「三部(みべ)!! お前、何度言わせるんだよ! こんな仕上げで、やる気あんのか!?」
怒号が響く。
今や殆どがデジタル処理になってしまった、漫画出版という業界にあって、未だに時間が止まった様に原稿の海、短くなった豆鉛筆、角の取れた丸消しゴムが散乱しているデスク。
そのキンキンと鳴る怒鳴り声の背景では、カサカサと作業を進める音だけが流れて、他の声は無い。朗らかな、和気の声も無く、アシスタント達はつらりとした顔で澄まし、空気は少し重い。
その怒鳴り声はキンキンと軽く、人を竦ませる重さや凄味の類は無い。しかし、人を責める様に、ぐちぐちと纏わり付く様な質の恨み事は、確実に横隔膜の裏側辺りに、鉛玉の様な重みを作る。
一見、機械の様に我関せず、と、平静な顔で作業を進めるアシ達も、それが耳に入るたびに、雰囲気が悪くなっていくのを感じていた。
上座の様に位置している、中央の大きいデスクで、そのくたびれた太めの男の説教を聞いている若い青年は、内気そうな顔を、申し訳なさげな風に伏せさせて、小さな肩をより小さくして、粛々とそれに耐えている。
「またかよ、中井さん。今度は何をやったのよ? 三部は」
「背景の仕上げが甘かったんだと」
「毎度ながら辛いよなあ、随分」
捲し立てる怒鳴り声の裏に隠れる様にして、ぼそぼそっと、ある二人のアシが二、三、言葉を交わした。
やがてそっけなく、もういい、と呟いて、中井は一人で、自分の作業に戻ってしまう。
三部は沈んだ面持ちで、わかりやすいくらいにわかりやすく肩をしょげさせ、自分の席に戻って来た。
「あんまり気にするなよ。言われた程、お前の仕事は粗く無い。締め切り前で気が立ってるだけさ」
隣席の先輩に軽く背中をポンと叩かれて、三部は曖昧に笑ってそれに答える。
はにかむ様な笑みになったが、黒縁メガネの奥の眼は、あからさまに気を落としていた。
「中井さん……」
頃合いを見計らったかのように、肩身が狭そうに、申し訳なさげな表情を浮かべたままの三部が作業に戻って一泊した後、一人の男がスっと腰をあげた。
するり、と立ち上がる身体の線は締まって細く、背は長身というわけではないが、やや高めの部類に入る。
ほっそりとしなやかなシルエットで、背中をピンと立てた立ち姿は、正味の身長よりも高く見えた。
「なんだ、七分(しちぶ)」
「後は俺らでやっときますから、中井さんは少し休んでください。寝ないと、持ちませんよ」
「中井“先生”、だ。七分」
七分のすらりとした小さな顔を、中井はデスクに座ったまま、ピシャッと、ねめつける様な視線で射抜く。
「お前、副業やってたよな。スポーツジムのトレーナーだったか?」
「ボクシングジムです。晩飯代くらいしか出ませんが」
中井、というか、この仕事場のスタッフにとっては周知の事をわざわざ言わせてから、中井はフッと鼻で笑う。
「俺は漫画一本だからな。机に座って絵を描くだけの力があれば、それでいい。睡眠時間なんて、二日に三時間で十分だ」
椅子に浅く腰かけ、胸を反らせるように七分を見遣る。
最近、ますます腹が出て来た。
今の連載が始まってから、一層肥えて来たビール腹が、でぷっと、より前に押し出される。
「お前もこの業界で成功したいなら、いい加減、漫画一本に絞らないと覚束ないぞ。だからいつまで経っても連載を持てないんだよ。片手間でこなせるほど、この世界は甘くない」
「…………」
「何だよ、中井さんのあの言い方。自分だってハイドアが初めての連載のくせに。しかも原作付きで、作画だけ」
「まあ、あの人はああいう人だしな」
午前は、一時を回っていた。嵐の様な昼間の修羅場をどうにか越し、大方の仕事が終わって、中井が奥の部屋に引いた後、アシスタントは最後の点検を終えて漸く、帰り支度を済ませた所だった。
「自分の立場が強くなると、風を吹かせたがる所があるからな。悪い癖だぜ、ありゃ」
