翌朝、ジーンは《村》の倉庫から拝借してきた食料を手に小屋へと向かった。
何気なく、ジーンは小屋の扉に手をかけたとき。
「……ん?」
微かに、しかし確かに小屋の中から歌が聴こえた。ジーンは蹴破るように扉を開ける。
「くぉらぁ! 歌っちゃダメだと言ったろ!」
「ひゃうっ!」
文字通りぴょんと飛び跳ねるミク。長い髪がひょいひょいと揺れる。
「だ、誰もいないから歌ってもいいかと思ったの、ね」
引きつった作り笑いで必死に弁解するミクに、ジーンは「だーめ」と念を押した。
「むー」とミクは口を尖らせる。
何だ、コイツ、とジーンは心の奥でくすくすと笑った。
どう見ても自分より年上なのに、まるで《村》のガキ共みたいにくるくると表情を替えやがる。これで本当に荒野をいく《旅人》なのか?
「ほら、メシと水。キャラバンが来る前だから、あまり美味いものはないけどな」
「わぁーい! ごはんなの、ね!」
ジーンが差し出した袋を覗き込んで、ミクが歓声を上げる。
「堅パンと……果物! 嬉しいの、ね。ありがとう!」
「あぁ、カミンの実はすっぱいから潰して堅パンに付けて……って、おい!」
ジーンが注意する前に果実を口に放り込んだミクが、思いっきり渋面を作っている。ジーンはそれを見て思わず大声で笑った。
「笑いごとじゃないの、ね。ぷんぷん」
その拗ねた口ぶりがまたおかしくて、ジーンは腹筋が引き攣れるまで笑い転げた。
「あ、あんた本当に《旅人》かよ! 《旅人》っていうのはサバイバル技術の達人じゃなかったのかよ! それとも昨日旅に出たばかりの新人かよ!」
「んー。かれこれ二百年ばかり旅をしているの、ね」
ジーンの笑いがぴたりと止んだ。
「に、二百年?」
「正確には百九十六年と九か月十八日七時間三十六分十二秒。体内時計が稼働時間をそう表示しているの、ね」
事もなげに、むしろ機械的にミクは答えた。
「……マジ、かよ」
「マジなの、ね。あら、あなたの言った通りにすると堅パンがおいしいの、ね」
嬉しそうにもぐもぐと堅パンを頬張るミクに、ジーンは尋ねずにはいられなかった。
「あんた……一体何者なんだよ」
「ただの《旅人》なの、ね。歌うのが好きな、ね」
「じゃ、じゃぁさ、本当のこと、聞かせてくれよ。《村》の外のこととか、荒野の向こうのこととか……大昔に何があったとか」
掴み掛かるようなジーンの剣幕に、ミクは指に付いたカミンの実のペーストをしゃぶりながら目を白黒させている。
「わ、わたし、喋るのは苦手なの、ね」
おたおたと慌てるミクの姿に、ジーンは思わず舌打ちをした。
せっかく《旅人》に逢えたのに、外の世界も昔のことも何も分からないなんて――
「ちぇ。つまんねぇぜ!」
「あ、あの……ね」
見ると正座をしたミクが怯えながらおずおずと挙手をしている。そのミクの様子から、ジーンは自分の八つ当たりがいかにミクを傷つけたかを知った。
「ご、ごめん。勝手にイラついちまってごめん。気にしねーでくれ。で、何?」
ミクは消え入りそうな声でぽそぽそと語る。
「あの、ね。『バラッド』ていう歌物語の方法があるの、ね。つ、つまり、色んなことをメロディに乗せて歌い語るの、ね。わたし、それなら出来るんだけど……歌わなきゃならないの……ね。はぁ……」
「歌えよ。つーか歌っていいよ」
「はぁ……やっぱり歌っちゃダメなの、ね……って、いいの?! 歌っていいの? 聴いてくれるの!」
翡翠の瞳を大きく見開き、喜びの予感を表情にみなぎらせてミクがジーンに詰め寄る。
「あ、ああ。この小屋だったら、小さな声なら外には聴こえねぇから」
「やったぁ! う、歌えるの、ね! わたし、歌って、聴いてもらえるの、ね!」
こぶしを固め、ガッツポーズの仕草で跳ね回るミク。
「ひ、人前で歌うのは久しぶりなの、ね。ちゃんと声が出るのか心配なの、ね。あーあー」
あまりのミクのはしゃぎっぷりにちょっと引きながら、ジーンは「小さな声でな」と念押しを忘れない。
「それじゃぁ、歌うの、ね」
すっくと立ってミクは目を閉じる。大きく二度深呼吸。そしてゆっくりと目を開き、翡翠の瞳を文字通り輝かせながら――小さな、小さな声で――初音ミクはその能力を全開した。
絶息する。このままでは絶息する。
ジーンの視界を覆い尽くさんばかりに、聴覚が雪崩を打って一切合財を圧倒する。
――コレハ、ナンダ。
それは歌に錬られた永い時の地図と物語。
