No.237379

少年ナイフ

少年が手に入れたそれは、確かに力だった。原稿用紙三十枚、ノワール、北日本文学賞三次審査通過作品。

2011-07-27 13:25:50 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:352   閲覧ユーザー数:350

 転がる死体が背負っていたそれは、少年にとって決して赦せないことだった。その罪を犯す理由など最早どうでもいい。大切なことは、これで自分は少なくとももう「蛆虫」ではないということ。

 握り締めたバタフライナイフは血に塗れていた。

 転がる死体は全身に何箇所もの刺し傷がある。軽く二十箇所はあるそれからは、紅い血が流れていた。

 血塗れの手は小さく震えていた。

 今、たった今、人を殺した。

 その事実は未だ曖昧で、明確に分かることは、血塗れの手はぬるぬると気持ちが悪いということ。

 罪の意識に苛まれるのだろうかと思っていたが、そういう罪悪感の類は全く感じなかった。いや、この人は本当に死んだのだろうか。実はまだ生きているのではないだろうか。

 不意に不安感に襲われ、少年は転がる身体の頬を数発引っ叩いた。だが眼を見開いたその身体は何の反応も示さなかった。

 繁華街も裏路地の奥の闇に進めば誰もいなくなる。この男に狙いを定めた理由は、こいつがどう見ても悪党だったからだ。

 顔には深い傷、夜なのにサングラス、黒のシャツに原色のスーツ。見た目はヤクザだったが、実際は誰なのか知らない。

 だが少年にとってはその風貌だけでも既に罪だった。

 少年は力が欲しかった。いや、どんな形でも力を示す必要があった。力を持たなければ周りに殺されてしまうと思った。

 口の端は切れ頬には紅い痣、左の手首には真新しい包帯、気弱そうなその雰囲気が、彼の境遇を示していた。

 本当は殺したい相手なんかいない。いや、認めたくはないものの、今の境遇を作り出した数人の同級生に対しては時折強烈な殺意を抱く。

 だが悪いのは自分だと思っていた。自分が「蛆虫」のように穢く弱い存在だから、彼らは自分を攻撃するのだと思っていた。

 このままでは死ななくてはならなくなってしまう。自殺なんかしたくない。だがこのままでは自殺という路以外、全ての可能性を閉ざされてしまう。

 左手首を切り裂く痛みでさえあれだけ激しいのだ。己を命を絶つのだとしたら、どれだけの痛みが伴うのだろう。

 ならばどうすればいいのか。

 どうすれば彼らは自分を認めてくれるのだろうか。

 自虐的で短絡的な思考が辿り着いた答えは、彼らが認めるだけの力を持つことだった。そして彼らの認める力とは暴力だと確信していた。

 転がる死体を目の前にして少年はくすくすと楽しげに笑った。今、少年は確かに力を持っている。人を殺せるだけの力を持っているのだ。

 今ならば少年を傷付ける彼らをも簡単に殺せるだろう。少年の手の中にあるナイフは絶対的な存在だった。これがあればきっと、これから先、全ての敵を排除できる。

 そう思うと楽しくて仕方がなかった。これでこれから先の学園生活には平和が戻るだろう。いや、今まで傷付けてくれた彼らを、逆に傷付けることさえ出来る。

 それは圧倒的な愉悦だった。

 少年は手の中のバタフライナイフをじっと見詰めた。少年にとって初めての力がそこにある。血塗れのバタフライナイフは紅く妖しく輝き、少年の心を暗い興奮で突き動かす。

 我慢が利かなくなり、思わず死体にバタフライナイフを突き立てた。肉を抉る感覚は強い背徳感を齎しながらも、同時に心を快楽で満たした。

 興奮に任せて、数分抉り続けた。死体の傷口からはもう血が噴き出すこともなく、その興奮も次第に冷めていく。

 荒い息を吐きながら、少年はその場に座り込んだ。男の死体を見遣る。男の表情は眼を見開き苦悶に満ちており、口だけがだらしなく開いていた。

 不意に少年は男の懐に手を突っ込んだ。趣味の悪い財布には数万円の現金とカード類が入っていた。携帯電話もあるが、必要ないので投げ捨てた。

 少年は金をポケットに押し込み、ゆっくりとその場を立ち去った。

 闇の中へと――

 

 

