董卓率いる洛陽攻略軍が、張遼率いる洛陽守備軍との戦端を開いていたのと、ほぼ時を同じくして、官渡における一刀率いる北郷軍本隊と、曹操率いる魏軍の本隊が、すでにその戦いの幕を開いていた。
「伝令!右翼に敵の横腹を突くよう伝えよ!左翼はそのまま敵右翼を引き付けておくように!先鋒の春蘭たちはどうしているか!?」
「はっ!現在、敵総大将と交戦中とのこと!」
「……何ですって?」
伝令兵の一人に両翼への指示を出した後、先鋒を務めている夏候惇、曹仁、曹洪らの現状を別の伝令から聞いた曹操は、思わずといって感じでその顔をしかめた。
「……北郷が直接、春蘭たちとやり合っているっていうの?……君主自ら一騎打ちなんて、愚にもつかない行為でしょうに」
「確かに、本来ならば華琳様のおっしゃるとおりだと思います。ですが、北郷はあの呂布とも互角に渡り合う武の持ち主です。……我々の眼を釘付けにしてしまうほどの」
曹操の右隣にその馬を並べ、彼女に対し冷静に進言をする荀彧。
「……北郷は囮。向こうの狙い目は別にある、と。あなたはそう言いたいの?桂花」
「おそらくは。……ただ、あちらは我らよりもその戦力は少なく、伏兵に回せるような余裕があるとは」
「確か陳留に向かった別働隊がいたはず。……そちらがその本命では?」
荀彧がいるのとは反対側の、曹操の左隣に馬を並べ、郭嘉が自身の予測をその口にする。
「だとすれば、風を向こうに送って置いて、正解だったことにはなるけれど」
濮陽の地を制した後、北郷軍はその戦力を二方向に分けた。すなわち、官渡から洛陽にいたる方面の軍勢と、陳留のある南方へと向かった軍勢である。もちろんそのことは曹操たちも重々に承知の上である。
だからこそ、陳留には足止めのための一手を打っておいた。
「あの娘なら、たとえその身一つでも、十万の軍を”足止め”することが出来るでしょうしね」
「……肝心なときに、居眠りなどしていなければ良いんですが」
「大丈夫よ、桂花。……少々の居眠りをしながらでも、その程度のことはやってのける娘よ?……そのことは貴女も十分知っているでしょう?」
「……は」
現状、ほとんど戦力のいない陳留の守将に、曹操はたった一人の少女だけを選んで送った。……普段どれほどとぼけていても、魏の軍師の中では、ある意味一番厄介で、一番頼りになる軍師。程仲徳を、である。
「……もしも陳留に向かった軍が、北郷軍にとっての本命だったとすれば、戦局はかなりこちらの有利となります。後は洛陽方面ですが、霞殿が勝利していれば尚良し。たとえ敗北していたとしても、相当の時間を稼げるはずです」
さらに、洛陽方面軍が張遼に勝利し、こちらに取って返して来たとしても、その戦力はかなり消耗しているはずである。数の上での優位に変わりはない。郭嘉はそう読み、主君にその旨を進言をした。
「稟の読みどおりに、ことが上手く運べばいいのだけれどね」
純粋な戦力で言えば、魏軍の兵力は約十八万。対して北郷軍の兵力はと言うと、虎豹騎という北郷軍自慢の精兵がいるとはいえ、数だけ見ればおよそ十万といったところ。
しかも、青州で彼らと戦った夏候惇たちとは違い、曹操たちにはきちんとした予備知識がある。虎豹騎のその強さも、そしてその弱点も、彼女たちは十分に知っている。
油断さえなければ、決して虎豹騎にも引けをとらないはずだと。曹操は、自身の自慢の精兵たちに、そう十分な自信を持っている。だが。
「……あの北郷のことよ。何を考えているのかわからないような、虫も殺さないようなあの顔で、平然と、こちらが思いもしないような突飛な事をして来ても、何もおかしくはないはず。……秋蘭!」
「はっ!」
自身の直衛として、許緒や典韋とともに控えていた夏候淵を、曹操はその近くまで呼ぶ。
「貴女もいくらかの兵を率いて、凪たちとは別に、遊撃隊として備えておいて頂戴。……念のために、ね」
「御意!」
「……さて、と。こちらが打てる手は、現状出来る限り打てた筈。……ここから、向こうはどう切り替えしてくれるかしらね?」
くすくす、と。どこか楽しそうに笑う曹操。
そう。彼女は楽しいのだ。
……現時点において、自分とまともに渡り合える人物は、一刀以外にはまず見て取れないと、彼女はそう思っていた。あと他に居るとすれば、揚州の孫策や、益州に入った劉備ぐらいなものだが、その彼女たちと当たるのはまだ先の話である。それも、この戦に勝って、一刀を己がモノにしてからのこと。
