坂の多い町だった。
私は宿に戻るべく、敷き詰められた石畳の狭い道を一歩一歩地道に登っていく。
Y字路を左に進み、少し開けた通りに出たところにその家はあった。
石でできた古い家だが造りはしっかりしていて、通りに面した窓からわずかに光がこぼれていた。
覗き見するつもりなど毛頭なかったのだ。ただ、その音色は私を誘うように外に漏れ聞こえていた。
カーテンのかかった窓には小さな隙間があった。
そこから何の気なしにちらりと中を見ると、ひとりの青年が薄い光のなか、イスに腰掛けてチェロを演奏していた。
目を瞑った彼が、ゆっくりと上げ弓で音を出す。囁きかけるように繊細な音の連なりが聴く者の心を落ち着かせていく。滑らかな指の動き、手慣れた運弓。普段からだいぶ練習しているに違いない。
さらに曲が進み、盛り上がってくるにつれ、徐々にこちらの気分も高揚してきた。
私は窓の外でじっと演奏を聴いていた。わずかに見える彼の表情は穏やかで、本当に好きで弾いているのがこちらからもよくわかる。
時を経ずして演奏は終わった。
私は不審者と間違われぬよう、早めに立ち去ることにした。
なかなか良いものを聴かせてもらった。
あくる日も宿に戻る途中、あの家の前を通った。
近づくにつれ、昨日のようにかすかに音が聞こえてきたので私は耳を澄ました。
また窓の外で立ち止まる。カーテンの隙間から覗き見ると、奏者はふたりに増えていた。
青年のほかに、彼と同い年くらいのヴァイオリンを構えた女性が立っていた。
ふたりの演奏が続く。ふたつの楽器から奏でられる音色は、つかず離れず螺旋を描くようにひとつの曲を紡ぎ出していく。
私は目を閉じて聴き入った。昨日と違い、始終陽気な曲だった。
演奏が終わると、私はまた足早に立ち去った。
次の日もまたひとり、連夜の演奏会に加わった者がいた。
曲調も前日と違い、物悲しい旋律だった。その中年男性は魂の叫びを表現するが如くフルートを吹く。深く静かな、伸びのある音色だった。
翌日、三人のほかに打楽器を奏する老人の姿があった。
ヘッドレスタンブリンやカスタネット、ボンゴ、トムトムなどいろいろ使い分けられるように用意されていた。
いつになく激しい演奏だった。テンポは速く、聴いている者は心身ともに揺さぶられる。怒りにも似た感情が沸き起こるものの不快さはない。
ヴァイオリンが主旋律を奏で、フルートがそれに追従する。チェロは浮つかないようにしっかりと伴奏で足元を固め、打楽器は細かいリズムを刻んでいた。
四人の奏者がそれぞれの力を発揮しつつ互いに意識しあい、ひとつの作品を作り上げていく。
私は耳を傾け、いつものようにじっと窓の隙間から中を伺っていた。
刹那、ちらりとこちらを見た青年と目が合ってしまった。
彼の目は愉快そうに笑っていた。
一瞬のことだったが、それだけははっきりわかった。
各人の真剣なれど楽しそうな表情に、私も心を決めた。
五日目にして、私は写真を撮らしてもらうことにした。
演奏しているときの彼らの活き活きした表情を、是非形にして残したいと思ったのだ。
いつものようにあの家の前まで行く。
窓から光は漏れていなかった。音も聞こえてこない。
今日に限って演奏会は休みか。私は肩を落としながらも窓から中を覗き見る。
四人の姿もなければランプに灯も点っていない。
「ついてないな」
ひとりごちて離れようとしたときだった。
「その家に何か用ですか?」
ひとりの老婦人が声をかけてきた。
「いや、用と言うほどのことでもないんですが。今日は演奏会をしてないのかなと思いまして」
「演奏会?」
「毎晩やってたんですよ。チェロやヴァイオリンを演奏して」
老婦人は怪訝な表情を浮かべる。
「たしかに演奏会を開いていた頃もありましたよ。と言っても、もうずっと昔の話です。私の祖父が若い時分に仲間を集めて開いていたそうです」
「おじいさんが?」
「ええ。だいぶ前に戦争で命を落としましたが」
私は愕然とした。たしかにここ数日、毎晩演奏を耳にしてきたのだ。それは間違いない。
「では、この家は……」
「昔、祖父が住んでいた家です。いまは物置として使っていますけど」
「じゃあ楽器も?」
「ええ。中にあります」
老婦人の話が本当だとすれば、私は幻影を見せられていたということになる。
そう、この家に残された記憶、楽器に宿った持ち主たちの思いの欠片に。
しかし、普通なら身震いしそうな話も、自分の中では存外すんなりと消化されていくのがわかった。
あの演奏や、奏者の表情に偽りはなかった。
ならば私が記憶にとどめておくのも、悪いことではないだろう。
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2011年1月2日作。ヘッドレスタンブリン=モンキータンブリン。皮の張ってないタンバリン、カラオケボックスとかにも置いてあるアレ。偽らざる物語。