彼が村外れの屋敷に越して来たのは、10月の終り、冬の入り口のことだった。誰も詳しい事情は知らなかったが、立派な造りをしたその屋敷は、長い間何の手入れもされずに放ったらかしにされていて、草木が生い茂り獣が住み着き、屋敷自体今にも崩れ落ちそうな酷い有様であった。その屋敷はもう、この村を囲む森に同化し、還ろうとしていたのだ。
しかしそれは、月の無い闇夜のことだった。村の灯りも消え果てた真夜中、彼は自分の手に持てるだけの、必要最小限の荷物を持ってやってきた。何か、人に見られたくない理由でもあったのだろう。
ところが生憎なことに俺は、真夜中に散歩するのが好きだという近所でも評判の変わり者で、タイミングが良いのか悪いのか、村へ入ったばかりの彼と鉢合わせしたのだった。
年の頃は、15、6才だろうか。初めて見た彼は、異様なくらい白く、細かった。思わず俺が、眩さに目を細めたほどだ。闇夜の所為で殊更にそう見えたのかもしれない。
彼は脅えたような瞳で、見知らぬ村を値踏みするように眺めながら、重そうな荷物を引きずるようにして歩いていた。
「見ない顔だな」
薄闇から声をかけると、彼は獣のように素早い仕草で俺を見た。そして薄闇に佇む俺を見つけ、脅えたような瞳を更にビクリと震わせた。
俺はゆっくりと、捕食者に狙われた草食獣のような彼の瞳に近づく。小柄に見えたが、近づいてみると身長はそう俺と変らない。長めの黒髪から覗く瞳は、薄い茶色をしている。
「あ、の。あの、村外れの屋敷に越して来たんです」
彼の声はか細く震えていたが、それは美しく透明な音で、冷たい闇夜によく映えた。
俺は、彼が気に入った。
俺が唇の左端だけを吊り上げるようにして笑うと、彼はまた瞳を震わせた。俺のその笑い方は癖のようなものだったが、相手によっては誤解を受けることになることも承知していた。ただし俺は、恐れられ、怯えられることは嫌いではない。
「名前は?俺は、マルト」
「あ、アリエク、です」
異様なほど白かったアリエクの頬に、少し紅が差したように見えた。そのはにかんだような様子が何故か至極官能的で、俺は彼を犯したいという、異常な感情まで覚えた。俺はもう、彼を手に入れたくて仕方なくなってきていた。
「重そうだな。荷物運ぶの手伝ってやろうか?」
彼に対する欲望を隠して、俺は優しく微笑んで見せる。するとアリエクは、パッと俺から視線を逸らし、遠慮がちに首を振った。
「いえ、結構です。大丈夫です」
「そうか」
拒否の言葉を少し残念に思いながらも、まあ焦ることもない、と俺は大人しく引き下がる。けして、悪い反応ではない。これからゆっくりと落としてゆけばいい。
こうして彼は、俺に出会ってしまった。その先に待ち受ける、運命に気づかぬまま。
翌朝、村は彼の噂で持ちきりだった。
あの屋敷に今更越してくる者がいるなんて、と皆訝しんでいる様子だったが、一方であの不気味な屋敷も人が住むとなれば真っ当な姿になるだろうと、ホッと息を吐いてもいたのだった。
ところが、皆の期待とは裏腹に、1週間、2週間、1ヶ月と時が経っても、屋敷は一向に真っ当な姿を取り戻す気配を見せなかった。
村人は怯えた。
それには屋敷だけでなく、その住人にも問題があった。あんな屋敷にたった一人で暮らしているだけでも不気味だというのに、アリエクは、全くと言っていいほど出歩くことをしなかった。時々、食料や生活に必要なものを買い求めにくるだけで、それ以外は屋敷に閉じこもっている。更には、異様に白い肌と必要以上に整った顔までが悪い方に作用して、村人は当たり前のように彼は吸血鬼だと噂した。
そんな中、俺は毎日のようにアリエクに会いに屋敷へ通っていた。訪ねるのは、専ら夜だ。俺は昼よりも夜のほうが好きだったし、太陽よりは月のほうがましだったし、何よりも、アリエクは夜によく映えた。
最初は俺を不審がって脅えていたアリエクも、今ではすっかり気を許している。
俺が屋敷の扉を叩くと、彼は微笑みを浮かべて俺を迎える。
「マルトさん」
村に俺以外の知り合いを持たないアリエクは、大切そうに俺の名を呼ぶ。俺は唇の片端を吊り上げて笑う。
「よう」
と、俺が彼の頭を撫でると、アリエクはいつも照れた様子で俺から目を逸らした。
彼が村人の誰とも付き合おうとしないのには、何か理由があるのだろう。ただ、人付き合いが苦手というだけではないように思える。彼には、頑なに人との接触を拒んでいるふしがある。
しかし自ら人との係わりを拒んでいても、それでも、寂しいのだろう。たった一人の友人である俺に、彼はとても懐いた。
