頭はいっぱいいっぱいになっていた。無論、幻聴でしかないのだが。
「ハイ! 見ていて下さい、宗一郎様! 私、新妻の務め、愛の砦防衛を見事に果たしてご覧にいれましてよ!」
キャスターは後者の意味にとったようだった。決意を新たに立ち上がった彼女に、突如不幸が舞い降りた。
顔が、何となく痛い。細い枝が顔の表面を撫でたときのような、こうザラザラしたような感触。忙しくフリッカーする■■。
一度強制終了を強いられた彼女が再起動し、事態を把握して、まずキャスターがとった行動は。
痙攣したように振動し、歯の根の合わぬ口から、言葉(カタチ)にならぬ音が笛のように漏れる。三秒後、やっと悲鳴になる。
「いやああああああああああああああああああ!」
絹を引き裂くような悲鳴が柳洞寺を震撼させる。
砲門一斉開門、一斉射撃。戦艦に例えたならばそんな感じ。宇宙戦艦キャスターの美しい顔に、その黒いエイリアンは降り立ったのだった。
高速詠唱で魔術を放つ彼女をもう誰も止められない。世界で唯一人、葛木宗一郎を除いては。
山門で暇を持て余すアサシンは、先ほどから耳を打つ不快な音に、形の良い眉を顰めていた。……寺の内部で破砕音が断続的に響いてくる。
「相変わらず騒がしい女だ……。フー、それにしても今日は蒸すな。熱々なのは寺の中だけにしてくれまいか……。みな砂を吐き過ぎて、砂漠化が進行してしまうぞ。ふーむ、よもや人の世で騒がれている地球温暖化とやらに、一役買っておるのではあるまいか?」
その日、柳洞寺は壊滅した。世間では柳洞寺に核弾頭が落とされたとか何とか騒がれている。留守中に襲撃でもされたかと、宗一郎が急ぎで戻ってきたことは稀有な事態である。そのときの彼の顔と言ったら。宗一郎を知る者たちには『後にも先にも貴重な体験をした』と囁かれている。
キャスター・葛木ペア、リタイア?
「ぎゃはははははは! ちょー面白え! ゴキブリ退治で自滅したってあり得なくねー?! 聖杯戦争の歴史を顧みても一位二位を争うアホっぷりじゃね?!」
双眼鏡で事の顛末を観察していたアヴェンジャーは一人、爆笑していた。その脇で迷惑そうな顔をしている山門の番人は、昼だからと一応見逃してはいるものの。
「おぬし、笑いに来たのなら帰れ。昼寝に差し支える上、甚だ目障りだ」
涼しげな美男はもの凄く迷惑そうに、珍客を手で追い払っている。その瞳は破壊の爪跡を残す元・柳洞寺、今・廃墟の哀れを映している。
「あの女狐、余計なことしかしでかさんと見えるな。不幸中の幸いか、我が因り代は無事であったが……手ずから本丸を破壊するほどの愚挙に出るとは思わなんだ。キャスターの奴、あそこまで春に現を抜かすとは哀れな女よ。いよいよ仮のマスターとしても使いものにならん。アレが死んでくれても別段、私は一向に困らんのだがな……」
意識か無意識か、彼の口から本心が駄々漏れだ。隣の気楽なサーヴァントの作る空気によるものか、ついついこぼしてしまった。
これ以上ここにいられたら、己が何を口走るか分かったものではない。ただでさえ日頃の軽口をキャスターに咎められて鬱陶しいのに、徒に自ら火種を蒔くことはするべきではない。
軽く咳払いをしたアサシンは、駄犬を追い出しにかかる。
「復旧工事で騒がしいことこの上ない。加えておぬしのような輩まで押し寄せてくるとあらば、ほんに迷惑だ。そろそろ本腰を入れて警備をするしか手はないということか?」
「マスターに良い土産話ができたよ。サンキュー」
物干竿に手をかけた兵を目にし、この世全ての悪は涼しい顔で足早に去っていった。
Tweet |
|
|
2
|
0
|
追加するフォルダを選択
ネタバレになりますが、Fate/ataraxia寄りのコメディ小説です。
キャスターが中心であり、僅かに周りの人間が出てきます。色々おかしくても気にしないで下さい。