No.179923

一乗寺~ドキッ☆男だらけの下がり松の決闘~

どうも、こんにちはっす。
今回のお話は戦闘シーンの練習&拙作の裏設定のために書いたものなのですが、どうせ書いたんだから見習い卒業のためにも載せてしまおうと思い、投稿しました。
実はななわりって恋愛モノ苦手なんだ……
あまりストーリーには拘らず、歴史上のある有名な決闘を簡単にワンシーンにまとめたものなのですが、見ていただけたら幸いです。
需要は知らない。男の名が、最後まで明かされないのは仕様。まあ隠しても隠れないのですが……

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2010-10-23 17:05:57 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:1279   閲覧ユーザー数:1231

 

――――――世間は哂うだろうか?

百人がかりで、たった一人の男に敗れた事に。

囲い、組付き、袋叩きにしてしまえば造作も無かっただろうにと――――――

あるいはそんな話、面白おかしく粉飾して脚色した作り話に過ぎぬと、端から相手にせずに笑い飛ばすだろうか。

 

――――――ああ。

どうぞ、笑ってくれ、哂って、嗤って、笑ってくれ。

お好きなように、語るがよろしい。血と肉感の伴わぬ思い込みで。

 

――――――そうやって傍観者であれば。

いや、いっそ。

剣など振った事もない一介の書生かあきんどであれば、どれほどに気楽で――――――

どれほどに救われたか知れない。

 

扶桑一の剣の名門、吉岡道場が随一の遣い手、清十郎・伝七郎兄弟を連破す。

瞬く間にして京を巡ったその報せに、洛中の市井が上げた仰天と驚嘆は、そのまま裏返しに、吉岡衆の慟哭と憎悪であった。

熱り立った吉岡衆は、千を数える門人一同の中から精鋭百人が出で立ち、御兄弟を立て続けに破ったその男に戦いを挑む。

 

――――――卑怯だと思うか?

そう思うなら、それはその男の姿を、武を、直に見た事のない男だろう。傍観者の理論だ。

あの男の立ち合いの、その場の空気のひとかけらでも肺臓に吸っていたならば、よもや思うまい。

室町足利が兵法指南、吉岡直元より数えて四世、御一門百年の歴史の中で最も天稟に恵まれた“憲法”、吉岡清十郎。兄にこそ剣才は一歩譲るが、性情激しく、膂力は並外れて絶大、大木刀を小枝が如く操る剛剣の遣い手、伝七郎。

それが、瞬く間に敗れた。

一門の誇りが、否、日ノ本を見渡して、確実に十指の内の一つには入るであろう稀有の達人が、高弟たちの見守るど真ん中で敗れたのだ。

いや――――――門人たちにとっては、まさに清十郎と伝七郎こそが、天下一の兵法者であると目していた者たちも少なくないであろう。その衝撃は、如何ばかりであったか。

直接手を合わせた者は知っている。吉岡兄弟が如何に強いかを。その剣は、まるで雲の上の存在であるかのように、他者とは一線を画していた器量であった事を、吉岡の門人は知っている。

彼らにとっての強さの権化であった吉岡最強の双剣を破った、その男の振るう剣は、さながら魔人の剣であったように見えただろう。

それに挑もうと言うのだ。“強い”という事が、どういう事であるかを身を持って知っている彼らが、その強さの象徴を踏み砕いた男の剣に。

逆立ちしても敵わぬ剣を、さらに超える剣に、同じ剣と言う土俵で挑もうというのだ。

余程の勇気をもってしなければ、奮い立つなどかなうまい。

 

 

 

「――――――かかれッ、かかれェい!!」

 

不可思議な、光景だった。

修羅場には間違いない。足を踏み込むと昨夜の通り雨でぬかるんだ地面が弾け、同門の下に剣を磨き合った輩が倒れて行く。泥色と血の色の、二つの飛沫が入り混じり、下がり松を曇らし、濁した。

その惨劇の中心は、たった一人の男。

 

――――――不可思議であろう?