俺たちはアリエクの淹れた紅茶を飲みながら、毎夜他愛のない話をした。俺は村で起きた出来事を、多少の脚色を加えて話して聞かせた。俺の話に彼は微笑み、時には声をあげて笑った。そしてほんの時折、寂しげな顔をする。夜明け前、俺が屋敷を去る頃になるとその表情は頻度を増す。
俺は最初の頃の、アリエクの脅えたような声を気に入っていたが、別に根っからのサドというわけではないので、もちろん近頃の明るい声や笑い声も多いに気に入った。しかし何よりも、彼の孤独が俺を惹きつけた。
「毎日毎日、よく飽きずに来ますね」
と、アリエクは毎日飽きずに言った。それは呆れたような声音だったが、彼の目はいつも、俺を愛おしそうに見つめた。
「迷惑?」
俺は毎日飽きずに聞き返す。
「いいえ。全然。嬉しいですよ」
俺たちは、毎日飽きずに同じ会話を繰り返していた。そしてそれは、永遠に続くような気さえしていた。
その死体が枯れ井戸の中から見つかったのは、アリエクがやってきてから1ヶ月半が経った頃だった。村は丁度、クリスマスを目前にして、煌びやかに華やいでいた。
変死体で見つかった少女は、村でも評判の美人で、3日前から行方知れずになっていた。彼女は死体になる前は、俺の恋人でもあった。
だから俺は、そんな俺たちの関係を知っている者の前では泣いて見せもした。だが実際には、とっくに愛なんて醒めていたのだ。俺の興味は、すっかりアリエクに移っていた。毎夜彼の屋敷を訪ね、恋人を蔑ろにする俺を、彼女は責めた。近頃俺たちは、会うたびに喧嘩をするばかりで、だから今更、悲しいなんて感情は起こらなかった。
村人たちが彼女の死体に杭を打ち込む姿を見ても、俺は止めはしなかった。
俺が心配していたのは、アリエクのことだけだった。何故なら、彼女の首筋に牙で血を吸われた痕がはっきりと残っていたからだ。今の状況でこんな死体が出れば、アリエクが犯人にされるに決まっている。
俺は、アリエクが吸血鬼だなんて全く信じていなかった。そんなはずがないことを知っていた。だから、俺がアリエクを守らなければと、強く想った。
俺が屋敷を訪ねると、アリエクは驚いたようにポカンと口を開けて俺を見た。
「ど、どうして?」
「は?」
「なんで来たんですか?マルトさん……。俺を殺しに来た?」
怯えたように後ずさる彼に、俺は眉を顰める。
「は?何言ってんだよ。なんで俺が」
「だって、……だって。ごめんなさい」
アリエクの脅えた瞳に涙が溜まって、零れ落ちた。
「ごめんなさい、マルトさん。俺を殺して。俺、マルトさんに殺されたい……」
アリエクの瞳は熱っぽく俺を見上げる。俺に縋りつくように「殺して」と繰り返し強請るアリエクは、至極官能的だった。
「落ちつけって、アリエク。俺は、お前を殺したりしねえから。あの女殺したのお前じゃないだろ?」
俺は取り乱しているアリエクを落ちつけようと、力強くアリエクの肩を抱いた。彼の身体は熱く、熱を持っていた。その体温がジワリと俺の手のひらに伝わり、俺を興奮させた。
「だって俺、死んで欲しいって思ったんです」
アリエクはポロポロ涙を零しながら、俺の腕にしがみ付いて訴えた。彼の身体に触れて、俺はその幼さに気づく。まだ大人になりきらない少年の身体はどこか儚げで、俺の庇護欲をかきたてた。
「あの人がマルトさんの恋人だったから、何度も、何度も殺したいって思ったんです。だから……」
震える彼の背中を、俺は優しく撫でさする。
「誰に、あの女の死体のこと聞いた?」
アリエクが少し落ちついたのを見て、俺は少し話題を逸らした。
「あの、久しぶりに外に出たら、誰かが話してるのが聞こえて、それで俺……」
「そっか」
俺は、アリエクを抱き締めた。するとアリエクは、
「マルトさん。俺ね、ゲイなんですよ」
ほとんど聞こえないような声で、怯えたように言った。俺の大好きな、脅えたようなか細い、けど綺麗な声で。
「それ両親にばれて、この屋敷に追いやられちゃって。けどそしたらマルトさんに会えて……。覚えてますか?真夜中だから誰にも会わないと思ってたのに。マルトさんが俺の名前聞いて、俺の顔見て笑って、その顔がすごく、その……色っぽくって、俺、体中熱くなっちゃって、そのときから大好きなんです。マルトさんが」
アリエクは脅えた瞳が、縋るように俺を見上げる。
「マルトさんは……」
「ん?」
俺は彼を抱く腕に力を込め、優しい声音で続きを促す。
「マルトさんは、俺のこと、好きですか?」
「ああ。……アリエクが好きだ」
「じゃあ、ずっと俺と一緒にいてくれますか?」
俺は、何も言えなかった。「それはできない」と、言おうとした。俺は、だけど言えなかった。
