――この世界は腐れている。
夕日が窓から零れていた。
生きていくだけでも必死だった頃に手に入れたのはごく僅かの金と屈辱だった。それは間違いなく真っ当な生き方が齎した結果だった。
だが、そうやって手に入れた小さな何かは、いつも呆気なく壊されていく。それが実はある摂理によるものだと気付いたのは、己にとって限りなく大切なモノを喪ってからのことだ。そしてそれは自分が愚図で愚昧である証明で、搾取する側からの愚弄と嘲りなのだと思い知った。
その手に握るガバメントからは、薄く白煙が昇る。火薬の臭いが漂うその古びたアパートの一室には、老人の死体が転がっていた。
「……これで、残りは三人だ」
その男の頬には大きな創が奔る。
自分と彼女にあの結果を齎した奴らにある問い掛けをしたいと思った。ここでは狩る側の倫理観よりも、狩られる側の無力が罪になる。だからこそ狩る側の人間には罪の意識など欠片もありはしない。
目の前には化粧が濃い年増の女と口髭を生やした実業家風の中年男性、そして理知的な印象を与える眼鏡を掛けた青年がロープで縛られ猿轡を掛けられていた。年増は明らかに怯えている。口髭の眼は泳いでいた。だが眼鏡には何の感情もないように見える。ただ冷めた眼で創を見詰めていた。
「さて、次はあんただ」
創は口髭の襟首を掴み、正面にある椅子に座らせ、それから猿轡を外した。口髭は息が苦しかったのか、猿轡が外れた瞬間に激しく息を吐いた。そして次の瞬間には創にこう言い募った。
「私は何も関係ないじゃないか。私はただこの界隈で銃を売っているだけだ」
「……貴様が売ったその銃で、妻が撃ち殺されたんだ」
その言葉を聞き、口髭は顔を引き攣らせる。口髭にとって銃器の販売はただのビジネスにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、自分が売った銃で人が死んだとしても、それは販売者である自分ではなく、購買者であるその人物の責任と功罪にすぎないのだ。
それに自分が売る銃器は犯罪だけに使われている訳ではない。自己防衛の為にそれを買い、安全な生活を送っている人間もいるはずなのだ。
「……ここはスラムだぞ。銃もなく安全に住める場所ではないだろう」
「そうだな。だがその銃が犯罪を凶暴化させていることをどう説明するつもりだ」
それはどうしても消せない、銃というモノが持つ安全と相反した危険性だ。だが口髭にはそれでも、創の言う言葉がただの絵空事に聞こえてしまう。
卵が先か鶏が先がという謎掛けのような曖昧な問題ではない。現実、ここで安全に生きていく為には、銃はどうしても必要なのだ。それを売る自分にそんな無駄な哲学を騙られたとしても、自分の今の扱いに納得など出来ようか。
「私が売る銃器で安全を手に入れている人間がいるだろう。お前はそれをどう説明するのだ」
「銃器で安全を買うようなシステムを作っているのは貴様らだろう。そして犯罪者に銃を売っているのも貴様らだ。銃が安全だけを生んでいない結果が、貴様には見えないというのか」
その言葉に口髭は絶句した。そんな無茶苦茶な論理を押し付けられても、口髭にはどうすることもできない。この界隈で銃器を売っているのは自分だけではないのだ。それに何よりも、自分の売る銃で安全を買っている人間がいるのは明確な事実なのだ。そして今という現実を無視しての理想論には何の価値も存在していない。理想は現実の上にしか存在し得ないのだ。
「だが私の売る銃器で安全を狩っている人間がいるのは明確な事実だろう。それとてお前の言う結果ではないのか」
「妻がお前の売った銃で死んだことも、また事実だ。何よりも俺は、貴様と銃器の功罪を論じたい訳ではない。俺はただ貴様にこいつを向けて、妻の味わった恐怖の一端でも感じさせたいだけだ」
散々論じさせておきながら、創は口髭にガバメントを突き付ける。口髭に向かってただこう告げている。「論じても無駄だ。どうせ結果は変わらないのだから」と。
ここは狩る側の倫理観ではなく、狩られる側の無力が罪となる場所だ。ならばこうして拘束されガバメントを突き付けられている時点で、どちらの論理が正しいのかという問題には結論が出ている。
妻を撃ち殺されたあの時、創には力などなかった。だからこそ、力を得た今はその復讐が出来るのだ。