仕事が嵩むと焦りや苛立ちが増し、その分、軋轢と不満が増えるのは、どんな職場でも一緒だろう。
仕事上がりの、鬼の居ぬ間に――――――中井は鬼という性質ではないが――――――不満を愚痴るスタッフが居るというのも別段、漫画製作に限った場面では無く、何処にでもある光景だろうか。
「締め切り近くで機嫌が悪くなるのは、漫画家の常だろ。別に中井さんが特にってわけでもねえ。後は俺が片しとくから、お前らはホレ、もう帰れ」
七分がパッパ、と左手を振り、屯う彼らに、さっさと帰る様に促す。
お疲れさんです、と、くたびれた覇気の無い返事を口々に言いながら、三人の若者は玄関を出て行った。
「…………」
「ん?」
ガチャン、と、マンションの玄関扉独特の重い音が響いて、見送った七分がさて、と、振り返った――――――そこに、未だ一人、残っていた。
「おう、お前も愚痴かい?」
黒縁のメガネが隠す目元を、長い前髪でさらに隠している、その小柄な小柄な青年に、七分は片頬だけで笑みを作る。
笑う時に、切れ長の目尻が細くなる、それがこの七分という男の癖。
そしてこういう顔をする時は大抵、何かを待っている時だ。例えば――――――目下の者のリアクション、とか。
三部は、普段から俯き加減の目をさらに伏し目がちにして、黙る。
この、いつも自信なさげな青年が、何か言いたい事がある時は、いつも少ない口数をさらに減らして、押し黙る。そうして静まり返る癖に、小さな肩をさらに申し訳なさげに丸める様にして、すぐ近くに、いつのまにか立っているのである。
「……七分さん」
七分の笑みは、つまりはそういう事。
何か言いたげな後輩の言葉を、いつもの顔で待っていると、やがて一拍の沈黙の後、おもむろに彼は口を開いた。
「なんで――――――なんで蒼樹紅、なんですか?」
鈴の鳴る様な、というのか。全く男らしさの無い、線の細い声。
「おかしいっすよ……他にも原作書ける、今フリーの作家さんは何人も居るじゃないですか。もっと実績あるベテランの先生で」
眉間に皺が寄っている。顔をしかめながら、ふわりとした細い声で、言い難い、肺の奥に沈殿した言葉を毟り剥がす様にして、三部は言葉を続ける。
「これじゃあ中井さん、完全に蒼樹紅に連載経験を積ませるためのアテ馬じゃないっすか。やっとこさ取った連載で、事実上ラストチャンスみたいなもんなのに、作画担当のみで、しかも明らかに今回捨て前提の、長期連載の見込み薄な新人のついで、みたいな……これじゃ、あんまりっすよ」
声は高いが、語り口調は地を這う様な、ぼそぼそと沈んだ印象を受ける。
一度、言葉が続くと、徐々に徐々に、ではあるが、ぞろぞろと続く。
「そもそも、最近の新人の新連載ラッシュ、納得いかないっすよ。亜城木とか、福田とか……新人ブームかなんか知らないっすけど。若輩の自分が偉そうに評価付けるのはアレっすけど……疑探偵は滑稽なくらい、わざとらしく小物や馬鹿に仕立てた犯人役や驚き役を主人公側が見下しまくってるだけの漫画だし、キヨシはモロ、特攻の拓のパクリじゃないっすか。まだ若い連中の、あんな未完成なのを連載させるくらいなら、内瑞さんとか、武居先生とか……いっぱいいるでしょ。まあ、あの人たちは絵が描ける人ですから、中井さんの出番無くなっちゃいますけど。でも、それだったらそれこそ、七分さんが連載持った方がよっぽど……」
唇を余り動かさずに、モゴモゴと口の中で言葉を発するから、彼の言葉は、普段から彼と喋り慣れている人間でないと聞き取りにくい。
尤も、深夜のマンションの一室、面と向かって話している状態で、彼と一緒に仕事をしている七分が聞き逃す事は無かったが。
「……七分さん、正味の所、どうなんスか? ハイドア、続くんですか?」
「…………」
問われた七分は無言のまま、ゆらりと椅子に腰かけた。
キイ、と、スプリングが軋み、擦れる様な音を出す。
