「ちょっといいですか?」
町のはずれの丘陵で声をかけられて、私は振り返った。
黒いワンピースを着た女性が憔悴しきった表情で立っていた。泣き腫らしたのか目は赤く、まだ若いのに肌はくすんでしまっている。
その様子からも、彼女の着ているのが喪服であり、葬儀の直後かあるいはまさに今からお別れしようかという時に呼ばれたことがわかる。
「あなたはたしか……」
脳に蓄積された記憶の断片を、掻き分けるように探る。目的のものはすぐ見つかった。つい半年前、眼下に広がる町に立ち寄ったときに出会った女性だ。
町の周囲には広大な花畑が続いている。一年中気候が安定しているため、そこで収穫できる多様な花が名産品であり、生花のみならずドライフラワーや花茶、香料や染料などの加工品も名高い。また、養蜂による蜂蜜の生産も盛んであった。
カメラを肩にかけたまま建ち並ぶ商店をひととおり見て回った私は、一度休憩に戻ろうと宿に足を向けた。
部屋をとった宿は、商業地区から程近い住宅街の中にある。集合住宅が少なく一軒家の並ぶ町はどこか整然としていた。散策するうちにふと気づいたことがある。広さはさまざまだがどの家にも必ずといっていいほど手入れされた庭があり、多様な草花が咲き誇っていた。
この町において「花」はただの商品としてだけでなく、土地に、そして住民たちの心にも深く根を下ろしているのだろう。
それゆえか、開け放たれた窓越しにその老婆の姿を見たときも、ごく自然と部屋の中に花があふれていることに疑問を抱かなかった。
彼女は日の当たる窓辺の揺り椅子に腰掛け、せっせと何かを縫っていた。そばにある籠から白い花を取り出しては同色の糸で生地に縫い付けていく。
何を縫っているのだろう?
気になった私は垣根越しに背伸びして、ちらりと手元を覗き込もうとした。
と、不意に顔を上げた老婆と目が合ってしまった。
気まずさに目をそらそうとすると彼女は微笑んだ。
「ご覧になる?」
「……いいんですか?」
「どうぞ。ちょうど孫娘のウェディングドレスに花を縫いつけていたところなの」
招かれて庭に入る。広くはないがこざっぱりとしていて居心地がよさそうだ。
「あなた、写真家の方? ならもうすぐ縫い終わるから一枚お願いできるかしら」
「ええ、喜んでお引き受けしますよ。しかし、これまでにもいろいろな土地をまわって変わった風習を目にしてきましたが、花を縫い付けてドレスを飾るというのははじめてです。やはり、この町の名産品だからですか?」
「それもあるわね。でも、それだけじゃないの」
玉止めをして花がとれないことを確認してから糸を切る。検針をすませると広げて見せてくれた。純白のドレスに白いバラ。あくまで清楚な組み合わせのなかにひときわ目立つ箇所があった。胸のあたりに一輪だけ赤いバラがあしらってある。花言葉どおりの純潔と内に秘められた愛情を表しているようで、ことさら目を引く。
「おばあちゃん、お茶を入れるからそろそろ休憩にしない?」
不意にノックする音が聞こえ、同時に扉が開いた。室内からの返事も待たずに顔を出したのは老婆の言う孫娘だろう。予想していなかった窓外の見知らぬ客にちょっと驚いたようだ。顔を赤らめて決まり悪そうにうつむいてしまった。
「いま出来上がったところだから、一度試着してみてちょうだい」
ドレスを渡された孫娘がそそくさと部屋を後にする。扉が閉まると老婆がくすりと笑った。
「あの子、昔から人見知りなのよ。両親が早くに逝ってからはうちで引き取って育ててきたんだけど、おじいさんは寡黙な人だったし、わたしもあまり社交的ではなかったからかしらね」
しばらくして孫娘はふたたび祖母の部屋を訪れた。恥ずかしげに入ってきた彼女の姿を見て私は「ほぉ……」と息を漏らす。
彼女はまさに花を纏っていた。
花の量や位置を計算して縫ってあるのか華やかではあるがけっしてけばけばしくなく、少女的なかわいさと女性的な美しさをともに引き立たせるようなドレスに仕上がっていた。
彼女は清楚で可憐な花の妖精のように、はにかみながらたたずんでいる。
「早速お撮りしましょう」
私は言うが早いかすぐさまカメラを構えた。さまざまな角度から何度もシャッターを切る。途中、彼女のすぐそばに近づいたときにふと違和感を覚えたが、いろいろと構図を考えるうちにそのことも忘れてしまった。
この写真はもうすぐ結婚するであろう彼女の、独身最後の記録になるだろう。これからは花婿とともにもうひとつの人生を歩んでいくのだ。
ひととおり撮り終えると、誘われるまま一緒にお茶をいただいた。
そのとき老婆は言っていた。そろそろ自分のために花の衣を縫おうか、と。
私は驚いて、つい「また結婚するんですか?」と尋ねた。不躾な質問に彼女は怒るでもなく、ただ黙って微笑んでいるだけだった。
あとになって思えば、すぐそばにいた孫娘の表情が少しこわばっていたのは、ただ人見知りのためだけではなかったのかもしれない。彼女は祖母の言ったことが何を意味するのか知っていたのだ。
半年前には縫い物をしていたあの老婆が、いまは棺のなかに横たわっている。
彼女もまた、いつかの孫娘と同じように花の衣を着ていた。自分で縫ったのだろう。黒を基調としたシックなワンピースに色とりどりの花が縫い付けてある。
私は促されるまま、参列者に一礼して写真を撮った。
老婆の表情はごく穏やかだ。もう、動くことも喋ることもない。胸の上に組まれた細い指が針を持つことも、もうないのだ。
棺から離れ、成り行きを見守る。孫娘が若い男性に肩を支えられながら老婆の躯に近づく。彼が先日結婚した相手だろうか。二人の手には一輪の花が握られていた。孫娘は泣きながらその花を棺に入れた。次々と他の参列者も倣う。私も手向けにと花を一輪渡された。
これは……。
私はふたたび棺に寄り、その人工的に作りだされた、枯れることのない花を老婆の顔のそばにそっと置いた。
棺の中は華やかな彩りに満たされていた。
手向けられた花も服に縫い付けられている花も、質感は同じだ。見た目は本物と見紛うほど精巧なつくりになっている。あの時、撮影しながら覚えた違和感、それはまったく花の匂いがしなかったことだと遅ればせながら気づいた。
この町の女性たちは、結婚や死去といったそれまでとは違う自分になるときに花の衣で着飾り、もっとも美しい自分を創り出すのだ。枯れることのない造花は終わりのない美の象徴であり、それを纏う女性もまた永遠の美しさを手に入れる。体が老いて朽ち果てる時がきても、心が純粋であり続けるならば、その美が損なわれることはない。
老婆が言っていたとおり、この町の名物だからという理由だけではないということか。
孫娘が最後の言葉を述べる。
悲しみはしかし、考え方を変えればそう辛いことではないのかもしれない、と。
祖母もまた、自らを美しく保ったまま、先に旅立った好きな人のもとへと向かうことができたのだから……と。
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2011年5月30日作。花衣(はなごろも)。ここでは元来よりある「はなやかな衣」の意と、まま「花で作った衣」を表す。偽らざる物語。