みなの反対を押し切って、北郷一刀は是空と二人きりで会っていた。深い森の中、砦を見張っていた警邏隊も、今は遠くに離れている。
「出てきてもらえて、助かった」
「いえ……それで、大事な話というのは?」
「孫策のことだ。事情は知っているのだろう?」
「はい。すべて、雷薄の捏造です」
「わかっている」
是空の意外な答えに、一刀は驚いた。皮肉のつもりで言ったのだが、彼はすんなり非を認めたのである。
「あまり長居は出来ない。手短に話す。孫策の身柄は、君が探りに来ていた屋敷にある」
「……」
「だが雷薄様より、孫策の身柄を寿春に移送するよう指示が来た」
「えっ!?」
寿春より送り出された一万の部隊は、三千を孫権捕獲のために残し、七千が孫策移送の護衛として割り当てられることになっていた。
「だが残された三千の部隊も、意図的に分散して配置する。そして孫策移送の情報を流し、孫権を動かす計画だ。孫策を取り返しに来た孫権もろとも、姉妹を始末するというのが、雷薄様の筋書きだった」
「……どうして、それを俺に教えるんだ?」
「力を貸して欲しい」
「孫権を捕える?」
「いや、姉妹を助けるためだ」
一刀は目を細めて是空を見た。
「何が、目的なんだ? 雷薄を裏切る理由がわからない」
「裏切り……確かにそうかも知れない。だが、これは俺の中の優先順位の問題だ。雷薄様に危害を加えるつもりは、俺にはない」
「納得のいく理由があれば、俺だって孫策さんを助けたい」
しばらく是空は黙って、何かを思案している様子だった。やがて、強い意志の籠もった眼差しで一刀をじっと見た。
崇高な魂というものがあるとすれば、それは今目の前の存在だろう。一刀にそう思わせる、是空の眼差しであった。
「……これから話す事は、孫権には秘密にしておいて欲しい」
「約束は出来ない。話すべきかどうかは、自分で判断する」
「それでいい。君が賢明な思考の持ち主なら、秘密を守るだろう」
そう言うと、是空は一刀に背を向けて仮面を外す。そしてゆっくりと、振り向いたのだ。火傷を負った顔がさらされ、一刀はわずかに眉を寄せた。
「それは、妻が三度目の出産で体調を崩し、しばらく静養するつもりで古い屋敷に引っ越した頃のことだ。次は男の子と思っていたのだが、女系の血筋なのか三人の子供は全員が女の子だった。だからだろう、少しやんちゃに育ててしまったのが、父親としては心配だった」
是空は笑ったのかも知れない。わずかに顔の皮膚が動いた気がした。
「俺はあまり表に出ることはないが、妻は名の知れた武将だった。恨みを買うことも多かっただろう。その日、妻を狙った何者かが屋敷に火を放ったのだ。俺は妻と娘達を逃がした後、炎で崩れる屋敷で攻撃を受け、気を失った。後のことは、何も覚えていない。今も、思い出せない」
「……」
「記憶を失い、瀕死のところを救ってくれたのが雷薄様だ。俺はその時から仮面で顔を隠し、是空という人間になった」
そう言うと再び、仮面を付ける。
「こんな容姿ゆえ、人から避けられることが多い。いつしか、自分から他人と距離を置くようになったのだ。だからだろうか、今までこれほど近くにいながら、俺はあの子の存在に気付くことはなかった。いや、もしかしたら無意識に避けていたのかも知れない」
「あの子?」
「……蓮華だ」
一刀の心臓が大きく跳ねた。是空の口から出た名は、彼女の真名である。その意味を知らぬわけではないだろう。
心に浮かんだ一つの可能性が、色濃く浮き立つ。
「あの子に剣を教えた。一緒に過ごす時間が、一番多かったかも知れない。姉は一人で何でも出来たし、末っ子の方はまだ幼かった」
「あなたは……」
「……雪蓮、蓮華、小蓮の父親だった」
「だった?」
「そう、記憶の中でそうだったというだけだ。俺はあの時に死んで、娘達もそれを受け入れている。今更、名乗り出るつもりもないし、ようやく進み始めた時間を巻き戻すつもりもない。これはただ、自分の行動に対する理由を君が求めたために説明をしているだけだ」