きっと良識者や見識者は「そんなことをしても死んだ妻は戻らないし、きっと彼女もそんなことは望んでいない」などと戯言を抜かすだろう。だが今の創にどんな価値があるだろうか。
口髭は唖然としながらその銃口を見詰めていた。自分がばら撒いてきた銃器にはどうしても二面性があり、それはどうしても否定は出来ない。有事における兵器としての銃火器には使命が一つしかなく、それが銃火器の価値に直結している。だが平時における銃器とは、平時を維持する為の銃器と平時を脅かす為の銃器という、両極端な価値を持つことになってしまう。
「……銃のない社会が平和だということか」
「ここでのそれは、単なる理想論に過ぎないだろう。だが突き付けたこの銃口から放たれる弾丸が齎す恐怖と結果は、常に平等だ。だからこそ、俺は貴様が赦せない。妻が貴様が売った銃器で撃ち殺されたというのに、貴様にはその罪の意識の一欠片すらないのだからな」
口髭は言葉を失った。自分とて、ただこの界隈で生きていく為に銃器を売っていたに過ぎない。自分の行為が齎した結果など、深く考えたことなどない。
俯き、埃の溜まった床をじっと見詰めた。何を言ったとしても、きっとこの男は納得しないだろう。
だが、不意に思い出す。自分にも妻と子ががいる。彼らは罪深き自分の稼ぐ金で生きている。自分が銃器の販売を辞めるということは、彼らが路頭に迷うことを意味している。ここで安全に生きていく為には銃器は必要だが、金はもっと必要だ。それを手に入れる為ならば、悪と断じられたとしても銃でも何でも売ってやる。
「……銃器を売ることを辞めてしまえば、家族が路頭に迷う。お前に殺されても構わない。だが私が死んでも家族は生きていく為に銃器を売る。お前にそれを否定はさせない」
「俺はただ、貴様が赦せないだけだ」
自分の功罪など正義と悪の論理のように、見方によってころころと変わるのだ。この歳になればそのくらいの常識は持っている。だからこそ、この創という男が自分を赦せないという傲慢も、納得は出来なくとも理解できる。
口髭は創の眼をじっと見詰めた。その眼には深い悲しみが宿っていた。そしてその行き場のない悲しみは、何かしらの犠牲を求めているように思えた。
自分が殺されてしまう理不尽は感じる。断言すれば自分はただこの界隈で銃器を売っていただけであり、購買者がそれをどう使うのかまで責任は持てない。規制などは政府機関の仕事であり、自分などの一般市民には何も出来ない。
だがそれでも、自分に対しての功罪を求めるというのならば、それは結果など待たない。
死に対する恐怖はあっても、銃口に対するそれはない。咽が焼けるように渇く。知らず知らずに歯ががちがちと鳴っていた。頬を汗が伝っている。きっとこの男はもうすぐ引き金を引くだろう。その時、自分の人生に終止符が打たれる。残していく妻と子は悲しんでくれるだろうか。
銃器を売ることで生きていく糧を得ているのだから、もしかしたらこういう事件に巻き込まれる可能性も予測すべきだったのかもしれない。そういう意味では自分は迂闊だった。だがきっと残される彼らからは、そういう間抜けな迂闊さは消えるだろうし、そしてきっともっとしたたかに生きていくだろう。
この男を不幸にしたという銃器を、これからも大量に売り捌きながら。それはある意味での愉悦ですらある。この男の行為には、全く意味がないのだ。
「得るものなど何もない。愚か者はそれすら気付かない。憐れなものだな」
嘲り発した言葉の直後に軽い発砲音が響き、眼を見開き嘲笑を浮かべる口髭の額に穴が開いていた。
創が軽く突き飛ばすと、椅子に座っていた口髭の死体は真横に崩れ落ち、先に死んだ老人の上に重なった。創はただそれをじっと見詰め小さく哂う。
それまでの遣り取りを見ていた年増は、ただがたがたと震えていた。ここがどこなのか、それだけの情報すらない。自分には家族などないのだから、警察に届けてくれるような人間などいはしない。
この男のことは覚えている。いつの夜だったか、自分を安くで買った男だ。さほど女の経験のある訳ではなかったようで、可愛がってやるとあっさりと終わってしまった。だから余計に印象に残っていた。
「次は貴様だ」