自身の体が、これほども喜びで震えることなど、今までの曹孟徳という人間の人生には、全くと言っていいほどなかったものだった。
だからこそ、曹操は楽しくて仕方が無かった。この戦の軍配がどちらに挙がろうと、無様な真似だけは決してしない、と。彼女はそう決心していた。
その陳留に向かった、徐晃、姜維、司馬懿が率いる北郷軍は、曹操たちのその思惑通り、街の正面に陣取ったまま、動くに動けない状況に陥っていた。
「……どうしたもんだろうな、この状況」
「……どうしたもんやろな~……」
「……どうしたものでしょうね……ほんとに」
三人の視界の正面には、大きく開かれた陳留の街の門があり、その前に一人ぽつんと突っ立っている人物の姿があった。
「……確か、あれは程昱とかいったか?いつだか魏の使者として来た」
「そのはずやで。頭の上のあの人形、あんなもん頭に乗せたやつは、他にはそうは居らんと思うけど?」
「……何かの罠、でしょうか?武人ではなく、軍師であるあの人が、たった一人で門を開けて待ち構えているなんて」
「……十中八九、罠、だろうな。城壁の上で、時折旗を振ってる連中がいる。……どこかしらに、何かの連絡を送っているみたいだしな」
陳留の街を取り囲む、街の城門の上。その二箇所ほどで、赤と青の旗を交互に振る兵の姿が、彼女たちにははっきりと見て取れていた。
伏兵か-?
そう思って、彼女らは現在、周囲に斥候を放ち、その報告を待っているところである。
でもって、その街の門の所にいる程昱はというと。
「…………ぐぅ」
寝ていた。しかも立ったまま。
普段なら誰かしら、そんな彼女に起きろと、そう突っ込みを入れるところであるが、彼女のそばには今は誰も居らず、そのままの状態でかれこれ半刻ほどは居眠りをしていた。
そこに、どこからともなく飛んできた一羽の烏が、彼女の頭の人形にとまった。
「かー!」
「……おお。いつの間にかついつい眠ってしまっていたのですよ~。烏さん、起こしてくれてありがとうなのですよ~」
「かー!」
ばさばさ、と。程昱が烏の泣き声で目を覚ますと同時に、まるで彼女を起こしにでも来たかのようなその烏は、一声だけ鳴いてどこかへと飛んでいった。
「……宝慧が狙われたのかとも思いましたけど、どうやら違った見たいで何より~」
『あんだよー。俺様があのまま連れて行かれてたら、どうしていたんだお前はよー?』
「まあ、とりあえず無事だったので良しとしましょう~。……それはともかく、あちらさんはどうやら、風の思惑通り、疑心暗鬼に陥ってくれたみたいですね~」
正面に陣取る北郷軍を一瞥し、飴を咥えながらつぶやく程昱。
「……後はいつまで、”空城の計”が見破られないでいられるか、ですね~」
『……実際には、伏兵はおろか、戦力は全くいないなんて、向こうは思っちゃいないだろうがよ』
「そうは言ってもですよ、宝慧?伏兵が居ないことは、斥候を放てば割りとすぐにわかることですしね~。……ちょっと知恵の回る人たちばかりなら、そこでかえって疑心を深めてくれるとは思うんですけど~」
腹話術-なのだろうか?自分の頭の上に載った人形相手に、程昱は一人でしゃべっていた。
そう。
陳留には、守備のための兵は一人もいないのである。ここの戦力はすべて、先の青州攻めで使ってしまったし、わずかに残っていた千ほどの兵も、曹操の本隊へと送ってしまった後。つまり、実質ここにいる魏の人間は、街の民たちを除けば、程昱ただ一人だけなのである。ちなみに、城壁の上で旗を振っているのは街の民である。
「……風の役目は時間稼ぎですからね~。一日…まあ、よくて半日稼げればいいところでしょうかね~」
その後は、適当に頃合を見計らって降伏し、口先だけでもう少しだけ時を稼げればと、彼女はそう考えていた。
「……さてさて~。あちらさんはいつ、風の策に気づくでしょうかね~?……ふぁ。また眠くなってきたですよ~……ぐぅ」
すぴー、と。鼻提灯を膨らませ、程昱はまた、立ったままで居眠りを始めたのであった。
場面は再び官渡に戻る。
「おおおりゃああああ!!」
「せいりゃあああああ!!」
