持っている盆の上にコーヒーの入ったマグカップを数個乗せ、赤褐色の髪の男は、隣の友に声を掛けた。
「やりすぎでは無いですか? 城中の策士がこのような体たらくでは、示しがつきませんよ」
「最近の奴らは皆、平和ボケしすぎだ。もう少し来るであろう事態に備えておいた方がいいのでは無いか?」
友人の返答に、クライスは少し肩を竦めた。
「仕方ないのではありませんか。百五十年前の大戦争後、一度たりとも戦争の無かったこのシェスティア・ルーラスカ王国が、いきなり貿易に関して関わりを持っていたスールマリャ・ウェリ国に宣戦布告されたんですから。手馴れた者が居ない為、対応に手間取っているのですよ」
軽く微笑んでから、彼は友人であるケシスの反応が遅い事に気がついた。この癖は昔から変わらないと、クライスは何処か懐かしくなった。
隣で眉を寄せているケシスを片目に映して、微かに息を漏らした後、彼は言う。
「昔から、貴方は国の正式名称を用いた言葉に対して、反応が遅いですね。その癖、早いところ直したほうがいいですよ。重臣会議の時、毎回この様な失態を見せつづける訳にはいかないでしょう。仮にも参謀総長、大将であるんですから」
それはまた、ケシスが今の今まで大将で在り続けていた原因の一つでもあった。現在空席となっている元帥の候補として挙げられているのに、本人はまったくその気が無い。
身近にある国の名前がシェスティであることが原因であろうが、原因が分かったところで最も親しまれている国の名の呼び方を変えることは出来ない。
友人であるクライスとしてはケシスに元帥になってもらいたいと望んでいる。だが、当の本人がそれを受け流している状況だ。
彼が総帥の座を望まない理由を最も理解しているからこそ、仕方ないとクライスは思っているのだが、周りはそうはいかない。
「……おっと、黄金時代の策士らしくない策士が気がつかれたようですよ」
のそりと一つの薄茶の制服が、呻きと共に顔をあげた。すかさずクライスは手持ちの盆からマグカップを一つ手に取り、彼に差し出した。
「お疲れ様です、イリル参謀少将」
前髪があらぬ方向に向いている彼は、言葉に反応したのか、首を傾げた。それから差し出されたカップを両手で受け取る。
受け取ったカップを眠たそうな瞳で見つめ続けてから、一口飲む。満足そうな顔をして一息ついてから、やっと目を覚ましたのか、彼らを振り返った。
「お早う御座います、クライス殿。そしてケシス、お前参謀を全員殺す気か。実はスールの刺客か?」
お早うはまだ早すぎた。今は朝の四時頃である。
「上司を呼び捨てにするな、阿呆。それに私は誠心誠意、国に尽くしてきた身だ。こんなくだらない事で刺客呼ばわりされたくはない」
吐き捨てるように言い放ったケシスは、クライスの盆の上のマグカップを一つ取った。カップの中が真っ黒のブラックコーヒーであることを確認すると、同じく盆の上の袋シュガースティックを二袋取って両方とも破る。そして何の躊躇いも無く、中のシュガーを全部コーヒーの中に入れた。
クライスが先が小さなスプーンになっている、パステルカラーの混ぜ棒を差し出した。小さなスプーンの付いている方でケシスはカップの中身を混ぜた後、口に含む。
「……どう考えても、兵の数が足りない。もしかすれば、徴兵令が出されるかもしれない」
もう一口飲もうと、カップを口元に近づけたイリルの動きが止まる。
そうか、と一言呟いてから、急に立ち上がって扉のノブを乱暴に捻って開ける。何処へ行くのか尋ねたケシスだったが、彼はそれに答えずに出て行った。
「何なんだ……あいつは」
「父親が懐かしくなったのですよ、きっと。父親と言っても義父ですが。ようはアリアヌ殿のところですね。以前は指折りの騎士だったのです。現在は聖職者である以上駆り出されませんが、住人の不満による風当たりのことを考えたのでは?」