そして創は、絶望的な言葉を年増に向かって吐いた。先程殺された男は実に論理的且つ的確に言葉を吐いていた。対する創もそれに応じているように思えていたが、元々結果が決まっている以上、どんな言葉もこの男には届かないだろう。
大体、自分は一度この男に抱かれただけだ。娼婦なんぞこの界隈には腐るほどいる。自分一人がそれをやっているというのならばともかく、他にも腐るほどいるというのにどうして自分だけがこんな目に遭うのだろうか。
「た、助けて……」
「助ける理由がない」
「わ、私はただ、あんたに抱かれただけじゃない」
その言葉を待っていたかのように、創はガバメントの銃口を年増の額に押し当てた。その瞬間、意思に反して年増の歯がガチガチと鳴り始めた。
「どうして、わ、私が、こんな、目に……」
創はただじっとそんな年増を見詰めていた。年増には意味が分からない。確かにこの男に抱かれた。その時の金額すらもはっきりと覚えている。この男の経験の浅さを感じ取り、からかい半分の抱き方をしたが、別段言葉や態度で罵った訳ではない。何よりも、自分が男達に抱かれるのは仕事であり、それ以上でもそれ以下でもない。
こんな荒んだスラムで女が生きていこうとするならば、こういう職業を選ばざるを得ないことだってある。そしてそんなことはこの男も理解しているはずだ。
それに何よりも、この男の妻の死に自分は全く関係していないはずだ。他人の事情には足を突っ込まないのが娼婦の仁義であり、それだけは守ってきた。だからこの男のことなど全く知らない。
「私は、なにも、知らないのに……」
「あの日、お前を買わなければ俺は妻を守れた。妻の死に間に合ったはずだ」
「そっ、そんなの、おかしいじゃないか。私があんたを誘った訳じゃない。あんたが私を誘ったんじゃないか」
縛り上げられ自由を奪われている以上、年増には言葉を発することしか出来ない。これが年増に残されている最後の武器だ。そしてどんなに頼りない武器であれ、これしか残されていない以上、年増は言葉を紡ぐことしか出来ない。
「あんたがあんたの都合で私を買っておいて、その責任を私になすりつけるなんて、卑怯じゃないか」
「……この界隈では悪さをしている娼婦が山のようにいる。強請り、集り、そして殺し」
創は年増の言葉を無視し、そう言葉を発した。額に押し当ててあるその銃口はびくりとも動かない。年増の言葉に動揺の一つもしていないのだろう。
先程死んだ口髭との遣り取りでもそうだった。この男は最初から結論と結末を決めているのだ。そしてそれに沿えば、どんな言葉を吐いたとしても、この男に殺されてしまうことになる。
死にたいはずがない。自分がこの男に対して罪を犯しているのならばともかく、これは単なる逆恨みだ。創に買われたあの時、年増はこの男を誘ったのではない。ただ街角に立って男を物色していただけなのだ。それなのにこんな不条理な仕打ちを受けている。
「そんな悪さ、私はあんたにしていない。娼婦にだって悪党がいるんだ。そんなの当たり前じゃないか」
額に押し付けられた銃口が、ゴリッと嫌な音を発する。こんな仕打ちに納得できるはずもない。自分のケツは自分で拭くのが大人としてのルールだろう。そしてこの創という男は、そんな最低限のルールすら守ろうとしていないのだ。
「……なんて情けない男だよ。自分の不甲斐なさを周囲の責任にしようなんて」
次の瞬間、年増の頬を銃弾が掠めた。頬を伝う鮮血は温かい。だが年増は芯から凍りつきそうになった。この男が単に殺すだけを目的にしていないことが、はっきりと分かったからだ。口髭はきっと、この男が望む結論に辿り着いたのだろう。だからあっさりと殺したのだ。
だがそれは逆を突けば、この男の望む結論に辿り着かなければ殺されることはないということだ。ただ確定できないそんな心証に命を賭けることは出来ない。
「私に何をさせたいのさ、どうすれば私を赦してくれるのよ」
「……どうして俺に買われたのだ。あの時、俺が言った額は相場の半額以下だったはずだ」
「あの時は客がいなかった。それ以外に理由なんかあるはずがないだろう」
相場以下であれなんであれ、他に客がいなければ仕方がない。もう三十路も後半に差し掛かり、若く美しい娼婦に上客は取られてしまう。だがそれでも生きていく為には抱かれるしかない。客を選べる立場ではないのだから、相手の言い値でも受け入れるしかない。