「おっと!……ふえ~。今のはちょっと危なかった~。……流石は魏武の大剣・夏候元譲と、曹武の剛刀・曹子廉。……後方からは、曹覇の弓たる曹子孝がしっかりと前衛二人をサポート、か。……曹操さんが羨ましいね。こんないい人材に囲まれて、さ」
夏候惇と曹洪の二人が繰り出した剛撃を、”あえて”紙一重といった風によけて見せた一刀が、にやりとその顔に笑みを作り、そんな言葉を曹仁たちに語る。
「ふん!そんなものは当たり前のことだ!貴様と華琳さまとでは、その魅力に雲泥の差があるのだからな!」
「春蘭は華琳命!だからね~。その気持ちはよくわかるけどさ」
「……貴方だって、人を惹きつける魅力、という点では、華琳といい勝負だと思いますよ?武人にしても軍師にしても、結構な粒がそろっていると、そう聞き及んでいますけど?」
「それは嬉しい評価ですね。……まあ、少々癖の強い人間ばっかりですけど」
「……それは多分、こっちも同じだと思いますけどね」
と、ちらりと夏候惇を見やりながら、一刀の台詞に返す曹仁。
「……彩香様、何故そこで私を見るのですか?」
「気にしない気にしない。春蘭が、華琳のお気に入りの、可愛い玩具だってこ・と・よ♪」
「そ、そうですか?///」
曹洪のなかばからかい気味のその台詞を聞き、一瞬でその顔に喜色を浮かべる夏候惇。
「……ま、冗談はこれくらいにして、と。……北郷どの?貴方は一体、何を狙っておいでで?」
「……何のことでしょう?」
「……腹の探り合いというのは、私はあまり好きなほうではないのですよ。……あの呂布と同等の武を誇るはずの貴方が、私たち三人程度を相手にてこずるなど、正直、信じられないのです」
「それこそ買いかぶり、というやつですよ。……”今は”これが精一杯です。貴女達を抑えておくだけで、ね」
「……」
一刀は、その本来の実力を抑えている。彼女たちはそのことに十分気づいていた。
しかし、曹仁も曹洪も、そんな状態の一刀を相手にして、ようやく互角といった感じであることに、己の力の足りなさを痛感していた。さらに夏候惇にいたっては、自身がほぼ全力を出して戦っているのに対し、その相手の男は、おそらく六~七割程度の力しか出していないということを、とても腹立たしく感じていた。
「さ、それじゃあ続きと行きましょうか?……あんまり、休んでる暇はあげませんよ」
『?!』
台詞を言い終えると同時に、一刀のその姿がふっと掻き消える。そして間髪を入れず、夏候惇のその正面に、朱雀と玄武を携えた一刀が現れる。
「ッ?!このおっっ!!」
「遅い」
その一刀に対し、夏候惇は全力で剣を振るうが、その一撃は空を切り、代わりに一刀の朱雀が、夏候惇を下方から切り上げようとする。
「やらせません!」
「っと!!」
だが、そこに曹仁の放った矢が飛来し、一刀の腕を射抜こうとする。だが、一刀は一瞬でバックステップを取り、その矢を交わす。
「もらったよ!」
一刀がバックステップし、地に足をつけたその瞬間を狙って、曹洪が一気に踏み込んで剣を突き出す。
「おわっ?!……くっ!」
バランスを少々崩しながらも、曹洪の剣を玄武で受け止め、それとほぼ同時に、朱雀を曹洪に振るう一刀。
「ひやっ?!」
体を無理やりひねり、曹洪はそれをかわして、再び一刀から距離をとり、構えを取り直す。その彼女と同様、曹仁と夏候惇もまた、一刀に向かって剣と弓を構え、それぞれにけん制の体勢に入る。
(……ほんと、良い将たちだな。……さて、と。こっちの切り札が到着するまで、後どれぐらいかかるかな?……順調に、”波と風”に乗れていれば、そろそろ寿春についてる頃合だとは思うけど)
一刀たちにとっての大本命。
その戦力が、南から現れるまで、自分たちは魏軍を引き付けておかなければならない。陳留に向かった徐晃たちや、徐州に向かっている張郃たちも、そして自分たちですら、一刀たちにとっては、魏の目を引いておくための”囮”に過ぎなかった。
太陽が、すでに中天を過ぎたこの時刻。
一刀の計算どおり、その”北からの”船団が、長江を遡って寿春近くに上陸していた。
「姉貴!全戦力の上陸が済んだぜ!」
「よし!全騎すぐさま騎乗しろ!休んでいる暇は無いぞ!私たちを信頼し、切り札として選んでくれた一刀に応えるために、このまま一気に北上して官渡を目指す!」
おおーーーーー!!