信じがたい話ではある。事実、是空の話は調べれば誰でも捏造できる事だ。けれど一刀は、彼の話を信じようと決めた。
理由を聞いたからではない。彼の仮面の奥から自分を見る目が、とても強く、とても優しかったからだった。
「本当に、それでいいのですか? 誰にも秘密で?」
「いいさ。私の望みは、娘達の無事でしかない。彼女たちが笑える事が最善だが、簡単に折れるような娘達ではないよ。誰に似たのか、気が強い。いや、弱さを隠すのが上手なだけかな」
そう言って視線を逸らした是空に、一刀は父親らしい雰囲気を感じ取った。
(父さんか……)
ふと、自分の父親のことを思い出す。だが、ハッキリと顔が定まらない。思い出の姿は、どこか作り物めいていて、あやふやだった。
(そういえば俺、自分の事なのに何も覚えてないな)
この外史に来る以前、自分はどんな生活をしていたのか。覚えているようで、思い出せない。何かが気持ち悪いくらい、胸に引っかかっている。
(あれ? 何だ、これ)
違和感を覚えた一刀だったが、是空に呼ばれて頭を切り換えた。
「最初の話だが、協力はしてもらえるだろうか?」
「孫策さんを助ける、という話ですね。わかりました、協力します」
「よかった……では手短に、計画を説明する」
一刀は是空の手下として、孫策移送隊に潜り込む。孫権を誘い出す目的で、途中の誰もいない廃村で一泊する手筈になっていた。その時、一刀と是空の二人で孫策を連れて逃亡、やって来た孫権たちと合流する、というものだった。
その後のことは、まだ決めてはいない。孫策を助け出すこと、それが最優先だと是空は言う。一刀は黙って、頷いた。
彼は燭台を持って、机の下に潜り込む。ほんのわずかな間だけ、自分の記憶が戻る時があった。それを誰にも見られないように、机の裏に刻んでおくのだ。これは保険のようなものだった。意味があるかも知れないし、ないかも知れない。ただ、何かをしておきたかった。
「北郷一刀が、すべてのキーだと思われた。だが、何か見落としている気がする」
ブツブツと呟きながら、以前に刻んだ文字を指でなぞった。
「そもそも外史とは、人の思念が生み出した世界だ。可能性を示唆する、世界の分岐に他ならない。夢というほど儚げではなく、現実と捉えるほどの実像もない。どちらを表で、どちらを裏とするかは、人の意志の問題だ。それは観測者の意志が、世界を構築するということになる」
観測者・北郷一刀。
「その認識が、誤りなのか? だが『奴ら』を呼び込んだ楔であることに、間違いはあるまい。三度の繰り返しが、『奴ら』を招いたのだろう。夢が、現実になりつつあるということか」
同じ歴史はありえない。だが同じ観測者の元で繰り返された世界は、不可逆であるはずの時間を巻き戻す結果になったのである。記憶、という形で。
「北郷一刀は思い出せない。だが、記憶がないのとは意味が異なる。脳に刻まれた記憶は、ただ取り出せないというだけなのだ。つまりそれが、時間を歪めた原因」
一刀は頭の中に記憶を持ったまま、再び同じ世界の時間を繰り返す。それはつまり、本来は繋がる事のない二つの並列した時間が結ばれてしまったことを意味するのだ。
「では、外史のキーは? 三人の王だけでは、『奴ら』の目的が達成できない」
彼は溜息を漏らし、机の下から這い出る。窓の外には、星空が広がりとても綺麗だった。
(二人は、気付くだろうか。朱里、雛里……)
時が迫る。それは終末か、それとも――。
彼……水鏡は燭台の火を、フッと吹き消した。闇が再び、訪れる。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
説明ベタというのは、致命的だなあと思います。
ともあれ核心に近づきつつ、終わりも見えてきた感じでしょうか。
楽しんでもらえれば、幸いです。