こんな男に、自分の何が分かるというのだろう。相手の言い値に従うしかない自分がどれだけ情けなく、どれだけ悲しいか。若くて美しい女は言い値などでは買えない。その女の自負心が満足する金額を払わなければ、抱けないのだ。
いつの頃からか、自分の自負心を捨ててしまわなければ、相手が見付からないことに気付いた。その時の失望感は今でも忘れられない。自分が歳をとり、顔に小さな皺が走るようになった。どんなにケアしても、それを防ぐことは出来なかった。神が定めた摂理に逆らうことは決して出来ないのだ。
「あんたの言い値がどんなに低かったって、生きていく為には受け入れるしかないんだ。それだどれだけ惨めか、あんたに分かるかい」
「プライドを捨てて生きているというのか」
「そんなモノでおまんまは食えないよ。そんなことすらあんたは分からないのかい」
年増は創を睨みつけた。いつの間にか震えは止まっていた。悲しみも苦しみも、惨めささえも受け止めて生きてきた。自分が底辺に生きていることも理解していた。
だがそれでも、生きてきた。どんなに惨めだったとしても、それだけは否定させない。自分一人で、この界隈を生きていくこと。生きてきたこと。
そう、それこそが自分のプライドだ。
「私には私のプライドがあるわ。殺すなら殺せばいい。私は今まで一人で生きてきた。誰にも頼らず、たった一人で。あんたがあんたの都合で私を殺しても、何も変わらない。今よりもっと惨めになればいい」
年増は言葉を叩き付けた。睨み付けるその瞳からは涙が溢れている。殺されることに対する恐怖も理不尽さも脳裏にこびり付いている。だが、それでも絶対に譲れない一線がある。それを譲ることこそが真の意味での死であるとすら思えた。
ガバメントの銃口が、また額に押し当てられる。その瞬間、年増は創の顔に唾を吐きつけた。創は顔色一つ変えず、今度は年増の左太股に銃口を押し付け、そして無言で打ち抜いた。
全身が痙攣するほどの痛みに襲われ、年増は小さな悲鳴を上げた。だがそれでも、年増は創を睨みつけた。こんな惨めな男に負けて堪るかという怒りだけが募る。
「そ、それが、どうしたって、いうの?」
「あの日、お前を抱かなければ、妻が死ぬことはなかった」
「娼婦なんかが、いるから、とでも、言うの?」
創の眼をじっと見詰める。そしてその時になって年増は気付いた。この男はただ悲しいだけなのだと。自分に対する理不尽な扱いに納得は出来ない。だが、この男が受けた仕打ちもまた、理不尽なものだった。そして何処にも行き場のないその狂気にも似た悲しみは、何か犠牲を求めていたのだろう。
本当に馬鹿な男だ。死んだ妻もこれでは浮かばれないだろう。綺麗事に聞こえるだろうが、こんな無意味なことを殺された妻が望んでいるはずがない。誰かの所為にしても何も変わらないのだ。殺された妻は決して生き返らない。
だがそれでも、この男はそうせざるを得なかった。心の中に渦を巻く暗く重く穢い感情の全てを吐き出す為の何かが。何と醜く、何と悪臭く、何と悲しいことだろう。
「……私を、殺したら、他の、娼婦は、赦して、あげて」
覚悟を決めた訳ではない。単純に生き残ることが出来ないと諦めたに過ぎない。自分が人格者だとは思えないし思わないが、結果どうやっても殺されてしまうというのならば、無意味な死に方だけはしたくないと思った。いや、これはどう考えても無意味な死なのだ。それはどうしても変えられないだろう。
だが、それでもその死にどんなに小さくとも、例えこじつけであっても意味を持たせたい。それは人間が望む最期の欲望ではないのだろうか。
元来、死に意味などない。死は明確な人生の終焉であり、意味は生きた軌跡である生き様にこそある。その後にどんなことが起ころうとも、それはあくまで遺された人間の出来事に過ぎないのだ。
そこまで考えたところで、年増はふと気付いた。この創という男もまた、妻の死と遺された自分に意味を求めているのだと。
この男は妻に死なれた後、それからの人生を単純に生きていくことが出来なかったのだろう。死んだ妻には悪いが、彼女の死後、新しい相手を探すこともできただろう。それが正しいとは言わないが、妻の死を誰かの所為にして犯罪を犯すよりも遥かに良かったはずだ。
