返却日
一日の終わりを告げるチャイムが鳴り、それまで閑散としていた職員室が、授業を終えた教師達でだんだんと賑やかになる。
しばらくして、教師に呼び出された生徒や、逆に自ら教師に会いに来た生徒達が増えてゆく。最終下校時刻まで賑やかさは増していく一方だ。
雪は、後者だった。
「お、小波。どうした?」
職員室へ入ってきた雪の姿を見て、彼女の担任が真っ先に声をかける。
「大迫先生! 良かった、まだいたんですね」
そう言いながら大迫の席に近づくと、雪は手元の小さな紙袋から一冊の本を取り出す。
「これ、ありがとうございました」
それは彼女が大迫から借りていた本だった。それを受け取りながら、ふと違和感を覚えて彼が手元を見る。そしてその正体に気付くと軽く笑って言った。
「……なんだ、カバー変えてくれたのか。ありがとうな」
大迫が手渡した時にはボロボロになりかけていた書店のカバーが、綺麗なものに変わっている。
「すみません、何度か読み返していたら切れてしまって」
「謝ることはない。それよりどうだ、良い本だっただろう?」
「はい。とても良い本でした。なんだか、自分もやるぞって思えるような。――それに、大迫先生の言葉も」
「先生の、か?」
言われて雪が本を指さす。それに導かれるように大迫が手中の本を捲り、そして昔の自分が書いた文字を見つけた。
「ハハハ、こりゃ恥ずかしいな。先生が高校の頃に書いた言葉か」
言いながら指でその文字をなぞる。懐かしそうに目を細めながら笑う姿に、少しだけ雪の心が騒ぐ。
「小波」
「は、はい?」
突然名前を呼ばれ、少し慌てて答えた雪の手に再度本が手渡される。
「この本はお前にやろう」
「え?」
言われて雪が目を丸くする。
「折角だ、お前もここに自分の意気込みを書いてみろ。なんでも良い」
「わたしが、ですか?」
「ああ」
言うと雪の手元からいったん本を受け取ってまた懐かしげにぱらぱらと捲る。
「先生にとってこの本は、高校時代に出会った大事な本だ。この本を読まなかったら今の先生は無かったろう」
そこかしこに引かれた線や、色々な書き込みを指でなぞる。そこには大迫の高校時代の一部が詰まっていた。
「そんな大事な本を、ですか」
雪の問いかけに対して、大迫が本を閉じて答える。
「こういうのは後に継いだ方が良いだろう?」
その言葉と共に大迫の過去が雪の前に差し出された。
「いつかお前がこの本を思い出したとき。目の前にいる後輩に渡してやれ」
しばらく黙ったままでいた雪は、はい、と頷いてそのバトンを受け取る。そのまま小さく本を撫でると少し不安そうに言う。
「そんな時が来るでしょうか」
じっと手の中にある本を見つめながら、雪が今の自分を省みる。
急に、小さく薄い本がとても重く感じられた。
「小波なら大丈夫だ」
その声にはっと顔を上げると、そこには力強い大迫の笑顔があった。
「先生が保証する」
「ほんとですか?」
「ああ、いい顔をしている。自信を持て。頑張っているお前は、誰の目から見ても素敵だ!」
大迫が大きな声で言い、周囲の教師がまたか、という顔で苦笑する。おそらく色々な生徒に同様のことを言っているのだろう。内容をたしなめるというよりは、その声の大きさに対して苦笑いしているようだった。
「ふふ、嬉しいです。でもなんだかちょっと恥ずかしいですね」
雪もまた、他の生徒同様ににこりと微笑んで返す。単純に、大迫先生は良い先生だと思いながら。
今はまだその気持ちだけだと思っていた。
このときは、まだ。
「恥ずかしがることはないだろう。本当のことだからな。さて、他に用事はあるか? 先生、もうすぐ出なくちゃいかん」
その声で、思い出したように手元の紙袋から小さな包みを取り出し、その代わりに手元の本を大切にしまう。
「あ、はい。これ、お礼にと思って」
そう言って軽くラッピングされた小さな紙袋を大迫の前に差し出す。
「クッキーです。美味しくできたかどうか分かりませんが」
と言って笑う雪とは対照的に大迫は困った顔になる。
「小波、悪いがそれは受け取れん」
しばらくして彼から返ってきたのは意外な言葉だった。
「え?」
思いがけない反応に、雪の方が言葉に詰まる。
「先生、まだ教師になってから日が浅いだろう? 生徒から個人的にものを受け取るな、と主任から釘を刺されててな」
「……そうなんですか」