 苦しみや憎しみの味は、血と同じように鉄の味だ。それを知ったのは高校に入学して間もない頃だった。

 目立つ方ではないものの、別段周囲から浮いた存在でもなかったはずだ。それなのに切っ掛けすら分からず唐突に虐めは始まった。

 靴や文房具、教科書が隠される、捨てられる。靴の中に画鋲が入れてある。机の上に花が飾られている。最初は辛かったものの、少年にとってそれはまだマシな方だった。

 内太股にコンパスの針を刺された。足の裏に錆びた五寸釘を突き刺された。傷口は酷く膿み、結果切開手術までしなくてはならなくなった。

 肉体の苦痛はある一定以上過度になると鈍化していった。むしろ酷く痛むのはのは心だった。

 彼らは自分が嫌いだ。いや、嫌いという度合いではないのだろう。何度殺されると思っただろうか。

 トイレで全ての衣服を剥ぎ取られ破られ放置された時、辛うじて保ってきた羞恥心すら引き裂かれた。

 肉体の痛みは恐くない。だが心が感じる痛みは決して消えない。常に累積していき、怨嗟や悔恨に沈んでいく。

 どうしてという疑問は押し殺した。いや、深く考えていけば出る結論は死しかなかったからだ。

 辿り着かなくても漠然と見えてしまう結論。それを左手首に叩き付けた。カッターの歯はすぐに切れなくなる。表面は切れても肉の奥にある血管はなかなか切れない。

 手首の強烈な痛みは不思議と生きている実感を齎した。これが自傷という最低の行為だと理解していた。リストカットなんてこんなモノ、ひ弱なフリをする女子高生の飾りだと思っていた。

 だが、少年には理解することができた。

 死にたいから手首を切るのではなく、生きている実感が欲しくて切る。だが、それらは全て上辺だけのものだと少年は気付いた。

 本当に死にたいと思って自殺する人間などいない。死にたくないのに、死ななくてはならないから命を絶つ。

 自殺とは、本当は自ら死ぬことを指すのではない。何かに追い詰められて、追い遣られて己の意思とは違う何者かの意図によって死を選ばされることを示すのだ。

 手首に傷を付ける度に、己の弱さに反吐が出た。痛みを感じる度に生きていることに安堵した。そしていつの間にか少年は、自分の存在価値と存在意義を考えるようになった。

 そんなものに答えはないと漠然と気付いていたが、それを考えていなくては恐い結論に辿り着きそうだった。

 いや、もう半ば辿り着いていた。ただ気付かぬフリをしていた。

 両親は何も知らない。いや、気付かぬ親などいないはずだ。真新しい痣や傷、手首に奔る何本もの線創、薄汚れた制服、落書きされ破られたノート。

 それでも両親は何も言わなかった。学校に行くことが恐くなり、仮病で休んでも何も言わない。

 その内に両親が悪臭いと思うようになった。上辺だけの平和に浸ることが全てで、現在の子供の境遇などどうでもいいのだろう。顔を合わせても「学校は楽しいか」とか「勉強は頑張っているか」程度のことしか訊かない。