自慢の白馬にまたがり、兵たちを鼓舞する赤い髪のその少女。
「全軍!全速で駆け抜けよ!敵は……官渡にあり!われら幽州兵の実力、たっぷりと曹魏の者たちに見せ付けてやるぞ!」
おおおおおおおおっっっ!!!
白馬のみで構成されたその軍勢が、大地を揺るがし、驚異的な速度でもって、一気に北を目指して駆け出した。
白馬義従と呼ばれしその軍勢。
幽州に、その人ありと謳われた公孫伯珪。その彼女の率いる一万の騎兵が、間もなく官渡にその姿を現そうとしていた。この大戦に、決定的な終止符を打つために。
だが。
「……は?い、今なんとおっしゃられましたか?」
「聞こえなかったのですか?……これより都を離れる。そう言ったのです」
都の禁城、その一室にて、董承は信じられない言葉を聴いていた。
「で、ですが、いまだ魏王が敗れたという報は届いてもおりませんぞ?!なのに都を離れるとは、いささか時期が尚早すぎるのでは……!!」
「負けですよ、魏王のね。……信頼する草からの報告で、魏王の本隊を後方から突くべく、幽州の軍が寿春に上陸したそうよ。……魏王はそれに気づいていない。彼女の敗北は必死です」
「そ、そんな……!で、では今からでも魏王に、その事を伝えれば……!!」
「……必要ないわ。どの道、魏王にもいずれは、表舞台から降りてもらう予定でしたもの。……私と同じく、漢に連なるもの以外はすべて、ね」
に、と。その唇の端を吊り上げて、その少女は董承に笑みを向けた。
「……」
(なんと恐ろしいお方か)
ここに至り、董承は、己の主に、本当の意味で恐怖を覚えた。
(……初めは張譲を利用して大陸を”わざと”混乱させ、そのあとは王允殿を表に出して、自分が表に出ることなく、漢の威光を復活させようとした。しかし、兄君が自分とはまったく逆の考えを持っていると知られた時には、その兄君を失脚させるべく、兄君を支援する、己が実母である太后様までそのお手にかけられた。……そして、わしの部下たちを使い、兄君のお命までをも、ためらうことなく奪ってしまわれた)
主の事は確かに敬愛している。漢の臣として、このお方に仕えるのは当たり前のことだ。先の帝である少帝よりも、このお方のほうが、その至尊の位にふさわしいとも、彼は心底信じている。だからこそ、その手足となって、今まで行動してきたのだ。しかし。
(……わしも、そのうち王允や張温のように、使い捨てにされる、か。……ふ。それもまた一興よな。であれば)
「……かしこまりました。では、すぐにでも出立の用意を致しましょう。……次はどちらへ向かわれるので?」
「そうね。……一度は、漢の血脈を勝手に名乗る不届き者とも思ったけど、”あれ”ならば、今まで以上に使い勝手がいいでしょうし。……益州へ向かうことにする」
「御意」
深々と頭を下げ、董承は部屋を退出していった。
一人部屋に残ったその少女は、ゆっくりと窓のほうへと歩いていき、そこから街の様子を見渡す。
「……民は今日も、何事もなく、世の情勢など気にもかけず、その日その日をあくせくと生きる、か。……ふ、醜いものね」
民があってこそ自分たちが生きていられる、と。いつだか”姉”がそう言っていたのを、彼女はふと思い出した。
「……民なんて、我々がいなければ何もできない、ただの有象無象でしょうに。そんなものを大事に想うなんて、姉上も、本当に馬鹿な人だったわ。……くくく、あははははは」
あはははははははははははは!!
それは、亡き姉に対する、蔑んだ笑い。
そこには、肉親を殺したことに対する懺悔や後悔といったものは、微塵にも感じられなかった。
漢の十四代皇帝、劉協伯和。
彼女の狂気は、一体どこへ行こうとしているのか。
北郷と魏の決戦の最中、再び漕ぎ手を変えるべく、彼女は都を離れる。
そして、そんなこととは露知らず。
官渡の戦いは、その決着の時を迎えようとしていた……。
~続く~
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北朝伝、五章の五幕目です。
ついに始まった北郷対魏の、本隊同士の決戦。
その軍配はどちらに上がるのか。
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