いや、きっとこの男もそのくらいのことは分かっていたはずだ。それでもこの男が選んだのは妻の死と遺された自分の意味だったのだ。そう考えるとなんて悲しい男なのだろうか。
「……救われないよ、あんたは」
その瞬間、創が額に押し当てていた銃口から、全てに死を齎す弾丸が放たれた。
創は年増の身体を突き飛ばし、老人と口髭の上に重ねた。そして冷たい眼で見詰めている眼鏡の襟首を掴むと強引に立たせ、血に塗れた椅子に座らせ猿轡を外す。
「どうしてこいつを逮捕しなかった」
そして老人の死体を指差しながら、眼鏡を問い詰めた。そう、口髭の前に殺されていた老人こそが、創の妻を撃ち殺した張本人だったのだ。
「刑事は例え殺人犯でも、老人なら逃がすのか」
眼鏡はただじっと創の眼を見詰めている。言葉を発することはなく、ただ只管に創の眼を見詰め続けている。その瞳に宿るのは憐憫か軽蔑か、それはまだ分からない。ただ、眼鏡にはこの創の行為が愚かしく見えているのは確かなことのようだ。
「答えろ、何故だ」
創の脳裏に鮮明に刻まれているのは、血の海の中に横たわる妻の姿。花を飾っていた花瓶の破片が散乱し、鮮血の海の星となっていた。仕事帰りに年増と愉しんだ後、自宅に帰りつき玄関の扉を開けた瞬間、眼に飛び込んできたのがその光景だった。それはあまりにも非現実的なものに思えた。この界隈で生きていて、射殺死体を眼にする機会は少なくはない。だが幸か不幸か、創はそれを見たことがなかった。だからこそ余計に信じられなかった。妻の身体に触れるとまだほんのり温かいのだ。それなのに彼女はぴくりとも動かない。それは出来の悪い人形を見た感覚に似る。
正気を取り戻し、警察に連絡をした。数分後には警官が駆けつけ、妻は救急車で病院に搬送された。一緒に病院に向かったが銃弾は妻の額を貫通し即死しており、蘇生する価値すらなかった。
創はあったことをそのまま、この眼鏡に伝えた。ただ正直、妻の死体を発見しただけで何かを知る訳ではない。だがそれでも、この眼鏡に問われたことには、例え無関係に思える質問にも全て答えた。
数週間後、容疑者として逮捕された六十代前半の老人が護身用として使っていたガバメントの銃弾と、妻を殺した犯人が撃った銃弾とが一致したと告げられる。
創は勿論、老人は極刑に処されると確信していた。だが、老人は二週間ほどの拘置所での生活の後に解放されてしまった。
意味も分からずにこの男を問い詰めたが、その時に眼鏡は「老人のそれは、正当防衛だった」と応えるばかりだった。
「何が正当防衛だ。妻はこの爺に殺されたんだぞ」
「……あんたは、自分の妻がどういう人間だったのか、分かっているのか」
不意に眼鏡が話し始めた。冷たい眼は創の心を射抜くかのようだ。
創にとって妻は、貞淑で家庭なで優しい妻だ。それ以上もそれ以下もない。だが眼鏡の眼はそれが偽りであると告げていた。
「お前、何を知っているんだ」
「あんたが仕事を頑張っている頃、あんたの妻は街角で身体を売っていたんだ」
創の顔が引き攣る。貞淑なあの妻が娼婦をしていた、眼鏡はそう告げたのだ。それは俄かには信じ難いことだった。
「あんたの妻には、あんたが知らないかなりの額の借金があった。それを支払う為にやっていたようだ」
頭の中が真っ白になった。あの自分を愛してくれていた妻が、金の為に身体を売っていたのだ。
「その借金は全部、ドラッグを買う為のモノだ」
自分の前ではそんな素振りを見せたこともない。ドラッグを使っていた形跡すら見えなかった。だが注射の痕がなければアシッドジャンキーではないなどと、そんな馬鹿なことはありえない。今のドラッグは鼻から吸うモノや口から飲むモノまで様々なのだから。
眼鏡はただ淡々と言葉を綴る。その言葉の一つ一つが、創が起こしたこの行為が、全く無意味だったと告げていた。
「その老人は、新聞代の集金をしようと玄関のチャイムを鳴らした。出てきたあんたの妻はトリップの真っ最中で、集金しに来たことを告げると玄関にあった花瓶を掴み襲い掛かってきた。命の危険を感じた老人は、護身用に携帯していた銃を撃ってしまったそうだ」
その銃弾は妻の額を撃ち抜いてしまっていた。死体を目の前にして老人は恐ろしくなってしまい、そのまま逃げ出してしまったのだという。