「難しいだろうな」
ペラリ、と、机の上に纏められていた、ペン入れまで仕上がり終わった原稿の一枚を取り上げ、七分はおもむろに呟く
「俺は、こういう作品は結構好きだ。個性的で。蒼樹紅独特の世界観……っていうのかな。そういうのは感じる。だが、読者を顧客と考えた場合、ハイドアは世間が何を観たいかっていうのを決定的に理解していない」
しげしげと、原稿を見つめていた。
ファンタジックな背景、葉っぱの葉脈まで書き込まれた繊細な世界の中で、幻想的な果樹の園に囲まれて、美しい実を両掌に抱きながら、自らに語りかけるピクシーと、澄んだ瞳をした少年が言葉を紡いでいた。
「児童文学見てるみたいなんだよ。宮沢賢治みたいなさ。絵本にしたら妊婦さんは読むかもしらんが、ジャンプを買うチビッコは読まない。読者を食い付かせるためだったら、こういうフワフワした感性的なテーマを描くより、解り易いコメディやバトルが定番だと思うし、何より中井さんの絵柄なら、もっと女の子を使って萌えやエロで押していくべきだと思う。今の時代に、可愛いビジュアルの女の子が描けるか描けないかってのはでけーポイントだしよ」
足を組み直し肘をついて、頬骨のあたりを掌の上に乗せる。
三部は、立ったまま七分の目線を追って行った。
「…………」
「三部、お前今年でいくつになる?」
やがて、スッと、原稿からそっと手を離す。
原稿は滑る様に、デスクの上を滑空して、音も無く着地した。
「二十三になります」
「……俺が今年で、二十五だ。この業界で俺の年齢は、連載未経験者としては決して若くはねェ。新妻エイジの成功で、若手ブーム……ジャンプ作家の平均年齢層をどんどん下げて、それをブランドにしようと編集部が画策してる今の時勢は、俺みたいのにとっては逆風だな。確かに、現時点での実力は二の次、それよりも年齢……みたいなのが看過される風潮にはなってるかもしれん。ようは、高校生作家、とか、天才少年、とか、そういうのを作りたいんだわな」
「…………」
「中井さんの歳、知ってるか?」
切れ目の、流し目。三部の言葉は無い。
「三十五歳だ。この歳まで、連載を持たせて貰えないばかりか、読み切りすらロクに掲載させて貰えなかった。それでも粘ってここまで来た。この世界に居続けた……それがどういう事か、お前もわかるだろう?」
「…………」
「ハイドアは、徹頭徹尾、期待の女大生作家・蒼樹紅をプッシュする為のマンガさ。中井さんは添え物のらっきょうでしかない。ハッキリ言って、中井さんの事ナメてるよ、編集部は。中井さんは何にも期待されちゃいない」
「…………」
「それでも」
三部は、黙ったまま。七分の声だけが、静かな室内で流れて行く。
「十九で上京してから、十六年だ。十六年、泣かず飛ばずで粘って来た男が、それでも良いと言ったんだ。なら、俺達は何も言えねえよ」
「…………」
「たとえペーペーのらっきょうでも、見込みが無くても、期待されて無くても……それしかないなら、それでやるしかねえのさ」
「――――――誰だ、七分か?」
誰かが、扉を開けたのがわかった。普段の仕事場の、さらに一つ、奥にある。中井の個人的な書斎。
朝、七時。点けっぱなしの電気で部屋に籠り、黙々と作業を続ける、朝も夜も無い漫画描きにとっては、実感を伴って迎える事は、あまり無い。
窓の外は白んでいた事が、またしても覚醒したまま夜を越した事を伝えてくれる。
「三部?」
返事がない。適当に、思い当たる者の名が口を突いて出た。
そう、広くは無い。壁を覆う様に立てらている、資料の詰まった本棚と、その奥にこじんまりと設置された仕事机が、その六畳間の“狭い”という印象を、より強く、扉を潜った者に与える。
「今日は随分、出仕が早いんだな」
そこに座る中井は振り向かない。背中を向けたまま、名前だけを呼ぶ。
返事は、返ってこない。