朝露の残る冷気の中、すでに死闘は始まっていた。

吉岡の剣を学んだ猛者どもが、決して凡百にはあらざる一廉の武人達が、たった一人の男に斬られていく。まるで赤子の手を捻るが如く簡単に、操り人形の糸を断つが如く鮮やかに、ばたばたと倒れて行く。

不可思議でなくて、なんだと言うのだ。

男は、静かだった。

一瞬の交錯は鋭く、激しく。目一杯の気炎をぶち揚げ、一身是太刀として、全身全霊を賭して斬りかかる。

だが剣撃の響きは聞こえず、裂帛の気合がぶつりと途切れて、屍が積み上がるのみ。

叫喚を血煙をぶちまけて作り出す、この男が一番、静かな目をしていた。

琥珀色の眼。熱闘の殺伐の中心で、湖面の様に涼やか。

太刀運びは、流れるが如く。それが、吉岡門下の魂魄を懸けた一ノ太刀を一合と掠らず、一瞬にして急所を貫いていく。

遠目にあっては禅を念じて剣舞を奉ずるが如く。

近寄れば、まさに絶人。触れる事すら能わず、強者は事切れて、泥に伏すのみ。

――――――不可思議、そして、不気味。

ただ、死の匂いだけを奔放にぶちまけていた。

 

 

 

戦い続けて、何刻経ったか。男の様子が変わってきた。

怜悧そのものであった太刀運びに、次第に熱が帯びた様になって行き、それに伴って身体のこなし、捌きに、弾むものが混じってくる。

見れば、すでに男が両手に抱く双剣は、二振りとも鎬から柄まで血糊と脂でべったりだった。

今まで明鏡止水、相手の動きに全く呼応するようにして、美しい後の先に徹していた男が、自ら斬り込んで行く様な躍動感を見せる。

また、一人の男を斬った。

ハッ、と、一息、大きな息の塊を吐いたのがわかった。

その足運びは、それまでの無駄を一切省いたような捌き方では無く、一足に跳躍するような――――――身軽ではあるが幾分、無駄の多く含まれた、勢いを利用する様な類のものであった。

 

疲れているのか?

 

男を包囲する、太刀を携えた男たちが一度遠巻きに男を観察すれば、その額から、汗を流しているのがわかる。

そうなのだ。

この豪傑もまた――――――我々と変わらない、人間だったのだ。

もはや、この男が斬った人数は、十や二十では訊かないだろう。それほどの猛者の群れを斬り進み、屍を足場にして、鋼の刀をべっとりと血で濡らしたのだ。

数の暴力と言う、兵法の理を逆行する絶人が如き武技を持つ男もまた、疲労と体力という概念を持ち合わせているのだ。

為す術もなく斬られたように見えた、既に何十を超えたであろう吉岡の剣人が、それを生き残った同胞に気付かせた。

それを見切ると、ふ、と、鼻から息を深く付いた。吉岡衆は構え直し、じっと男の様子を見遣る。気付いた敵の疲労であるが、それを突いて嵩にかかって攻めようとはしない。不気味に、息を落ちつけて、逆立った眼で男の様子をうかがっている。

腹が据わったのだ。

勢いに任せ、やぶれかぶれに攻めていった先程とは違う。牙城の綻びを見つけた事によって、自ら一人一人がこの男への刺客である事を、再び認識し直したのだ。

 

じっ、と、静寂――――――しかし、先程の阿鼻叫喚より遥かに張り詰めた緊張感が、その場に舞い降りた。

 

 