 親という存在は、こういう人達のことではないはずだ。親という存在ならばきっと、自分を助けてくれるはずだ。

 傷だらけの自分を見て気付かないフリをしているような人達は、他人だと思う。

 街灯すら疎らな暗闇の中を歩く。

 いつもなら歩くことすらためらう繁華街の裏路地の真ん中を、今は真っ直ぐに歩いている。

 周囲の眼は少年をじっと見詰めている。その眼は明らかに冷め切っていた。

 だがそれが少年には愉悦だった。

 奴らは冷めているのではない。冷めたフリをしているのだ。そうして内心では少年の手に入れた力を妬んでいるのだ。

 こいつらは全部、人間の屑だ。自分のような力を持たない負け犬だ。傷付けられれば悲鳴を上げて逃げ、誰かが傷付けば指を差して笑うような糞どもだ。

 特にこんな時間にこんな場所で屯っている連中など、糞以外何者でもない。

 そうだ、自分を虐めていた彼らも、所詮人間の糞なのだ。どうして糞に認めてもらう必要があったのだろうか。彼らは糞で自分は力を手に入れた絶対者だ。

 そう思った瞬間、少年の心に湧きあがったのは強烈な欲求だった。少年は頭を擡げたほの暗い興奮に身体が震える。

 それは初めての感情だった。

 自分の持つ絶対的な力。それが齎す強烈な誘惑。自分を蔑み続けてきた彼らを狩るだけの力が今、自分の手の中にある。

 いつの間にか口元が歪んでいた。心の中に生まれた力が齎す歪に、心が奮えている。

 ジーンズのポケットから折り畳んだバタフライナイフを取り出した。刃にはまだ血がこびり付いており、妖しく輝いていた。

 それを強く握り締めて、少年はニタニタと哂う。そう、これこそが力だ。今までの全てを薙ぎ倒し叩き潰す力だ。

 そうだ、もう我慢する必要などない。自分を傷付けて笑っていた彼らを逆に傷付けることすら安易だ。

 いや、傷付けるなどとそんな生易しい結果では気がすまない。彼らが痛みにのた打ち回る姿を見る権利が、自分にはあるはずだ。

――いや、あのほの暗い興奮を、また味わうことすら赦されるはずだ。

 心臓が早鐘のように鳴っていた。それは全身の血を熱く滾らせ、少年の身体に力を漲らせていく。

 手に入れた絶対の力。ネットで買った安物のバタフライナイフが、それを与えてくれた。哂いを抑えきれない。

 少年は駆け出した。

 期待に心を躍らせながら――

 

 

 辿り着いたのは少年を虐めていた連中の一人である少女の自宅だった。というよりも少年を虐めていた奴らの中で、唯一自宅を知っていたのがこの少女だった。

 少年は何の躊躇いもなくインターホンを押した。少しの間の後、「どちら様ですか」と落ち着いた女性の声が聞こえた。

 学校のクラスメイトだと告げると、数分して玄関が開き、茶髪の少女が姿を見せた。

「……何しにきたんだよ、あんた」

 少女の眼は明確な嫌悪感を伝える。まるで見たくもない汚物を見てしまったかのように眉間に皺を寄せて顔を背けた。

 少年はただにたにたと哂う。こんな愉悦など絶対に在り得ない。この女はきっとまだ、自分の力が上だと思っているのだ。

 そんなこの女の全てを引き裂けるのかと思うと、嬉しくて嘲らずにいられない。

「……ま、いいや。ほら、入れよ」

 自分を導き入れるということの意味を分かっていない。馬鹿だ、この女はやはり救いようのない馬鹿だ。この糞女は殺した方がいい。

 自分が手に入れた絶対の力。その恐ろしさを全く理解していない。蛆虫を自宅に導くと考えているのならば大きな間違いだ。

 今の自分は蠅王だ。糞の中を蠢いていた蛆虫は蠅に成り羽根を得、蠅は更に力を得て蠅の王に成ったのだ。

 玄関に入ると女の母親がにこにこと笑っていた。こんな糞女の母親だというのに、少なくとも自分の母親よりは何倍も優しそうだった。

「友達と話すから、部屋に来ないでね」

「はいはい、分かりました。紅茶でも持っていくわね」

「いらない」

 ジーンズのポケットに突っ込んだ両手が血を求めて疼く。もうすぐこの糞女に痛みと苦しみと絶望を味あわせることができる。そう考えると悦びで勃起してしまいそうだった。

 二階への階段を上がる。前を歩く女から何とも言えないいい匂いがした。それが女の身体からのモノだと気付くと、興奮は極限に達する。硬く硬く勃起したそれからスペルマが溢れてしまいそうだ。

 女の部屋に入る。

 糞のような女なのに、小奇麗で女の子らしい部屋だった。シングルのパイプベッド、円形の小さなガラステーブル、クッションが二つ、似合いもしないクマのぬいぐるみが三つ、本棚にはファッション雑誌が並ぶ。

「……座れよ」

 仏頂面の女はパイプベッドに座り、女は少年をじっと見詰めた。少年は思わずにたにたと哂ってしまう。もうすぐこいつは血塗れになって痛みと苦しみにのた打ち回り、絶望を知る。

 女から漂ってくるいい匂いがその興奮に拍車を掛けた。自慰行為よりも遥かに強烈な快楽だ。

 いや、この力があるのだから、自分はこの女を好きにできる。

「一体なんの用事なのよ。というか私はあんたなんかに用はないんだけど」

 女は少年をまるで汚物を見るように睨み付けている。自分の立場を理解していない馬鹿そのものの言葉だと思った。こういう屑は犯そうが殺そうが好きにしまっていいだろう。何しろ人間の屑なのだから。