「……昨日は、悪かった」
点けっぱなしになった部屋の電気、さらに机の上のスタンド電気が、より手元を明るくしている。
引かれたカーテンの隙間から刺し込んで来る陽の光りは、それに紛れてしまって、朝日の柔らかさなどは感じられない。
「なあ」
机の上の原稿、狭しとばかりに広げられた作業道具。その端っこ、机の空いたスペースの一角には、空の栄養ドリンクの空瓶が無雑作に固めて置かれ、あるものは散乱したようなキャップごみの間を転がっていた。
「七分が昔、プロのボクサーだったって話、聞いたことあるか?」
「……」
「五戦して、一勝しかできなかったらしいけど」
中井は、一度も振り返らない。返事を待つ事も無く、言葉を吐くだけ。
後ろ姿から垣間見える、肘と肩のあたりが休みなく動くのが、作業を続けているい事を伝えていた。
「幕ノ内一歩になりたかったんだと」
「……」
「漫画の中の主人公に憧れた。そして、TVの中で活躍する実在の選手に憧れた。自分も、将来はあんなふうになれるもんだと思ってた。大してでかくもない、町道場みたいなジムで、小さな拳に不格好なグローブをはめてサンドバッグを打ってた小学生の時、いつかは凄い大人になれると、信じて疑わなかった。でも、実際はそんなもんだったって。俺は一歩みたいなダイナマイトパンチは持ってなかった。ただ、素人よりちょっとフォームが綺麗なだけの、普通のボクサーだったって。学校の運動会で、二位とか三位とか中途半端な順位だったガキの頃から、そんなに変わり映えもしなかったって、あいつは言ってた」
「……」
「なあ」
「……」
「それでも俺は――――――それを聞いた時に、すげえ、って思ったんだ」
「……」
「それまで、しんどい事ばかりだっただろう。報われない事ばかりだっただろう。アマから積み重ねてきた勝ち試合、負け試合、決着が着く瞬間まで、血ヘド吐くくらいしんどい思いしながら、両腕を構えて戦ってきたんだろう。その為に、遊びもせず練習して、何年もさ。同期の奴らが早々に辞め、あるいは出世して行く中で、自分ばかりがいつまでも足踏みしてうだつが上がらねえ。悔しかったろう。先への不安もあったろうさ」
「……」
「そして何度も、自分の器の底を思い知らされた筈」
「……」
「それでも諦めずに粘って、そして、昔、憧れた夢の舞台で、確かに勝ったんだ」
「……」
「同じ事を出来る奴が、はたして何人いるんだ?」
人工的な灯りが、部屋を明るく満たしている。
中井の言葉は、ただ無機質な壁紙で跳ね返り、ただよって、消える。消える頃に、また次の言葉を紡ぐ。
まるで、ひとり言のように。
「鳥山昌になりたかったんだ」
シャッ、と、Gペンを勢い良く引く、小気味の良い音が走った。
「俺はさ」
「……」
「運動会でビリより上になった事がない」
「……」
「成績も、同じ。いっつも下から数えた方が早かった」
主役になった事なんて、一度も無い。
そう呟いた冴えない声は、直線で出来た機械的な部屋に一度、広がり、やがて単なる空気の振動となって消える。
「亜城木夢叶の高木君は、きっといっつも一位だったんだろうね」
「……」
「そんな俺でも――――――ひとつだけ、人並み以上に出来ることがあった。絵を描くことさ」
「……」
「それだけが、俺の好きなことだった。いや……それを、好きにならざるを得なかったんだな。俺は、それしかできないから」
「……」
「自由帳にアラレちゃんの落書き描いてよ、隣の席の女の子が、上手いって言ってくれたのさ。それだけだった。たったそれだけをプライドにして、俺はこれで生きていきたいと思ったんだ」
ペン先が、止まることはない。
ただ、線を引き続ける。
――――――愚直とすら、思えるほどの素直さで。
「けどよ、三部。俺は鳥山先生じゃなかったよ」
「……」