イリル殿もやっと青年と言える年齢になったばかりですから。
そう言い残すとクライスは盆を持ったまま立ち去った。まだまだ目覚める様子の無い策士たちを見て、コーヒーは不要と思ったのだろう。どうせ起きる頃には、コーヒーも熱を失っている。ケシスはもう一度、コーヒーを飲んだ。
「……やはりまだ苦い」
意外と甘党な参謀総長は、カップをその場に置いた。
「東の通り……左に曲がってそれからまた左……」
ここ数年、家に帰る機会に恵まれなかったため、自身の家の住所はうろ覚えだった。思わず口から言葉が漏れる。
何とか辿り着いた家は、なんの代わり映えもしない、普通の一軒家だった。焦げ茶色の屋根にベージュの壁。日はまだまだ昇ってないが、あの父親の事だ、起きているだろうと確信していた。
「父さん!」
ベルの一つも鳴らさずに、いきなりドアを開くと、頭めがけて飛んでくるスリッパ二足。避けきれず直撃を喰らい、渇いた音がして、イリルは後ろに倒れかけたが堪える。
ぶつけられたスリッパに貼ってあったメモには、『きちんと履いて上がってくださいね』とだけ書かれていた。
「そういえば、そういう風に躾けられてきたな……」
東国に倣った厳しい教育だった為、イリルは無意識のうちにその記憶を封印していた。父親曰く、イリルが子供の頃はしょっちゅう、こうして自分の都合のいいように記憶の改竄をしていたらしい。
だが、スリッパを顔面に叩きつけられた事によってその呪縛が解かれる。
靴を靴箱にしまい、スリッパを大人しく履く。ぱたぱたと不思議と心地よい音に自然と彼の顔は緩んだ。すぐにドアが見えてきて、イリルはゆっくりと開く。
「何年振りでしょうね? 貴方が騎士達の寄宿舎に移ってから、一度も会っていませんから」
シェスティ国民の平均的なその茶髪と少し珍しい藍の瞳を持つイリルの義父は、見積もって二十代後半から三十代の顔のいい男だった。少なくとも十七の子供を持っているような年齢には見えない。
「……大体、三年ぶりと言った所でしょうか。父さん、お久しぶりです」
ゆっくりとした動作で頭を下げたイリルに、義父のアリアヌは歩み寄った。不慮の事故であまり上がらなくなった右腕をぎりぎりまで上げて、頭を撫でる。
その手の暖かさだけは、いつまでも変わりないと、イリルは思う。
「よろしい。お帰りなさい、イリル。久しぶりの我が家はどうです?」
撫でていた手は既に下ろされ、イリルは顔を上げて周りを見渡す。ああ、あの本棚は手が届かなくて大変だったな、などと物思いにふけりながら、自らの義父を振り返る。
「ええ……やはり、父さんが一番懐かしく思います」
アリアヌは純白のゆったりしたローブ翻して椅子に向かって、そして座る。それから頷いて同意した。
机の上に置かれた紅茶のカップを向かい側に置いた。カップから湯気が出てきては消えを繰り返しているため、中はまだ温かいようだ。
「外は寒かったでしょう? コートも羽織らずに制服を着ただけの状態では、尚更のはずです。お座りなさい」
促されるまま、イリルは黙って席に着く。
反対にアリアヌは立ち上がり、腰までしかない低い棚から淡い琥珀色の箱を取り出した。箱は素朴で、けれども丁寧な装飾から作り手の繊細さを窺える。
開けると、中にはアプリコットにレモン、オレンジピール――実に様々な種類のジャムが並んでいる。アリアヌはその一つを手に取り、中のジャムをスプーンで掬って紅茶の中に落とした。
「……父さん、まだそのような変な飲み方をしておられるのですか?」
「何を言っているのです。近隣のサリア国では、この飲み方は一般的なのですよ。異文化といえど、国の文化をそのように汚らわしく思ってはいけません」