 用もないのに自分の部屋まで通すなんて、屑は何も考えていないらしい。

「……なんであんたはいつもそうキモイの。だから蛆虫とか呼ばれんだよ」

 恐い者知らずな女の言葉が、少年の心を煽った。いや、もう恐れる必要などない。このポケットの中にある力を示せば、こいつはあっさりと服従するはずだ。

 だが、眼に飛び込んできた女の表情に心臓を鷲掴みにされた。

 女は唇を噛み締めながら、瞳に涙を浮かべていた。それは間違いなく悔恨し懺悔を望む表情だった。

「……ごめん、そんなの虐める理由になんないよね。あたし弱虫だから、あんたみたいに虐められるのが恐かったんだ……」

 認めたくないことだった。この糞女は少年を虐めていた連中の一人だ。殴られたことも蹴られたことも太股をコンパスで刺されたことすらもある。

 それを後悔しているというのか。だが、今更そんな事実を告げられたところで、心の中にある圧倒的な暗闇と澱みを消すことなど出来ようか。

「ごめん、ごめんね、ごめんなさい、あたしのこと殴っても蹴っても、刺してもいいから。殺してくれていいから。ごめんなさい」

 震えながら嗚咽を上げ謝るその姿に、少なくとも嘘があるようには思えなかった。いや、本当の意味合いでの死など考えていないだろう。そこまでの覚悟がある人間は少なくとも虐めなどしないだろうし、何よりもそれを止める勇気もあるだろう。

 嘘の涙ではないが、それでも少年には少女が、ただ自分に酔っているだけの悲劇のヒロインに見えた。後悔して泣くのならば虐めを止めればよかったのだ。それなのにそれを今、後悔したフリをして泣くなんぞやはりこいつは人間の糞だ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 何度も何度も頭を下げ、ついに大粒の涙が少女の頬を伝った。小さな肩が震えている。学校で少年を見下し卑下し傷付けている時の表情ではない。

 少年はただその少女をじっと見詰めていた。少女の流す涙は嘘に思えない。悲劇のヒロインだとしても、流す涙が嘘だとどうして言えるだろうか。

 頭が混乱してしまい眩暈を感じた。視界がぐるぐると回っている。

 だがこんな涙だけでこの糞女を赦していいのか。今までの苦しみや悲しみ、痛みを赦せるのか。

 そんなはずがない。

 そんな生易しい結果など求めてはいない。力を手に入れた今、自分は絶対者だ。自分を傷付け嘲笑っていた全てに鉄槌を下すことができるはずだ。

 ふと、鼻腔を少女の匂いがくすぐる。ポケットの中で握り締めているバタフライナイフが脈動した気がした。身体の中心に血が集まる。硬く硬く勃起したそれが女の身体を求めていた。

 手の中の力を誇示すれば、女はあっさりと屈服するだろう。そうなれば後はしたいように好きなことを出来る。

 少女の前に立ち、ポケットからナイフを出そうとした瞬間、涙を拭った少女の左手首に眼が釘付けになる。

――少女の左手首には、真新しい包帯が巻かれていた。

 思わず左手を掴み、強引にその包帯を解いた。驚いた少女はそれを隠そうとしたが、その瞬間、少年は少女の身体を突き飛ばす。

――何本も何本も、幾重にも重なり奔る、真新しく紅く深い線創。

 どうしてこの糞女の腕に、この線創があるのか、意味が分からない。こいつは自分を殴り蹴り刺して笑っていた最低の屑だ。こいつには自分のような絶望はないはずだ。

 だが、どうしてそこまで深い線創を己に刻むのだろう。少年を傷付けて楽しんでいた人間の屑なのに、どうして。

「み、見るなっ」

 少女は少年の腕を強く叩く。それを見られることがまるで罪であるかのように。そして同じ傷を持つ少年には分かっていた。彼女は自分と同じように、切ってはならない深さまで切ろうとしていたことを。

「ど、どうせ、あたしのことなんか、誰も何とも思ってないんだっ。あたしだって、あたしだって……」

 少年には少女が、まるで駄々をこねる小さな幼児のように見えた。誰もが小さな頃、一番欲しかったのは愛情だったはず。子供はそれに飢えて泣く。少女はそんな小さな子供のように泣いていた。