「新妻エイジを見たとき、わかったよ。ギフトってヤツは、あるんだと。彼は、俺が思い描いていた、子供の頃に想像した凄い自分、それそのものだったんだ」
「……」
「俺はあんなふうに、活き活きと縦横無尽にキャラクターを駆け回らせる事が出来ない。含む情報は最小限に絞り、それでいて特徴は最大限に活かすような、あんな鮮烈なデフォルメの絵は、俺には描けない。俺に配られたカードは、パースを正確に取る事と、線を小奇麗に纏める事くらいだった」
あの深夜の仕事場で、三部の口から出た愚痴は、中井を咎める言葉ではなかった。七分も、中井を非難することはなかった。
中井は、人望のあるタイプではない。性格的にも悪人ではないが公明正大というわけでもなく、いまひとつ弱気な事なかれ主義で、それでいて目下の者には強く当たり、自分が有利な事では必要以上にそれを誇る癖がある。取り立てて派手で人を惹きつけるような才能も無く、さりとて実績があるわけでもなく、決して慕われる類の人格ではなかった。
それでも、七分や三部が彼を非難しないのは――――――彼が、こと漫画に関しては、並みならぬ想いを寄せて生きてきた人間であったことを知っていたからだ。
十九歳で上京して、この世界に飛び込んでから、彼はペンを手放すことなく生きてきた。殆ど、一日たりとも。
歴史に名前が残るような、凄い作家になる事を想像して、やがて、想像とは大きく隔たる現実の前に挫折を何度も繰り返し、ある時、結局、自分に許された才能は、凡人の範囲を超えるものではない、乏しいものであると知った。
それでもなお、彼はペンを握りつづけた。
いつしか漫画作りからも遠ざかり、「夢を諦めた枯れたオッサン」と呼ばれて、自分より幾つも若い作家のアシスタントをやりながらも、彼はこの世界に居座り続けた。
燻り、干されて、全然思った通りにならなくて、誰にも期待されなくなっても、彼は描いた。
粘って、粘って、粘って…………半ばうんざりしながら。それでも、ペンに縋りながら。
十六年。
並みではない。軽くはなかった。
「ずっとずっと……ガキの頃から続けて来て、ついに俺には、何もなかったよ」
歳を取った背中。背中には贅肉が付き、だぶついている。
ずっと、机にしがみついてきた。今まで、それしかなかった。
「得たものは、何もなかった」
「……」
「そんな俺の十六年に――――――意味をくれた人がいた」
「……」
「蒼樹紅さ」
少し、少しだけ――――――その声音に、色が付いた。
「ガキの頃から数えりゃ、俺が絵に懸けてきたのは人生の大半だ。今さら、他の生き方はできない。パッとしなくても、ボロボロに擦り切れて色褪せていても、何の栄光も無くても。なけなしの才能から育ててきた、それに縋るしかないんだ。どれほどに空虚でも、俺が俺であるために」
「……」
「プライドもステータスもねえ。自作のネームは、もはや、まともに見てすら貰えねえ、夢も希望も、なんもねえ。カラッポの所に、ぽんと入って来てくれた」
「……」
「蒼樹さんは、俺なんかよりも遥かに多くの手札を持ってる。容姿からして、俺とは格が違うよな。大学在学のうちに連載、才気あふれる新鋭、俺とはまるで違う。彼女は何にでもなれる」
『Hideout door』は、蒼樹紅の意向を最優先にして描く事――――――編集部から、そう言われた。
ハイドアは、新妻エイジから始まった、『若き英才』という冠を付ける新人ラッシュブームの走りで発進された連載の一つだ。
十代の俊才・亜城木、若手期待の星・福田。漫画デビュー数カ月の鬼才・平丸……蒼樹紅も同じように、女流作家・現役大学生の冠を戴かせて送り出した。
そして編集部は、これらの新連載群を、そのまま看板作品にする――――――などとは思ってはいない。
ブームの形成、その中で特にセンスと将来性の見込まれる新人に、一定の経験とスタンスを形成させたい……新鋭作家である蒼樹紅を育てるため、週刊連載の経験と、連載作家という箔を経歴に付けること、という意味合いを含んだ連載。つまりは、次回、次々回を目線に据えて組まれたもの。
