草食動物は、恍惚として食い殺される。
肉食動物の牙にかかった彼等は大量に放出された脳内物質によって苦痛も恐怖も無いままに死を迎えるのだ。
本当は恐ろしい筈なのに、実際は苦しい筈なのに、本心では望まない筈なのに、その瞬間は幸福に包まれている。
草食動物は、私に似ている。
× × ×
数か月前、私――瀬浦 愛美(せうら いとみ)は恋人――上月 頼音(かみつき よりね)を自分の部屋に呼び出していた。愛を語らうためではなく、彼女と別れる為に。
彼女を呼び出す数時間ほど前に私は同僚の男性からプロポーズを受けていて、そして私はそれに応じていた。
彼は会社の中でも誠実で知られ、見た目もそれなりに良く、私も好ましくは思っていた。
だから――『丁度良かった』
そもそも私は頼音のことを愛していたかどうかさえ分からなくなっていた。
私と出会った時からずっと、頼音はいつも自分本位で、気まぐれで、残酷で、私はそんな彼女に振り回されることにうんざりしていた。恐怖していたと言ってもいい。
そして何より私は世間体だとか常識だとか、そういう曖昧模糊としたモノにとても臆病だったのだ。
そんな最低な理由で、私は恋人と別れようとしていた。
部屋の中だというのに私達は馬鹿みたいに突っ立ったままで話を始めた。話といっても、私が一方的に喋り続けるだけだったけれど。
「――私は……同性愛者じゃない。あなたとは、違うの」
『このままじゃ上手くいかない』『お互いを傷つけるようなことはしたくない』――私は長い長い言い訳の最後を明白な拒絶で締めくくる。
その言葉を聞いた彼女は、鋭い犬歯を剥き出しにして笑った。
「へぇ? じゃあ今までのは何だったの? 遊び?」
「そういう……ことになるわ。そんな言い方は嫌だけど」
「愛美ィ、オトコと付き合うことにしたんでしょ? 知ってるよ、アタシ」
「そんな……っ」
余裕たっぷりに言い放った頼音の『オトコ』という単語に私は滑稽なほどに動揺した。それを見て頼音は、また笑う。
「あ~らら! カマ掛けてみたんだけど、ホントにそうなんだ。オトコの×××じゃなきゃ、××××が満足できないってわけね」
頼音は耳を塞ぎたくような卑語を平気で口にした。
「違うわ! そんな訳じゃ!」
「違わない、だってソイツの人格とか心にホレて、アタシを捨てることにしたんじゃないんでしょ? 単にオンナと付き合うのが怖くて、オトコに逃げたんでしょ? 臆病なアンタは常識に股を開いたのよ」
「違う、違う……!」
見透かされている。直感的にそう感じた。
足が震える。視線が泳ぐ。悪事がばれた子供のように私は弱弱しい声で自分を守ろうとした。
頼音は笑いながら私に近付いてきた。私はそこから逃げたかったのに、これっぽっちも動けなかった。
「なんて可哀そうな愛美……。そんなつまらないものに囚われて……」
不意に、頼音は私を強く抱きしめた。
私は驚き、いやいやと身じろぎしたが、彼女の腕はまったく緩まることが無く、完全に捕まえられた格好となってしまった。
「でも大丈夫。アタシが助けてあげる」
頼音の整った顔が私を覗き込んでくる。その表情は相変わらず笑っていた。
だがその暗くて深い瞳はしっかりと私を捉えていて、決して視線を逸らすことを許さない。
「頼音……私は――」
「言葉なんか、必要ない」
口から飛び出しかけた言葉は頼音の唇によって塞がれた。あった筈の抵抗の意思は、頼音への罪悪感や口づけてくる彼女の息遣いで容易に挫かれ、それきり私は何もかも分らなくなった。
× × ×
翌朝、私は昨夜に作ったばかりの恋人を職場の非常階段に呼び出していた。愛を語らうためではなく、別れる為に。
どうして私は頼音の言うがままに彼を振っているだろう? 私は頼音と別れる筈だったのに。
