容赦のない身体中の痛みで、意識の深淵から無理やり引きずり上げられた。瞼が重くて開けられないが、微かに誰かの声が聞こえる。
「キャスなら、もう大丈夫だよ」チャックだ。
「ああ、分かっている」ディーンだな。
二人共、声がやけに憔悴している。特にディーンは語尾が震えて、様子がおかしそうだ。
何があったのかと思考を蘇らせる前に、我が身が教えていた。そうだ、私は街に下りた先で彼を庇い、撃たれた後に襲われたのだった。汚染された奴からなら、私はとうに感染者として処分されている。違う、相手は、ただの人間だった。ただの、猜疑心と生存本能が生んだ、無用な争い。
人類が滅亡に向かっている、こんな切迫した時でも互いに搾取し、己の利を確立しようとする。
チャックの「じゃあ」という声の後、パタン、と簡素な扉が閉まる音がした。けれど、まだ人の気配がする。
誰が残って居るなんて、確かめる必要など無い。
「……ディーン……」
首を少し向けるだけで、激しい痛みに襲われる。彼は思っていたより近くに居た。
私の声に反応し、ゆっくりと振り向く。その瞳が濡れているのに、幾分驚いた。涙は枯らせたと言い張る彼の、その眼球には、確かに水分を含んでいた。
泣いてはいないが、泣き方を忘れたような眼差し。
どうした?
そう声にしたかったのに、うまく音には乗らなかった。かつての自分を顧みると、全くもって無様な状態だ。すっかり私の身体は人間臭い。しかも戦士の身体に慣れぬ、時代に身捨てられてもおかしくない、貧弱な代物。
骨折しても人より長くかかるから、一体いつになったら動けるのか。それにしても、今回のはマズかった。よく身捨てられずに済んだものだ。
意識が遠のいていった時、今度こそ死ぬのだと諦めた。だけど幸か不幸か、こうして生きながらえている。まだもう少し、彼の前で醜態を晒すのを許されたという事か。
言葉の続きを発せられない私を、ディーンが見下ろす。
「キャス」
怒りも呆れも含まないもの。
おや、珍しい。最近は、こんな声を聞いていないな。もしかして本当に、何かあったのだろうか。
「……どう、し、た?」
必死に延ばそうとする私の手を、ディーンが優しく包んでくれた。
誰が泣かせたんだ?と尋ねたかったのに、口を開いてみれば「大丈夫か?」という端的な物だった。声はかすれていたが、ひとまず伝わったのを、相手が握り返した手の強さから知る。
ディーンは眉頭を近づけ、唇をぎゅっと噛んだ。
「馬鹿。大丈夫じゃないのは、お前だ」
彼の声もかすれていた。本当に、久しぶりに見るよ、君のそんな姿は。自惚れても良いなら、私が泣かせたかな。
「それ、は……光栄だ」
思わず洩れる本音に、ディーンの眉間の皺は深くなり、呆れた声で口角を下げる。
「まだラリってやがるな」
だから傷の深さに鈍感になるんだと、たしなめられた。
「二度とするな」の言葉は、既にキャンプを仕切るリーダーの物になっていた。
「盾に、なるぐらいしか……使い道が、無い、だろ……」
酒と薬物で身体を浸し、終末と踊るように女を漁り、ディーンの右腕になれぬばかりか、戦いにも向かぬ私の出来る事など僅かばかり。地上に堕りると覚悟し、とうに彼に捧げた身だ。ディーンの為に終わりたい。
だから私は何度でも彼を庇い、いずれはどこかで最期を迎えるのだろう。言えぬ本音の一つに、死ぬ瞬間はディーンで視界を埋め尽くしたいという、愚かな願いはあった。
とりあえずこの場にはふさわしいと思える、ささやかで現実的な―盾になる―案に、ディーンは付け加えた。
「俺の決めた場所以外で死ぬな」
つまりは、盾になるのは構わないのか。我がままなリーダーを揶揄したいが、痛みで笑えないのが残念だ。
「また……無茶な事を言う」
話しているうちに、声の状態だけは戻ってきた。
わずかに口角を上げるに留まる私に、「ほんと馬鹿だな」と罵るのはいつもの事。ところが、彼は握ったままの私の手の甲に、そっと自分の唇を押しあてた。
「お前は俺の物なんだから、当然だろ」
今度こそ、驚いた。
なんだ、私はまだラリっているのか?君がこんな事を言いながら、キスをくれるなんて。
今の世の中だと、痛み止めの薬を含めた医療関係の物は希少で、どんな重症者でも、まともな治療は受けられない。まあ私に関しては薬物中毒者だから、簡素な量の麻酔では効かないだろうが。
だのに、ついさっきまで身体中を襲っていた痛みが、幾分和らいだ気がした。皮肉にも天使ではなくなったこの体は、手の甲のキス一つで癒される。
それは体だけでなく心もと言えるし、むしろ脳そのものの方が正しい。
「これは……幻、か?」
「ああ、そうだ。幻覚だよ」
しれっと言う嘘に、私はまた笑いがこみ上げる。
「……そいつは……最高だね」
「最悪だ」
「どう、して?……今すぐ、キス、したい、触りたい……ああ、君を抱きたいくらいの、気分だ……」
満身創痍でベッドに横たわりながらの、たどたどしい言葉ではセックスへの甘さも激減し、なんの魅力も無いだろう。
己の状態はさておき、私は未だに、彼を誘うのだけは上手くならない。それでも久しぶりに告げる、ディーンへのストレートな欲求に、彼は苦笑いを浮かべながらもキスをくれた。今度は、唇に。
「俺は、お前んとこの信者じゃねーの」
セックスしてきた女性は、ディーンを抱けない代替品だと。少なからず察している彼の皮肉に、ようやく生き延びた幸福を感じる。
大分と屈折しているが、今のディーンは私を憂いて疲弊し、私の為に、砂漠化した眼球に水を与えているのだから問題は無い。
彼の言葉一つ、キス一つで、私の神経はいとも簡単に、脳内麻薬をあふれさせる。
なんて単純で、利己に尽きる感情だろうか。ただ一人に向けられているだけで、私も搾取するのを望む、ただの人間だ。今だけは、完治が遅れれば良いとさえ思える。
こんな上質な幻覚を常に与えてくれるなら、粗悪なドラッグに手を出したりしないのに。
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5年後if設定より。キャスの堕落ぷりを見た後、元の世界に戻ったディーンの、キャスへの反応がたまらないです。こっちが腐に落ちる瞬間です。