No.269379

己鏡さん

2011年4月7日作。偽らざる物語。

2011-08-11 02:03:50 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:495   閲覧ユーザー数:493

 しばらく滞在した村で若者を雇い、隣町までの道程に広がる森の道案内を頼んだ。

 犬を連れて先を行く彼に、私も遅れまいとついていく。わずかに拓けた道はしかし、人通りもほとんどなく、盗賊や悪漢、野生動物の出現に注意を払わなければならなかった。

 気が抜けない上、街中のように整備された道が続いているわけでもないので、長時間の行程を経てさすがに疲弊の色が濃くなってきた。

「ここらで一度休憩を取りましょう」

 私を気遣ったのか、こちらが音を上げるより早く案内の青年が切り出した。枯れ枝を集めてきて適当な岩場の陰に火を熾す。

 私は荷物を降ろすと巨岩に背を預けて座り込み、一息ついた。

 夜が明けるとともに出発してから、日がもっとも高い位置にある今このときまで、一度も休憩は挟まなかった。隣町までは距離があり、朝発っても到着するのは夕方以降だ。間違ってもこの装備で危険な夜の森を進むわけにはいかない。

「どうぞ」

 彼から渡された干し肉を火で炙ってから噛み千切る。保存食だけあってだいぶ塩辛い。

 薄く硬い肉片を何度も咀嚼していると、徐々に肉の味がにじみ出てきた。料理店で出されるようなものとは違うので、あまりうまくはない。無論、贅沢を言う気はなく、むしろ空腹が満たされてありがたかった。

 そうして胃に食物が入ると、落ち着いてくるのか目の皮はたるむ。朝も早かったし疲労もたまっているため、眠気は収まりそうもなかった。

「予定より進んでいるので少し寝ても大丈夫ですよ。こいつが番をしていますから」

 彼はそう言いながら自分の連れてきた相棒の背中を撫でた。

 お言葉に甘えて目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。

 

 なんの前触れもなく目が覚めた。

 のそりと体を起こして水を口に含む。さらに水を火にかけ、常時携帯している少量の砂糖を溶かす。程よく暖まった甘い液体をちょっとずつ嚥下すると、ほっと一息ついた。

 そばで案内人の若者が寝ている。隣には彼の連れてきた大型犬が身じろぎひとつせず座っていた。主の信頼に応えるべくじっと火を、そして周囲の様子を見守っていた。

 私も耳を澄まし、あたりをゆっくりと見回す。

 森は静かだった。

 頭上には枝葉もなく青い空が見える。薄暗い森の中には所々木漏れ日がさしていた。

 その幾条もの光芒のなかに、ひらひらと舞う一匹の蝶がいた。

 蝶は何かを探すようにあっちへ行ったりこっちへ行ったり、つかみどころのない動きをしながらも徐々にこちらへ近づいてきた。

 エサとなる蜜でも探しているのだろうか?

 だが見たところ周囲に花など咲いていない。

 私は思い立って、まだ残っていた砂糖水を薄めて手にすくい、蝶に差し出すように掲げた。

 すでに冷めたわずかに甘い液体は、蜜ほどにはうまくもなかろうが腹の足しにはなるだろう。羽を休めてくれればそれでいい。

 なんだか今の自分の境遇に似ているなと思っていると、蝶はこちらの考えを悟ったか警戒することもなくひらりと我が掌に舞い降りた。

 ゆっくりと羽を動かしながら口吻を伸ばしている。時を経ずして蝶の食事は終わった。

 ふわりと飛び立ったかと思うと私の周りをひらりひらりと舞い、「こちらにおいで」と呼んでいるかのように行ったり来たりしている。

 私はその誘いに乗ることにした。

 いまだ寝ている案内人のことは彼の相棒に任せることにする。「ちょっと行ってくるよ。すぐ戻るから」と小声で話しかけると、吠えることもなくクイっと顎をあげた。

 喬木の間を縫うように飛ぶ蝶の後を、ひとり追う。その足取りは軽く、道なき道を進んでいるのに歩きにくさはあまり感じられなかった。あの蝶がわざわざ障害物の少ない場所を選んでくれているのかもしれない。

 なんの土地勘もない者が単独で森のなかを行くなど自殺行為だと思う。だが、この蝶の後をついていきさえすれば、なぜか無事にたどり着けるような気がした。

 そう安心しきっていたからだろう。常に視界に捉えていたはずの蝶の姿が不意に見えなくなって、私は冷やりとした。

 慌てて蝶がいなくなったあたりの灌木を回り込む。

「うわっ」

 私は小さく悲鳴を上げた。

 低く茂った木の裏手には泉があった。

 数歩先で突如として地面がなくなっていたので、危うく踏み外しそうになり、慌てて足を止めた。苔むした岩に足をとられなかったのが幸いだ。

 心臓が大きく鼓動し、耳の奥ではドクンドクンと激しく脈打っている。

 微動だにせぬまま瞼を閉じ大きく深呼吸をする。何度か繰り返しているうちに、次第に落ち着きを取り戻した。

 ゆっくりと目を開くと、あらためてその泉に視線を落とす。

 こんこんと湧き出る水はごく透き通っていて、底に散らばる無数の青い小石が、あたかも泉全体を鮮やかに染める染料のごとく浮かび上がって見えた。

 一枚だけ写真を撮り、泉の端に座り込む。何もせずただじっと水面を見下ろしていると、すっと水の中に溶け込むかのように疲れが消えていく。

 青い色には鎮静効果があると聞いたことがある。ただ、劇的に疲労を癒すということはないはずだが……。

 しばらく思考をめぐらした私は「ふぅ」と息をひとつついてかぶりを振った。

 各地を巡っていると、理屈では説明できない事が起こるのも珍しいことではない。

 (文明)から離れた(森)という場所を考えればなおさらだ。

 それに――

 

 先ほどの蝶が私の周りを飛び回っている。ひょっとしたら食事と休憩場所を提供した私へのささやかな恩返しかもしれない。ならば、考えすぎるのは野暮というものだ。

 私は蝶に礼を言って、もうしばらくここにいさせてもらうことにした。

 


 
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