徹頭徹尾、蒼樹紅の為の漫画だ。それが編集部の意向。中井に勝負させる為の連載ではない。たまたま、現時点では蒼樹は画力に不安があり、たまたま中井の身体が空いていたから、合わせ馬に使われただけのこと。打ち切りになったとしても、無様には終わらせず、次に繋げられるようにという、蒼樹の為の配慮だ。
中井の良さを活かそうとか、そんな事は考えられていない。許されてもいない。
それが、彼が十六年越しに掴んだ、初連載。そして恐らく、よほどの事がない限り、彼に次は無いだろう。
「でも、俺はそれでいい」
シャッシャッ、と、緩やかだったペンの動きが、軽やかになった気がした。
へろへろなタッチのネームに、息吹を吹き込んでゆくペン先。
既成の線を基本に構築するだけ、決して独創的でも、元あった型を破るようなものでもない。
しかしそれは実に繊細に、巧みに線の強弱太細を組み替えながら、原稿の上の世界の、厚みと色彩を、たった一色のインクから、鮮やかに深くしてゆく。
「蒼樹さんにとっちゃ、ハイドアはこれから待ってる輝かしい経歴の中の、たった一つでしかない。でも、俺にとっちゃ、十六年でたった一枚だけ配られた、神様のカードなんだ」
「……」
「だから、俺はそれだけでいい」
没頭していく。紙の中へと。
他人の想像した世界に、ペンを入れる。何年も何年も、中井が繰り返してきた作業。
名作、と呼ばれる漫画にもペンを入れてきた、中井の指先。その中で、中井の名が残った事は、一度もない。一度だって、無い。
報われぬ作業を――――――淡々と繰り返してきた。今の中井の指先は、そのどれよりも雄弁であり。
「金も女も名声も、今さら、贅沢言わねえさ。中井は、唯のオッサンだ。少し絵が上手いだけの。ただ、それだけでいい」
「……」
「意味をくれた。俺に原作を任せてくれた。俺を“漫画家”にしてくれた。だから俺は、それだけでいい」
「……」
「見込みが無いなど、ステップ作だの、そんなことは言わせねえ。ハイドアを、一週間でも長く続ける。俺はそれに懸けてるんだ。これが、最後だとしても」
「……」
「俺の十六年の意味は、ただそれだけの為でいい」
「……」
「俺の人生は、蒼樹さんの為だけのものでいい」
中井が、じっくりと描き込んだ、原稿の中の少年の瞳。
非効率的、そう思える程、瞳ひとつに向かって、しつこいくらいに集中して仕上げた――――――
少年の眼は、鮮やかだった。
「……中井さん」
「――――――!?」
「私、三部という名前ではありませんから。ネーム、上がったので置いていきます」
初めて返ってきた、返事。甘く、流れるような、清澄な声。
中井がすっかり思い込み、想定していた相手の声とは明らかに違う、その美しい女の声は、原稿に没頭していた中井を、一気に現実へと引き戻した。
「……その、人生とか、蒼樹さんのものでいいとか――――――……そういう恥ずかしいセリフ、よく、本人の前で言えますよね」
「いや…………」
ばッと頭を上げて、だぶついた背筋をピンと張り、しかし振り返らない。不動で、まんまるに開いた目を、あらぬところに向けている。
三十過ぎのくたびれたおっさんが、二十歳のうら若い娘の前で、言葉に詰まってそんな風になる姿は、非常に滑稽だ。今まで、赤裸々な自分語りを延々やっていただけに、その滑稽さは倍増している。
尤も、恰好付けても滑稽なのが、中井という男なのだが。
「天才じゃなくても」
「…………」
「私は、貴方の事を信じていますから。これからも、長く一緒に居たい……」
「――――――!」
ガタン! と、弾かれたように、立ち上がる。
肉が揺れた。
「仕事のパートナーとして」
がくん、と肩を落とす。
