彼女の家のアトリエは整理整頓が行き届いていて、部屋にこびりついた特有のにおいもさほど不快ではなかった。
久方の来訪にも彼女の態度は素っ気なかった。呼び鈴を三度鳴らした頃、ようやく玄関に出てきた彼女は、まるでいつも顔を合わせているかのように私を中に招き入れ、お茶を出してきた。訪問客に喜んだり、懐かしんだりすることもなく、ごく自然にテーブルを挟んで対面に腰をかける。私と再会してからここまで、まだ挨拶の「やあ」と椅子に座るよう指示した「そこへ」の二言しか聞いていない。
もとより無口なほうではあった。
しかし、ここまで極端だとこちらも戸惑いを隠せない。
六年……そう、たしか六年ぶりに会ったのだ。私にとっては結構な月日だが、彼女にとっては昨日も六年前も、はたまた十年前だろうと大差ないのかもしれない。常に自分のペースを崩さずに生き続けている彼女に苦笑しつつも、たまにこういう人いるなぁ、と納得する。
「相変わらず絵を?」
「うん……よかったら旅の話を聴かせてくれないかな」
私は観て廻った各地の様子を彼女に話した。
総じて彼女の感情表現は変化に乏しいものの、話の内容によってときおり神妙な面持ちになったり相好を崩したりする。稀に出てくるかわいらしい一面見たさに、私は長々と話し込んでしまった。
彼女のアトリエが朱色に染まっている。
いつのまにか夜の足音が近づいてきていた。遠い西日は高い位置から降り注ぐ光の鋭さを失い、やんわりと石膏像やイーゼルに長い影を落とさせる。
私が話し終えるや、彼女は思い出したように机に向かった。
水彩紙に下絵を描き、絵具や水を用意するとパレットに思い描く色を作る。紙片に試しに塗って確認してから着彩しはじめた。
一心不乱に筆を走らせる。脳内に湧き出たイメージを忘れないうちに、正確に、現実世界へと置き換えていく。私も写真家である。芸術に対する衝動、創り出す快楽や辛苦には共感を覚えた。
たまに筆が止まると、彼女はじっと窓の外の夕焼け空に目をやり、しばらくしてまた絵具を混ぜ合わせる。彼女のパレットには赤系統の色が多く並んでいた。どうやらさっき話の中に出てきた「赤い楽園」と呼ばれる谷を想像して描いているらしい。
芸術家の直感に加え、整った室内からもわかる意外と細やかな彼女の性格によって、水彩画にしては緻密な構図や色使いが施されていく。
絵を描く彼女の背を見ていると、六年前のことを思い出す。
あの時はひょんなことから絵画と写真、どちらのほうがより人の琴線に触れるかという疑問から、喧嘩というほどではないにしろ勝負をすることになった。互いに渾身の出来だと思った作品を用意したものの、吟味した結果、どちらからともなく引き分けにしようということになったのだ。
テーマは特に定めなかったが、双方、知らずと夕焼けを題材にしていた。
彼女は今のように夕日の差し込むアトリエの絵を描いた。主に白、赤、朱、橙、黒を使い分け、光と影の際立つ誰もいない静かな空間を演出した。
私は少し離れた浜辺を訪れた。凪いだ海原に沈む夕日、煌く海岸線。絵では表せない天然の光は、しかし、彼女の絵に優りも劣りもしなかった。
互いの作品を見比べてふたりで話し合った。何が足りないのか。彼女も私も考えをめぐらした。
結局、答えは出なかった。
私はまた旅立ち、彼女も新たな作品に打ち込んだ。
その六年越しの正答が、今ここにあることに私は気付いた。いや、これが正しいとは限らない。ただ、あながち間違ってもいないはずだ。
カメラを構えて夕景のなか一心不乱に絵を描く彼女を撮影する。
畢竟するに、二人の作品に足りなかったのは「終わり」の後にふたたび訪れるであろう「始まりの可能性」だった。ただの斜陽も悪くはない。けれども終わりの美しさだけではなく、そこに活き活きとした命や明日に向けた眼差しをひとつ加えることで、時間的な奥行きが出てくる。
彼女は「赤い楽園」を守り続けているであろう青年の姿を描き、私は夢中になって筆を動かす彼女をカメラに収めていく。
浜辺でひとり写真を撮ったときには感じられなかった楽しさ。
創り出す者もまた満たされなければ、人の心を動かす作品は生まれてこない。
今度はお互い、佳いものができそうだ。
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2011年2月8日作。原題は「sunset」。掲載時に変更。作中の「赤い楽園」については同シリーズの「あかとき」を参照。偽らざる物語。