だが一度頼音に命令されると、私は魔法にかけられたように何も言えなくなってしまう。
その束縛から逃れ、『普通』の在り方に戻るチャンスを自ら捨てていることも、彼女がそう命令したからだ。『とりあえずオトコのことはちゃんと処理しなよ』と。
「――と言う訳で……。ごめんなさい、やっぱりあなたとは一緒になれないの……」
呼び出された彼の表情は私のぐだぐだとした言い訳が進むにつれてどんどん萎びていった。本当なら私の身勝手に怒り狂ってもおかしくないと思うのだけど。
「やっぱり……僕みたいな草食系じゃいけませんね……肉食系の方が……いいですかね?」
わずか一夜の間に恋人を失った彼は泣きそうな顔をして私にそれだけを問いかけた。
「ええ……それは……」
彼に曖昧な返答をしながら、私は肉食系という単語で頼音の笑い方はどこか肉食動物の様だということに私は気付いた。あの笑顔は攻撃的で高圧的で、恐ろしい。
だとすれば肉食系なんて嫌いだ。
自分の意志を易々と奪い取り、意のままにしてしまう頼音なんて嫌いだ。
――嫌い、なのに。
「……私は、肉食系の方が好きかな」
「そう、ですか」
私の言葉に彼は泣きそうな顔で笑った。頼音とは似ても似つかない情けない笑顔だった。
× × ×
そして、現在。
私は依然として頼音の恋人だ。
頼音はあの頃から何も変わっていない。変わろうともしない。
私と出会った時から一切変わらず、頼音はいつも自分本位で、気まぐれで、残酷だ。
私は彼女に痛めつけられたり苦しめられたり愛されたり弄ばれたり必要とされたりしている。
それは恐ろしくて辛くて望まない事の筈なのに、私は頼音から離れられない。
だから最近、私はある『不安』を抱いている。
もしかすると、私は頼音にそういうことをされるのを本当は望んでいるのかもしれない――そんな『不安』を。
私は頼音が私にすることすべてが理解できないほど淫らでおかしいものだと思っている。けれど私はその行為を嫌がっていながら楽しんでいたのではないだろうか。
例えば、職場の屋上で、生まれたままの姿にされた時。
例えば、小学生の頃の制服を無理やり着させられた上で外出した時。
例えば、三日三晩掛けて、体中を開発された時。
私は――幸せだったのではないか。
すべて思い返しただけでも恐ろしいのに、私は決して頼音から逃げられない。考えれば考えるほど、また頼音に苦しめられている気さえする。
もはや、私には自分が何を望んでいるのかさえ分からない。
「ねぇ、愛美」
「な、なぁに?」
私をベッドに組み敷いた頼音が声を掛けてきた。私は頼音に襲われている。いつものように。
今の頼音は私には考えられないような淫らでいけないことを考えているのだろう。
私は、それにどんな思いを抱いているのだろう?
恐ろしい気もする。楽しみな気もする。
やめて欲しくもあり、続けて欲しくもある。
考えても答えは出ない。
「愛美は、こんな風にされるのは嫌?」
頼音は私に問いかける。
どうなんだろう。結局、嫌なんだろうか、そうではないんだろうか。
「分からない、分からないよ……もう、訳が分かんなくなっちゃった」
私は悩むのに疲れてしまった。
悩むことこそが、一番の苦痛だということなのか。
「それなら、なんにも考えなければいいの。アンタのことはアタシがみいんな決めてあげる」
「ああ……いいなぁ、それ……」
頼音に身を委ねれば、私はきっと救われる。
理性を殺し思考を捨てて獣の頃に戻るのだ。
「ふふ、そうでしょ? じゃあ、そろそろ始めよっか?」
頼音は鋭い犬歯をむき出しにして笑った。
了
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内容的に大丈夫か、ちと不安です