先に動いたのは、男であった。

獣の様な疾さで一足を一息に飛び込み、一瞬で眼の前の一人を突き殺す。眼にも止まらなかった。

反応すら覚束ぬ――――――だが、また一人の仲間が斬られたことによって、吉岡勢に感情が波立つ事は無かった。

胸を一息に貫かれた男は携えていた太刀をパッと放すと、両の手でがしりと突き立った小太刀の刃を鷲掴みにした。

既に胸からは溢れ、掌からも血がどろりと出る。だが構わず、男は手をさらに握り締め、ぐいと太刀を引きこみ、自らの肉に刃を食いこませた。

そこを狙い、仲間が自らに斬りかかる構えを見せて、男は力任せに左の小太刀を引き抜かんとした。

身体が、弾かれたように勢い余って後ろにずれる。しかし、左の掌の中は空だった。

血脂で柄がずるりと滑った得物は、名も知らぬ吉岡の兵の身体に残ったまま。そいつは男から得物を奪った事を見届けると、うつ伏せに倒れ伏していった。

吉岡の兵はそれに構わず、態勢を崩した男に殺到する。

機を見定めた一団の殺気に男は猫の如く反応し、即座に背後の敵に対して太刀を振るう。

翻った男の一閃に一人は両腕を断たれた。そのまま横に滑るように逃げていく男を、包囲を狭めた他の兵は捕らえきれない。

だが、その剣林の中、ついに一つの切っ先が、男の肩口を捉える。

味方の一斉の掛かりに、一挙動遅れて――――――否、あえて一歩遅れさせ、一つ目の機を取り逃がした時に備えていた一人の剣士が、二つ目の機を掠める様に捉えたのだ。

身体を逃がす、無防備になる一瞬を引っかける様に迎え打ち――――――されど二の太刀は届かず、振り切った太刀を斬り返す間に、即座に反転した男に喉笛を斬り裂かれた。

男は囲みを抜け、振り返って態勢を立て直す。吉岡はそれを見て、また見合うように構え直し、隙を窺った。

得物の一本、そして、肩口の出血。

剣士の集まり、個で動いていた吉岡が一群となり、一個の軍として、一体として、一人の男を標的に、徐々に、徐々に、削る様に態勢を崩しにかかる。

 

 

男の様子が変わったと同時に、吉岡も又、様子が違って来た。

大勢で一人を目指して斬りかかるのは変わらない、が――――――それまでの吉岡勢は、あくまでこれを男と自分の戦いだと認識していた。

つい一対一の試合と同じように戦ってしまったのは、剣士としての習性であろう。だが、自分一人の物として計っていた男との間合いを、吉岡全体の物として計るように変って来た。

つまり、自らを吉岡という全体の一部――――――剣士では無く、兵として自己を認識するようになっていったのだ。

つまりこれは男と自分の戦いではなく、男と吉岡の戦いである事――――――そのように戦いを捉え始めた。

 

ある一人が、覆い被さるように男に組み付く。男は引き倒される前に、身体を震わせるように乱暴に振り払って引き剥がすが、その隙に別の敵から、太腿に浅い傷を負う。追撃を浴びせるべく、そのまま身体ごと突進して来た敵を即座に斬り伏せ、脱兎のごとく脚を使って逃げるが、すぐにまた、二人の敵。

ズルっと、男がぬかるみに足を掬われ、片膝をついた。ここぞと殺到する敵を身を転ばせて躱し、身体を泥まみれにしながら逃げる。

すでに、斬られた味方は数知れず――――――だが、自らを兵と見做した吉岡衆は、既にそれに動じる事は無い。怜悧に、少しずつ、少しずつ、男の体を崩し、体力を奪っていく。

三人の男が、同時に走った。男は瞬く間に一人を斬ってから二人を捌き、剣を躱された二人が身体を切り返す前に、斬り伏せてしまう。

だが、正面の三人に対し脚を止めたがために、背後の兵に反応する事は敵わなかった。

ついに吉岡勢が、その背中に痛恨の一打を見舞う。

 

 

男の色が、一変するように塗り替わった。

一瞬、ぐらりと身体をぐらつかせ、すると突如、弾けた様に身体を翻させ、空の左手を振り回し、薙ぎ払った。

拳でも、掌打の類でも、裏からの猿臂でも無かった。ただ強引に――――――膂力に任せて、顔を相手に向けぬまま、的すら選ばずに振り回した。

ただ剛力だけを乗せた長い腕が、振り切った太刀の一撃でぐらつく男を見遣りながら、一瞬だけ気の抜けた頭の米神に直撃し、木を圧し折る旋風が如くに薙ぎ倒した。

吉岡が構え直し、改めて仰いだ、それ――――――それは、今まで血で血を洗いつつ、死闘を演じ続けながら、尚も今、また新たに初めて見るかのような男だった。

かっと見開いた琥珀色の目玉には、瞋恚と、それに基く殺意が満ち満ちて、代わりにそれを覆っていた、怜静と理性の色が落っこちていた。視界が赤く、熱くなったのが、男にはわかった。カッと、頭の端に血が凝縮されたような感覚。

