廊下の明かりは瞬きを繰り返し、薄暗く二人がやっとすれ違えるほどの細い廊下は、闇の中へ永遠に続くようであった。
手を伸ばせば届くような天井には無意味に張り巡らせてあるとしか思えないパイプが何本も走る。湿った空気のなかに、あわてる私の足音だけが響いた。
私が足を止めた青い扉の横には男性のシルエットが描かれた札が傾いたままに下がっている。
たまたま知り合った男に「そこならあまり知られていないからいつでも空いている」と教えてもらった、ここがその目的のトイレであることは間違いないようだ。
私が扉を押すと、錆びついた蝶つがいが悲鳴を上げた。開かれた新たな空間に足を踏み入れる。中は裸電球だけが照らす狭い空間。よどんだ空気が鼻を突く。奥には左手に個室が三つ、右手に男性用の小便器が三つ、それと手前に手洗い場が一つあるだけの小さなトイレだった。
唯一の洗面台前には半分に割れた鏡が引っ掛かっている。静寂の支配するこの場所に蛇口からこぼれる水滴だけが規則的なリズムを刻んだ。
あまりゆっくりもしていたくない。私は目的とする個室へと急ぐ。ほうぼう探してようやく見つけた場所だ。聞いていたように、見たところ他に人はいないようだ。
もともとは水色だったのであろうくすんだタイルの上を進み、一番手前の扉の前へ、鍵の表示は「開」の表示を示している。念のため二回ノックする。返事はない。私は引き開きの扉を開けた。
「なんてこった……」
思わず言葉が口からこぼれる。そこには先客がいた。トイレの内部にも外の廊下とおなじ配管が走っている。個室の中ではそのパイプに結ばれたロープに一人の男がぶら下がっていた。
首に食い込んだ縄の跡が痛々しい。身につけた黒いスーツは喪服のつもりなのだろうか。
すでに腐敗がはじまり、その表情は見てとれない。こうなるまで放置されるとは、この場所が人目に付かないという証明だろう。もっとも、この状態では私も用を足せない。個室の中で知らない男と二人で…なんて、考えるだけでぞっとする。
仕方なく、静かにその扉を閉める。まったく、鍵くらい閉めておいてほしいものだ。
私には時間がない。すぐに次の個室へ移動する。同じようにノックを二回。やはり返事はない。しかしなんだかいやな予感がする。思いきって扉を開ける。
最初に出たのは自分のため息だった。やはりそこにも人間がぶら下がっていた。先ほどよりはまだ新しいようだ。まだ人間の顔を保っている。ブルーの作業着の男は苦悶の表情を表したまま、魂の抜けた体だけになってそこに存在していた。まったく、ここの利用者は鍵をかけるということを知らないらしい。
私はここもあきらめ、最後の個室へ向かう。
ノックをしようとこぶしを振り上げたところで、何やら中から聞こえる音に気がついた。
扉の表示を確認するが、ここも鍵はかかっていない。どうするべきか迷ったが、私はノックすることなく扉を開いた。
私は中の男と目が合ってしまった。個室の中ではグレーのスーツの男が黒いアタッシュケースの上に足をかけ、つり下がったロープに首を通していた。二人とも見つめあったまま言葉を失った。先に思考を再開したのは、個室の中の男だった。
「ちょっと、あんた。ここは今私が使っているんだ。出て行ってくれないか」
ロープに首を通したまま男は言った。
「ああ、すみません。鍵が開いていたもので……。できれば先に鍵を閉めてから行ったほうがいいと思いますよ」
私は丁寧に忠告する。
「あのなあ、鍵なんか閉めてあったら、いつまでも私の死体をかたづけてもらえないだろうが」
なるほど、それは一理ある。とは思ったが、最初の個室を見る限り鍵の有無にかかわらず、この場所で死体処理してもらうのは難しいように感じた。
しかし、今更そのことを男に話したところで仕方がない。男はすでに旅立つ態勢に入っている。それに、あの状態からではもう扉の鍵には手が届かないからだ。
「じゃあな」
男は短く最後の言葉を放つと、足をけった。アタッシュケースの転がる音が、喉を潰す時に出る嫌な音をかき消した。その残響が消えると、この場所はまた水滴の音色だけが支配した。私は静かに扉を閉めてその場を離れた。
三つの個室はこれで全て使用中になった。用を足せなかった私はトイレを出ようとして、洗面台の前でふと足を止めた。
半分になった鏡に憔悴しきった私が映る。不精髭にくたびれたスーツ姿。そして右手に握られた私を支えられる丈夫なロープ。
「やっと見つけた静かな場所だったのに、考えることは皆同じだな……」
私はため息とともに静寂のトイレをあとにした。
おわり
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男は薄暗いトイレに足を踏み入れた。