 少年は自分の左手首の包帯を解き、手首を少女に見せた。何もかも、分からなくなっていた。少女の涙と手首の線創、それは決して嘘ではない。

 嘘でこんな深く切ることなんか出来ない。それは自分が一番良く分かっているはずだ。

「あ、あんたも……」

 少女は顔を伏せ身体を震わせながら、声を上げて泣いた。少年はただそんな少女を見守ることしか出来なかった。

 

 

「……明日、みんなにやめようって言うから。絶対、やめさせるから」

 一頻り泣いた後、少年を隣に座らせその左手首を優しく撫ぜながら、少女は決意したかのようにそっと呟いた。

 心の中の暗闇や澱みは消えない。いや、きっとこの感情は一生消えないだろう。だが少女から漂ういい香りと、肌で感じる不思議な安堵感は、心の奥にまで染み渡っていく。

 ずっと誰も認めてくれなかった少年の存在を今、少女は認めてくれている。いや、今だけかもしれないが、近くに存在してくれている。

 少年には左手首に感じる温かさが、何よりも嬉しかった。彼女が感じてきた苦しみや悲しみがどんなものなのか、それは想像もつかないが、それでも彼女の左手首は嘘ではない。

 少年は何も言わずに、ジーンズのポケットからバタフライナイフを取り出した。そしてそれを開き血塗れの刃を少女に見せた。

「こ、これ、どうしたのよ。もしかして、誰かを刺したとか言わないよね」

 少年は俯いたまま何も応えない。そして応えないことが少女への答えになってしまっていた。

 少年はじっとバタフライナイフを見詰めた。これは絶対的な力だったはずだ。それなのに今の少年には、これは単なる狂気にしか見えない。

 蛆虫が蠅に成り、蠅は蠅王に成ったはず。それが如何に無意味で無価値で無知で無恥な行為だったとしても、少年にはそうするしかなかった。

 蛆虫は踏み潰され殺される。その絶対的な論理から抜け出す為には、空を飛ぶ羽根が必要だった。

 その羽根がこのバタフライナイフだったはず。それなのに、今はそれが虚しく、そして忌々しかった。

「そ、その人、大丈夫なの」

 大丈夫なはずがない。あの男は間違いなく死んでいた。何箇所も何箇所も気持ちに任せてバタフライナイフを突き立てていたのだ。生きているはずがない。

 少年はゆっくりと首を横に振った。そして小さく微笑むと肩を震わせて泣いた。

 気付くのが遅かった。手の中にあるこれは力ではなく、単なる狂気。力を求めていたとしても、この手の中の狂気に身を任せた時点で、全てが終わっていたのだ。

 苦しみはきっと誰にでもある。自分よりも苦しみや痛みに耐えている人間もいるはずだ。眼に見えるものだけが全てではないことは、少女の左手首が証明している。

 何て愚かなのだろう。

 何て悪臭いのだろう。

 存在意義や存在価値に何の意味が在ったのだろう。己の身体中の傷が齎すものは痛みだけではなかったはずなのに。

「どうして、そんな、こと……」

 少女のその涙は、少年の為に流れている。少年はそれを見て、心が満たされていくのを感じた。

 間違いは消せない。だが、彼女は自分の苦しみや悲しみ、そして痛みを知ってくれた。きっと忘れないでいてくれる。

 一瞬だけでも共有できた今がある。それならば、何を怖れる必要があるだろうか。

 心が満たされていく。きっとずっと、彼女は自分のことを忘れないでいてくれる。

 少年は少女の耳元で、お礼の言葉を小さく呟いた。

 救いとは何だろうか。

 少年は間違いを犯した。それは確かだが、どうして少年を責められようか。バタフライナイフが齎したのは狂気だけではない。結論と結果、そしてやはり救いがあった。

 少年はポケットの中のバタフライナイフを強く握り締めた。間違いであれなんであれ、これは間違いなく手に入れた力だった。

 街灯はスポットライトのように少年を照らす。周囲の眼はもう少年を気にも留めていない。

 玄関先で、少女は不安げに少年を見詰めていてくれた。少し歩いて振り向くと、彼女が心配そうな表情で立ち竦んでいた。

 結果はもう見えている。

 何て悲劇的な喜劇なのだろう。周囲に追い詰められ自殺させられそうになっていた、その現実から抜け出す為に、力を手に入れたはずだった。