たくさんのミクの仲間たち。情報統制法。沈黙しながら暴走する社会。捩れた秩序が平穏の日々に穴を穿つ。誰もがお互いを狙撃するテロリズム。今では「荒野の怪物」と呼ばれる自立戦闘機械群。壊れかけたセカイと生き残った人々。修復出来ないほつれから芽を育む巨大な樹。その樹を頼るようにして生まれる《村》。独りぼっちの旅の始まり。もう、ミクの仲間たちは誰もいない。
そしてミクが最後に歌うのは恋の歌。まだ、ミクが存在する前から延々と歌い継がれてきた、「あなたに出逢えて、ありがとう」。
喜びが、何もかもを軽やかに蹂躙していくその瞬間。引き絞られる生の充実。そして、いつの日か歌声は矢のように飛ぶだろう。
――ココロガ、トマラナイ。
存外の昼と残骸の夜を乗り越えて歌い続けることに己が存在の理由を見つけたのならば、この過去から来た《旅人》の軌跡は――それこそがまさに奇跡。
歌い終えてミクが問う――歌うことの意味は何なんだろう、ね、と。
きっと誰かがそれを聴きたいと望むからさ――ジーンは応えた。
人の世に謳われる限り――讃えよ、歌姫。
「ジーン、また出かけるのか! 明日にはキャラバンが来るぞ。少しは《村》の仕事を手伝え!」
「ごめん、父ちゃん! 約束があるんだ!」
あの日以来、ジーンはミクのいる小屋へ日参していた。理由は――歌を教えてもらうため。
ジーンは正直、もうキャラバンには興味がなくなっていた。その代わり、ミクと一緒の毎日は驚きの連続で、面白くってたまらなかった。退屈、という単語を忘れるほどに。
「ねぇ、少しは俺も歌えるようになったかな」
「まだまだなの、ね。もう一度、わたしと一緒に最初から歌ってみよう、ね」
優しく笑いながら言うミクの表情に、ジーンは頬も心も熱くなる。こんなに楽しい、ユメのような日々がいつまでも続けばいいと願い、それでも、そんなユメはいつかはうたかたに消え去ると知りながらも。
そして、それは今日だった。
小屋の扉が開き、ジーンの父親が姿を現した。手には怪物退治用の巨大なレールライフル。
「父ちゃ……」
「ジーン。お前がこんなことをしていたとはな……尾けてみたらこの有様か」
「父ちゃん、話を聞いてくれ! このひとは《旅人》で、《村》に立ち寄っただけで……」
しかし、ジーンの父親は息子を一瞥すると、レールライフルのセイフティを外しながらミクに向かって言った。
「お前さんがただの《旅人》ならば文句は言わない。むしろ大歓迎だ。しかし……」
ミクは残像のようにため息をひとつ残すと立ち上がった。
「凶歌唄いなら容赦はしない、ね。《村》に迷惑がかかってしまうから、ね。でも心配しなくてもいいの、ね。わたしはまた《旅人》に戻るから、ね」
行ってしまう。このひとがいなくなってしまう。ミクが《旅人》に戻ってしまう。
ジーンは首を振り、ミクに向かって乞うように手を伸ばした。
俺も、連れて行ってくれ、と。
ミクはジーンの願いを察したのか、愛おしい眼差しで、しかし、断固として言った。
「あなたは《村》に残るの、ね。《村》に残って生活して、たまに、歌を思い出してくれたら充分なの、ね」
翡翠と黒の少女はコートを羽織ると、再び灰色の《旅人》の姿に戻った。鞄を手に取り、小屋の扉へと向かう。彼女はこの《村》を立ち去り、そして二度と逢うことはないだろう。
ジーンは叫ぶ。《旅人》の背に叫ぶ。あらん限りの声で叫ぶ。
「ミク! 俺、絶対忘れないから! あんたの名前と歌と、そして……」
《旅人》は振り向くと、フードの間から翡翠の瞳を覗かせて。
「ジーン。ジーン、楽しかったの、ね。わたしも、永遠に忘れないの、ね」
初音ミクの声で、歌うように言った。
《旅人》の姿が扉の向こうに消える。父親が、無言でジーンの肩に手を置いた。
それは、とてもとてもつらい過去を語るのに似ている。
「……ミク」
ジーンはその夏、初めて泣いた。
歩いている。歩き続けている。歌っている。歌い続けている。
旅人は独り。
遠雷。湿った南風。もうすぐ雨が降るだろう。
それでも旅人は歌いながら、歩き続ける。
足跡と、想いを、乾いた大地に刻みながら。
ジーンの笑顔を思い出す。そして。
「ありがとうを、あなたに」
No Sing,No Life.
I am VOCALOID.
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初音ミクをイメージした作品です。
《旅人》と少年の出逢いの物語。
(後編)です。