まだ大迫は二十四歳。生徒達からすれば、大分年が離れているとはいえ、やはり年が若い教師というだけで、色々な心配――もしくは悪意ある詮索――をされることがある。それを避けるためには、その要因を取り除く方が早い。
「お前の感謝の気持ちは受け取った! ありがとうな?」
そう言って笑う顔に、少し複雑な気持ちになる。
「……はい」
大迫が言っていることは正しい。それは雪にも分かっている。正しいと分かっているのに、どこか淋しくなった。それが顔に出ていたのだろうか。
「おいおい、そんなに落ち込まれると、先生、罪悪感を」
大迫が少し慌てて言った時。その頭上から声が降ってくる。
「小波」
その声に雪が顔を上げると、いつも通りの厳しい顔で大迫の後ろに氷室が立っていた。いつの間にそこに来たのだろうか。声をかけられるまで、大迫も雪も彼に全く気付いていなかった。
「それは学年担任全員宛ということで問題ないか」
「え?」
突然氷室が言い出したことが分からず、雪が答えに詰まる。
「個人的な贈り物は認められないが、担任一同への差し入れということなら問題ない、と言っている」
「氷室先生!?」
その提案に驚きを隠せないのは、雪よりもむしろ、大迫の方だった。まるで信じられないものをみるような顔で学年主任を見上げる。
「どうした」
その声に動じることもなく、氷室が返す。
「いえ、まさか氷室先生がそんなことを言うとは……良いんでしょうか」
「問題ない。個人的にでなければ、だが。――折角、生徒が作った物を無駄にさせる必要もないだろう」
そう言って雪の方を向く。
「どうだ小波」
改めて聞かれる。
「はい、それでいいです。氷室先生、ありがとうございます」
そうほっとした声で答えた。
「よろしい。では大迫先生。自分の分を取って、適当に回すように」
それだけ言うと、私はこれで、と言って氷室が立ち去る。
「……まさか氷室先生がああ言うとはなあ」
心底驚いたように大迫がつぶやく。はばたき学園の卒業生であり、以前氷室の授業を受けたことのある彼にとって〝学年主任〟の言葉には思えなかった。
「友達に言っても信じてもらえないかも……。とりあえず先生、どうぞ」
包みをもう一度大迫に渡す。
「おう。じゃあ、ありがたくもらっとくな」
言いながら包みを開ける。中には星形のクッキーが詰まっていた。
「お、美味しそうだな」
そして手元の時計を見てまたすこし困った顔になる。
「もうすぐ職員会議か……小波、今一枚だけ食べて良いか?」
「もちろんです!」
その声にありがとう、と言って手に取った一枚を半分口に含む。と。なんともいえない微妙な顔になった。
「……」
「せ、先生?」
雪が慌てる。焼いたあと、すこし自分でも食べて味見をしている。塩と砂糖を間違えたということは、ないはずだった。
不安な顔を雪がしたのを見て、にやっと笑っていう。
「うん、うまいな。良く焼けてる」
「……もう! 先生、意地悪ですよ」
「悪い、まあ、もう少し甘くない方が先生は好きだ」
そう言って残りを口に含むとジャリジャリと音を立てて食べた。
「……え?」
あり得ない音に雪は耳を疑う。
「せ、先生。もしかして」
「ハハハ、先生が選んだのは当たりだったみたいだな」
言いながら机にあったお茶を口に含む。
「すみません!」
なんのことはない。たまたま大迫が選んだ一枚、その中に砂糖の大きなかたまりが入っていたのだ。
「気にするな。甘かったけど、美味しかったぞ?」
言いながら立つと、雪の頭をぽんっと叩く。
「それじゃ先生は会議に行ってくる。小波もあまり遅くならないうちに帰れよ。今日は部活もないだろ?」
「あ、」
「小波?」
呼びかけられて、やっと雪が我に返る。
「は、はい。それじゃ先生、また明日!」
「おう、気をつけて帰れ」
そう言って笑って職員室を出る。外の空気がちょっと涼しかった。
「今度はちゃんとしたの、食べてもらいたい、な」
誰に聞かせるでもなく雪がつぶやく。
まだなにも始まっていない時の、なんでもない話。
雪が次にきちんとしたクッキーを彼に食べてもらうことができたのは、ずいぶん先のことだった。
【終】
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ときめきメモリアルGirl's Side 3rd Story 大迫先生×主人公。