アリエクは、涙声で俺にもう一度聞いた。
「マルトさんは、俺のこと好き?」
「ああ」
「じゃあずっと一緒にいてよ……」
「それは……」
どうしても言葉が出てこない。だって本当は、俺だってずっとアリエクの傍にいたい。けれど、それはできないのだ。俺の背負っている苦しみを、彼にまで背負わせることになってしまう。そんなことは、したくなかった。
俺は、そんな自分に驚いている。いつも自分の思うままに、やりたいようにやってきた。相手を思いやることなどせず、使い捨てるように貪ってきた。そんな俺が、彼を苦しめたくないと、もっと優しいやり方で愛したいと願っているのだ。なぜ彼だけが、こんなにも俺の庇護欲をかきたてるのか。これが、愛と呼ばれるものなのだろうか。
「……なんで?」
しかしアリエクは、ポロポロと涙を零して泣いている。彼を大切にしたいと願う俺の愛情が、彼を今、泣かせているのだ。なんて皮肉なのだろう。
俺は意を決して、彼に言った。
「ごめん。俺さ、……アリエク。ごめん、俺の所為で、アリエクに嫌な想いさせた」
「え?」
本当は言いたくなかったけれど、ずっと秘密にしていたかったけれど、他に彼を救う術が無いのなら。
「あの女殺したの、俺なんだわ。吸血鬼は、俺なの……」
そして何よりも、アリエクには知って欲しいなんて、思ってしまったから。なんて、なんて愚かな。
俺の腕の中にいたアリエクが、ビクリと震えて俺から離れた。
「……え?」
アリエクは脅えた顔で俺を見つめる。
分かっていたつもりだったのに、覚悟していたつもりだったのに、アリエクのそんな顔を見ると、胸が痛んだ。
ああ、もうこの村にはいられない。俺はぼんやりと、彼方を見つめる。あっという間に、後悔した。
分かっていたはずなのに。誰かを手に入れたいなんて、思うべきじゃなかったんだ。俺の口づけは、相手を殺す。永遠の死の苦しみを、愛する者に与えるこの唇。
俺はアリエクに背を向けて、アリエクの傍に止まろうとする足を動かした。別れの言葉を、告げる勇気は無い。
しかし、そのとき、服の裾を強く引かれて俺は立ち止まる。
「アリエク?」
俺は、アリエクに背を向けたまま呼びかけた。
「マルトさんは、俺のこと好き?」
アリエクはあの悲しい質問を繰り返した。
「アリエク?」
俺の声が、愚かな期待に震えている。
「俺と、ずっと一緒にいてよ……」
「アリエク?」
俺は、アリエクを振り返った。
俺の服を掴んだままだったアリエクは、引っ張られて俺のすぐ傍にまで近づいた。アリエクの頬に、涙が溢れていた。
「あの女と、永遠を生きるつもりだったんですか!?そんなの酷い……。そんなの、許さない!」
アリエクが、俺を抱き締めた。
「俺と、ずっと一緒にいて。ねえ、キスして」
そう言ってアリエクは、柔らかな唇を俺の唇に強く押しつけた。ぶつかるような拙い口づけに、俺の身体が燃える。
俺は舌先で、そっとアリエクの首筋を舐める。アリエクは小さく震え、俺を抱く腕の力を強くした。
「恐い?」
俺が尋ねると、アリエクはフルフルと首を振った。
それを見て俺は、その首筋に歯を立てた。チュルチュルと音をたてて、彼の血を吸う。
「ぁ……、ん……」
震えるアリエクの声。酷く、官能的な……。
やがて俺をキツク抱いていた腕から力が抜け、俺がその身体を放すと、アリエクはドサリと床に倒れこんだ。俺はアリエクを抱き上げ、ベッドまで運んだ。
これからのことに思いを馳せる。
あの村の様子では、ここに大勢が、アリエクを殺そうと押しかけてくるのは時間の問題だろう。それを適当にやり過ごすか皆殺しにするかして、アリエクが目覚めるのを待つ。
アリエクが目覚めたらこの村を出て、どこか遠くへ行こう。そして、二人で永遠を生きるのだ。
「毎日毎日一緒にいて、よく飽きませんね」
と、アリエクは毎日飽きずに言う。呆れたような声音で、愛おしそうに俺を見つめて。
「迷惑?」
俺は毎日飽きずに聞き返す。
「いいえ。全然。嬉しいですよ」
俺たちは、毎日飽きずに同じ会話を繰り返す。そしてそれは、永遠に続くのだ。少年のまま時を止めた彼の身体は、俺の庇護欲をかきたて続けるだろう。それは何て優しく、官能的な死だろうか。
俺は徐々に冷たくなっていくアリエクの身体を抱きしめながら、ジワリと微笑んだ。
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彼が村外れの屋敷に越して来たのは、10月の終り、冬の入り口のことだった――。
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