そのままゆっくりと座ろうとするが、さっき勢いよく立ち上がったときに跳ね飛ばした椅子があらぬ方へ行っており、何もない空間に腰掛け、そのまま、コケた。
ぶよっとはずみ、転がる。丸過ぎた。
「ハイドア、今よりも人気が出るように、頑張りますから。長く続ける為には、中井さんの力が必要です。これからもよろしくお願いします」
(長く一緒に居たい……って、そういう意味ね……)
コミックショーを一人で演じる中井の頭上から降ってくる、美しい声は、いつもと変わらぬ均一の旋律。
「…………ですから、お身体は大事にしてください。眠ってないの、わかります。栄養ドリンクよりも、睡眠の方が効きますから」
少し黙ってから、ぽつりと呟いた。
一泊してから、はた、と、中井が何かに気づく。
「……それでは、失礼します。また、次回の打ち合わせで」
中井はゆっくりと振り返るが、彼女は急ぐように言葉を落として、あとは、扉を閉める際で、棚引くショートカットがちらりと見えただけだった。
――――――労いの言葉とは、珍しい……
後には、良い香りだけが残った。
――――――ある日の、ジャンプの赤色刷り二色カラーページにて、インタビュー特集が組まれた。
期待の新人・若手に注目するというテーマで、その中で特に若い、中学生の時点で持ち込みし、高校生の時に掲載された話題の二人組新鋭作家が、こんな事を言っていた。
――――――男に生まれたなら、何かをやってみたい。燻って、ダラダラと何の変哲もないリーマンになる。そういう人生は嫌だったんです――――――
プロ野球選手になりたい。そう思ったかつての小学生は、一体何人いるのだろう。
プロサッカー選手になりたい。そう思ったかつての少年は、一体どれだけいるのだろう。
いつかきっと、自分は凄い大人になれる。そう思わなかった子供は、恐らくは一人もいない。
輝かしい未来を、栄光の未来を想像しなかった人は、恐らく一人だって居やしない。
なりたかった大人に、なれなかった人たち。
彼らは、努力をしなかったのか? きっと、そうじゃない。
努力は報われるとは限らない。そして例え報われなかったとしても――――――人は、生きていかなければならない。
運動会で一位になれず、サッカー選手の道を諦めた少年。
リトルから高校生まで目一杯やって、ついにドラフトにも実業団にも引っ掛からなかった青年。
プロテスト合格まで漕ぎつけ、結局は通用せずにグローブを壁に掛けた男。
妻と子供を養うため、野望を捨て、“先生”と呼ばれる夢を捨て、堅実に、自分の出来る範囲で仕事を行うように切り替えたプロアシ。
どれに転んだとしても、いっぱいの傷と折り目の付いたプライドを抱えて、人は大人になってゆく。のめり込んだ程、傷は重い。熱心に、一筋に生きた人間程、抱えねばならぬ痛みは深い。
自分の子供に小遣いで、ジャンプを買ってやるために、滴る汗をハンカチで拭いながら、カッチリ締めたネクタイとYシャツを少しも緩めず、陽の照り返すアスファルトを皮靴で鳴らす日々を選んだお父さんは。
きっとそれぞれの、情熱を燃やした青春があり、それに破れた痛みがあり、それを腹の奥の奥に抱えて、今日も営業を取る為に、足を棒にして働く。
折れた誇りを抱えて、潰した時間の浪費を債務に背負って、それでも今日を生きるのだ。
キズモノの夢を腹の中に抱え込んで、それでも現実から目を逸らさずに生きる事。
――――――それは、ちっともカッコ悪い事なんかじゃ無い。
中井巧朗、崖っぷちの作画屋。
彼は今日も漫画を描く。
傷だらけのプライドと、ツギハギの夢で、彼は今日も漫画を描く。
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そろそろ見習い卒業しようかぁ~ってコトでひとつ。
しかし、なんだってバクマンなんだろう? 自分でもようわからん……
いいじゃねえか、中井さん好きなんだよ。