火花の様に弾けて生じた灼赫の情動を、抑えつけずに燃え上がるまま解き放つ。猛獣の如き兇猛な疾さでもって敵に躍りかかり、感情の焔を膂力に預けて叩き付ける。

怒濤に巻き込まれた様に、首を斬り捨て――――――否、圧し斬られた。上体をつんのめらせて突っ込んできた男に、馬に撥ねられた様に、身体ごと吹っ飛ばされる。

べしゃり、と地面に跳ねて、折れた首がぐにゃりと曲がった。

突如、性質の変わった圧力に押されながらも、剣士たちは応戦し、斬り付ける。その中の一つが、鎖骨の辺りを擦る様に捉えた。

しかし、勢いは止まらない。傷に構わず、太刀を跳ね除け、怪力のままに太刀を叩き付け、空の左手がヒュっと伸びて、喉の軟骨を握り潰す。足を踏み付け、逃げ脚を奪うと、そのまま身体を大きく開いて、力任せに太刀を首筋に振り下ろす。

ゴキン、と身体の内側が砕けた音がした。両断できずに刃が食い込む。グッと引き抜いて、再び振り下ろす。バチン、と千切れた音がして、今度は倒れた。それでも、首は半分中ほどまでくっ付いたままであった。

既に最初の頃の、スパッと一閃する様な鮮やかさなど、微塵も無かった。掴んで引き倒し、砕いて踏み付け、抉り取って叩き付け、飛び付いて押し潰す。

敵の群れに、赤い激情の赴くまま突っ込み、斬られながらも、蹴散らしていく。

隙は大きく、大振りでたびたび身体が開いて無防備になる。しかし、弓を引いて繰り出される豪打には凄まじさが漲り、俊敏さは虎の如く。それ自体が、敵を退らせる効果があった。

敵が振り切るよりも速く懐に潜り、素手で眼を潰し、掌で米神を薙ぐ。次の敵、ガチン、と乱暴に構えた太刀を払い、二の太刀で顎を捉えた。

既に何度も斬撃を浴び、琥珀色の瞳と同じ色をした茶髪は、自らの血と返り血が絡まって凝固し、赤黒くなっていた。顔は泥で真っ黒になり、琥珀色の目玉は、羅刹の色になっていた。もはや、あの美しい、絶人の如き体捌きは見る影もない。

再び、背中を斬られた。少なくない量の出血が、新たに噴き出す。しかし、それにも構わず前進し、目の前の敵を倒し、的すら選ばず、大まかな方向だけ決めて、強引に刀を振りまわす。空振って、一歩大きく出て、切り返して振るう。誰かの身体の部分の何処かを捉えた感触があった。不格好、だが恐ろしく疾い。

胸を狙った突きを、半身になって右肩で受けた。金属の食い込む、嫌な感触がした。それも無視して敵の懐に飛び込み、左の掌底で相手の顔面を吹き飛ばした。パン、と顔の骨が割れる、乾いた音がした。

身の丈八尺、強靭な骨格、体躯は筋肉の塊。戦う為に生まれて来た様な男。

その男が、我が身を顧みる事すら放棄し、敵を拉ぎ、屠る事に全てを懸け、武を捨てて暴を露わにして猛り狂った。

 

 

 

――――――間違っていた事に、気が付いた。

傍で見ていたのと、実際に立ち合う事の差異。

甘かった。不退転の決意でいたが、この男に比べれば、何層倍も甘かった。

我々は結局、この戦いの性質を根元の所で捉えきる事が出来なかったのだ。

百人が百人集まって、皆一様に、腰に二振りの得物だけ携えて此処に来ていた。百人で一人を斬ると決めていながら、未だに剣の仕合のつもりで居た。小手先の腕や技量の競い合いの意識でいた。

奴を本当に殺すつもりなら、弓鉄砲、甲冑でも、何でも引っ張り出して撃ち殺すべきだった。

奴は、端から殺しにやって来たのだから。我ら百余名を、たったひとりで。

尋常ならざる膂力、絶人の武技、それらは二次的なものにすぎない。

すでに重囲は不可能な数になった、味方を蹴散らし、踏み砕いていく男。華麗な技は見る影もなく、幾重もの傷に塗れて、体力の全てを絞り出して敵を裂く。骨を砕き、首をちぎる、それに一片の躊躇いは無い。

“人を殺す”という事の得手・不得手に、我らと奴では、どうしようもない埋め難い差があったのだ。

 

 

「――――――ひとつ、聞きたい」

 

夥しい屍。地面は泥と血と腸が混ざり合って、おぞましくどす黒い。人間の壊れた生臭さ、鉄の臭いが充満する。空だけが、相変わらず静かで、健やかに晴れていた。

 