 だが今、自分に突きつけられている結論は、限りなくそれに近い。自首をする勇気などない。

――ならばもう。

 辿り着いたのは小さな公園。少年はゆっくりと歩き、自動販売機で温かい缶コーヒーを買うと、端にあるブランコに腰を下ろし、タブを開けて口を付けた。

 いつの間にかこのコーヒーの苦味にも慣れていた。中学の頃は好きでも何でもなかったというのに。

 そうか、こうやって人間は少しずつ変化していくんだ。自分を虐めていたことを後悔していた彼女も、様々なことに追い詰められていてああやって自分を傷付けていた。

 そして少年に懺悔を請うた時点で、彼女も少し変わったのだろう。

 甘いばかりで美味しくないはずの缶コーヒーは、暗闇の中で震え続けてきた少年の心を溶かしていく。

 少女は自首を勧めてくれた。それが彼女の優しさだと分かっていた。だが、彼女の優しさと温かさ、香りに触れたことが、自分にとっての終着点だと気付いていた。

 馬鹿だ。

 そんな変な理屈など捨てて、心のままに泣き喚けばいいはず。そうやってまた少し、何かが変わっていくはずなのだ。

 だが、そんな綺麗事の全ては詭弁に過ぎない。終着点を決めるのは周囲ではなく自分なのだから。

 そして少年にはもう、ここから先の未来には全く意味がない。生きていればきっと勉強を頑張り、恋をし、仕事をし、普通に生きていくのかもしれない。時が過ぎれば隣には妻がいて、子供が産まれ、子供の成長を楽しみに生きていくかもしれない。

 だがそれら全ての未来予想図に、本当は意味などない。絶望とは人生を諦めることではない。絶望とは希望を失うこと。そこから先の全てを棄てること。

 ポケットからバタフライナイフを取り出す。もう身を任せることは決してない、狂気という名の力。

 人を殺して後悔しているのか。後悔していないといえば嘘になる。少女と触れ合い知った彼女の苦しみや悲しみ、そして優しさと温かさ、香り。

 それを知ってしまった以上、もっとそれに触れていたい。だが、己が犯してしまった罪は決して自分を赦さないだろう。少年が自分を虐めていた連中を決して赦さないように。

 血に塗れたバタフライナイフは妖しく輝いていた。それを美しいと思うことはもうない。だが、この力のお陰で少年は、小さな宝物を手に入れることが出来た。

 少女が与えてくれたそれがあるから、もう何も怖くない。もう二度と、決して失うことはない。その小さな宝物が、少年にとっての答えだった。

 缶コーヒーを飲み干し、空き缶を投げ捨てる。小さく溜息をつくと、バタフライナイフの切先を自分の左胸に押し当てた。

 本能的な恐怖に心臓が激しく脈打っていた。

 何かを小さく呟いて、バタフライナイフを左胸に突き立てた。自分が思っていた以上にあっさりと、その切先は身体に埋まっていく。

 やはり激しい痛みは一瞬だった。身体から力が抜け、ブランコから地面に倒れこむ。

 闇に心を喰われながら、少年は少女の優しげな表情を思い浮かべて、小さく微笑んだ。

 薄れていく視界に、綺麗な三日月が映る。清らかにすら見えるその輝きはとても冷たく、だがとても優しく少年を包んでくれた。

 これが正しかったのかどうかなんて、きっと誰にも分からない。ただひとつだけはっきりしていることは、彼女のお陰で、少なくとも心の奥に小さなあたたかさを取り戻せたということ。

 その宝物があるから、もう何もいらない。少なくとも彼女は、きっとずっとこんな愚かな自分を忘れないでいてくれる。

 それはどれだけ幸せなことだろうか。

 彼女の左手首に奔っていた深い傷が癒され消えゆき、それと共に彼女が苦しみから解放される時がいつかきっとくる。

 それだけを今は願い、そして祈ろう。

 少年は目を閉じた。そして脳裏に少女の笑顔を思い浮かべながら、闇にその身を委ねた。

 三日月に照らされた少年は、その中心から紅に染まっている。だがその表情はどこか安らぎすら感じさせた。

 その亡骸に突き立っているそれは、希望だったのか絶望だったのか。だが少なくともそれは飛び立つ為の羽であり、そして少年にとっての神だった。

 三日月はただひたすらに、その亡骸を優しく照らし続けていた。


 
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