何という皮肉だろうか。口髭は銃器を販売して生計を立てていた。そして老人はそこで銃を買い、妻を撃ち殺した。だが老人は自己防衛の為に銃を撃っていた。口髭を相手にして無駄とも思える銃器の存在価値の論議をし、結果それを嘲笑いながら殺したというのに、実は口髭の論理は何も間違っていなかったのだ。
そして年増についても同様だ。創は自分に安く買われた年増を娼婦と嘲笑い、そして相応しい無残な死を与えたつもりだった。だが、自分が愛していた妻もまた、身体を売り金を稼いでいたのだ。年増は己という譲れない自負心を穢しながらも必死に生きていた。だが自分の妻はどうだろうか、ドラッグでできた借金を返す為だったというのだ。どちらがまともなのかなど、論ずるだけ無駄だ。
創の心の中に、暗く重く悪臭く穢い何かが募っていく。どれだけ自分が愚かなのか、考えるまでもなかった。自分が殺した人間には何の罪もない。いや、元々この監禁殺人には何一つ意味などない。自分が求めていた、妻の死と遺された自分の意味とは、実は遺された自分がするべき周囲への償いだったのだ。
「あんたがしていることは全て、無意味だ。その老人は事実を全て話した後、泣きながら死刑を望んでいたんだぞ」
創はただ呆然と眼鏡の眼を見詰めていた。己が己として何を成し、何を手に入れるのか。その結果という結論は常に平等で無慈悲だ。だがだからこそ結果結論には意味がある。慈悲を冠した結果結論は、真実を歪めるからだ。そして創は自分と妻に対して、結果結論を歪めてしまった。
もっと早くに気付くべきだった。妻がアシッドジャンキーならば、自分は無意味な復讐心に酔っているのだと。
創はゆっくりと銃口を自分の額に押し当てた。無意味な結果結論には、無意味な死こそが相応しいだろう。自分が自分の都合で成した殺人なのだ。ならば自分の死こそ最も無意味であることが相応しいはずだ。
「死んでどうする。死んだら赦されるとでも思っているのか」
「俺にはもう、何も意味がない」
心は深く沈んでいても、銃口の感覚に体が震えた。老人や口髭や年増も、きっとこう感じたのだと思い、創は苦笑する。
きっと地獄で妻にも会えるだろう。その時には妻を半殺しにしてやろうと不意に思った。そして、これが最も無意味な死なのだと心の中で呟き、創は引き金を引いた。妙に軽い銃声は、頭の中に響いた気がした。
眼鏡はそれを見届け、何かを小さく呟いた。創は自分は無意味だと言った。だが、ここにこうして遺された自分にとってのそれは、とても無意味という一言で済まされるようなモノではない。
そう、この男は間違いを犯し、周囲を巻き込みながら死んだ。殺された老人や口髭、年増にとってのそれは、迷惑以外何物でもない。だが、トリップしていたとはいえ、創の妻を撃ち殺した後に逃げてしまった老人に罪がなかった訳ではない。口髭は銃器の他に裏でドラッグを売っていたという未確認情報がある。年増は時折相手に睡眠薬を飲ませ、財布から金を抜いていたと調べはついている。
正義も悪も一方向からの価値観に過ぎない。無意味に思える創の殺人も自殺も、見方を変えればそれは有意義ですらあるのだ。
ただ、眼鏡はこの全ての出来事のどれが正しかったのか、それだけは分からなかった。創に妻の本性を、彼が事を起こす前に知らせることが出来ていれば、こうはならなかったはずだ。結局、どうやってショックを和らげて伝えるのかを考えている間に、創は行動を起こしてしまった。
つまり、老人や口髭、年増、創の死の責任の一端を、眼鏡は握っていたことになる。
だがそれでも、眼鏡は生きていた。それだけは間違いのない事実であり、そして結果結論だった。自分の生に意味があるのかと問われても答えることは出来ないが、少なくとも生きていることは間違いではないのだ。
窓から注いでいた夕日はビルの谷間に消えた。穢い世界を闇が覆い隠してくれる。ここで起こったカタストロフもきっと、この闇に融けていつか無意味になってしまうのだろうか。
濃い血の悪臭いと闇の中でただ、眼鏡は項垂れていた。
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密室に監禁された数人の人物。彼らを睨みつける男。男が語る言葉、その真実とは。原稿用紙三十枚。