「お前は、本当に人の子か?」

 

無数の傷を負い、男は立っていた。泥と血と臓物と肉片が身体の到る所にこびり付き、己の血と傷と混じりドロドロになりながら、死体の海の中で、尚も経ち続けていた。

麒麟の様な髪が凝固した血でバサバサになり、顔を覆い隠した髪の隙間から、琥珀色の目玉が、ぎらりと光った。

化生か魔物の様にも見えた。

 

「……いや、人の子だな。紛れもなく、人の子だ」

 

頭から、身体から、至る所から出血している。筋肉は摩耗し、骨が軋んでいるのが傍目でわかる。

大きく、震える様に肩が上下している。馬の様な、荒い息遣い。満身創痍の肉体。

刃は全て無くなり、所々歪んで、挙句、中ほどでひん曲がっている。脂のこびり付いた、変わり果てた太刀。

一体どれほどの血を吸えば、鋼の刀がこうもなるのか。

今日、この場に居た人間以外は、想像すら付くまい。

信じがたい光景。俺の同胞は、全てこいつひとりに斬られた。

だがこいつのこの姿こそが、魔人でも鬼人でもなく、それが只の人間の所業である事をあらわしていた。

 

「吉岡四代目当主、清十郎憲法が従兄、吉岡源左衛門直綱」

 

史上、数多の武人が。

研鑽を積み、辛酸を嘗め、幾星霜を経て築いてきた武の歴史。

そのうち、吉岡の歴史は百年。

すべてひっくり返すとすれば、このような男か。

 

「絶人の域まで達した武人。史上、お前の様な男は幾度とは出まい」

 

兵法の理を逆行し、踏み砕く稀有の剣。

剣の家に生まれ、武を志して、巡り合うのも又、如何に稀有な事か。

幸か不幸か、その判断は定かではないけれども。

近い内に、世間はこの男を知るだろう。

消えてゆく、吉岡の名と引き換えに。

百年続いた武の歴史、滅んで後世、我々はただ、この男の敵としてのみ呼び伝えられよう。ただ、“敗れた者”として。

この男は、そういう類の男だ。

この男の歴史が、百年か、二百年か。何年残るかは知れないが。

俺はここで死ぬだろう。この男の、天下無双伝説の一部となり、やがて歴史からも跡形もなく消えるだろう。

 

「輩の――――――」

 

ならば。

 

「――――――吉岡の剣の重さを、この命で量ろう」

 

嘯こうではないか。世間が負け犬と笑おうとも。

歴史が吉岡を卑怯と嘲笑し、情けなしと哂い、挙句の果てにこの決闘の存在そのものを疑問視しようとも。

この男は、強かったと。

そして、それに立ち向かった吉岡の同胞は、恥じる所なく勇敢であった、と。

この決闘に赴いた者、この男の強さを肌で知る者として。そして、それに立ち向かった者として。

何でも無く、たった一振りの剣で持って。

 

 

 

――――――都の大地に、狼が咆哮する。

血塗れの身体を唸らせ、男は、この決闘で初めて、自ら裂帛の気合を発した。

空気が破裂して呑み込まれたような、腹を震わせる哮りだった。

それを受けて、この戦場にただ一人残った最後の吉岡が、にわかに気を張り詰めさせて、精悍に構えた上段を、面を目掛けて一挙呵成に穿ち降ろす。

男は構えを取らぬまま、だらりと下げた右腕を鞭のようにしならせて、水平に打ち放った。

 

 

バッと、雫が舞った。額に硬い物が当たった感触。目に液体が入った痛さとともに、ポワリと視界が赤く滲み、曇る。独特のぬめりが、強い不快感を与える。

まずい、まずい。

眼に入った血に視界を奪われたまま、振り払う様に闇雲に太刀を返す。しかし、何も当たらない。

必死であった。さらに振り回し、眼を窄める様にして、無理矢理にでも眼を開く。

辛うじて見えた、霞がかった、朧い視界――――――そこにはもう、誰も居なかった。

 

 

 