毅然とした態度でつっぱねられると、イリルに反論する余地はない。
納得がいかないイリルも渋々、ジャムを入れていない紅茶を飲んだ。葉がきちんと開いていて美味しい。とても、懐かしかった。
突然帰宅した理由を言い出せずに口篭っていると、見かねたようにアリアヌが口を開く。
「心配しなくても、わたしは大丈夫ですよ。兵として戦地へ赴く事が出来ず、どれだけ非難の目で見られようとも、貴方は味方になってくれるのでしょう?」
「当たり前だ。父親を軽んじる息子なんかになるものか!」
「……わたしは義父、ですから。少しだけ心配になのですよ」
そんなの関係ないだろう、心の中でイリルは憤慨した。義父など関係ない、自分の家族はこの父親一人なのだ。
イリルは自身を捨てた親に対して、何の感情も抱いていない。全身火傷を負うまでに痛めつけられた体は、多少の火傷痕は残したものの、何の障害もなく完治している。
醜い火傷を負い、道端に転がっていた汚い子供。それを面倒だと見捨てず、ここまで不自由なく育て上げてくれた義父に、イリルはとても感謝していた。
「そういえばイリル、帰ってきたクリスナ殿とは仲良くしていますか? 貴方は人受けは良くても、友は少ないほうですから、大事になさい」
「……言われずとも、分かってる。今まで通りに接してるよ」
信頼してくれる人たちは沢山居たが、支えあえる人は居ない。今はクリスナやティスが居るが、幼い頃は一人きりで陰鬱な日々を過ごしていた。
何せ、何処の馬の骨とも知れぬ孤児だ。行動で信用が築けても、個人的に親しくすることには倦厭する者の方が圧倒的に多いだろう。
騎士登用試験の際に、クリスナが声を掛けてくれなければ今も独りきりだったのではないかと思うと、少しぞっとする。ティスが居ても、お互いの立場がある以上、いつかは離れていくしかないのだ。
「信頼なんかじゃなくて、一緒に頑張りあえる人ともっと出会いたかったさ」
信頼される事は、彼にとって重荷に過ぎない。
もしかしたらその信頼に応えられないかもしれない、無理だと突き返せば信頼が崩れてしまうかもしれない。――それが、怖かった。不安になるのは嫌だった。
鬱々とする心を洗おうと、イリルは紅茶を飲んだ。
「今日は家でゆっくりしようかな……」
「そうはいかないと思いますよ」
イリルはその意味を解せなかったが、やがて聞こえてきた声に納得した。
扉をノックする音が数回、のんびりとした口調で名前を呼ぶ声。アリアヌは席を立って玄関へ向かった。
しばらくすると、お馴染みの顔がひょっこり来た。
「イリル……のせいで、ぼくがここまで来る事に、なった……んだからねぇー」
クリスナは、うつら、うつら、と首の上げ下げを繰り返した。眠いのだろう、とイリルは挨拶も早々に席を勧めた。
「イリルの馬鹿ぁ! なんでぼくを置いて行くわけー!」
そう最後に言いのけて、クリスナは机に顔を置いたまま動かない。ゆっくりとした寝息が聞こえ、取り残された二人は寝ているのか、と気付いた。
「父さん、クリスナを連れて城に戻ります。久々にお会い出来て、嬉しかったです」
「ええ。……歯止めが利かなくなる前にどうか、戦争を終わらせてくださいね」
参謀少将に向かって、アリアヌは小さく微笑んだ。小柄な騎士を背負った彼は、軽く会釈して扉を開けて帰っていく。彼の騎士が帰るべき場所は、もうこの家ではないのだ。
微笑みを消して閉じられた扉を一点に見つめた後、アリアヌは小さく呟いた。
「貴方が無事でありますように」
それは何にも惑わされる事の無い、ほんの小さな無垢なる願い。
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騎士と王子、城に勤める者たちが織り成す、願いと思惑の物語。
第一章のⅡ-7です。