殆ど、相打ちのようであった。むしろ、整った上段の形から真っ直ぐに放たれた空竹割りの方が無駄が少なく、最短距離を走って先に到達した。

それは、額を斬り裂いたが――――――しかし、頭蓋を割るまでは行かず、皮膚から血が噴き出した所で、男の無雑作な横一文字に追い付かれた。瞬間に額に走った、火花の弾けたような衝撃を受けながら振り切ったそれは、直綱と名乗った――――――男は、とてもそれを頭に留めている余裕などないだろうが――――――立ちはだかった吉岡最期の剣士の側頭部を捉え、そのまま力任せに薙ぎ倒していった。

 

「…………」

 

息が荒い。肺が潰れそうだ。

手首がびりびりと痺れている。思い切り、芯を外していた。ただ勢いと、馬鹿力だけで倒した。

最初の一撃で既に相手は昏倒していたのだが、血で視界を塞がれた男は、闇雲に刀を二度振った。

もう、刀は振れぬだろう。肩より上に腕が上がらぬ。一旦、緊張が和らぎ、集中が途切れると、じわじわと疲労を自覚してくる。身体に溜まった淀みは、もう、とうに許容範囲を超えている。

まだ、しぱしぱとする眼で見降ろす。

右手に引っかかった伯耆国安綱のかつての雄姿は、いまや見る影もなかった。完全に潰れた刀身では全く刃が立たなかった。出来損ないの鈍器のように、鉄の塊として振るい、結果、殴り倒せた、それだけに過ぎない。

果たして何人が死に、未だ生きているのか。何人殺して、幾ら殺し損なったのか。

今、最後に一合交わし合ったこいつは、生きているのか、死んでいるのか。わからない。わかるのは、斬れはしなかったが、倒せた。それだけ。

頭に血が回らぬ。それ以上の事は、男にはもうわからなかった。興味も無かった。

 

「…………」

 

不意に、頭の中が一瞬、真っ白になった。ふらりとしたが、すぐに覚醒する。

額の血が鼻筋を跨ぎ、顎先まで伝って、滴となって落ちた。

どっと、疲れが身体の感覚を占領し始める。

もはや、太刀を振るう相手は居ない。立っているのは己が一人。

身体を引き摺る様にして、男はのそりと歩み始めた。もう、何も考えたくは無い。

こいつらが滅んだのか、それともこの先、何処へ行くのか。これ以後、自分はどうか。どうでも良かった。

戦いが、終わった。今の男を占める感情は、それだけだった。

生き残った――――――今はただ、それがすべてであろう。

 

 

 

 

 

 

結局――――――

この戦いの顛末がどうであったか、歴史が示す所は詳らかではない。

小倉碑文を初め、二天記、武公伝、古老茶話、本朝武芸小伝、数々の伝記、巷伝を記す史料がこの決闘に付いて言及しているものは枚挙に暇がないが、いずれも結論の決め手となるべきものは無い。

しかし二天一流の弟子の記した二天記に語られる様に、吉岡は慶長九年の出来事とされるこの戦いで、断絶するような事は無かった。

『駿府政治禄』によれば慶長十九年、吉岡一族に連なるものが禁裏で行われた猿楽興業で暴れ、取り押さえられて討たれたと言う。

だがこれ以降、この決闘の後も生き残っていた筈の直綱らは、その後の諸史料に剣士として登場する事は一切、無い。

また、生涯月代する事の無かったこの男の額には吉岡に付けられた疵痕があった、とする伝聞があり、肥後細川家藩士の志水伯耆なる者からこの真偽を尋ねられた所、男は「下らぬ噂をお信じなさるな」と一蹴した、という。

二天記や武公伝の男の勝利を伝える記述を傍証するものとして黄耆雑録、丹治峯均記などがあるが、対し吉岡の勝利を伝えるものは、吉岡に連なる者が纏めた『吉岡伝』のみである。

いずれにせよ、扶桑第一たる武の名門が、今日になって遺す足跡は何一つ無く――――――

ただ、この決闘の相手役として歴史の片隅にひっそりと呼び伝えられるだけのものであり、その全貌、歴史はようとして知れない。

片や男の名声は全土、それのみならず海を超えるまでのものとなり、その流派は江戸期に置いて天下五大流儀として隆盛し、現代までその名を残すに至る。

流儀の祖として葬られた後も、様々な俗説・伝説が男の史実を取り巻き、その名はある一つの巨大な象徴として、あらゆる日本人の意識に様々な表情を持って、根深く影を残すことになるのである。

 

――――――男の名は、“宮本武蔵”と言った。

 


 
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